◎末松太平事務所(二・二六事件異聞)◎ 

末松太平(1905~1993)。
陸軍士官学校(39期)卒。陸軍大尉。二・二六事件に連座。禁錮4年&免官。

21.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」(20170327) 末松太平さまのこと(その4)慰霊像の碑文「由緒書き」

2017年03月27日 | 今泉章利
21.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」(20170327)
末松太平さまのこと(その4)慰霊像の碑文「由緒書き」

外は雨が降っています。なかなか投稿ができませんでした。書けるようで、書けない。わかっているようでわかっていない。忸怩たるものを感じています。
私は、本をじっくりとは読んではいませんでした。正確には、日常の些事におわれて、じっくりと読むことができなかったのです。

いわんや、同じテーマを語っている他の本との比較や、書かれている本を時系列でなど考えることなどは、できていませんでした。 でも、やはり、頼りになるのは、河野司先生や、末松太平先生、池田俊彦さんなど、お顔が浮かんでくる方たちの本ですね。また、もちろん、父や常盤さんや鈴木(赤塚)さん、北島さん、麥屋少尉、たちのお話も大切な資料になっています。
末松さんのこのブログに投稿するようになって、改めて、山のような本や資料を、じっくりと、様々な人の表情を思い浮かべながら、あせらずに、年表を作り、それを眺めながら、以前よりも少し、整理しながら考えをすることができるような気持ちになっています。

昭和40年にたてられた渋谷の慰霊像、正式には「二・二六事件記念慰霊像」(二・二六事件慰霊像)といいます。渋谷宇田川町の建立に当たっては、責任者河野司、相談役末松太平、常勤小早川秀治、会計監査藤田俊訓 田村町にある河野先生の三昭化成の一室の準備事務所で行われました。像に向かって前面の「慰霊」というのは「像名」といい、曹洞宗館長、髙階龍仙禅師の染筆によるものです。側面に大きくはめられているのは「由緒書」といって、末松太平さまが書かれたもので、河野先生の名前となっています。「由緒書き」は、河野先生の友人で日展の審査員のである大阪の花田峰堂師が揮毫されました。
以下は、碑文に書かれてある通り書き写したものですが、花田先生の書かれた楷書の原文のままなので、すこし読みづらいかもしれません。なお、花田先生の楷書と草書の原文は、今でも大切にを保管しております。

末松太平さまが、「由緒書き」の最終案を書きあげて、河野先生に見せたところ、河野先生から「何も加えるところはないですね。そして何も削るところはないですね。」といわれたのだと、私に話されたことを今でもはっきりと思い出します。
堂々たる「由緒書」は、見事な、末松太平さまの傑作と思っています。

昭和十一年二月二十六日未明、東京衛戍の歩兵
第一、第三聯隊を主体とする千五百余の兵力が、
かねて昭和維新断行を企圖していた、野中四郎
大尉ら青年将校に率いられて蹶起した。
當時東京は晩冬にしては異例の大雪であった。
蹶起部隊は積雪を蹴って重臣を襲撃し、総理大
臣官邸陸軍省警視廳等を占據した。
齋藤内大臣 高橋大蔵大臣 渡邊教育総監は
此の襲撃に遭って斃れ、鈴木侍従長は重傷を負い
岡田總理大臣牧野前内大臣は危く難を免れた。
此の間、重臣警備の任に當たっていた警察官の
うち五名が殉職した。
蹶起部隊に對する處置は四日間に穏便説得工
作から紆余曲折して強硬武力鎮壓に變轉したが
二月二十九日、軍隊相撃は避けられ事件は
無血裡に終結した。
世に是を二・二六事件という。
昭和維新の企圖壊れて首謀者中、野中、河野
両大尉は自決、香田安藤大尉以下十九名は軍法
會議の判決により東京陸軍刑務所に於て刑死した
此の地は其の陸軍刑務所跡の一隅であり、刑死した
十九名と是に先立つ永田事件の相澤三郎
中佐が刑死した處刑場跡の一角である。
此の因縁の地を選び刑死した二十名と自決二名
に加え重臣警察官其の他事件関係犠牲者
一切の霊を合せ慰め、且つは事件の意義を永く
記念すべく廣く有志の浄財を集め事件三十
年記念の日を期して慰霊像建立を發願し、
今ここに其の竣工をみた。
謹んで諸霊の冥福を祈る

