◎末松太平事務所(二・二六事件異聞)◎ 

末松太平(1905~1993)。
陸軍士官学校(39期)卒。陸軍大尉。二・二六事件に連座。禁錮4年&免官。

父今泉義道の二・二六事件(近衛歩兵三連隊第七中隊陸軍少尉)

2023年03月31日 | 今泉章利
(続き)
③ 事件に使われる愛する部下を、一死を以て守ろうとした決断と遺書

午前4時ごろ、父の部屋に、斎藤特務曹長が完全武装で入ってきた。軍刀の柄を左手に握り、「今泉少尉殿!」両眼から大粒の涙を流し「中橋中尉に伴われ、歩兵一連隊から小銃実砲1500発を運びました」「私は死にます。今泉少尉殿、私は死にます!」父は斎藤特務曹長の右手を固く握りしめた。父は愛する部下と共に死地に赴くことを決意したのだった。そして、父は、次のような遺書をしたためた。
 御祖父様、御両親様
  申譯ありません  部下のため死にます どうかご健在に御暮し下さい。
  御兄上様、妹等よ お迷惑を御かけします  御宥し下さい
 二月二十六日 午前四時二十五分
    於居室 義道  注:ご祖父様とは今泉利義海軍少将、実父は原道太海軍大佐
将校団あて遺書
 午前三時五〇分 突然中隊長ヨリ企図ヲ示サル 余ガ愛スル部下ハ既ニ動キヌ
 事ノ成否ハ明瞭ナリ 一死以テ部下ニ代ラン
 余 企図ニ関シテハ尚早ノ意アリ 然ドモ今ニ及ヒテ 如何トモスル能ハス
 各位 諒トセラレンコトヲ
二月二十六日午前四時ニ十五分 陸軍歩兵少尉  今泉義道

④ 渋谷宇田川町の衛戍刑務所に収監され、東京陸軍特設軍法会議へ 

詳細は書ききれないが、元裁判官の松本一郎先生は1999年に発表された「二・二六事件裁判の研究」の中で、この軍法会議そのものが、明治憲法違反・違法なであり、国家権力の行使の最高責任者が陸軍大臣寺内寿一を頂点とする陸軍首脳部であっと述べられている。私は、先生が作業に使われた膨大な資料を勉強してゆきたいと願っている。明治憲法に違反する裁判における判決とはなんであったのか、これからの一番の課題であると思っている。
さて、父によれば、軍法会議の冒頭、裁判長より、この軍法会議は、「非公開」「一審、上告なし」「弁護人なし」と言われ衝撃を受けている。しかし、なぜかこの発言は資料には残っていない。事件前は何も知らないノンポリの父であったが、村中、磯部、安藤、香田各位と同じ23名の裁判で、25回も席を同じくしたので、事件の本質は理解したと思われるが、私には感想めいたことは何も言わなかった。わずかに、皆さんは本当に立派な方だったとのみ言った。ただ中橋さんが、裁判長になぜ蹶起したのかと聞かれたとき、大きな声で「義を見てせざるは勇無きなり」と言われたことや、第20回の父の公判で、父以外の全員が退廷する時、「今泉少尉は私の命令で出しました」と大きな言われたことなどを話してくれた。

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父今泉義道の二・二六事件(近衛歩兵3聯隊第7中隊少尉)

2023年03月30日 | 今泉章利
事件から87年、立ちました。わたくしは今泉章利と申します。僭越ながら私の父、今泉義道の二・二六事件を書かせていただきます。4000字くらいなので4-5回に分けて投稿したいと思います。、写真は、赤坂、今のTBSのところにあった、近衛歩兵三聯隊兵舎です。



【0】はじめに  
今年の二月で、昭和11年(1936年)の二・二六事件から87年目を迎えた。事件は、改めて歴史となってゆき、今後とも様々な方々が研究されてゆくことを願っている。
以下は、事件に突然巻き込まれ、囹圄の身となり、国賊として出獄し、81歳で生涯を閉じたた私の父、今泉義道の、事件を背負いながら生きた姿の一部である。

注: 父は大正3年に原道太(海軍大佐)と母ヒロ(旧姓今泉)の間に原義道として生まれたが、昭和9年、20歳の時、母(ヒロ)の父、今泉利義(海軍少将)の孫として養子入籍を行い今泉義道となった。


【1】職業軍人への道 腰に剣を帯びた14歳の夢 
今泉義道は、鎌倉で軍人の家で育った。師範学校の付属小学校から、昭和2年、湘南中学に入学した、文学好きの少年であった。武人の風格を備えた兄、原素道(東幼29期)の影響からか、翌年、湘南中学から、東京陸軍幼年学校(東幼32期)へ入学した。14歳であった。「将校生徒」と言われる軍人教育、7年間の内訳は、幼年学校に3年、陸軍士官学校予科で2年、本科2年(近衛歩兵三聯隊第七中隊)であった。この教育を修了後、昭和10年9月27日、近衛歩兵第三聯隊3000人の全員整列のもと、父は陸軍歩兵少尉に任官した。
少尉になりたての父は、同年12月1日、84名の徴兵入隊を受け、初年兵教官として3か月の訓練を担当した。軍隊教育の神髄は「愛と誠」であるということを胸に、12月は「徒手執銃各個教練」、1月は「分隊訓練」、2月は「夜間訓練 実弾射撃等」の計画を作成し、その実施を行なった。この3か月で終了した教育が、図らずも、父にとって、初めにして、最後の勤めとなった。2月の訓練が終わった翌日に二・二六事件が始まるのである

【2】雪とともに突然 二・二六事件  22歳の過酷な決断  

① 午前3時に起こされて、初めて聞く襲撃計画 勅諭に悖る行為
第三期の検閲を受ける前々日の2月25日夕方、久しぶりに鎌倉の実家に帰るべく、溜池で市電を待っていたが、雪のためか市電もタクシーも来ない。仕方がないので、すし屋で食事をとり、兵舎に戻り、眠りについた。
午前3時ごろ、突然、上司である中隊長代理の中橋中尉、中島少尉が来室、蹶起の説明および、第三連隊の坂下にある高橋是清邸を襲撃、襲撃後、帝都緊急時のため、宮城に赴援隊として入城する旨の説明があり。お前の部下を連れてゆくとの発言があった。勅諭に悖り、国法を犯す行為に、父は即座に兵隊を連れて行動することには反対、どうしてもというならば、自分を斬ってから出かけてくれと不同意を表明。二人は黙って部屋を出てゆく。軍律違反、初年兵、阻止、自決、父の心は大変なものだったろう。

