◎末松太平事務所(二・二六事件異聞)◎ 

末松太平(1905~1993)。
陸軍士官学校(39期)卒。陸軍大尉。二・二六事件に連座。禁錮4年&免官。

◎「新版/年表・末松太平」/(10)激動の昭和11年◎

2023年03月19日 | 年表●末松太平

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《「年表・末松太平」/1936(昭和11)年。末松太平=30歳~31歳。》
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◎正月頃の行動。
・・・青森(新婚の自宅)は留守がちで、東京と千葉の間を行ったり来たりしている。
★初公開資料★
《末松太平の「遺品」から。/下書き原稿(寄稿予定先は不明)が記されたノート。》
「昭和15年2月。私は久しぶりに青森に行くため上野駅に来た。前回は(二・二六事件のあった)昭和11年1月2日だったから 5年ぶりということになる。/あのときは 結婚したばかりの妻と一緒だった。年末年始の休暇を利用して 妻の実家を訪ねた帰りだった。渋川善助がひとり見送りに来ていた。渋川は『いつどうなるか判らぬがお互いだ。女房は大事にしておくものだよ』と 周囲には聞こえぬように耳に口を寄せて言った。二・二六事件を予期して言ったわけではなかった。この時まで 渋川は蹶起のことは知っていなかった。」

◎1936年2月26日。「二・二六事件」勃発。
・・・末松太平は 事前に何も知らなかった。事件」勃発の報には吃驚したと思う。
・・・蹶起部隊・安藤輝三大尉宛に打電(届かなかった)した『師団はわれらとともに行動する体制にあり』が 主な有罪理由となる。(打電は28日午前0時40分頃)。
★参考資料★・・・・・・・・・・
《松本清張「昭和史発掘」文春文庫。/11巻P93。》
「末松が事件を知ったのは、26日の朝である。/(以下、判決文に従うと)彼は第五連隊の志村陸城中尉と共に、連隊長、旅団長、師団長に対し、この際挙軍一体となって昭和維新に直進すべき旨を意見具申し、連隊長名義で陸相その他軍首脳部に同趣旨の電報を発信させ、決起軍の行動を支援した。/また、歩25連隊の片岡中尉宛に『第8師団は維新断行決意鞏固、連隊全員の署名決議を上司に提出し、参謀長はこれを持参上京せり。第7師団の状況如何』の書状を送る。/さらに、片岡中尉と歩31連隊の天野中尉宛に『維新歪曲せられば直ちに起つ準備あり、師団も同意せり』と打電した。


★参考資料★・・・・・・・・・・
《末松太平が、私の妻に贈呈していた「原寸大コピー」2巻。》
巻紙の長さ それそれ数メートル。「進言」の文章は志村中尉が書いたという。
●原寸大コピー①/2月26日付「進言(陸軍大臣・川島義之閣下)」
・・・要旨「今回の異変は断じて単なる一事件として葬り去るべきに非ず。須らく昭和維新に直進すべし」/署名「末松太平大尉、志村陸城中尉、杉野良任中尉など、37名」
●原寸大コピー②/2月27日付「進言(下元中将閣下)」
・・・要旨「直ちに上京を。その際は命を尊王に捧げる(我々の)気持をあわれみ給い、中途警護の任を賜りたく(同行させて欲しい)」/署名「末松大尉、志村中尉、杉野中尉など、11名」
★参考資料★・・・・・・・・・・
《久保晃(末松太平の義弟/末松敏子の実弟)の証言。》
「川島陸将宛の署名者37名のうち、終戦時に将官(少将)だったのは『少佐・木庭知時』だけ。/事件後、中佐に進級し、歩兵学校に長期出張中には『西千葉/末松敏子の実家』に2回現われている。」
★資料★・・・・・・・・・・
《高橋正衛「中央公論/歴史と人物」1981年2月号・掲載》
「2月26日、午前6時40分頃。陸相官邸の大臣談話室で川島陸相と香田大尉、村中孝次、磯部浅一らが対座し『蹶起趣意書』と共に『大臣要望事項』を示す。/その⑥『左ノ将校ヲ即時東京ニ採用セラレタシ』。大岸大尉、菅波大尉、小川大尉、大蔵大尉、朝山大尉、佐々木大尉、末松大尉、江藤大尉、若松大尉。/香田大尉が、襲撃後の局面に対処するために、強力な援軍と期待したのが、この9名であった。」
★資料★・・・・・・・・・・
《松本清張「昭和史発掘」文春文庫/11巻・P324。》
「3月3日、陸軍省は古荘次官の名で香椎戒厳司令官に対し『反乱関係者ノ検挙摘発ニ関スル件通牒』を発した(陸密第150号)。/このうち第2項『正規ノ方法ニ依ルコトナク離隊、会同、意見ノ上申等ヲ為シ軍紀ヲミダリ或ハ之ヲ為サント企テタル者』は、歩一の山口大尉、歩三の新井中尉、柳下中尉、青森連隊の末松大尉、志村中尉、杉野中尉、札幌連隊の片岡中尉、鹿児島連隊の菅波大尉(中略)などが入る。」

◎1936年3月7日。「弘前陸軍拘置所」に収監される。(末松・志村・杉野)
◎1936年3月25日頃。「東京陸軍衛戍刑務所」に送られる。
・・・新婚数ヶ月で、妻敏子は(青森に独り残されて)周囲の冷ややかな視線に晒されることになる。
・・・そして 千葉市登戸の実家(久保三郎邸)に戻り 夫の帰りを待つ日々となる。
★資料★・・・・・・・・・・
《松本清張「昭和史発掘」文春文庫/12巻・P139。》
「3月12日現在『本事件ニ対スル関係容疑者一覧表(東京憲兵隊作製)』によると『本件発生前予知シアリシヤヲ疑ハルル者』は、大岸、菅波、小川、若松、竹中、末松、寺尾各大尉、野北、戸次、草間各中尉、鈴木主計、片岡少尉等計十三名。」


・・・「東京陸軍衛戍刑務所」の今昔。刑場跡地に「二・二六事件慰霊像」が建立されている。

◎1936年7月3日。相沢中佐、死刑執行。
◎1936年7月5日。第一次判決。死刑判決17名。
◎1936年7月12日。死刑執行15名。
・・・香田、安藤、竹嶌、中橋、栗原、対馬、坂井、丹生、田中、安田、中島、高橋、林、渋川、水上。
・・・事件当時に自決2名(野中、河野)。
◎1936年8月20日。第三次起訴。
◎1936年10月10日。第三次公判開始。
◎1936年10月19日。第三次求刑。末松太平は「禁錮7年」の求刑。
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