昭和四十年二月二十六日
佛心會代表 河野 司 誌



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20.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」(20170316) 末松太平さまのこと(その3)

2017年03月15日 | 今泉章利
20.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」(20170316)
末松太平さまのこと(その3)

私が登戸の末松さまをお邪魔した1991年(平成3年)は、澤地久枝の雪は汚れていたが、あまりにも、でたらめで、おまけに、其の指南をしたのが、高橋正衛ということがはっきりしたころで、末松さまのお怒りは尋常のものではありませんでした。
お話したように、中央大学からみすず書房に入っていた高橋正衛氏は、中公新書のなかで、何の根拠もなく、青年将校を突き動かしたもののの一つに「真崎の野心」ありと想像し、もっともらしい「真崎陰謀」を想像で書き40版(50万部)も売り続け、日本中が、その「真崎黒幕説」に踊らされていた時期でした。

以下は、末松さまが21011年7月13日に書かれた、筆者あてのお手紙です。

「七月は悲しい三日と十二日       昨日は命日でした。
相澤中佐の唯一人の男の子正彦君から昨日のことの電話がありました。
高橋正衛が臆面もなく法要に現れたとの事でした。二月二十六日にも現れたと聞き、こんど法要に現れたら「お前さんなんかの来るところじゃないよ」と云ってやれと、正彦君には云ってあったのに、何も云ってやらなかったようです。
貴兄が「史」を直接入手されるようになってご尊父の方には拙文の手当てを除きました。コピーでも送るようにして下さると有難く思います。
ご尊父のところに「邦刀遺文」という本が届けられていると思います。邦刀というのは對馬勝雄中尉のことで對馬中尉伝記と云うわけです。若し届けられていたら機を見て御一閲ありたし。
拙文「津軽義民伝」で紹介してある本がやっと完成したわけです。
この前進呈した「時計は止まった針は落ちる」はゲーテの「ファウスト」のクライマックスにある、ことばです。この説明はまだしてありませんが、岩波文庫の森林太郎訳の他二、三程ファウストは刊行されていますから、お読みになり自得されれば十分ではあります。
お中元のお礼を云うつもりで筆を執り、それが後になりました。有難う御座いました。
こんど病院に健診にゆくのは、九月十二日です。これ以外は家にいますから、何時なりとお遊びにお出で下さい。
7.13 末松
今泉様

1936年7月3日は相澤中佐処刑の日、9日後の7月12日は15士の処刑の日でした。夫々の処刑は、宇田川町の衛戍刑務所内で行われました。末松さまによれば、信念をもって事に当たるのが武士の精神で、相澤さんの声はひときわ大きかった。堂々たる声で「天皇陛下万歳」を叫ばれたといわれておられました。空砲のパンパンという音の中に、ピューンという実弾の音が聞こえたといわれました。 なお、処刑の前には、看守がこっそり処刑が行われる旨教えてくれたそうです。
父も獄舎におりましたが、私に相澤さんのときの大音声の話をするときは、目が吊り上がって「それは大きなお声だった」と言っていました。


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19.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」(20170314) 末松太平さま(その2)三島由紀夫「英霊の聲」から

2017年03月14日 | 今泉章利
19.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」(20170315)
末松太平さまのこと(その2)三島由紀夫「英霊の聲」から



三島由紀夫さんの「英霊の聲」(昭和41年発行、河出書房新社)に「二・二六事件と私」という文章が収められています。
その中に、末松太平さまのことが書かれているので、その部分を抜き書き致します。三島由紀夫さんが末松さまのどのように見ていたかを知るうえでの参考になればとおもいます。

QTE

P226
戦時中は日の目を見なかった二・二六事件関係の資料が、戦後次々と刊行され、私が「英霊の聲」を書き終わった直後に上梓された「木戸幸一日記」と「昭和憲兵史」(未発表の憲兵隊調書を収載)を以て、ほぼ資料は完全に出揃ったものと思われる。壮烈な自刃を遂げた河野寿大尉の令兄河野司氏の編纂にかかる「二・二六事件」と、末松太平氏の名著「私の昭和史」は、なかんずく私に深い感銘を与えた著書である。


