◎末松太平事務所(二・二六事件異聞)◎ 

末松太平(1905~1993)。
陸軍士官学校(39期)卒。陸軍大尉。二・二六事件に連座。禁錮4年&免官。

◎ストレス・ストレス◎

2015年02月27日 | 末松建比古


諸事情あって、今回も「2月26日の法要」に参列できなかった。

末松太平邸の消滅やら、我が家の転居やら、あれやこれやとストレスの連続攻撃に耐える日々が続いているが、2月初旬にPCのハードディスクが壊れて、さらなるダメージを与えてくれた。

応急対応で、廃棄対象で旧居に残留していた「ウインドウズ98」を運んで来て「フレッツ光」に接続。受信メールだけは目を通すようにしていた。
今日から何とか「Vista」が動くようになったが、殆どの機能が利用できない。
取り急ぎ、つらな様、江翠様、その他の皆様に、現状報告だけはしておきたい。

NHKのテレビ番組は、一応チェックした。
鈴木貫太郎氏に関する番組、高橋是清氏に関する番組、被害者サイドからの「歴史講座」が続いたが、大した内容でもないので冷静に眺めていた。

画像=賢崇寺・二十二士の墓。草に覆われた背景が、時の流れを物語っている。因みに、末松太平は左端にいる。(末松)
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◎太田直樹著「昭和史の現場」への疑問◎

2015年02月14日 | 末松建比古


今年も「2月26日」が近づいた。前回は欠席だったが、さて今回はどうするか。

ウオーキングの途中で 大型書店に立寄る。
《太田尚樹著「昭和史の現場」青春出版社・2月10日発行》が平積みされていた。
《歴史的大事件の舞台となった東京の「現場」に浮かび上る激動昭和史のもうひとつの顔とは…》という内容の新刊書で、二・二六事件に多くの頁が割かれている。

最近の《この種の本》は、過去の出版物からの引用だけの《デッチアゲ本》が多いのだが、著者の太田尚樹氏は 賢崇寺の法要にも参列して、安田善三郎氏(安田少尉実弟=前・仏心会世話人代表)、香田忠維氏(香田大尉甥=現・仏心会世話人代表)、今泉章利氏(今泉少尉次男=慰霊像護持の会世話人)の話を訊いている。そういう意味では、誠実な本のような印象を受ける。
しかし、後半部分に、見過ごすわけにはいかない記述があった。
池田俊彦少尉を侮辱している表現である。
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《事件に連座し、四年半後に自由の身になった池田俊彦元陸軍少尉は、刑死した将校たちの遺族に「栗原さんは共産主義者でした」と語っていたそうだ》
池田氏から著者が聞いたのではなく、ある遺族(賢崇寺法要の関係者?)に《語っていたそうだ》という、無責任極まる記述である。しかし、この《遺族》とは誰を指すのだろうか。そして著者の太田氏は、この話を誰から仕入れたのだろうか。

池田俊彦氏は、2002年(平成14)3月1日に亡くなっている。87歳であった。
同年4月25日発行の「国民新聞」に、今泉章利氏による追悼文「池田俊彦氏を偲ぶ」が掲載されている。因みに、1993年の「国民新聞」には、池田俊彦氏による追悼文「末松太平氏を偲ぶ」が掲載されていた。

池田氏の逝去から十余年の歳月が経過した。だから《池田氏が語っていたそうだ》というのは、既に十余年以上も昔の出来事ということになる。そして 晩年の池田氏は病床にあって、賢崇寺の法要にも参列できなくなっていたから、更に昔々の出来事ということになる。著者の太田氏は、池田氏の名誉に関わる伝聞を、何時、誰から仕入れたのだろうか。

《私も複数の遺族からその話を聞かされたが、刑死した安田少尉の実弟善三郎も「私も池田さんから直接言われたことがあります」と言っていた》
《池田氏は回想録に「当初、栗原さんの思想には反発を禁じえなかった」と書いているから「あれっ」と感じていたのだ》
著者が読んだと称する《池田氏の回想録》とは、いったい何を指しているのだろうか。
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《池田俊彦著「生きている二・二六」文芸春秋1987年刊》の冒頭部分(P20)には「栗原中尉は私にとって興味ある存在ではあったが、当初あまり魅力的ではなかった。むしろあまりにも矯激な言動に反発さえ感じていた」という記述がある。
しかし、池田氏は続けて「私も議論好きであったので、将校集会所で夜などよく栗原さんと議論した」そして「栗原さんの考え方は何回となく話しているうちに了解出来たけれど、私には今すぐそれが出来る筈はないという考えが根強かった」と記しているのである。

池田俊彦著「生きている二・二六」P50の辺りの記述も紹介しておく。
「栗原さんは陸士時代から革新思想を抱いていたらしく、レーニンの著書なども読んでいた。私にレーニンの革命方式なども話してくれたことがあり、ロシア革命の研究もしていた。しかしこの革命戦術的方面と思想問題とは一線を画していた。栗原さんが左翼かぶれしていたのではないかと疑う人がいたが、全く違うということを私は信じている。私の知人に左翼思想の人がいたが、栗原さんはそういう人とは全く違っていた。革命家的情熱は持っていたが、天皇陛下の軍人であるという精神は一貫していた」

《現代史懇話会「史・創刊100号記念」1999年7月発行》の特集は「二・二六事件をめぐる人物群像」で、秩父宮親王(保阪正康)、北一輝(岡本幸治)、真崎甚三郎大将(田崎末松)、栗原安秀中尉(池田俊彦)、石原莞爾中将(菅原一彪)の5人がピックアップされている。
田々宮英太郎氏は《編集余情》として「人物の興味もさることながら、筆者の性格や思想までが窺われて意義深い。六十余年を経た事件ながら、いっこうにその輝きを失わない。悪声と妨害が加われば加わるほど、かえって輝きを増すのは何故か。一すじの真実が厳として、そこには伏在するからにほかなるまい」と記している。

