◎末松太平事務所(二・二六事件異聞)◎ 

末松太平(1905~1993)。
陸軍士官学校(39期)卒。陸軍大尉。二・二六事件に連座。禁錮4年&免官。

25.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」 末松太平さまのこと(その8)「初心」は失われやすい

2017年04月14日 | 今泉章利
25.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」
末松太平さまのこと(その8)「初心」は失われやすい

昭和42年2月24日 朝日新聞 文化欄 に「幻の雪」と題された記事がある。その中に、次のような記述がある

二・二六は、一世代を経て、奇妙なよみがえりを示している。三島由紀夫、利根川裕、それに武田泰淳ら諸氏の作品がそれにかかわりがあるが、むしろ当事者でありながら、そうしたムードに乗っかって、気楽な真相ばなしを流布したりする元軍人もいる。
関係青年将校の一人末松太平氏が、そのような風潮に対して、、おさえがたいいきどおりをひかえ目に述べている文章を近ごろ読んだが(「論争ジャーナル」三月号)、なるほど「初心」は失われやすいものである


この文中にある「論争ジャーナル」三月号は入手できていないが、国会図書館にあることは確認したので、近いうちに入手したい。
この記事の書かれた昭和42年ころは、二・二六産業と言われたほどに、実に多くの出版物が出された。
私だけが真実を知っているとか、その時、私が見た二・二六事件はこうだったとかいうたぐいのものである。
私の父は「まさに汗牛充棟の如し」とよく言っていた。

末松さんは、悲惨な日本の状況を正すべく、その道をまっすぐに歩まれてきた。
真剣に日本をよくするために、身を挺する覚悟で歩き続けていた方である。亡くなる瞬間まで、事件のことから離れることはなかったと思う。だから、私のような無知の青二才にも、真剣に話をしてくださった。
88歳のお祝いをしたとき、先生は、殆ど食べ物に箸をつけられなかった。目も開けられないような感じであった。きっとおつらかったのだろう。しかし、若いものが自分の祝宴をして呉れるなら、喜んで受けようー
そういっておられるかの様だった。

宴席は、太平さま、奥様の敏子さま、相澤正彦さま、「史」を主催しておられた田々宮英太郎さま、真崎大将の薫陶を受けられた山口富永さま、国民新聞の山田恵久様、二・二六事件の後、橋本欣五郎の大日本青年党に参加した今澤栄三郎さま、そして43歳の私、だったように記憶している。
そして、いま、私は、70歳を前にして、不遜にも、末松建比古様のブログに、末松太平先生の思い出の一部をを記している。



コメント (2)

24.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」 末松太平さまのこと(その7)車力村の小作争議

2017年04月14日 | 今泉章利
24.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」
末松太平さまのこと(その7)二・二六事件の原点 車力村の小作争議

振り返ってみると、私が末松太平先生からお教えいただいたのは、わずか3年であります。先生が85歳の平成2年に、登戸のご自宅をお邪魔し、平成5年に88歳で亡くなられるまでのわずか3年なのであります。
にもかかわらず、何も知らない私に、事件についての神髄を語ってくださり、既に書きましたが、まず初めに先生は、車力村の小作争議をしめされ、これが二・二六事件の原点だと断言されたのです。
忙しいさなか、車力の高山神社に三回も行きましたが、何もわかりませんでした。でも、いま、こうして、このブログを書くに当たり文献を読み返してみました。

先生が大正14年、予科を卒業され、5聯隊に赴任された翌年の大正15年、青森県東津軽郡車力村(しゃりきむら)で、小作争議が起こりました。
明治憲法下、大地主制度が、江戸時代そのままにうけつがれ、明治5年、税金は現物ではなく、土地(地租)を基準に土地の値段の3%税金を取り立てる方法に代わりました。これは、
江戸時代の5公5民(税金は50%)とほとんど変わらない税率だったと、1973年(昭和48年)に発行された「車力村史」に記載されています。
具体的には、「小作料は、大正15年で54%、青森県北部では、コメの値段を勘案すると76%という「ベラボウ」な小作料が平気でとられていたと、かてて加えて、このほかに、小作人は、「礼米(感謝米)」と称して4年に一回、一年分の小作米にあたる米を地主に収め、地主から土地を新たに借りる時は、契約と同時に一年分の小作料金額を前納する。まさに残酷そのものであった。しかも、3年に一度は必ずといってよく、水害、冷害にみまわれて凶作となった。この様相を描いている書籍も少なくないが、これが50年前(注:大正末から昭和初期)の偽らざる車力のすがたであった。」とあります。