P232
..かくて私は、「十日の菊」において、狙われて生きのびた人間の喜劇的悲惨を描き、「憂国」において、狙わずして自刃した人間の至福と美を描き、前者では生の無際限の生(なま)殺しの拷問を、後者では死に接した生の花火のような爆発を表現しようと試みた。さらに「英霊の聲」では、死後の世界を描いて、狙って殺された人間の苦患の悲劇をあらわそうと試みた。
二・二六事件という一つの塔は、このようにして、三つの側面から見られたのであるが、まだ一つ側面が残っている。それは狙って生きのびた人間のドラマである。しかし私はそれについてもはや書く気がない。なぜなら、その課題は末松太平氏の「私の昭和史」の、バルザックを思わせる見事な最終章「大岸頼好の死」によって、すでに果たされているからである。


P233
また、「憂国」を次のように改訂し、以後これを底本とする。
「近衛輺重兵大隊」を「近衛歩兵第一聯隊」と改め、「中尉は享年三十一歳」を「三十歳」と改め、中尉の帰宅の件で、「軍刀と革帯を袖に巻いて」を、「軍刀を抱いて」と改め、中尉の遺書の、「皇軍万歳 陸軍中尉武山信二」を。「皇軍万歳 陸軍歩兵中尉武山信二」と改めた。
 この改定は、当時の実情をよく知る加盟将校の一人(当時陸軍歩兵大尉)末松太平氏の助言に依ったものであるが、「輺重兵」の改訂については、私自身多少未練があった。

UNQTE

なお、輺重(しちゅう)とは、いまでいう補給部隊、logisticsのことで、きわめて重要な役目であるのですが、当時は、誤解されていたようで、父などは、陸軍士官学校の将校生徒は、ほとんどが、「歩兵少尉」になることを熱望しており、なれなかったものの落胆は、みていられないぐらいとはなしていました。(この辺りは、澁川さんも同じような感じでありました。また、兵隊とともに勤務できない、事務屋になり下がった陸大卒業組、天保銭組は、本当に馬鹿にされていた様です。)
なお、輺重の重要性ですが、二・二六事件で、食料を27日夜届けたのは、第一師団経理部衣糧課長だった紺田少佐の独断で行われたことが昭和50年2月27日の新聞に載っていました。紺田少佐は、出動部隊の食料が一日分しかないので、300人が1週間食べられるだけの、米、麦、野菜、魚、肉などトラック一台分を届けるように命じたとのことです。後刻、紺田少佐は、取り調べを受けますが、兵たちが、空腹のあまり民家でも襲ったら大変であり、たとえ厳罰に課せられてもとの覚悟のもと、食料を送ったと説明し、処罰を受けることはありませんでした。
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18.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」 末松太平先生のこと(その1)  

2017年03月13日 | 今泉章利
18.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」(20170313)
末松太平先生のこと(その1)

私が千葉市登戸(のぶと)にある末松先生のお宅を訪問したのは、平成2年、1990年の5月13日のこととであります。それから、27年という月日が過ぎました。感覚的には、つい昨日のような気がしているのに、30年近くもたってしまっていることを思い改めて呆然としております。そのとき、私は、40歳でした。先生は85歳。誰の紹介も受けずに、いきなりお手紙を差し上げたのに、すぐ地図付きの返事を頂きました。
三回目の目の手術を慶応病院でするから、事前に連絡がほしい。過去の二回の手術は、網膜剥離の手術だったが、今回は白内障だからそんなに大変ではない、と書かれていました。地図には、西千葉駅を西友デパート側の道を5分ほどまっすぐ下り、京成の架橋をわたって右に曲がる、、とありました。

お宅にお邪魔すると、先生は、私の顔を覗き込むようにごらんになられ、「最近目が見えなくなっているが、君はお父さんに似ているね」といわれました。
何か、絵の道具が山のようにのっている大きな机を前に白髪の先生が座り、私は、かしこまって、何を話していいのかわからず、それでも、思い切って次の質問をしました。
「先生、二・二六事件って何でしょうか。」と聞いたのです。 すると、先生は言下に「正義の味方だ。」とはっきりといわれました。
私は、続けて「なぜ人を殺したのですか。」と尋ねたら、間髪をいれずに、「それは立場だ」といわれました。一点の曇りもためらいもない、瞬時に頂いた答でした。
この、問答は、私にとってずっと大切なものとして、ずっと心の中にあり、枝葉をつけながら少しずつ育っている気がしています。