② 阻止と自決
私は、ある時、父に、「阻止」とは具体的にどうするのかと聞いたところ、一つは正門を閉鎖し、連隊長へ伝令を送ること、二つ目は薬研坂を駆け下り高橋邸に至急避難を要請すること、三つめは拳銃で中橋さんを撃ち殺すこと、、といってから、、「でもね、人を殺すなんてことは簡単にできるものじゃないよ」 と私に答えた。自決は、武器庫から戻った自分のコルトの拳銃に実弾を装填して覚悟を決めた。
しかし、結局のところ事件を阻止できなかったし、自決もできなかった。これが、父の一生の原罪となったのである。(続く)



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◎歓迎!(コメント)談話室◎

2023年03月30日 | 末松建比古
 


現在「末松太平事務所」は業務休止中ですが 
「談話室」は皆様の来訪を歓迎しております。

お気軽に(お喋り、呟きなど)コメントをお寄せ下さい。
個人情報(住所氏名、メールアドレス、電話番号など)が含まれたコメントは、
冒頭に「私信」と記してあれば「非公開」に致します。(末松)
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◎「新版/年表・末松太平」(40)87歳、余命との戦い◎

2023年03月29日 | 年表●末松太平
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《「年表・末松太平」1992(平成4)年。/末松太平=86歳~87歳。/私=51歳~52歳。》
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◎1992年1月2日。末松一家の正月(顔合わせ)は「1月2日」が吉例になっていた。
・・・末松太平夫妻を囲んで、長男夫妻+孫1人、次男夫妻+孫3人、長女夫妻+孫1人。
末松太平の「甚だしい衰弱ぶり」が哀しい。

◎1992年4月発行「史・78」。「二・二六事件断章(その九)三たび岩淵中尉の死に就いて」。
・・・この原稿は1992年2月5日に書かれている。
・・・この連作が契機となって、岩淵国太郎中尉の次弟(憲次郎氏)末弟(武雄氏)との交遊ができた。
・・・後日(翌年)岩手県在住の両氏は、末松太平の葬儀に駆けつけてくれている。
・・・この号から「現代史懇話会顧問」として、最終ページに「末松太平」の名前が記載されている。

 

◎1992年7月25日。有志の皆様から「米寿を祝う会」に招待される。
・・・会場は、西千葉駅前の「みどり鮨」。末松太平夫妻を招いて「御祝」を贈った有志は、以下の六氏である。
相沢正彦氏、田々宮英太郞氏、山口富永氏、今泉章利氏、今澤栄三郎氏、山田恵久氏。そして(当日は出席できなかった)小野敏範氏からも「御祝」を戴いている。
・・・この当時「末松太平の世界」に無関心だった長男(私)は、この「催し」を知らなかった。そして「当日の記念写真」を見せられても「知らない人ばかり」であった。皆様と御縁が出来るのは「末松太平の死後」のことである。



◎1992年9月20日。今泉章利氏の案内で、河野進氏(故河野司氏の次男)が、末松家を初訪問。
・・・「河野司&末松太平」の連携を知るものには「信じられない」ことだろうが、河野進は(極論すれば)この時まで、末松太平と話したことがなかったのではないか。

◎1992年9月発行「史・79」。「二・二六事件断章(その十)獄内人間模様」。
・・・私の印象だが、もはや、長文を書くだけのパワーは消えている。
・・・そして《1992年12月発行「史・80」》には、末松太平の「連載」は載っていない。
田々宮英太郞(編集兼発行人)の「編集余情」には「末松さんの二・二六事件断章は、〆切に間に合わず今号は休載」とだけ記されている。
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◎写真は、取材(国民新聞社)に同席したカメラマン氏の御厚意で穫っていただいた作品。
・・・「折角の機会だから撮っておきます」と多数撮影。数点を大きく引伸ばして届けていただいた。要するに《葬儀用写真》の準備である。
・・・しかし、肝心の時に、この写真は使われなかった。未亡人(末松敏子)が「何処に写真を仕舞ったのか判らない」と言い出して、使用できなかったのである。
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◎「新版/年表・末松太平」/(39)私の(最後の?)親孝行◎

2023年03月29日 | 年表●末松太平
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《「年表・末松太平」1991(平成3)年。/末松太平=85歳~86歳。/私=50歳~51歳。》
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◎1991年4月発行「史・75」。「二・二六事件断章(その六)翹望(ギョウボウ)」。
・・・「翹望」ということばについては「久し振りに机辺の漢和辞典により調べてみた。目が悪くて辞書はよく読めないから、中三の孫の助力を求めた」と書いている。
・・・「中三の孫」は尾島匡則。毎度毎度「じいの目の代用」として、文字を超拡大して書かされていた。特に、この「翹」という文字を巡って「自力では見えない老人」と「自力では書けない少年」は、苦労したようである。



◎1991年7月発行「史・76」。「二・二六事件断章(その七)岩淵国太郎中尉の死」
◎1991年11月発行「史・77」。「二・二六事件断章(その八)再び岩淵中尉の死に就いて」

◎極私的な(父と息子の)エピソード。
●1991年8月16日の朝。突然、私は「自宅」から「末松太平宅」まで歩いて行こうと思い立つ。
・・・8時20分・自宅(東京都板橋区)出発。板橋区~北区~荒川区~台東区~墨田区~葛飾区~江戸川区を経て、12時52分(江戸川を渡って)千葉県へ。詳しい地図を持参せず、迷いながらの都内突破。特に「隅田川を渡る場所探し」には苦労した。
・・・千葉県市川市~船橋市~習志野市~千葉市。18時25分(千葉市登戸の)目的地に到着。真夏の太陽が終日ギラギラ。黒ズボンが(汗の塩分で)黒+白=灰色に変色していた。
・・・この快挙(愚挙!)に、末松太平は予想以上に喜び、饒舌になった。軍隊時代の「行軍=耐暑訓練」を想起したのだと思う。私自身にも「末松太平を(生きているうちに)驚かせてやろう」という思いがあった。だから 父親の反応が嬉しかった。
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◎「新版/年表・末松太平」/(38)河野司氏ご逝去◎

2023年03月29日 | 年表●末松太平
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《「年表・末松太平」1990(平成2)年。/末松太平=84歳~85歳/私=49歳~50歳。
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◎1990年2月26日。賢崇寺の法要で「慰霊像補修工事のための協賛依頼」が行われた。
・・・世話人代表=河野司。副代表=柳下良二。世話人=8人+2名。