「車力村史」をもう少し引用してみましょう。

「明治に入ってからは、近在の地主たちが、二束三文で土地を買占め、殿様に代わって支配力を欲しいままにした。だから、この地方の農民の殆どは、みなこの地主の小作人として生殺与奪の権を握られていた。道端で、万一、地主と出会った際、挨拶の仕方が悪いと、文句を言われて、小作田を取り上げられた。横暴なやり方で不服であるが泣寝いりしたものである。また、いかに不当な条件であっても、それに対して、一言半句もいえない、文句をいうとたちまち田畑を取りあげられ、その日から食えなくなってしまうのだ。
この状態は、大正はおろか昭和時代になっても、少しも変わらなかった。
東北の農業は、全国的に一番立ち遅れていたが、それは、地主がはびこり、零細農民の数が多く、生血を吸われるように過酷な条件で年貢米を取り上げられるからだ。小作人から取立てた米屋金は、地主によって、今度は、商業資本や銀行資本、高利資本となって、略奪の資金に転化された。
大東亜戦争前後の強権発動と同じく、藩政時代に百姓から取れるだけのものは取った。それが次年度の凶作につながった。かくして凶作は凶作を生んだ。凶作は天災ではなくて、人災だといういい方はこんなことから生まれたのであろう。
そして、大地主たちが、どんな生活をしたか、それは西北の町や村に、今も残っている邸宅を見るとよくわかる。これらの地主たちは、終戦後のうちの大改革、要するに、農地改革で、その邸宅を人手(ひとで)に渡したものもあるが、その建物が当時の豪勢な生活振りが容易に想像される。赤レンガ塀を、大正八、九年頃、隣家の日照状況を考慮に入れず、周囲に高く廻し、お城のような家を築いて、公益を図ることもなく、自分勝手な暮しをしていたのだ。そして、彼らは小作人たちを、人間に値しない虫ケラ同然に思っていた。
農民の生活はどんなであったかは、幼児の死亡率、結核の死亡率、トラコームの罹患など、いずれも全国1,2位であったことでも想像できよう。まったくみじめな記録である。
この貧しさは、無知とからんで、彼らを一層みじめにした。小作人のほとんどは、娘を女工や女郎に売った。北海道やカムチャッカに出稼ぎに行った。そして、借金、貧困、病気の悪循環を繰り返した。」

読まれる方は、なぜトラコーマか、と思われるかもしれんせんが、小作人たちは、暖をとるために「サルケ」という泥炭を乾燥させたものをたいたのですが、これが煙がひどく、目や鼻やのどを刺激し、眼病の原因になります。
炊いていると隣にいる人の顔も見えなくなるほどの煙が出る、、とあるので、想像ができます。毎日サルケをたかなければ、凍えてしまいます。トラコーマの原因はこれだけではありませんでしたが、この地域ではこれが主な原因でした。

私たちは、ひとくちに、農村の疲弊といいます。然しそれがどんなものであったのか理解していません。私が今持っている参考文献(公式のもの、)を以下に示します。若い人にはもっともっと勉強してほしいと思います。
なぜ、二・二六事件が起こったのか、なぜあれほど優秀な軍人たちが、立ち上がったのか。いや、その前の、大正から昭和初期にかけての、経済を含めた歴史を整理してみてほしいです。

昭和6年の3月事件とはなにか。 なぜ血盟団事件は起こったのか、 同じ年の10月事件をどうとらえるのか、 昭和7年の515事件、 士官学校事件、 教育総監更迭事件、 相澤事件とは、、。
いや、一人でやるのはとても大変と思います。どうか、一次資料を使って、何人かで勉強をされるべきと思います。 一人では手に負いかねますし、珍妙な、分析が思い浮かんだりします。( 最近、信じられない想像の産物が、本やテレビなどにもよく出てくるようになりました。気になります。)

話を戻しましょう。「昭和の初期の農業恐慌」ということばもあるそうですが、私の参考にしているものは、次のようなものです。

・車力村史 昭和48年 車力村役場発行
・青森県史 資料編 近現代3  平成16年 青森県史友の会
・青森県史 資料編 近現代4  平成17年 青森県史友の会
・新編 埼玉県史 通史編5(近代1) 昭和63年 埼玉県発行
・新編 埼玉県史 通史編6(近代2) 平成元年  埼玉県発行
・新編 埼玉県史 資料編19(近代・現代1、 政治・行政1) 昭和58年  埼玉県発行
・新編 埼玉県史 資料編20(近代・現代2、 政治・行政2) 昭和62年  埼玉県発行
・新編 埼玉県史 資料編21(近代・現代3、 産業・経済1) 昭和57年  埼玉県発行
・新編 埼玉県史 資料編22(近代・現代4、 産業・経済2) 昭和61年  埼玉県発行
・各新聞資料 東北大凶作 1991年(平成3年)無明舎出版など  できれば 地方の公文書保存館にある地方紙の新聞記事などがよい
・県議会など議会の議事録
・警察や、内務省警保局資料など


