◎末松太平事務所(二・二六事件異聞)◎ 

末松太平(1905~1993)。
陸軍士官学校(39期)卒。陸軍大尉。二・二六事件に連座。禁錮4年&免官。

◎続・例えば「真実を語り継ぐ役割について」とか◎

2022年05月10日 | 末松建比古

◎コロナ禍による自粛自粛ということで 友人知人とも無縁の日々が続いていた。
※2022年5月3日 親しい方々との「国際文化会館&あべちゃん」での「ちょっと一杯」は 久しぶりのストレス解消となった。因みに 自粛直前の「最後の一杯」は 2020年2月26日の「あべちゃん」で その時も 今泉サン&朋美サンが一緒だった。
特に「あべちゃん」が御贔屓というわけではない。単に「賢崇寺に近い酒場」というだけの選択である。



◎画像は 東京新聞(4月20日付)掲載「一枚のものがたり」のコピーで 今泉サンに見せていただいたものである。
※毎月2回掲載の企画で「二・二六事件 水上源一の家族写真」が今回のタイトル。
遺児宣子サン二歳記念の家族写真を中心に「ものがたり」が展開する。
嬉しいことに「88歳の井上宣子サン」が紹介されている。今もお元気で「お父さんの分まで長生きしなくっちゃ」と話されたという。
新聞記事に誘発されて記憶が蘇る。井上宣子サンと一緒に「防衛庁防衛研究所」を訪れたことがある。2006年8月14日。防衛省が未だ防衛庁だった頃の記憶である。

※その頃の賢崇寺には「事件関係者の遺族」から託された遺品資料類が保管されていた。しかし 託される遺品は増える一方で「対策」に迫られる事態になる。これらの品々を「防衛庁防衛研究所」に移すことができたのは 安田善三郎サンのご尽力の賜物である。
そういう経緯があっての「新規保管場所」の視察訪問で 今泉章利サン+(今は亡き)松本一郎サン+井上宣子サン+私の四人組。防衛研究所の係員氏は親切丁寧な応対だったが 正門入口の守衛氏の横柄な振舞には 今でも怒りが収らない。

◎2006年9月29日 東京芸術劇場ホール。劇団前方公演墳の「恋が散る 雪が舞う」は 二・二六事件の青年将校たちを描いた作品。
※仏心会に事前のご挨拶があり 安田善三郎サンは舞台稽古にも立ち会ったように記憶している。
この日 招待された「関係者」は 井上宣子サン+森田朋美サン+私。
今泉サンも終演後に合流して 池袋の居酒屋で楽しいひとときを過ごした。

※諸事情あって 私は次第に「賢崇寺法要」に顔を出さなくなっていった。井上宣子サンと顔を合わせる機会も途絶えていた。
今回 十数年ぶりに 宣子サンの現況に接することができたこと。今泉サンに感謝感謝である。



◎東京国際会館ガーデンレストランでの会話。
※「困ったことですが 最近出版された書籍の中には《誤った伝聞をマコトシヤカニ引き写したもの》も多々ありますね」
「事件から長い歳月が経過して 直接関与した方々に《事実確認》することができなくなって あれこれ推測しながら書いているから 仕方ないといえばそれまでだけれど・・・」
「歪曲された《偽情報》を引き写した書籍は困りますね。例えば◎◎◎とか△△△とか・・・」
  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
◎画像参照。末松太平は(最後の日を迎えるまで)真実を語り継ぐ役割を果たしたいと願っていたように思える。
※例えば 右側の手紙は大石茂氏からのものだが 末松太平からの質問に便箋10枚を費やして応えていただいている。
「・・・当時静岡分隊の特高主任だった新浪新一氏は今なお健在ですので確認しました。一時預けられたのはやはり静岡駅で、豊橋の方が予定通りいけば、草薙神社(日本武尊を祭る)境内に集合、そこで武器を分配して西園寺邸に向かう予定だったようで、小銃弾の数は三千二百発ぐらいと推察され、投棄場所は清水巴川の千歳橋の真ん中辺りから下流に向かってバラバラに投ぜられていたとの由。静岡駅に一時預けの際の書名は栗原安秀と書かれており、筆跡鑑定で確認されているとの由。」
「・・・然し 弾の発見は六月頃で、子供たちが魚取りに川に入って偶然に十数発を発見、すぐに交番に届けられ、清水署から憲兵隊に連絡されたが、本格的な調査は(栗原中尉が処刑された後の)八月過ぎのこと。銃弾の投棄が栗原中尉持参のものであったかどうかは、裏付けできずに終わったという」