◎1990年5月6日。河野司氏(第2代仏心会代表)逝去。
・・・「仏心会」は、新しい局面を迎えることになる。

◎1990年4月発行「史・72」/「二・二六事件断章(その三)正義直諌の詔」。
・・・田々宮英太郎(編集兼発行人)の編集余情。
「末松さんの連載は号を追って注目を集めている。今回は一般のきづかない奥所にメスを揮われた。知ったかぶりの沢地久枝が、無残にお面を取られたのだが、その裏打ちが獄中にはじまるところ、沢地ごときの出る幕ではないことを示している」



◎「末松一輝宛の手紙」から。
●1990年7月4日付。
「こんど来る時は、ルックサックを持ってきなさい。広漢和辞典全四巻を進呈するから。片見分けのようでもあるがジイは中々死なないから、生きているうち進呈し役立てて貰いたい。コピーはお父さん用であると同時に高校生としての一輝用でもある。世界的に精神が動いている。どのように考えるべきか」
・・・同封されたコピーは「正義直諌の詔」である。
・・・「片見分け」は原文のまま。正しくは「形見分け」である。晩年の末松太平には(目が不自由で辞書で確認できないから)当て字が意外に多い。例えば「口無しの花」。正しくは「山梔子の花」である。

◎1990年8月発行「史・73」/「二・二六事件断章(その四)」は、題名も長いが内容も長い。
・・・題名は「生れ年としての明治の年号と、士官学校の期は、一致するかしないかの話」。内容は、豊多摩刑務所に始まり「期」の話に進む。
・・・田々宮英太郞(編集兼発行人)編集余情。
「巻頭に、末松さんのエッセイ風評論をいただいた。明治の生れ年と士官学校の期は一致すると書く澤地久枝だが、末松さんの手で、その嘘っぱちが嫌というほど暴露された。コクのある内容が、毎号、淡々と叙されているのだが、反響も少なくない」。



◎1990年8月15日。《山口富永著「二・二六事件の偽史を撃つ」国民新聞社刊》発行。
・・・1989年2月に、末松邸で行われた「高橋VS山口」会談の経緯が、繰返し記されている。

◎1990年9月。慶応病院で「通算三度目」の眼科手術を受ける。
・・・「闘病日記」には「入院19日間」とある。
・・・同室(二人部屋)の蜂谷氏は「末松の昔話」をいろいろと聞かされる。お気の毒である。
それでも後日(退院後)、蜂谷夫妻は千葉市登戸の末松家まで、わざわざ来訪してくれた。

◎「末松一輝宛の手紙」から。
●1990年10月17日付。
「入院中見舞ってくれて有難う。目は未だよくは見えない。二回手術したあとだから急によくはならないだろう。しかし、手術する前よりは少しは、よく見えるようだ。二十一世紀を迎えるまでには、何とかなるだろう。本代も滞りがちだね。その原因の一つはジイの財布の底が怪しくなったためだ。」
●1990年11月30日付(ラストレター)。
・・・この手紙が、末松一輝が保存していた「69痛目の手紙」である。
・・・この手紙は「九枚」の長編で、最初は「末松一輝君へ」、途中から「次は末松建比古君へ」と続いている。
・・・長男(私)宛の内容は、健康に関する注意の数々である。自分の轍を踏ませないための親心であろう。
・・・手紙の結びは「建比古 一輝様 太平」。ラストレターに相応しく(?)不思議な切手の貼り方をしている。

◎自筆ノート「日記のような雑記のような記録」。
・・・既に「白紙」である。

◎朝日新聞社「朝日人物辞典」発行。
・・・「850頁右」に「末廣恭雄。末松太平。末松保和。菅木志雄」が並んでいる。
・・・二・二六事件関係者も、多数掲載されている。

◎1990年12月発行「史・74」。「二・二六事件断章(その五)事件第一報」。
・・・何と「全14頁」の長編である。事件当日の「末松大尉の行動」が詳細に記されている。
「陸軍大臣に宛てた進言の署名者に対し、澤地久枝は著書(雪は汚れていた)で、東京の情勢我に有利とみて署名したのだろうと推察を逞しくしている。下司のかんぐりとでもいうべきものである」と書き、この「進言」を私有化している匂坂哲朗にも、怒りを向けている。
・・・文中の日付は「10月15日」。退院後の「見えない状態」で書いたのだろうか。
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◎「新版/年表・末松太平」/(37)高橋正衛氏との訣別◎

2023年03月29日 | 年表●末松太平
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《「年表・末松太平」1989(昭和64・平成元)年。/末松太平=82歳~83歳。私=47歳~48歳。》
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◎1989年1月。昭和天皇崩御。年号が「平成」となる。
・・・昭和天皇に対して「二・二六事件関係者」は、ある種の思いを抱いていた。その「思い」が解消されないままで「昭和の御代」は幕を閉じたのである。

◎1989年2月22日。千葉市登戸の末松宅で「高橋正衛VS山口富永」会談。
★詳細な記録★・・・・・・・・・・
《「末松太平事務所(№5)山口富永さんの話」/2006年2月4日掲載。》
当ブログの2月4日「山口富永さんの話」で詳しく述べた)
・・・末松太平は(会談に到る経緯と結果を)1989年7月「史・70」に「真崎大将の組閣説始末」を寄稿した。
・・・《山口富永著「二・二六事件の偽史を撃つ」国民新聞社1990年刊》に、詳しく書かれている。

◎高橋正衛氏との訣別。
・・・高橋正衛氏は(「私の昭和史」以来の)長い友人である。高橋氏の熱意がなければ「私の昭和史」という書籍は生れなかったともいえる。
しかし、この「対決」の後、末松太平は山口氏(NHK問題以降の新しい友人)の側に立ち、高橋氏と訣別する。
「年表・末松太平」作成を通じて「末松太平の歴史」を共有してきた私としては、実に哀しい幕切れである。



◎1989年4月発行「史・69」。又々「表紙絵」を描いている。

◎1989年6月。《新人物往来社「目撃者が語る昭和史」猪瀬直樹監修・第4巻。》
●「第1章・蹶起」に《「青森連隊の呼応計画」末松太平》が乗っている。
・・・これは、雑誌「人物往来/1965年2月号」に書いた作品の再利用。筆者紹介には「ベストン(株)相談役」と記されている。
・・・それにしても「24年前の古い原稿」を(臆面も無く)再利用したものである。映画「226」公開に便乗しての出版かもしれない。
・・・「新人物往来社から貰った。お粗末な本だ」。末松太平が(サインペンで)見開きに書き残した感想である。

