◎末松太平事務所(二・二六事件異聞)◎ 

末松太平(1905~1993)。
陸軍士官学校(39期)卒。陸軍大尉。二・二六事件に連座。禁錮4年&免官。

◎伊藤アキラ氏(作詞家)追悼/かもめが翔んだ日々◎

2021年05月22日 | 末松建比古
2021年5月22日(土)の夕方。ショックな出来事に遭遇した。
NHKテレビのニュースで 伊藤アキラ氏(80歳)の逝去が報じられた。
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※私にとっての「伊藤アキラ氏」は「伊藤晧クン」でもあった。
現役時代の私は 広告代理店勤務の「CМディレクター」だったから「CМソング作詞家」の伊藤アキラ氏と交流があったのは当然のことなのであるが・・・・。

※ここで タイムマシンに乗りこんで 半世紀以上も昔に一気に遡る。
私は 県立千葉一高(現在は千葉高校)の1年G組で「伊藤晧クン」に初めて出会っていた。



※画像は 高校3年生の学園祭のヒトコマ。伊藤クン(左から2番目)と私(右端)が 一緒に学園祭企画「カレーライス」を楽しんでいる。私は左腕に腕章をつけているが 何の腕章かは記憶にない。
当時の伊藤クンは「千葉一高新聞」編集長。当時の私はある種の問題児で「滑稽な事件」の主役として「一高新聞」のネタにされていた。 
そういうこともあって 同じクラスは「高校1年だけ」だったが 不思議とウマが合って 別々の大学にいる間も 社会人になってからも「親しくさせていただけた」のだと思う。



※伊藤クンは 大学進学とほぼ同時に「三木鶏郎氏主宰・冗談工房」の研究生になり すぐに放送作家としての才能を開花させた。
大学卒業後も 一般企業には就職せず 放送作家・CM作詞家として躍進していった。
伊藤クンの紹介で 私も大学進学とほぼ同時に「冗談工房研究生」になり 放送コント作成(採用されると1篇300円)に努力したが 才能の差は一目瞭然 2年足らずで脱落し 大学卒業後は「広告代理店の社員」として 伊藤クンと接することになった。 
会社に逆らった私が福岡支社に配転されて 福岡で結婚式を挙げたときも 遠路遙々駆けつけて披露宴に参列してくれた。

※画像=三木鶏郎先生を偲ぶ会。
左から 大森昭夫氏(音楽プロデューサー・故人) 伊藤アキラ氏(作詞家・故人) そして私(広告会社勤務)。
「偲ぶ会」には 永六輔氏(故人) なべおさみ氏なども参加。一般人の私は一緒に写真を撮ったりして喜んでいた。

※私が年金生活者になってからも 現役作詞家(定年がない)の伊藤クンとは 共通の友人を交えて昼食を共にしていた。
伊藤クンは酒が飲めないし 現役と退役では 現在進行形の共通話題もないから 会うのも毎年一度程度だったが 顔を合わせるだけも満足感があった。(末松)
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◎そして「大岸派青年将校」という側面は◎

2021年05月22日 | 末松建比古

◎先ずは《末松太平著「私の昭和史/二・二六事件異聞」中公文庫版》から《解説=筒井清忠氏》を一部引用する。

「・・・本書の二・二六事件研究史上の意義として、青年将校運動に西田派と大岸派の対立があったことが初めて本格的に明らかにされた・・・」
「・・・西田派と大岸派の対立と融和等の重要な諸局面において、たえず渦中にあった著者の記録の価値は・・・」
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※西田派と大岸派。ここまで「西田派青年将校」の側面を記してきたが 併せて「大岸派青年将校」の側面についても記しておきたい。
もしも 末松太平が「西田派」でなかったならば《私の昭和史・みすず書房版》は存在なかった!?・・という《秘話》もあるのだが それはまた別のお話。 詳細は後日・・・ということで 話を進めていきたい。
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※末松太平著「私の昭和史」は「残生」で始まる。この章の主役は 対馬勝雄中尉だが 早々と《大岸頼好少尉》が登場している。
「残生」に続く「大岸頼好との出合い」には《この大岸少尉と出合ったことが、当時士官候補生だった私の国家革新病みつきのもとである》と記されている。長男(私)の立場で読むと《国家革新病みつき》という表現に 微苦笑を誘われる。
最終章は「大岸頼好の死」で《大岸とのつきあいは、私が二十になったばかりの青森連隊以来のことである。ながいつきあいだったなア━━と思った。そのとき、初めて悲しみがわき涙が出た》・・・これが末松太平著「私の昭和史」の幕切れになっている。
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※「・・・頂戴致しました本(註=中公文庫版「私の昭和史」)によって、大岸さんの事が判って、一寸がっかり致しましたが、戦後は皆な考えが変わったと思います・・・」 波多江たま様(当時99歳)から戴いた手紙は 以前(2013年5月)に紹介している。