「栗原安秀中尉(池田俊彦)」の一部を紹介しておく。
「栗原中尉は一言で言えば情熱の人であった。そして頭脳もよく物事をはっきりと話した。私は事件前の昭和十年十月頃、よく栗原中尉と将校集会所などで話をした」
「(栗原中尉は)一つ一つ段階を踏んで、昭和維新の必然性を説いた。腐敗している今の社会状勢と議会政治、農村の疲弊状況などを話した」
「栗原中尉は古いものを打破して新しい組織を次々と作ってゆこうとする革命意識が強かった。しかしロシアやフランスの革命史を研究していたとはいえ、それは戦術的なことで、皇室に対する尊崇の念は人一倍強い人であった」
「栗原中尉は予審の期間中に『昭和維新論』という長文の文章を裁判官に提出している。維新と指導原理、国体論、昭和維新と皇軍、維新運動に於ける同志感など十二章にわたる長いものである。何の参考書も無いあの独房で、これだけのものを書いたことに感嘆させられる」

末松太平の逝去後に《賢崇寺法要》に参列するようになった私は、会合の場や喫茶店などで池田俊彦氏と同席する機会が増えた。池田さんの穏やかな笑顔と静かな話し方は、同席する人々を柔らかな気持にさせてくれた。
《池田氏が「栗原中尉は共産主義者でした」と言っていた》というのは、悪意ある表現である。何のための悪意なのかについては、いずれ解明する必要があると思う。
いずれにしろ《太田尚樹著「昭和史の現場」》は、その程度の◎◎◎・・・ということである。(末松建比古)
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◎昭和二十七年 十七回忌法要◎

2015年02月08日 | 末松建比古


今年も“2月26日”が近付いた。
さて、どうするか、というのが正直な気持ちである。

紹介した「二・二六事件諸士 遺詠集」は、昭和27年7月12日に発行された冊子である。
奥付には「無断転載を禁ず(非売品) 発行者 佛心会 代表者 河野司」と記されている。
二十二士の遺詠を紹介した出版物は、その後いろいろと登場したが、
この遺詠集には、群書とは異なる特別の思いがこめられているように思う。  

「まへがき」
「本年は二・二六事件関係にて刑死または自決せる二十二士の中、十八士の十七回忌を迎へました。此の秋に當り私共遺族十六年間の悲願でありました合同埋葬と建碑を果し得ました事は、何物にも例へ難い欣びであります。
此の欣びを機とし、故人達の秘められた遺書、遺詠の中から主なる、和歌、俳句並びに漢詩を抄録し、これ等を通じて故人達の切々たる悲懐を御汲取り頂くよすがにもと、此の小冊を纏めました。
謹んで二十二士の霊前に捧げ、併せて各位の御高覧を仰ぐ次第です。
昭和二十七年七月十二日 佛心会 責任者 河野司」



賢崇寺にある「二十二士の墓」も、渋谷税務署の隣にある「二・二六事件慰霊像」も、それが建立されるまでには多くの苦難があったのだ。
そういう経緯にふれることもなく、浅薄極まりない愚論を書き散らしている“騙り部”の跋扈を、見逃すわけにはいかないと思う。(末松)
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◎初公開・宗教法人千鳥会編「千鳥の栞」原稿◎

2015年02月07日 | 末松建比古


三島由紀夫氏の名刺に触発されて、秘蔵の資料を紹介する気になった。
“最近読んだ本で、末松太平氏の『私の昭和史』ほど、深い感銘を与へられた本はない。軍人の書いた文章とは思へぬほど、見事な洗練された文章であり、話者の「私」の位置決定も正確なら、淡々たる叙述のうちに哀切な叙情がにじみ出てゐるのも心憎く、立派な一篇の文学である。殊に全篇を読み来って、エピロオグの「大岸頼好の死」の章に読みいたったときの、パセティックで、しかも残酷な印象は比類がない(後略)”三島由紀夫・中央公論(昭和38・5月号)掲載。

「大岸頼好の死」には、晩年の大岸氏が信仰していた新興宗教のことが記されている。
その新興宗教が「宗教法人 千鳥会」である。



“千鳥の栞 宗教法人千鳥会編”
直筆の原稿は、1~103、104~206、に分けて綴じられている。
筆跡は末松太平のものではない。表紙の裏には“梶光之”という方の言葉が記されいる。

目次 『宗教は阿片なり』
科学界の悲鳴/草の葉の悲歌/信仰と科学/近代心霊科学の生成とその結論/欧米に於ける心霊現象/千鳥会霊能者概見/心霊研究から何を学んだか/千鳥会に就いて/千鳥会生成の背景と展望/千鳥神相/千鳥会の目的及心霊との道交/千鳥神伝人の特長/病難等に対する直接的効能/千鳥会の※※/千鳥眞心訓/千鳥会の現在配置。
(註:※※の二文字は、漢字の素養のない私には判読できない)

この原稿を末松太平が所有していた理由は判らない。多分、大岸頼好氏から預かっていたのだろう。
大岸氏が逝去した後、千鳥会がどのような歴史を辿ったかも、私には判らない。

千鳥眞心訓。諸人よ、只一筋に五戒を守り三律を行ぜよ。
信仰にかかわることだから、五戒と三律の転載は慎みたい。(末松)
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