◎末松太平事務所(二・二六事件異聞)◎ 

末松太平(1905~1993)。
陸軍士官学校(39期)卒。陸軍大尉。二・二六事件に連座。禁錮4年&免官。

34.事件関係者の息子が見た二・二六事件:82回忌祥月命日ご報告

2017年07月17日 | 今泉章利
平成29年7月12日、東京麻布賢崇寺で、15士祥月命日、22士の命日の法要が行われた。
以下、ご報告申し上げます。

高齢化が進み、御便りは次の一通のみであった。

相変わらず東京は、暑い日が続いていると思います。こちらは静かな雨が降っています。
明日、穏やかな一日であってほしいものです。
諸士のご冥福をお祈りします。(北海道の方から)

私は、池田少尉が、昭和62年に出版された「生きている二・二六」から次の文章を読ませていただいた。
池田さんは林さん、竹島さん、栗原さん、安田さん、渋川さん、坂井さんの遺書に言及された後、坂井中尉の遺書に触れられた。
(以下文中より)

「、、宏大無辺の御仏の御慈悲に浸り、唯忠を念じて名目致します。前途を祝福して下さい。 天皇陛下  万々歳」

何という純な心であろうか。秩父宮のことや恨みがましいことなど一言も言わずにあの世へ逝ったのだ。
香田さん、丹生さん、安藤さん、對馬さん、高橋さん、田中さん、中島さんもみな無量の思いを遺書に認めて亡くなった。村中さんと磯部さんの手記は、現在事件究明の一つの鍵ともなっている歴史的価値あるものだが、両人の性格が実によく表現されていると思う。
 私は今日まで、何回もなくなった同志の人々の遺書を読んだ。そして凄まじい気迫の中に、何とも言えぬ真の人間性、人としての心の温かさを感じている。
あの人達は、人一倍君を思い、国を思い、人を愛し、兵を愛し、正義の迸(ほとばし)るところ、このような行動に身を投じて死んでゆかねばならなかった。
皆心優しき人々であった。西田税は同志の処刑後、次の歌を詠んでいる。

 かの子等はあをぐもの涯(はて)にゆきにけり
  涯なるくにを日ねもすおもふ

涯なる国はどこにあるのであろうか。私はひとり、君に対して不忠の臣、親に対して不幸の子として生き残った。」

香田代表理事からは、8月に公開予定といわれていた、裁判記録の公開が、さらに遅れる見込みであるとの報告があった。
弘前ご在住の、對馬中尉の妹様の波多江たまさま(102歳)より、リンゴジュースのお供え物があった。皆様にお分けした。

出席者は、炎天にも関わらず、40名近くの参列があった。北海道、湯河原、大阪、また、熱海からのご参加を頂き、衷心より感謝でいっぱいであった。

法要がすっかり終わり、本堂の前立った時、突然、私は、以前、賢萗寺の本堂の前で、杖をついた、背の大きな方にお目にかかったことを思い出した。その方は、いきなり私の顔見て「君は今泉君の息子か。」といわれた。父はその時はすでに亡くなっていた。その方は父と同期の常盤少尉であった。
暫く話をした後に、「泉下の皆は涙を流して喜んでいるよ。みんなは、本当に心の優しい人だった。」といわれたことを思い出した。常盤さんは、無期禁固。しかし常盤さんももうずいぶん前に鬼籍に入られた。

 (2010年、坂木原レム氏画のコピー、同氏より頂いたもの)

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33.事件関係者の息子が見た二・二六事件:81年目の処刑日

2017年07月12日 | 今泉章利


2017年7月12日なった。15人の青年将校の処刑日、1936年(昭和11年)から81年目にあたる。
静かな夜更けである。今日は、港区元麻布の賢崇寺で、82回忌の法要が営まれる。 私には、このブログを書くことを通じて、彼らの思いが例年になく強く伝わってくるのである。