コメント (1)

23.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」(20170407)末松太平さまのこと(その6)有馬頼義をめぐって(その2)

2017年04月11日 | 今泉章利
23.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」(20170407)
末松太平さまのこと(その6)有馬頼義をめぐって(その2)

前回私は、「実は有馬氏はもう一つ痛い反論を受けていた。それは、有馬氏の1967年(昭和42年)2月25日の投稿記事に対する、同年3月3日付けの朝日新聞文化欄の《河野司 二・二六事件の意味 前提に思想があった””ただの人殺し”は間違い》という記事であった。こちらのほうは、末松氏の反論よりも早い。が、それについては、もう少し説明をしたい。実はこの文章は、高橋正衛氏が書かれた文章なのである。」と書いた。

1995年、折目朋美氏の「雪降リ止マズ」という漫画の出版記念会に、出席したときのことである。
その6年前、高橋正衛氏は、山口富永、末松太平両氏に、「真崎組閣陰謀説は、何の根拠もない私の想像です」と自白したが、それから4年後の、平成5年(1993年)1月、末松先生が亡くなられた、そんな時期時だった。
私が、池田俊彦さんに、高橋正衛が来てますよと、多少非難めいて池田さんに言うと、池田さんは「いろいろあるが、彼は、二・二六事件そのものを日本人に啓蒙した実績はあるのだから、、」といわれた。この出版記念会は、池田さんがアレンジされたものなので、おそらく、池田さんが呼ばれたものと思う。
パーティの席上で、、ちょっと顔色が悪かった高橋氏と国家論についてしばらく話をした後、高橋正衛氏から、「今泉さん、昔、私は皆様のために頑張ったことがあるのですよ。今となっては誰も覚えていないでしょうけれど、、」と言って、28年も前の1967年(昭和42年)の朝日に掲載された有馬頼義事件の話をされた。

新聞記事の翌日の法要の後の直会の席では、多くの参列者が「二・二六事件は強姦、人殺しの類」という有馬の記事に激しく憤っていた。今から、朝日新聞に押しかけていって、抗議をしようじゃないか、声高に語る人が多かった。
当時44歳の、高橋氏は、立ち上がって、みんなに自分は朝日新聞を知っているので、どうかこの場は私に任せてほしいと、一世一代のお願いをした。何とか了解を取り付けて、自分は、賢崇寺からその足で、朝日新聞の担当に会いに行った。
自分から朝日に対するお願いは、有馬頼義の記事に対して同じスペースの反論の記事を書かせてほしいという事だった。朝日文芸部は、内部で検討をした後に、条件として、記事を書く人間は、朝日が記事を書くことを認めたレベル人でなければ認められない。このことは、暗黙の了解なのだが、「高橋正衛が書くならいいよ。」ということであった。しかし、自分の名前で出すわけにはいかない。結局、河野司さんの了解を得て、文章は、高橋正衛が書くが、筆者は「仏心会の河野司」とすることになった。

反論は、前述したように、その約一か月後の昭和42年3月3日に掲載されたのであった。以下は、その掲載文である。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「昭和42年3月3日  朝日新聞 文化欄」

二・二六事件の意味 河野司

有馬頼義(よりちか)氏への反論
二・二六事件で、いわゆる叛乱(はんらん)軍に襲撃され、そのため死をとげた、ときの内大臣・海軍大将斎藤実の縁戚(えんせき)にあたる有馬頼義氏の二月二十五日本欄「二・二六事件と私」と題する所論を読んだ。