※大岸頼好=1952(昭和27)年1月29日 鎌倉腰越の仮寓で死去。末松太平=当時46歳。
大岸頼好=明治35年2月生れ。末松太平=明治39月9月生れ。
因みに 末松太平が「二・二六事件異聞」を書き始めたのは 1960年のことである。

 

※例えば・・・「大岸頼好・五回忌」に 西田初子氏が参列したこと。
例えば・・・死去15年の記念誌「追悼・大岸頼好」が 発行されたこと。
「大岸頼好の死」以後の「大岸派青年将校」の動向は 時折記してきた。
そして・・・以下は 初めて報告する事柄となる。
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◎画像左=大岸家御一同+末松太平(当時85歳)の集合写真。1990年11月10日撮影。
※末松敏子の筆跡で「大岸様一族のお顔が・・・」と表紙に書かれたファイルには 和やかな会食のスナップが収められていた。
末松太平は逝去直前まで「大岸派青年将校」であり続けた というわけである。
大岸家の集合写真は《田村重見編「大岸頼好 末松太平/交友と遺文」1993年刊》に掲載されている。
その写真(1965年8月10日撮影)と並べると《1990年までの歳月》が 愛おしく感じられてくる。

※画像右=末松太平宛の手紙。差出人=大岸喜代様=高知県土佐山田町在住。
大岸夫人の名前は「1965年の写真」では《良》と記されていたのだが・・・。
封筒の消印は不鮮明。 文中に「史」送付への謝辞があるから 消印=1989年と推定できる。
「・・・主人を失ひ 六人の子供達が一人も欠けることなく どうにか生活も出来 孫十三人ヒ孫七人と漸くここまでこぎつけて 幸せな余生を送らせてもらって居ましたのに 今・・・」以下省略。(末松)
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◎自伝!「西田派青年将校」師弟並載◎ 

2021年05月14日 | 末松建比古

◎《学藝書林刊「ドキュメント日本人3・反逆者」1968(昭和43)年発行》
※「西田派青年将校」という語句に誘発されて 久しぶりに開いてみた本である。
責任編集3人(谷川健一・鶴見俊輔・村上一郎)が選出した「反逆者」は12名。。

※雲井竜雄=極刑、金子ふみ子=縊死、古田大次郎=処刑、大杉栄=扼殺、末松太平、磯部浅一=刑死、西田税=刑死、北一輝=刑死、朝日兵吾=自刃、北原泰作、須田清基、尾崎秀実=処刑。以上12名。錚錚たる顔ぶれである。

末松太平「青森歩兵第五連隊の記録」(自伝)★出典=書き下ろし。
磯部浅一「獄中日記」昭和11年7月31日~8月31日)★出典=「2・26事件」日本週報社。
西田 税「戦雲を麾く」(自伝)★出典=未発表稿。
北 一輝「北一輝君を憶ふ」大川周明★「新勢力」第三巻第十二号。 



