2021年5月22日(土)の夕方。ショックな出来事に遭遇した。
NHKテレビのニュースで 伊藤アキラ氏(80歳)の逝去が報じられた。
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※私にとっての「伊藤アキラ氏」は「伊藤晧クン」でもあった。
現役時代の私は 広告代理店勤務の「CМディレクター」だったから「CМソング作詞家」の伊藤アキラ氏と交流があったのは当然のことなのであるが・・・・。
※ここで タイムマシンに乗りこんで 半世紀以上も昔に一気に遡る。
私は 県立千葉一高(現在は千葉高校)の1年G組で「伊藤晧クン」に初めて出会っていた。
※画像は 高校3年生の学園祭のヒトコマ。伊藤クン(左から2番目)と私(右端)が 一緒に学園祭企画「カレーライス」を楽しんでいる。私は左腕に腕章をつけているが 何の腕章かは記憶にない。
当時の伊藤クンは「千葉一高新聞」編集長。当時の私はある種の問題児で「滑稽な事件」の主役として「一高新聞」のネタにされていた。
そういうこともあって 同じクラスは「高校1年だけ」だったが 不思議とウマが合って 別々の大学にいる間も 社会人になってからも「親しくさせていただけた」のだと思う。
※伊藤クンは 大学進学とほぼ同時に「三木鶏郎氏主宰・冗談工房」の研究生になり すぐに放送作家としての才能を開花させた。
大学卒業後も 一般企業には就職せず 放送作家・CM作詞家として躍進していった。
伊藤クンの紹介で 私も大学進学とほぼ同時に「冗談工房研究生」になり 放送コント作成(採用されると1篇300円)に努力したが 才能の差は一目瞭然 2年足らずで脱落し 大学卒業後は「広告代理店の社員」として 伊藤クンと接することになった。
会社に逆らった私が福岡支社に配転されて 福岡で結婚式を挙げたときも 遠路遙々駆けつけて披露宴に参列してくれた。
※画像=三木鶏郎先生を偲ぶ会。
左から 大森昭夫氏(音楽プロデューサー・故人) 伊藤アキラ氏(作詞家・故人) そして私(広告会社勤務)。
「偲ぶ会」には 永六輔氏(故人) なべおさみ氏なども参加。一般人の私は一緒に写真を撮ったりして喜んでいた。
※私が年金生活者になってからも 現役作詞家(定年がない)の伊藤クンとは 共通の友人を交えて昼食を共にしていた。
伊藤クンは酒が飲めないし 現役と退役では 現在進行形の共通話題もないから 会うのも毎年一度程度だったが 顔を合わせるだけも満足感があった。(末松)
NHKテレビのニュースで 伊藤アキラ氏(80歳)の逝去が報じられた。
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※私にとっての「伊藤アキラ氏」は「伊藤晧クン」でもあった。
現役時代の私は 広告代理店勤務の「CМディレクター」だったから「CМソング作詞家」の伊藤アキラ氏と交流があったのは当然のことなのであるが・・・・。
※ここで タイムマシンに乗りこんで 半世紀以上も昔に一気に遡る。
私は 県立千葉一高(現在は千葉高校)の1年G組で「伊藤晧クン」に初めて出会っていた。
※画像は 高校3年生の学園祭のヒトコマ。伊藤クン(左から2番目)と私(右端)が 一緒に学園祭企画「カレーライス」を楽しんでいる。私は左腕に腕章をつけているが 何の腕章かは記憶にない。
当時の伊藤クンは「千葉一高新聞」編集長。当時の私はある種の問題児で「滑稽な事件」の主役として「一高新聞」のネタにされていた。
そういうこともあって 同じクラスは「高校1年だけ」だったが 不思議とウマが合って 別々の大学にいる間も 社会人になってからも「親しくさせていただけた」のだと思う。
※伊藤クンは 大学進学とほぼ同時に「三木鶏郎氏主宰・冗談工房」の研究生になり すぐに放送作家としての才能を開花させた。
大学卒業後も 一般企業には就職せず 放送作家・CM作詞家として躍進していった。
伊藤クンの紹介で 私も大学進学とほぼ同時に「冗談工房研究生」になり 放送コント作成(採用されると1篇300円)に努力したが 才能の差は一目瞭然 2年足らずで脱落し 大学卒業後は「広告代理店の社員」として 伊藤クンと接することになった。
会社に逆らった私が福岡支社に配転されて 福岡で結婚式を挙げたときも 遠路遙々駆けつけて披露宴に参列してくれた。
※画像=三木鶏郎先生を偲ぶ会。
左から 大森昭夫氏(音楽プロデューサー・故人) 伊藤アキラ氏(作詞家・故人) そして私(広告会社勤務)。
「偲ぶ会」には 永六輔氏(故人) なべおさみ氏なども参加。一般人の私は一緒に写真を撮ったりして喜んでいた。
※私が年金生活者になってからも 現役作詞家(定年がない)の伊藤クンとは 共通の友人を交えて昼食を共にしていた。
伊藤クンは酒が飲めないし 現役と退役では 現在進行形の共通話題もないから 会うのも毎年一度程度だったが 顔を合わせるだけも満足感があった。(末松)