遺族の一人として

私は有馬氏が、この事件の被害者の身内であるのと正反対の、加害者側の一青年将校側の肉親である。しかし、この事件の起きた瞬間は、有馬氏と同じく私も、直接には何らこの事件には関係のない人間である。
 そして現在有馬氏は文筆を業とし、私は一事業家である。このかぎりでは、私個人としては街の一読者として、有馬氏の所論を一人で読み、自ら感ずるところを、ただ一人胸中にとどめておくべきかもしれない。
 この二・二六事件は、もうすまでもなく、昭和史にとって重大な意味をもち、国民の生活に大きく作用した公的な事件である。私達青年将校の遺族としては、あの昭和十一年二月二十六日の明け方に起きた事件そのものは動かし得ない歴史的事実である限り、公的の場で、この事件の持つ意味を如何に論ぜられ、批判されるとも、それを静かに受け入れるであろう。
 この事件を素材とした小説、映画が書かれ、つくられても、それはあくまでも作者の事件への、その人の解釈であり、それに対する毀誉褒貶(きよほうへん)は、その道の専門家におまかせする。したがってここでは「宴」のことは私には関係ない。事実はひとつ、解釈は多様なのであるから。

確信犯だった彼ら

私たちは、わが身内、肉親の三十年前の激派の行動を全面的に肯定し、これを生涯かたくなに固持して、二・二六事件への批判をすべて拒否するものではないのである。
 しかしながら有馬氏の所論については、私は、この心がまえを破って、ここにいくつかの疑問を提示したい。
 この事件の首謀者の一人、磯部浅一の新しく発見された「獄中遺書」に次の如き一節がある。
 「吾人の行為が国賊的叛徒の行為ならば、その行動は最初から第一番に、直ちに叱らねばならぬ。認めてはならぬものだ。吾人を打ち殺さねばならぬものだ。直ちに大臣は、全軍に告示して全軍の力により吾人を皆殺しにすべきだ。大臣は陛下に上奏して討伐命令をうける可きではないか。間髪を入れず打つ可きではないか」
 御承知の通り、叛乱軍部隊は”間髪を入れず”討たれることなく四日間経過した。
 ところで叛乱将校を裁いた軍法会議では、二十六日の明け方」の殺人・放火の事実にのみ犯罪事実を想定して反乱軍将校を断罪している。それは有馬氏のいう”ただの人殺し”と断定したのと同じ態度である。
 二・二六事件は”ただの人殺しか”、つまり破廉恥罪か、それとも政治事件、確信犯罪かは重大な一点である。そして有馬氏が「革命ではなく人殺し」といっているのをみれば有馬氏の答えは明瞭(めいりょう)である。
 では、殺人罪とすれば、犯人は犯行後の現場にずっととどまっていたのである。何故”間髪を入れず討た”なかったのか。この事件は政治事件、確信犯の所業だから討てなかったのである。

国防国策の争い

さらに有馬氏はいう。「かれらをクーデターにかり立てたのは、陸軍部内の派閥抗争であり、第一師団の満州追放がきまったことについての反抗である」と。「地区軍部内の派閥闘争」とはおそらく皇道派と統制派の争いを指すものであろう。
 この争いは普通考えられる争いよりも、より根源的に国防国策をめぐる争いであった。だから高橋正衛氏の「二・二六事件」(中央公論社)は、全ページどこにも皇道派、統制派の文字がない。それでも二・二六事件は書きうるのである。まして、陸軍部内の派閥闘争がクーデターをかりたてたのなら、何故、軍の派閥に無関係の近衛文麿は、あのときこの叛乱軍将校の恩赦、特赦を画策したのか。この解答を有馬氏から聞きたい。
「第一師団の満州追放」という表現も杜撰(ずさん)?きわまる。戦時でない平常時の師団の海外駐留の手続き、国防方針の決定はほぼ二年はかかるのである。この点は。その衝に当った旧軍人にたしかめられたい。
 最後に重要なこと。「私は、二・二六事件は革命などというようなものでなく、ただの人殺しか強盗・強姦のたぐいだと思っている」という表現。「たぐい」というのは有馬氏が、この事件をとらえる抽象的意味として使用したと思う。しかし私は、すでに悪魔の意味をもつこのような言葉使用しなくては自分の悲憤と願望を表現できない文筆家を軽蔑(けいべつ)する。
まして、二・二六事件は、絶対にたとえ抽象的にせよ、このような言葉を浴びせられる事件ではない。テロリズムは「思想の争い」を直接暴力で解決せんとするから当然批判されるのである。しかし「思想」が前提であるその一点を、肉親への悲劇という表現からとりさるべきではなかろう。