◎雑誌「史・70」1989年7月発行。新シリーズ「二・二六事件断章」スタート。
・・・新連載・第1回のタイトルは「真崎大将の組閣説始末」である。

◎「末松一輝宛の手紙」から。
●1989年7月21日付。
「大熊孝という新潟大学の教授を知っているかどうか、お父さんに聴いてみてほしい。同封のパンフレットで、何故こういうことを聞くのかを判断してほしい。僕は此の阿賀川記録映画製作を応援している。カメラ担当の小林君をよく知っているからだ」
・・・映画は「阿賀に生きる」だが、大熊教授の名は記憶にない。
●1989年8月28日付。
「同封をお父さんでもお母さんでもよいから渡しなさい。一輝もこういうことがわかる年頃だよ」
・・・同封されていたのは「史・70」掲載の「二・二六事件断章」のコピーである。
●1989年12月7日付。
「庭にはまだ小菊の花が咲いている。目は悪くても花の色は見える」

◎1989年発行《陸士39期生「三九会報」第11号》。
・・・短文と短歌を寄稿している。

◎雑誌「史・71」1989年12月発行。「二・二六事件断章(その2)津軽義人伝」。
・・・対馬勝雄中尉について。

★資料★・・・・・・・・・・
《末松太平の「遺品」から。ノート「日記のような雑記のような記録」》
・・・視力の衰えが著しく「日記」の文字が隣の行に重なっている。書かれた字も乱雑である。
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◎1989(平成元)年には《映画「226」五社英雄監督作品》が公開されている。
・・・この映画の「オリジナル写真集&事件解説資料」は《双流社/発行者=河野進》から出版されている。
・・・主要スタッフ/製作=奥山和由。脚本=笠原和男。監督=五社英雄。プロデューサー=西岡義信。監修=河野司。
・・・笠原和男「シナリオ製作日記抄」には、仏心会・河野司会長が度々登場して、製作サイドの「仏心会に対する気配り」が判る。
・・・笠原和男「日記抄」1988年2月26日の記述。
「賢崇寺の法要に参列。澤地久枝氏と池田俊彦氏との間で、真相を巡る応酬あり」
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◎「新版/年表・末松太平」/(36)最後の聖戦『消された真実』への怒り◎

2023年03月29日 | 年表●末松太平
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《「年表・末松太平」1988(昭和63)年。/末松太平=82歳~83歳。私=47歳~48才歳。》
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◎1988年2月21日。NHKテレビ「NHK特集/二・二六事件、消された真実」放送。
・・・これが「末松太平の最後の戦い」の始まりである。あえて細かく経過を記していく。

◎「末松一輝宛の手紙」から・・・。
●1988年3月2日付。
「二月が二十九日で終ったものだから本代が遅くなった。も一つの原因は21日のNHKテレビで2・26のことが放送された。それにかかずらわったからである。同封はお父さんに渡してくれ。21日の放送はいろいろ問題を残している。こんどもう中学二年生だから、こういうこともぼつぼつわかってもよいが、それよりまあ数学や英語の勉強が大切だろう」
・・・同封されたコピー(自筆原稿)の日付は、2月23日。放送の翌々日に書かれたものである。

◎1988年。現代史懇話会「史・THE FUMI・66」4月号。
・・・末松太平は「羊頭をかかげて」を載せている。
内容は、末松一輝宛の手紙に同封されたコピーと、ほぼ同じである。
●田々宮英太郎(同誌の編集兼発行人)による編集後記。
「NHKテレビの二・二六事件特番内容に待ったをかけられたのが末松太平さん。眼の衰えもかまわず、座視するに忍びずと貴重な一文を寄せられた。番組視聴直後の感想だけに、鮮烈というほかはない。体験者からの抗議は、血と涙の叫びにも通じよう」



◎「末松一輝宛の手紙」から・・・。
●1988年4月4日付。
「2月21日にNHKの放送をみたが、何もわからなかったそうだな。わからなくて当然だ。大人にもわからないことだった。あの時の考えをGは一応同封のようにまとめた。お父さんとお母さんと一緒に読んでみたら良い。テレビ放送とタイアップした澤地という女が『雪は汚れていた』という本を書いている。その中にけしからんことが、いろいろ書いているので、問題にしている。文藝春秋別冊四月号にも、澤地はけしからんことを書いている。澤地という物書きは2・26の青年将校に味方するような敵に廻すような支離滅裂なことを書いている。精神分裂症ではないかと思っている。こんな馬鹿を相手にしていると、こちらもおかしくなりそうだが、降りかかる火の粉は払わねばならないと思っている。こういうことで忙しいので、本代が遅くなった。」
・・・同封されたコピー原稿は「“身売り”された匂坂資料」である。



◎1988年4月30日。「現代史懇話会」の例会に招かれる。会場=市川市立社会教育会館。
●演題1/池田俊彦「二・二六事件を歪めるもの」。
●演題2/末松太平「所信の表明」。
・・・共に「NHK(澤地)問題」がテーマ。池田氏は「文藝春秋5月号」に「NHK・消された真実に反論する」を寄稿している。
・・・写真は、例会終了後のスナップ(雑誌「史・67」掲載)。左から、末松太平、西村誠(東洋大学教授)、池田俊彦。

◎1988年7月発行。「史・67」目次から。
●末松太平「『匂坂資料』信者への抗議」。
●池田俊彦「歴史を見る眼」。

◎「末松一輝宛の手紙」から・・・。
●1988年6月4日付。
「本代が遅くなった。NHK放送対策に忙殺されていた。(対策は)これからも続ける。」
●1988年8月1日付。
「同封のコピー(『匂坂資料』信者への抗議」)は、もう中学二年生ともなると、これ位のことは知っていてよいが、先ずはお父さん用だ。一輝の小学校六年生のときの社会科教科書には、二・二六事件のことをどう書いているか教えて欲しい。教科書ごと贈ってくれてもよい。」
●1988年10月15日付。(★この1通だけは「末松建比古宛」である。)
「今年の放映賞(放送文化賞とでもいうのかな)に『消された真実』の匂坂資料放映が撰ばれたようにラジオで聞いたが、ラジオのことだから確認できない。それで賞の正確な名前と、受賞理由(ラジオでは言った)を判っていたら教えて欲しい。また賞の推薦団体は何というものか。NHKの匂坂資料放映の内容はイカサマである。こういうものが推薦されるのもイカサマだ。澤地久枝そのものもイカサマである。ついでだから、一輝に今月分の本代を送る。」
・・・目が不自由で、耳も遠くなった晩年の末松太平は、一日中イヤホーンでラジオを聴いていた。長男(私)宛の手紙は珍しい。そして、酷いことだが、私には返信した記憶が無い。依頼された事柄を全て無視したわけである。