◎西田税「戦雲を麾く」(自伝)
・・・大川周明、安岡正篤らと国家革新運動の実践にあたるが、後、北一輝とともに青年将校に大きな影響を与え、2・26事件で刑死。
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人生は永遠の戦ひである。/げに、ともすれば侵略し強梁ならんとする彼の醜◎卑劣なる我慾利己放縦安逸淫蕩◎慾などの邪悪を折伏すること、又正善を確立具現することは、一個不可分なるべき魂の戦ひである。/然して、そは自ら正しく行はんがために、思索討究実践である。君が魂の裏に於て、━━自ら正善の確立具現者たると共に、世の人々の正善への指導者たることを要する。/嗚呼、吾等は戦はねばならぬ。然して、一切に克たねばならぬ。吾等の心願は、内外一貫して真なるもの善なるもの美なるもの━━至高の生命の獲得である。/かくして吾が戦ひの生に二十四年は暮れた。此の一篇は「戦闘的人生」と共に、吾が人生を語るべき永遠の「かたみ」である。
大正十三年十二月五月◎ 西田税
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血の流れ
我が家を古今一貫して流るるものは戦闘的精神である。破邪顕正の赤い血であった。/もと我家が現姓を称へて世に立てるは、今より程遠くもなき幕末の世にして、余を以て僅かに第五代とする。始祖文周以前の事は明かでない。唯々遠祖は伯耆羽衣石城主南条虎熊の家臣穴谷平八郎なりと伝え聞くのみである。始祖以来の種々なる記録を見、今尚ほ生き残れる祖母に尋ね、地方の古老が語り告ぐる所をきき、余が通観するに維新以前初代二代の人々の歩みし道は彼の石田梅巌の歩めるそれと大塩仲齋の歩めるそれと、任侠幡随院長兵衛の歩めるそれを合したる形式の小なるものなりし如くである。第三代は早く没して、今生残れる吾が祖母が一家を負うて立った。/父の代となるや、其歩める道祖宗の如く、交友出入依然たるものであった。/余は祖宗の一環精神を吾父に見得た。げに父は吾祖宗其儘を体現せしものであった。(以下省略)
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※この自伝は《序・血の流れ・幼時の思ひ出・故郷の学窓時代・広陵雌伏の三年・聖戦の途に上る・再び戦ひの都の二年・台上最後の戦ひ・魂が歩める二年の路・再び祖国に訣る・北韓の月・曽棲の地広島・二十四春秋》という流れで展開していく。そして文末には《校閲・末松太平》と記されている。

※画像参照。資料提供10人。《末松太平・西田初子》2人の名前が並んでいる。西田初子氏愛蔵の「未発表稿」を 末松太平が「校閲」して公表する。それは 西田派青年将校の責務 だったと思う。



◎末松太平「青森歩兵第五連隊の記録 ━赤化将校事件━」(自伝)2・26事件前夜、東北凶作に心痛めた青年将校の記録。
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二・二六事件連座の獄をでた私は翌昭和十五年、ある会合に出席して、たまたま同席した厚生省労政課長の北村隆に紹介された。紹介したのは、これも同席した竹内俊吉だった。竹内俊吉は永年つとめた東奥日報をやめて、東京の昭和通商に、はいったばかりだった。/私は北村隆とはもちろん初対面だから、初対面のように挨拶した。が北村隆は、いくぶん皮肉めいた笑いをうかべて「末松さんのほうは初対面のつもりでも、私のほうは初対面ではありません。私は五連隊赤化将校事件当時の青森県特高課長ですから、青森県特高史に五連隊赤化将校事件と、はっきり記録されています」といった。/(中略)北村隆のいう赤化将校とは、とりもなおさず当時の私のことである。その意味で当時青森県特高課長だった北村隆にとって私は初対面の相手ではないわけだった。(中略)それにしても、赤化将校事件とは恐れ入った格付けだった。/昭和五年は、半ばから年末にかけて私は、機関銃隊長代理をしていた。(中略)赤化将校事件と青森県特高がいっていたという事件は、この機関銃隊長代理をしているあいだの、除隊兵を送り出すとき、おこしたことだった。(以下省略)
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※西田税氏が用いた「麾く」の漢字入力には(読み方が判らず)苦戦した。西田氏との《教養の差》を実感した。正解=さしまねく。引用しながら《教養の差》に立竦む状況は続出 度々「◎」で誤魔化す始末となった。(末松)
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