革命の敗者と見る

襲撃のひどいやり方も斎藤実に関しては、有馬氏の目撃した事実を認めよう。しかし高橋是清については当時の流言以外、私としてはわからぬ。有馬氏に確証があればうけたまわりたい。しかし青年将校は今日生きている我々がどう解釈しようとも”革命”を実行しようとして決起したのである(計画の不徹底、幼稚さといわれることは別として)。有馬氏はこのことはあくまで認めないのであろうか、、、、、、、。
有馬氏の所論ののった同じ二十五日の読売新聞の夕刊に中野好夫氏は書いている。
「フランス革命の末期、、、ひどいときには一日五十人以上の大量処刑を行なった日さえあるという。厳たるこれは革命の事実である。だが今日ゴロリと血染めの生首写真(かりにあるとしてだが)だけをぬき出して「どうみるか」と問う酔狂者はまさかいまい。これも事実、しかもおそるべき異常事態にちがいないが、フランス革命そのものの歴史的意味はもっと奥のところにあることはだれでも知っているからであろう」
もちろん、二・二六事件とフランス革命は世界史的価値において全然ちがう。ただ革命という一瞬は美化すると、おとしめるとにかかわらず血染めの生首だけぬき出して「どう見るか」とは言えないのである。
二・二六事件の青年将校は死をもってあがなった革命の敗者であったのである。

**************

筆者は仏心会(二・二六事件処刑者遺族の会)会長。湯河原の旅館に牧野伸顕氏を襲撃し、十一年三月六日自決した事件首謀者の一人、河野寿元大尉の実兄。



写真はちょっとみにくいが、右が2月25日の有馬氏の記事、左が3月3日の反論。いずれも黄色の枠で囲ってある。

(備考)なお、高橋正衛氏は、1994年(平成6年)、中公新書「二・二六事件 増補改訂版」を出された。真崎大将の件はそのままだが、増補に二つの問題提起がある。一つは、軍隊のける命令の問題で、
もう一つは、大臣告示は、ただ単に紙切れであったのか、ということである。また、竹山道夫氏の「昭和の精神史」についても触れられている。「昭和の精神史」は、物静かだった父が、几帳面に何本も赤線をひいていた本である。
コメント (1)

22.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」(20170406)末松太平さまのこと 有馬頼義をめぐって(その5)

2017年04月05日 | 今泉章利
22.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」(20170406)
末松太平さまのこと 有馬頼義をめぐって(その5)

慰霊像が建立されてから二年後の1967年(昭和42年)2月25日、「朝日新聞」「文化」欄に、「二・二六事件と私」と題して、”事件は「革命ではなくて人殺し」”という記事が掲載された。筆者は、斎藤実内大臣の親戚、1954年(昭和29年)に直木賞を受賞、久留米藩主家の第16代当主である有馬頼義(ありまよりちか)氏。氏は、事件は「人殺し、強盗、強姦のたぐい」と決めつけたのである。
有馬氏はさらに週刊新潮に「二・二六暗殺の目撃者」を連載し、1970年(昭和45年)に、一冊の「二・二六暗殺の目撃者」として出版した。

週刊新潮の連載が終わるころ、末松太平さんは、長文の反論を有馬氏に送っている。有馬氏に送った手紙そのものは見ていないが、71年3月の「情況3」にのった「二・二六は革命だったか」には、その内容が書かれていると思われる。その内容は、1980年に発行された「軍隊と戦後の中で」「私の昭和史」拾遺 のなかでも見ることができる。

有馬氏の”勉強した歴史”には多くの間違いがあり、それを、末松さんはひとつづつ、ぐさりぐさりと指摘し、さすがの直木賞作家もうんざりしたとみえるが、なるほど、批判をすることというのは、このように書くのだなあとと今でも感銘深く思っている。
なお、以前に書いたと思うが、昭和41年の三島由紀夫の「二・二六事件と私」にも、末松さんはコメントを与え、軍隊を知らない三島は、文中、「末松さんの指摘に基づき小説を修正した。」と書いている。


さて、有馬氏は「二・二六暗殺のの目撃者」のあとがきで、「末松太平氏から長文の反論を受けた。末松太平氏の反論は、主として、二・二六事件が、人殺しでなく革命であったという趣旨のものである。ここでもまた「暗殺」とか「目撃者」とかいう言葉が、問題にされているが、これは週刊新潮のつけた題名で、はからずしも、私は、利根川君と同じ運命に立たされ、受けずもがなの攻撃を受ける結果となった。」と釈明付き文章を書いている。

実は有馬氏はもう一つ痛い反論を受けていた。それは、有馬氏の昭和42年2月25日の投稿記事に対する、同年3月3日付けの朝日新聞文化欄の「河野司 二・二六事件の意味 前提に思想があった””ただの人殺し”は間違い」という記事であった。
こちらのほうは、末松氏の反論よりも早い。が、それについては、次回説明をしたい。実はこの文章は、高橋正衛氏が書いた文
章なのである。そのいきさつも含めて。

 



コメント