◎1988年11月発行。「史・68」目次から。
・・・末松太平は何も書いていない。その代わり(?)何と「表紙」を描いている。

◎「末松一輝宛の手紙」から・・・。
●1988年12月2日付。
「成績よりも大切なことは、ウソをつかない人間になることだ。学校の成績が良くてもウソをつく人間になっては何にもならない。中学二年生ともなると、リクルート問題ぐらいは関心を持つだろう。宮沢という大蔵大臣がウソばかりついている。ジイはウソが一番きらいだ。学校の成績は二の次だ。ウソをつかない人間になってほしいと思っている。」
・・・この文面は、NHK+澤地の「ウソ」に対する憤懣やるかたない心境の表れだろう。手紙は「但し、成績が悪いとジイもガッカリする」と続く。末松太平流のユーモアである。

◎1988年12月25日。青森放送・記念誌「竹内俊吉集成」発行。
・・・2冊セット(①竹内俊吉の世界。②竹内俊吉の時代。)の箱入豪華本。
・・・末松太平は「②竹内俊吉の時代」に、原稿3本を提供。1934年・1935年・1940年、それぞれの時代における「竹内俊吉氏の思い出」を綴っている。
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◎「新版/年表・末松太平」/(35)未見の番組『渋川善助』◎

2023年03月29日 | 年表●末松太平
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《「年表・末松太平」1986(昭和61)年。/末松太平=80歳~81歳。私=44歳~44歳。》
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◎「末松一輝宛の手紙」を続ける。
●1986年1月29日付。
「ジイは、これから自分のことをGということにした。ジイのGであり、英語のグランドファーザーの頭文字Gでもある。」
●1986年2月27日付。
「雪の日や 孫は子犬を拾い来る」
・・・孫(尾島匡則)が子犬を拾ってきたのは、2月8日の出来事である。この犬を連れての散歩が、晩年の日課になっていく。



●1986年3月24日付。
「電話でも話したが、博多からのお土産に卑弥呼饅頭(?)を買ってきて欲しいという、お母さんへのお願いである。欲しいのは箱であり、箱に描かれている卑弥呼である。
●1986年9月30日付。
「匡則は京都奈良旅行を、写真入りのメモにして夏休みの宿題のようにして学校に提出した。その前にGに見せたが目が悪いので見えなかった。それが見えたら君たちの旅行のあらましがわかったであろうに、残念であった。」
・・・慶応病院での手術から、約2年が経過。再び、目のことを気にし始めている。

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《「年表・末松太平」1987(昭和62)年。/末松太平=81歳~82歳/私=45歳~46歳。》
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◎1987年。テレビU福島「ふくしま人物ものがたり/激動の中の青春・渋川善助」に出演。
・・・千葉市登戸の自宅に制作スタッフが訪れ録画取材。末松太平は「渋川善助の人間像」を語っている。

◎「末松一輝への手紙」を続ける。
●1987年2月28日付。
「Gは『テレビU福島』から渋川善助に関するビデオを貰ったが、機械がないから映写できない。一輝のところに機械があるから、そのうち映写してみたいと思っている。だから、そのうち、そちらへいくよ」
・・・末松太平の家にはビデオデッキがなかった。/それなら、ビデオデッキを車に積んで、末松邸に行けば良い。/しかし、末松邸のテレビは(旧型で)ビデオ端子がなかった。そういう時代の話である。/結局、末松太平は、このビデオを見ないままで、逝った。
・・・長男(私)が、このビデオを観たのは、1991年になってからである。/現在、このビデオテープは私の手元にある。テレビU福島の撮影には「気配り」が感じられない。乱雑な部屋(目が不自由で整理できない)が撮影されている。末松太平の「衰弱した姿」は、ショッキングである。
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◎1987年の春。孫(末松一輝)は、中高一貫教育の「私立・開成学園」に進学した。
・・・受験番号は「226」であった。

◎1987年4月12日。末松太平は甥(久保真人)の結婚式に参列している。
  ※会場=飯田橋のホテルエドモンド。

◎1987年8月。東北自動車道「白河~矢板」付近の事故現場。
   
◎長男一家+長女母子=計5人の夏休み。
・・・大河ドラマ」独眼竜政宗」の影響で、仙台を目指す途中、長男(私)の妻が運転する車が突然バースト、新車は一瞬にして「廃車」になった。画像の助手席には(自力では出られない)私が、苦笑している。
・・・私は、左手首骨折などで、矢板の病院に緊急入院。早朝なので「宿直医」が(麻酔なしで)四十数針を縫合、数日後に(骨折のまま)列車に乗って板橋中央総合病院に転院。再手術を受けた。
・・・末松太平は「この件」を最後まで知らずに終わった。長男(私)の指示(知らせても心配するだけ。見えないから黙っていれば判らない)に全員が従った。
・・・私は、この時の後遺症で「左手首」が些か不自由。例えば、キャッチボールが出来ない。

★資料★・・・・・・・・・・
《末松太平の「遺品」から。直筆ノート「日記のような雑記のような記録」より。》
●1987年9月2日付。
「山本常雄、海老沢行秀が来訪したときの記念写真」が貼られて「半盲なので二人の見分けがつかないので、匡則に判別してもらう」と書かれている。
●日付のない、別のページ。
「日本版ライフ50年史」の広告が貼られて「欲しいが、どうせ読めないから買うのをやめた」と書いてある。

◎「末松一輝宛の手紙」を続ける。
●1987年10月29日付。
・・・「新版『中今』考・末松太平」というコピーを¥が同封されている。何に掲載されたものかは不明。
・・・このコピーは、翌年1月29日付の手紙にも同封されていた。
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◎1987年。「慰霊像護持の会」は「協賛金の呼びかけ」を行っている。
・・・末松太平は、既に「賢崇寺の法要」には足を運んでいなかった。
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◎「新版/年表・末松太平」/(34)《悲劇》の始まり◎

2023年03月29日 | 年表●末松太平
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《「年表・末松太平」1983(昭和58)年。/末松太平=77歳~78歳。私=42歳~43歳。》
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◎昭和58年の年賀状。(右=昭和55年)
・・・原爆反対。大気汚染反対。次第に「主張」の対象が拡がっている。

◎末松太平は、孫の末松一輝宛に「69通の手紙」を書いている。
・・・末松太平の「晩年」を端的に示す資料として、適宜紹介していく。
●1983年6月2日。/最初の手紙。
「本を買うための、お小遣いを送る。これで『小学三年生』を買いなさい。歴史辞典三巻を、まだ買っていなかったら、それも、これで買いなさい」