先生は、私のような何もわかっていない闖入者に、そのあといろいろと話をしてくださいました。
「君はカレルの「人間この未知なるもの」を読んだか。「フランクリン自伝」を読んだか。ゲーテのファウストを読んだか。澤地、匂坂、中田の作り上げた「雪は汚れていた」「消された真実」で、真崎が事件を利用して組閣をたくらんだという話は、でたらめだ。なぜ、事件の話をゆがめるのか。」などとといわれました。
二年前の1998年の「雪は汚れていた」に対して、先生は、田々宮英太郎さんが主宰する雑誌「史(FUMI)」66号(1988年)に、「羊頭をかかげて」と題する論文を投稿。匂坂資料を太鼓をたたいて朝日とNHKで喧伝したあげく何も出てこなかった。など、多くのお話をしていただき、だんだん早く大きくなってくる先生の声に、目を白黒して聞いていた小さな自分を思い出します。

また、大正15年に青森県東津軽郡車力村で起こった小作争議のコピーを渡され、「これが、二・二六事件の原点だよ」といわれました。そのコピーには、胸まで浸かって田植えをしている小作人の写真がありました。



また、死刑が確定した對馬勝雄さまの田舎館(いなかだて)の叔父様宛の手紙を示され、「皆々様、勝雄は立派に皇国に尽し申し候、村の鎮守様に対しても面目相立候。私は絶対に死に申さず皇国と共に無窮に御座候、、」と書いてありました。
末松太平先生は、東北の苦しく貧しい農民たちの苦しさこそが二・二六事件の原点だといわれたのでした。
先生のお宅を辞去するに当たり、持参した「私の昭和史」(昭和38年2月20日 第1刷)を差出し、何か書いてくださいとお願いしたら、表紙の裏にサインペンで「尊王討奸 末松太平 今泉章利様」 と大きく書いてくださいました。

なお、私の把握している末松太平先生の著作は次の通りですがもっとたくさんあると思います。参考まで。

1963年 昭和38年(先生58歳) 私の昭和史
1965年 昭和40年(先生60歳) 二・二六事件慰霊像碑文原案(碑文は仏心会代表河野司名にて記す) 
1966年 昭和41年(先生61歳) 少尉殿と士官候補生(追想 大岸頼好 41.3)
1971年 昭和46年(先生66歳) 二・二六事件は革命だったか(情況1971.3、有馬頼義反論)
1980年 昭和55年(先生75歳) 軍隊と戦後の中で 「私の昭和史」拾遺 
1986年 昭和61年(先生81歳) ベストンの話(小田急建材)
1988年 昭和63年(先生83歳)  史66号 羊頭をかかげて
                史67号 「匂坂資料」信者への抗議
                史68号 表紙に寄せて(時計は止まった。針は落ちる)
1989年 平成元年(先生84歳)  史69号 末松太平 表紙に寄せて
           史70号 二・二六事件断章(その一)真崎大将の組閣説始末記
            史71号 津軽義民伝
1990年 平成2年(先生85歳)   史72号 二・二六事件断章(その三) 正義直諌の詔
           史73号 二・二六事件断章(その四) 生れ年としての明治の年号と、士官学校の期は、一致するかしないかの話
1991年 平成3年(先生86歳)   史74号 二・二六事件断章(その五) 事件第一報
           史75号 二・二六事件断章(その六) 翹望(ギョウボウ)
           史76号 二・二六事件断章(その七)岩淵国太郎中尉の死
           史77号 二・二六事件断章(その八)再び岩淵中尉の死について
1992年 平成4年(先生87歳)   史78号 二・二六事件断章(その九)三たび岩淵中尉の死について
           史79号 二・二六事件断章(その十)獄内人間模様 
1993年 平成5年 1月17日 ご逝去
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松本一郎先生のこと  

2017年03月12日 | 今泉章利



末松建比古さま

次のようなコメントを頂きながら返事が遅れました。

拝復 今泉サマ。
法要終了後、挨拶もせず帰ることになってしまいました。まあ、あの場の雰囲気では、サッサと帰るしかありませんね。
松本一郎氏の訃報には驚きました。水上源一氏の遺児サン+今泉サン+松本教授サン+私=4人で、防衛庁関連の“軍事資料室=正式名称ではありませんね”を訪れた日が懐かしく思い出されます。