※左側の手紙は中村義明氏の未亡人ヨシ様からのもの。末松太平からの質問に応えていただいている。
「・・・中村が上野の憲兵隊に連れていかれましたのは、2月28日の夕刻と思います。と申しますのは、書生さんの中村三郎さんが外出から帰って玄関を開けた時でしたので(何でも良く知っている彼が関り合いになると厄介なので)咄嗟に『新聞屋さんご苦労様』と合図して送り出し、憲兵さんを謀ったりした記憶があるからです」
「・・・この時丁度、木村義明さんという方が見えておりまして、二階で決起部隊の兵站について話し合って居りました。そこへ突然憲兵さんの登場。彼はメモを靴下の中に入れ、芝田文次ですと名乗り、事なきを得て帰宅しました。芝田さんは彼のお兄さんで横浜でコーヒーの貿易をしており、偶々名刺を持っていたのが幸いしたのですが、後に木村さんも捕われの身になったようでございます」
「・・・憲兵の態度は、特に横柄とか高圧的とかいった姿勢は感じられませんでした。私のカラクリにも素直に乗って下さいましたので、警察より余程あっさりしてると感じました。でも、連行する車の中では両脇からピストルを突きつけてのはっとするような物々しさ、我家は路地の一番奥にありましたが、反対側の路地の出口にも憲兵が立っておりました」
「・・・2月26日、27日と、私たちは外出しておりまして、28日に家に連絡をして、まだ何の動きもないので大丈夫だろうということで、その日の午後帰宅致しまして、右のような次第となりました。お茶を沸かしに階下に降りました時に『皇魂』の名簿は全部、積もった雪の中に埋めました。読者名は一切知られずじまいと自分では思っております」

※中村義明氏のことは 末松太平著「私の昭和史」下巻124頁以降に記されている。
「この年(昭和10年)の年末から年始にかけて私は東京に出た。大晦日には中村義明の家で大岸大尉、渋川善助、伊東亀城に会った」
「中村義明のことは『皇魂』を通じて知っていたが 実際に会うのは、これが初めてだった。『皇魂』は中村義明が主宰する月刊雑誌だったが、大岸頼好がその大半の頁を埋めていた」
「中村義明は元は有力な共産党員だったが、この少し前から大岸大尉らの仲間に入っていた異色の存在だった」
「夜の白々と明けそめた頃、私は渋川と中村義明の家を出て、西田税の家に向かった。二・二六事件のあった昭和11年の元旦はこうして明けた。昨年の元旦は、相沢中佐、大岸大尉と一緒に仙台の宿で迎えたのだった。相沢中佐は『末松さんと一緒に年越しそばを食べるのだから来年は良い年だぞ』といっていたが、その人はこのとき未決の獄に、ひとり端座して元旦を迎えていたことだろう」(末松)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
コメント (1)    この記事についてブログを書く
« ◎例えば「真実を語り継ぐ役割... | トップ | ◎続々・例えば「真実を語り継... »

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
中村義明について (ぬりえ屋)
2023-11-17 12:53:58
中村義明夫人の書簡について書かれていますが、中村義明等について書籍を出される予定がありますか?

あと中村義明、戦中長男を自家中毒で亡くした後追悼本の発行、程なくして満州に渡ったようですがその後何をやったか没年を含めて全く不明で何かご存じでしたら教えてください。
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。