◎1983年10月25日。千葉市登戸の家を離れる。
・・・千葉市幸町(尾島正晃・田鶴子宅)に一時寄留。
・・・朽廃が甚だしい末松太平邸を「改装」するためである。改装費用は長女(田鶴子)が負担している。
・・・じいちゃんは(全て娘任せて)気楽なものである。膨大な書籍資料の「保管対策」で、尾島夫妻は大変だった。

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《「年表・末松太平」1984(昭和59)年。/末松太平=78歳~79歳/私=43~44才。》
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◎「末松一輝宛の手紙」を続ける。
●1984年2月24日付。
「辞書に説明がしてあるが、目がねの度が合わなく詠めない」。
・・・この手紙は便箋8枚の長文。便箋1枚あたり「8~10行」が大きな文字で書かれている。
●1984年5月2日付。
「目が悪くて手紙を書くにも骨が折れる」。
・・・文字が大きくなり、便箋1枚あたり「6行」になる。この手紙の住所は「千葉市登戸」に戻っている。
●1984年5月19日付。
「目が悪いから目茶目茶に書くよ」。
・・・便箋5枚。1枚目には「5行」しか書かれていない。
●1984年5月25日付。
「一週間で目がよくなるという本を買うが、目が悪くなって読めない。/目が悪いので、あてすっぽに書いているから、字が乱暴で」。
●1984年6月28日付。
「目が相かわらず悪いので字を書くのがむずかしい。入院して手術しないとなおらないようだ」。
・・・この手紙は便箋7枚。半失明状態で7枚も書き続ける気力には感服させられる。

◎1984年8月。慶応病院(JR信濃町駅前)に長期入院=24日間。
・・・入院理由=手術(糖尿病が原因の網膜剥離)。
★資料★・・・・・・・・・・・
《末松太平の「遺品」から。大学ノート「闘病日記」。》
●本人は、全快を信じているから明るい内容である。
●孫(尾島匡則)制作の「快癒祈願てるてる坊主」を喜び(自分のことよりも)夏休みでアメリカ旅行中の孫二人(小学四年生と三年生)を気遣っている。
・・・孫たち(一輝と匡則)は、それぞれの母親と計4人で、ヒューストン在住の「末松太平の次男」を訪問した。以前からの旅行計画で、チケット手配も全て完了。末松太平の「手術」と重なったのは全くの偶然である。

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《「年表・末松太平」1985(昭和60)年。/末松太平=79歳~80歳。私=44歳~45歳。》
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◎「末松一輝宛の手紙」を続ける。
●1985年2月28日付。
・・・(手術入院などの中断で)半年ぶりの手紙であるが、目に関することは書かれていない。
・・・鈴木喜代春(児童文学者)の新作「北の海の白い十字架」のことなど、内容も明るい。
★資料★・・・・・・・・・・
《鈴木喜代春著「北の海の白い十字架」1985年・金の星社刊/序文。》
「わたしが青森県車力村の北沢得太郎さんを訪ねるため、上野駅から夜行列車に乗ったのは、昭和四十二年七月十九日でした。/わたしに北沢さんを紹介してくれたのは、北沢さんの先生の末松太平さんです。末松さんは今は千葉市に住んでいます。北沢さんを訪ねる気になったのは、北沢さんの住む車力村が、昔は腰切田の村だったということを、末松さんから聞いたからでした。腰切田というのは『腰までぬかる田んぼ』ということです」
・・・以下省略。「車力村」は、津軽半島の北、十三湖の南岸に広がる村。末松太平は「車力村の話」を、機会がある度、友人達に話していた・

◎1985年4月半ば。池田俊彦氏、末松家に来訪。
★資料★・・・・・・・・・・
《池田俊彦「生きていた二・二六」1987年・文藝春秋社刊。》
「昭和60年になって、手記を書きながら、様々な疑問にぶつかった。私は自分の考えを整理するためにも、先輩である末松太平氏の話を聞くことを思い立った。/4月半ば、千葉の末松宅を訪ねた私は、朝から晩まで、ゆっくり末松さんと話すことができた。」
「末松さんは網膜剥離という難病に罹り、二度の手術を受けて、視力が甚だしく衰え、天眼鏡でしか本を読むことができない状態であった。それにも拘わらず、十月事件の話や、対馬中尉のこと、西田税のこと、大岸頼好のこと、そして戦後の旧軍人の動きなど、熱心な話は尽きることがなかった(話の内容は省略)。」
「それから少し経って、末松さんは私に手紙を下さった。その手紙には『車力村村史』からの『小作争議』と『館城文化』からの対馬中尉に関するコピーが添えられていて『このセットが小生における二・二六の原点です』と書かれていた。」
・・・池田さんが「二度の手術」と書いている。「闘病日記」の「入院42日間」という長期間の謎が、これで解ける。

◎「末松一輝宛の手紙」を続ける。
●1985年9月29日付。
「(土地の高度と気温の関係が)ジイには今すぐには答えられない。調べるには目の悪いのが、邪魔になる」。
・・・二度の手術に拘わらず、視力は回復していない。

◎1985年10月。次男一家(夫婦+娘3人)が、海外勤務先(ヒューストン)から帰国する。
・・・帰国後、小平~花小金井~田無と転居を重ねたが、現在は「西東京市(旧田無市)」在住である。

◎1985年12月。小田急建材ベストン(株)営業部「ベストンの話」小冊子発行。
・・・小冊子から、秋葉社長による「ご挨拶」を紹介しておく。
「当社技術顧問であり、ベストンについて高い見識の持主である末松太平氏より『ベストンの話』と題する一文をいただきました。販売店ユーザーの方々にも御一読いただきたく、頒布することに致しました」。
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◎「新版/年表・末松太平」/(33)「軍隊と戦後のなかで」◎

2023年03月29日 | 年表●末松太平
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《「年表・末松太平」1980(昭和55)年。/末松太平=74歳~75歳。私=39歳~4歳。》
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◎《末松太平著「軍隊と戦後の中で」1980年2月26日・大和書房刊。》
・・・著者紹介欄には「ベストン(株)勤務」とある。
・・・末松太平は「ベストン」に関する勉強を欠かさなかった。書庫には「二・二六関係の書籍」や「辞書辞典の類い」と並んで「化学関係の書籍」が増えていった。エントロピーが何やらかんやら。防衛談義よりも化学談義に熱が入ったりしていた。



◎1980年7月12日。賢崇寺「法要」に参列。
・・・末松太平の「遺品」には「多数の未整理写真」が含まれていた。しかし(未整理状態だから)殆どの写真が「撮影年度不明」で 毛髪の状態などから推定するしかない。
・・・この写真には「撮影年月日」が記されている。カメラの進化に感謝感謝である。