はい、あれは2004年のころでした私が55歳、宣子さんが70歳を過ぎた頃でしょうか。目黒の防衛研究所でした。確か、いま、市ヶ谷のほうに移っているようです。いつか行きたいと思っています。
あの時、宣子さんから、水上源一さんのことを調べてほしいといわれ気楽な気持ちでいいですよ、などと言ってしまいました。でもそのおかげで、東京地検の閲覧許可を頂いたし、事件のことを学ぶきっかけになりました。
松本一郎先生は、あれからもいろいろとお世話になりました。何といっても二・二六事件裁判の研究を99年に出され、熊本幼年学校のDNAをしっかり受けておられた先生でしたから、御研究、御執筆やお酒も大したものでした。
お具合が悪く、お見舞いに伺い、2016年8月16日に、85歳で亡くなられました。

教え子であり、先生の二・二六事件をはじめ御研究にご尽力された、緑陰書房の荒川様から、昨年の末、先生の遺された資料を私に頂きました。荒川さまは、先生の遺言に従い、ご遺族から先生の資料を譲り受け取られたものですが、私を信頼してすべてを私にくださったものです。
ファイル二冊分くらいの資料で、二・二六事件の判決書(はんけつがき)関連と内務省警保局関連の若干の資料でした。

先生の書かれたもので、私が存じ上げているものは次の通りです。

1993年 史84号 東京陸軍軍法会議についての法的考察  (先生62歳) 
1994年 史85号 東京陸軍軍法会議についての法的考察(続)
1995年 史86号 死を我等に -軍法法廷の北一輝と西田税ー
    史88号 魔王と呼ばれた男

1998年 史97号 安藤大尉の生と死 -信義と情誼のはざまでー  
1999年 二・二六事件裁判の研究 (緑陰書房)
2000年 史102号 幼年学校の教育 
2001年 史105号 磯部・真崎対決の真相 -二・二六事件裁判記録ー
     史107号 真崎大将の人間像(上)
2002年 史108号 真崎大将の人間像(下)  
2003年 史111号 池田俊彦氏を偲ぶ 
    史112号  磯部の杜を訪ねる

2009年 「陸軍成規類集」、森松俊夫監修  (緑陰書房)
2011年 夢幻のごとく 野田謙吾中将と昭和期の陸軍 (緑陰書房)
2012年 二・二六事件判決書綴、訴訟記録目録 出版 (緑陰書房) 

2014年 道程 松本一郎著作集 (緑陰書房) (磯部、真崎その他記事有)

2016年 ご逝去 85歳 (注:法務省、訴訟記録を国立公文書館へ移管決定)

先生は、62歳の1993年から、二・二六事件の研究を始められたと思います。独協大法学会にも投稿されていたようです。しかし、「史」に投稿した記事が素晴らしいと思います。裁判資料に基づく一級の研究成果であります。
これから研究される方には、入手しづらいものもありますが、緑陰書房からだされた「二・二六事件裁判の研究」や「道程」は入手可能ならば、ぜひお読みすることをお勧めします。

末松様。私の記憶を呼び起こしていただき、まことにありがとうございました。
また、2010年ころだったか、、故澁川明雄さんと先生に、訴訟記録の公開についてご協力のお願いしたこともありました。先生は、難しいですけれど、、私のできることはしてみましょうといわれました。私は2012年の出版は、それを受けていただいたのかとも思っております。
私の、一郎先生への一番の心残りは、国会図書館で、ばったり会い、先生が、これから飲みに行かないかトお誘いを受けたとき、何かの用事で、お断りしたことでした。末松様、私は、膝が悪くてウォーキングはできませんが、元気なうちに何処かでお目に書かれますよう願っております。父上のお墓詣りも希望しています。

コメント

今泉のブログ(たった一人の法要)に対するコメントへの御礼(2件)