蒸し暑い。しかし、東京渋谷の宇田川町の衛戍刑務所では最後の数時間、どれほど湿気があっても暑苦しくても、この国を守れ、お前たちは、朕が股肱なるぞとの信念に燃え、天皇が世々伝えられた天壌無窮のご計画を守るべく立ち上がった青年将校たちは、逆賊の汚名のもと、死にゆくのである。
処刑に促されて牢屋を出る瞬間まで、天皇陛下をおもい、日本国の行く末をおもい、親をおもい、妻や子をおもい、、廊下を歩いて刑場に赴くのである。
小伝馬町の牢屋だから、廊下を挟んで、向こうが見える。中庭も見える。みんな大声で自分たちの上官の名を叫んだ。精一杯大きな声で叫んでいた。窓ガラスで見えない牢屋では、刑務官を怒鳴り散らし、窓を開けさせた。
宇田川町の衛戍刑務所は、大きな涙声が こだましていた。

以下は、私が大阪の朝日の人ともに、直接聞いた、北島軍曹の話である。
「安藤さーーん」「安藤大尉どのーー。」「中隊長殿ーーー」
すると、刑場に赴く廊下から、安藤大尉が、するりと、中庭に歩いてきた。
安藤大尉は、獄中の人たちに向かって、「この度は、皆様に大変ご迷惑をおかけしました。こころからお詫び申し上げます。安藤、心より感謝しております。」といわれたと。
そのときの図面も書いてくれた。(後日掲載します)
外では、空砲の演習が始まっている。
そして、天皇陛下万歳の声がして、実弾のピューンという発砲音が聞こえた。
5名ずつ、三組。

香田清貞陸軍歩兵大尉 34才   ひたすらに君と民とを思いつつ 今日永(とこ)えに 別れ行くなり、ますらおの猛き心も乱るなり いとしき妻の末を思えば

安藤輝三陸軍歩兵大尉  31才  君国ノタメ捧ゲ奉ル 我コソ不滅ナリ 心安ラカナリ  死ト共ニ  七月十二日朝 (処刑による血の付いた書)、 國体を護らんとして逆徒の名 万斛の恨 涙も涸れぬ ああ 天は 鬼神 輝三

對馬勝雄陸軍歩兵中尉 28才 日は上り国の姿も明るみて 昨日の夢を 笑う日も来ん  、 大君にささげし命うちきよめ いのりつづくる 時をもたなん

・・・・・・・

これから9時に宇田川町の慰霊像にお参りし、1時から賢崇寺で法要が営まれます。

本当にお世話になった関係者が鬼籍に入られてしまった。河野先生、池田さん、北島さん、、父、しかし、私には、今も生き生きと彼らの姿や聲が聞こえるのである。 慰霊像の横から、お寺の本堂で、ひょっこりとお目にかかれる気がするのである。

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29.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」  軍人勅諭と蹶起主意書 池田俊彦さま

2017年07月12日 | 今泉章利
29.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」  軍人勅諭と蹶起主意書 池田俊彦さま

なぜ二・二六事件はわかりにくいのか。
鬱陶しい日が続き、なんとも体調がすぐれない。70歳を前に、身体が馬力の落ちたエンジンのようですといっても、今の元気のいい若い人には、ピントこないだろう。今の車は古くなっても馬力は落ちないのである。
今は、製造技術が発達して、価格も安いので、十分に動いているエンジンを積んだの車を廃車にするのに何の抵抗もない時代だ。無理もない。昔は、車はとても高級品であったから、エンジンの馬力が落ちたらエンジンを取り出し、シリンダーの機械加工やピストンリングの交換などをした。私の子供頃の人々は、虎の子の車をいたわり使っていた。しかし、こんなことが、つい昨日のことでも、今の若い人にはまるで通じない。そんなことを喜んでやる自動車修理職人などもいつの間にかいなくなってしまった。逆に、今常識である出来事が、20年もすれば、すぐにわからないことになってしまう。心しなければならない。
二・二六事件もまったく同じようである。
事件を起こした主意は、「蹶起主意書」に書かれている。とはいえ、難しい言葉がならび、国語辞書を引くのも嫌になる。いやになると解説本を探す。しかし、その解説本が解説になっていない。書いている人の理解が浅いのである。
しかし、私は、この趣意書が、軍人勅諭に呼応していることに、最近気がついたのである。 解説はともかく、まずは明治15年(1882年)に書かれた軍人勅諭を、次に、その54年後に書かれた昭和11年(1936年)に書かれた蹶起主意書をいきなり読んでいただきたい。そこには、半世紀以上も、軍人勅諭を胸に刻み、大元帥である天皇の統率される兵として精励刻苦、全力を尽くしてきた軍人の姿が浮かんでくる。
そして、日清日露をへて、歴史が移り、様々な国際問題、国内問題をが「昭和11年」をいただくように高まり、蹶起主意書が、かかれるのである。明治憲法は、欽定憲法にて「侵すべからず」しかし、近代自由主義からの、法匪、官匪、持てるものと持てざる者の差は広まり、「矛盾は国の命運」を左右するまでに深刻となっている。