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《「年表・末松太平」1981(昭和56)年。/末松太平=75歳~76歳。私=40歳~4歳。》
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◎1981年2月26日。「二十二士之墓」改修完成披露。
・・・「二・二六事件全殉難物故者慰霊像」前で(渋谷警察署の許可を得て)慰霊像建立以後初めての「慰霊法要」を、藤田俊孝師により実施する。
(仏心会の創立に尽力した「藤田俊訓師」は、1979年に還化している。)



◎賢崇寺の法要。撮影年度は不明(多分、この頃と推定)。
・・・左端=池田俊彦少尉(大正3年生れ、陸士47期生)。末松大尉は39期生。

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《「年表・末松太平」1982(昭和57)年。/末松太平=76歳~77歳/私=41~42才。》
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◎1982年の年賀状。
・・・年賀状に、原爆ドームを描いている。絵に添えて「原爆反対」のメッセージも書いてある。
この頃の年賀状には、仏像などの絵に添えて「戦争反対」のメッセージが多い。

◎1982年の居住環境。
・・・住居(久保家の所有)は朽廃が進んでいた。冬の寒さは甚だしかった。
・・・冷淡な長男(私)に言わせれば「戦争反対どころではない」状況であった。
世界平和を語る前に「自分自身の周辺をどうするか」を考えるべき状況であった。
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◎「新版/年表・末松太平」/(32)護国団25周年記念式典◎

2023年03月29日 | 年表●末松太平
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《「年表・末松太平」1978(昭和53)年。/末松太平=72歳~73歳。私=37歳~38歳。》
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◎1978年。「ある団体」の機関誌に依頼されて「防衛談義」を連載する。
・・・この連載(12回?)の全文は《末松太平著「軍隊と戦後の中で」1980年・大和書房刊》に再掲されている。意外に真面目な内容である。

◎1978年発行「全国愛国者団体会議」第20回全国大会名簿。
・・・末松太平は「顧問」として名を連ねている。因みに、笹川良一氏も「顧問」である。

◎1978年は、末松太平の子供たち(3人)にも、変化があった。
・・・長男(私)は、東京都江東区から東京都板橋区に転居。現在も同住所にいる。
・・・次男は、ニューヨークに単身赴任している。
・・・長女は、千葉市幸町に転居。/しかし(登戸五丁目の)末松太平宅から近く、その後も「老親を無視できない立場」は続いた。


・・・写真は、賢崇寺の2階にある書院。愛国者団体とは無関係の「穏やかな集まり」である。
(但し、撮影年月日が記されていないので「1978年度の法要」とは限らない)

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《「年表・末松太平」1979(昭和54)年。/末松太平=73歳~74歳。私=38歳~39歳。》
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◎「護国団25周年記念式典」。これから「万歳三唱」というわけです。

  
・・・末松太平は佐郷屋嘉昭氏(護国団代表)とは「友だち」だった。
・・・それにしても、ネクタイの状態が笑える。服装に無頓着だった人柄が一目瞭然である。

◎末松太平の遺品のなかに「赤尾敏氏(愛国党代表)とツーショット」写真があった。
・・・中華料理店での宴。何の集まりか判らない。
◎年度不明だが「江田三郎出版記念会」で祝辞を述べている写真もあった。
・・・江田氏は、日本社会党の書記長や委員長代理だった人。右翼から左翼まで、末松太平の交友関係は面白い。
◎ この頃は「8ミリ」に凝っていた。被写体は「孫」と「花」である。
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◎「新版/年表・末松太平」/(31)証言・昭和維新運動◎

2023年03月29日 | 年表●末松太平
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《「年表・末松太平」1976(昭和51)年。/末松太平=70歳~71歳。私=35歳~36歳。》
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◎1976年。《河野司著「私の二・二六事件」河出書房新社刊》。
・・・《末松太平「有馬頼義の『二・二六事件の目撃者』について」》が掲載されている。

◎息子(私)の推察/この頃より、何となく「衰退期」を自覚しはじめたのではないか。
・・・正月に撮影した家族写真の末松太平は、カメラから視線を逸らしている。
・・・これから後の写真でも 何故か「目を伏せ、斜め左下を向く」ようになるのである。

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《「年表・末松太平」1977(昭和52)年。/末松太平=71歳~72歳/私=36~37才。》
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◎《島津書房「証言・昭和維新運動」1977年2月5日刊》に「二・二六事件/末松太平氏に聞く」が掲載さる。
・・・この書籍の「第1部」には、末松太平など7人が登場している。
・・・これは各人の「証言・私の昭和維新」として「やまと新聞」の昭和49年9月11日~11月12日に連載したものに、若干の追記を補足し修正している。
 末松太平の肩書は「ベストン㈱役員」である。私(62歳で年金生活者)に比べて「エライと」思う。
★関連資料★・・・・・・・・・・
《長谷川義正による、本書の解説。》
「昭和史の大きなエポックとなった二・二六事件は、今日おびただしい資料証言の洪水であるが、どこまで漁っても何故かむなしい。末松(私の昭和史)は、この難問を冷静に叙事する仕事をになってくれた存在である。/『日本の自然天壌を守るのに右翼も左翼もない』という内容の発言をし『今の右翼は何故、公害問題を取り上げて戦わないのか』と指摘する末松の、一見錯雑するかに思えて、もっとも端的な言葉に、昔と今を総括した土着の意見が見えるのではないか。そういう気がする」

◎1977年。雑誌「第三文明」8月号。「対談・右翼と左翼のあいだ」末松太平・秋山清。
・・・秋山清は無政府主義者の詩人。右翼が末松、左翼が秋山という「役割」の対談。この二人は福岡県門司の出身、小倉中学時代の同級生である。
・・・それにしても、三度目の「第三文明」登場である。創価学会系の編集部は(末松の)どの部分に関心を抱いたのであろうか。



◎写真は、賢崇寺の法要で「挨拶」する末松太平。
・・・祭壇に向って(遺族席は左側)右側が事件関係者の席。ギッシリ埋まっているのが「凄い」と思う。
・・・ここから「約30年」が過ぎて、2006年の2月26日。事件関係者席には、北島伍長、今泉少尉の次男、末松大尉の長男(私)、僅か3人だけが坐っていた。
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◎「新版/年表・末松太平」/(30)福岡と東京と◎

2023年03月29日 | 年表●末松太平
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《「年表・末松太平」1974(昭和49)年。/末松太平=68歳~69歳。私=33歳~34歳。》
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◎1974年5月15日。《末松太平著「私の昭和史」みすず書房刊》。装幀を一新して再刊。
・・・写長は、長男夫妻(福岡市に転勤中)宛の贈呈本。親しい方には「絵入りの署名」で贈呈していた。
・・・著者紹介欄には「ベストン(株)」とある。仕事で度々「福岡」に現われている。