(1)陸海軍軍人に賜はりたる勅諭(軍人勅諭)(明治15年、1882年)

我國の軍隊は世々天皇の統率し給ふ所にそある.
昔神武天皇躬(み)つから大伴物部の兵(つわもの)ともを率ゐ,中國(なかつくに)のまつろはぬものともを討ち平(たひらけ)け給ひ高御座(たかみくら)に即かせられて天下(あめのした)しろしめし給ひしより,二千五百有餘年を經ぬ。此間(あいだ)世の樣の移り換るに隨ひて,兵制の沿革も亦(また)屡(しばしば)なりき古(いにしえ)は天皇躬(み)つから軍隊を率ゐ給ふ御制(おん おきて)にて時ありては皇后皇太子の代(かわ)らせ給ふこともありつれと,大凡兵權を臣下に委ね給ふことはなかりき。中世(なかつよ)に至りて文武の制度皆 唐國風(からくにぶり)に傚はせ給ひ、六衞府を置き左右馬寮(さうめりょう)を建て防人なと,設けられしかは,兵制は整ひたれとも打續ける昇平(しょうへい)に狃(な)れて朝廷の政務も漸(ようやく)文弱(ぶんじゃく)に流れけれは、兵農おのつから二(ふたつ)に分れ古(いにしえ)の徴兵はいつとなく壯兵の姿に變り、遂に武士となり、兵馬の權は一向(ひたすら)に其武士ともの棟梁たる者に歸し、世の亂と共に、政治の大權も亦其手に落ち凡七百年の間武家の政治とはなりぬ

世の樣の移り換りて斯(かく)なれるは人力(ひとのちから)もて挽回すへきにあらすとはいひなから、且(かつ)は我國體に戻り且は我祖宗(わがそそう)の御制(おんおきて)に背き奉り浅間しき次第なりき。降(くだ)りて弘化嘉永の頃より徳川の幕府其政(そのまつりごと)衰へ、剩(あまつさえ)外國の事とも起りて其侮(そのあなどり)をも受けぬへき勢に迫りけれは朕か皇祖(おほじのみこと)仁孝天皇皇考(ちちのみこと)孝明天皇いたく宸襟を惱し給ひしこそ忝かたじけな)くも又惶(かしこ)けれ。

然るに朕幼くして天津日嗣(あまつひつぎ)を受けし初(はじめ)、征夷大将軍其政權を返上し大名小名其版籍を奉還し、年を經すして海内(かいだい)一統の世となり古の制度に復しぬ。 是文武の忠臣良弼(りょうひつ)ありて朕を輔翼(ふよく)せる功績なり
歴世祖宗の專(もはら)蒼生を憐み給ひし御遺澤(ごゆいたく)なりといへとも、併(しかしながら)我臣民の其心に順逆の理(ことわり)を辨(わきま)へ 大義の重きを知れるか故にこそあれされは 此時に於て兵制を更(あらた)め我國の光を耀(かがや)さんと思ひ此(この)十五年か程に 陸海軍の制(せい)をは今の樣に建定(たてさだ)めぬ
夫兵馬の大權は朕か統(す)ふる所なれは其司々(そのつかさつかさ)をこそ臣下には任すなれ 其(その)大綱は朕親(みずから)之を攬り 肯(あへ)て臣下に委ぬへきものにあらす 子々孫々に至るまて篤く斯旨を傳へ天子は文武の大權を掌握するの義を存して 再(ふたたび)中世以降の如き失體なからんことを望むなり
朕は汝等軍人の大元帥なるそ されは朕は汝等を股肱(ここう)と頼み汝等は朕を頭首(とうしゅ)と仰きてそ其親(したしみ)は特に深かるへき 朕か國家を保護して上天(しやうてん)の惠に應(おう)し祖宗の恩に報いまゐらする事を得るも得さるも 汝等軍人か其職を盡すと盡さゝるとに由るそかし
我國の稜威(みいつ)振はさることあらは 汝等能く朕と其憂(うれひ)を共にせよ 我武維(これ)揚(あが)りて 其榮を耀さは 朕汝等と其譽(ほまれ)を偕(とも)にすへし 汝等皆其職を守り朕と一心になりて 力を國家の保護に盡さは 我國の蒼生は永く太平の福を受け 我國の威烈は大(おおい)に世界の光華ともなりぬへし
 (以下略)

2.蹶起主意書 (昭和11年、1936年)

謹んで惟(おもんみ)るに我が神洲たる所以(ゆえん)は万世一系たる 天皇陛下御統帥(とうすい)の下に挙国一体生成化育を遂げ遂に八紘一宇(はっこういちう)を完(まっと)うするの国体に存す。
此(こ)の国体の尊厳秀絶は天祖肇国(ちょうこく)神武建国より明治維新を経て益々体制を整へ今や方(まさ)に万邦に向つて開顕進展を遂ぐべきの秋(とき)なり。

然(しか)るに頃来(けいらい)遂に不逞凶悪の徒簇出(ぞくしゅつ)して私心我慾(がよく)を恣(ほしいまま)にし至尊絶対の尊厳を藐視(びょうし)し僭上(せんじょう)之れ働き万民の生成化育を阻碍(そがい)して塗炭の痛苦を呻吟せしめ随(したが)つて外侮外患日を逐(お)うて激化す、所謂(いわゆる)元老、重臣、軍閥、財閥、官僚、政党等はこの国体破壊の元兇なり。

倫敦(ロンドン)〔海軍〕軍縮条約、並に教育総監更迭に於ける統帥権干犯至尊兵馬大権の僭窃(せんせつ)を図りたる三月事件或(あるい)は学匪(がくひ)共匪大逆教団等の利害相結んで陰謀至らざるなき等は最も著しき事例にしてその滔天(とうてん)の罪悪は流血憤怒真に譬(たと)へ難き所なり。
中岡、佐郷屋(さごや)、血盟団の先駆捨身、五・一五事件の憤騰(ふんとう)、相沢中佐の閃発となる寔(まこと)に故なきに非ず、而(しか)も幾度か頸血(けいけつ)を濺(そそ)ぎ来つて今尚些(いささ)かも懺悔反省なく然も依然として私権自慾に居つて苟且偸安(こうしょとうあん)を事とせり。露、支、英、米との間一触即発して祖宗遺垂の此の神洲を一擲(いってき)破滅に堕せしむは火を賭(み)るより明かなり。
内外真に重大危急今にして国体破壊の不義不臣を誅戮(ちゅうりく)し稜威(みいつ)を遮り御維新を阻止し来れる奸賊(かんぞく)を芟除(せんじょ)するに非ずして宏謨(こうぼ)を一空せん

恰(あたか)も第一師団出動の大命渙発せられ年来御維新翼賛を誓ひ殉死捨身の奉公を期し来りし帝都衛戍(えいじゅ)の我等同志は、将(まさ)に万里征途に登らんとして而も省みて内の亡〔世〕状に憂心転々禁ずる能はず。君側の奸臣軍賊を斬除して彼の中枢を粉砕するは我等の任として能くなすべし。
臣子たり股肱(ここう)たるの絶対道を今にして尽さずんば破滅沈淪(ちんりん)を飜すに由なし、茲(ここ)に同憂同志機を一にして蹶起し奸賊を誅滅(ちゅうめつ)して大義を正し国体の擁護開顕に肝脳を竭(つく)し以つて神洲赤子の微衷を献ぜんとす。 
皇神皇宗の神霊冀(こいねがわ)くば照覧冥助(めいじょ)を垂れ給はんことを


 昭和拾壱年弐月弐拾六日  陸軍歩兵大尉 野中四郎 外同志一同



この事件を理解するには、明治憲法において、天皇が統帥権を有して軍隊を率いていたこと、そして半世紀以上も、毎日、この勅諭を復唱する軍人を、理解することが必要である。

歩一の陸軍少尉、池田俊彦さんが、法要のとき何の挨拶も抜きに、胸から取り出した蹶起主意書を大きな声で、読まれた時の横顔をのを思い出す。 
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