◎1974年10月。《雑誌「第三文明」10月号》に登場。
・・・全15頁のロングインタビュー「私の軍隊生活」。
・・・「第三文明」は 創価学会系出版社の雑誌で、表紙には「末松太平」と「池田大作」の名前が並んでいる。言うまでも無く、末松太平は「創価学会とは無関係」である。



◎1974年12月1日。末松一輝(私の長男)福岡市で誕生。
・・・名前は「一輝/カズキ」。命名者は私。勿論「北一輝」に因んでいる。末松太平に喜んでもらえた。
・・・画像は 末松太平直筆の絵はがきで「1974年4月28日」の日付。即ち「受胎告知」への返信。

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《「年表・末松太平」1975(昭和50)年。/末松太平=69歳~70歳/私=34~35才。》
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◎1975年。創価学会系の雑誌「第三文明」3月号に、再び登場。
・・・「対談・日本軍隊の特質」末松太平・藤原彰(一橋大学教授)。

◎1975年9月25日。田畑書店「歴史と現在・松岡英夫対談①」発刊。
・・・松岡氏の対談相手は、13人。野坂参三、荒畑寒村、中野好夫、海音寺潮五郎、津久井龍雄、橋川文三、高橋正衛、上田正昭、岩村忍、宮本又次、萩原延寿、菊池貴晴、そして末松太平。
・・・《1970年2月24日~3月6日「毎日新聞」連載インタビュー》を収録したもので、タイトルは「二・二六事件回想」である。
・・・「末松太平の名前」は、津久井龍雄(右翼思想と運動の周辺)、橋川文三(三島由紀夫の死)、高橋正衛(国家主義運動の心情と論理)各氏の対談の中にも、チラリと登場している。
・・・例えば、津久井龍雄「末松さんが、大岸大尉は『北一輝の国家改造法案の中に三カ所、絶対に承服できない箇所がある』と言っておったが、それがどういう点か追求しなかった、と書いているが、それを末松さんが追求してくれたら、ちょっと面白かったと思うのです。多分、天皇制あたりじゃないかと思うのですがね。」
・・・例えば 橋川文三「私は末松さんが今度の事件(三島自刃)をどう思っておられるか聞いてみたいんですがね。末松さんの場合、農民層を中心とした大衆というものを念頭に置いています。それと天皇との結びつきということが一つの原理になっているわけです。今度の三島の場合に、そこがよくわからない。そういう結びつき、背景の組織というものはなくて、彼自身の単独の、孤独な美学の実現みたいなところがありますね。」

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◎写真は、福岡市南区大楠のマンション屋上。
・・・ベストン㈱の仕事で福岡を訪れた末松太平が、福岡転勤中の長男(私)宅に宿泊。軍人らしからぬ派手な衣裳は、長男からの借り物。

◎1975年の5月。長男夫妻は「一輝」を連れて福岡を離れ、東京(江東区大島)に戻った。
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◎「新版/年表・末松太平」/(29)『右翼』と呼ばれて?◎

2023年03月29日 | 年表●末松太平
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《「年表・末松太平」1973(昭和48)年。末松太平=67歳~68歳/私=32~33才。》
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◎1973年2月26日「二・二六事件全殉難者38回忌法要」。
…「法要」に、賀陽恒憲氏(元皇族陸軍中将)が参列。
★関連資料★・・・・・・・・・・
《河野司著「ある遺族の二・二六事件」1982年・河出書房新社刊。》
「仏心会の歴史創立以来、初めてのことである。三十余年のこれまで、重臣、政府要人はもとより、国会議員さえ出席することのなかった、いわば日陰の法要に、この元皇族である賀陽氏の参列には、遺族、参列者一同、感激のうちにお迎えした。」
「村中夫人も名古屋から上京し、賀陽氏(事件前から親交があった)との対面に、感激の追憶談に瞳を潤す光景は、傍目にも涙を誘った。」

◎「日本読書新聞」1973年2月8日号。「わが町・わが本」に「書評」を寄稿。
・・・タイトルは「反『八甲田死の彷徨』の風土」。新田次郎作品への反発である。
・・・その後、大和書房「軍隊と戦後のなかで」に所収されている。



◎1973年2月22日。「田無ロータリークラブ」に招かれ「話」をする。
・・・「話」とは「二・二六事件の話」のことである。
・・・この日、末松太平は《ポール・ハリソン著「ロータリー・エイジ」米山梅吉訳》を寄贈し、色紙に絵を描くことを頼まれる。
★関連資料★・・・・・・・・・・
《末松太平の「遺品」から。/1973年2月22日の日記。》
「米山梅吉訳『ロータリー・エイジ』は、昭和11年5月刊行で、巻頭に故・斉藤実への献辞がある。齋藤実はロータリー・クラブの大後援者だったという。二・二六事件後、三ヶ月目にこの本が刊行され、齋藤実への献辞があるということは『逆縁』ながら、事件と本とは縁があるということである。寄贈した本は、ポール・ハリソンの初版本で稀覯本らしい。全国で三冊とないだろうという。戦争中に古本屋で買ったものである」。



◎1973年2月27日。東京12CH(現在はテレビ東京)「私の昭和史」に出演する。
★関連資料★・・・・・・・・・・
《末松太平の「遺品」から。/1973年2月27日の日記。》
「12チャンネルで『私の昭和史』番組で録画。北一輝の日本改造法案と青年将校というのである。/出演料一万円貰う。税引きで九千円。約束だから田鶴子、行子の女性に千円ずつやる。和子さんにも不公平だからやる。女房も女性だから千円。結局受取りは五千円となった。」

◎この頃の末松太平は、若い学者の「現代史研究」に、資料提供や助言協力をする機会が増えていた。
●例1/1971年「東京都立大学法学会雑誌・12巻第1号(十月事件)」。
●例2/1973年「白山史学・第17号(橘孝三郎と五・一五事件)」。 
・・・若き松本健一氏の「お相手」をしていたのも、この頃だったのかも知れない。

◎1973年4月27日の「記念日」に発行した「全日本愛国者団体会議・十五周年運動史」
・・・役員名の「相談役」に22名が連記されているが、何故か(!)末松太平の名前もある。
・・・「全日本愛国者団体会議は、滅共と皇道・維新の断行を二大綱領とする」と銘記されてあった。

◎1973年5月。長男(つまり私)は、再び福岡に転勤。
・・・今回は「左遷」ではなく、会社に恩を着せ、2年間限定など諸条件を承認させた「右遷」であった。
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