2017年03月10日 | 今泉章利
(1)伊牟田さまのコメント
参加させて戴きありがとうございました (伊牟田伸一です。)2017-03-05 20:56:07 
先日は法要に参加させて戴きありがとうございました。
とても貴重な体験でした。 226事件は決して風化させてはいけないと改めて思いました。 今は仕事が忙しく時間が作れませんがいつかご尊父のお話を伺う事が出来れば嬉しいです。

今泉御礼:お目に書かれて光栄でした。ゆっくりお話したいですね。伊牟田さまのお気持ち、どうか大切にされてくださいませ。どんなことでも、ご自分の納得いく形で向かい合ってください。
歴史家の、あるいはルポライターの歴史でなく、
お墓から見えてくる体温を感じるような、お線香の香りがするような、「我々の先輩の方たちの出来事」を、実際に感じてください。いつの日か、伊牟田さまが語り部になるのです。
頂きました文章拝読いたしました。これを一里塚に精進されますことをお祈りいたします。
仕事はお忙しいでしょう。みんなお金も限られています。だから、メールや、どこへかけても課金の安い「カケホーダイ」のような今の道具を使ってください。
ご努力を期待します。一緒に頑張りましょう。岐阜から来られた加藤様にもよろしくお伝えくださいませ。

(2)AZU様のコメント
Unknown (Azu)2017-03-05 22:09:24今泉様
82回忌法要を恙無く終えられた由、よろしゅうございました。その数日後、お父様の23回忌のために再び賢崇寺様を訪ねられたのですね。
小雨にけむるお墓のお写真にも、あたたかなお気持ちが表れているように思われます。
たった一人の御法要、、お父様始め、お母様、お祖父様もきっと御一緒にいらして、さぞやお喜びのことと存じます。
故人への供養は偲ぶこと、と聞いたことがございます。静かな御本堂で、お父様とゆっくり向き合うことが叶い、良き御法要でございましたね。
昭和10年10月に少尉となられ、翌11年2月26日に事件とは、僅か5ヶ月後のことでしたか。部下の方にメンタムを塗っておられたお父様。大切な部下の方々の為に、意を決せられたのですね。
まさに、今泉様にしか、お出来にならぬこと。お父様を通して、事件の真の意味を、これからもお書きいただければと願っております。
その為にもどうか、くれぐれも、ご自愛くださいますよう、心よりお祈り申しております


今泉御礼:AZUさま 身に余るお言葉ありがとうございました。私は、軍隊のことはよくわかりませんが、少なくとも私は父や同期生の方から聞いたことは書けます。
日本の軍隊は暴力集団ではありません。決められた規律のもとに、国のために身命を賭して軍務に励む、大組織でありました。しかし、日本の軍隊で一番大切なものは、天の陛下を中心とする「一君万民」の考え方でした。
これがあったからこそ、旧日本の軍隊は「皇軍」でありました。国を思う気持ちは同じです。父のようなノンポリに、公判で、ある法務官が「お前も(事件の)同志だろう」といわれました。法務官は、
「お前も極刑に値する一味だろう」という意味です。父はこの時、「同志とおっしゃるなら、そこにいらっしゃる判士(士官学校出身)もみな同志だと思います。天皇陛下のため、みんな同じ志を持っている」と言い返したで、有罪になったと思う」と昭和56年2月號の「歴史と人物」82ページに書いてあります。

父の公判は20回目5月26日のことでした。父は私に、「このことを話したとき、法務官以外の判士や裁判長(士官学校出身)はみんな涙をぬぐっていた」といっていました。青年将校たちの心情が、士官学校出身の判士、裁判長にはよくわかっていたのでしょう。同じ軍服を着ているのでわかりにくいですが、陸軍法務官は、所謂「法律屋」で、軍隊をよく知らない人たちです。此の裁判では、何とか有罪にしようとする、主に私立大学出身の「法律軍人」」でありましたから、軍隊に流れている何よりも大切な、そして日本の軍の根幹をなした[天皇陛下のための軍人]という意識が希薄で、いつか話しますが「悪い命令だったらお前は従うのか」というバカな質問を出してきます。当時日本の陸軍においては、中隊長の命令は天皇陛下の命令で、絶対であり、部下は中隊長に従い、逆に中隊長は、部下の責任はすべて自分がとる」という考えでありました。しかし乍ら、そのような発言が、「法律軍人」である法務官の口から、裁判の席で突然なんの法的根拠も示されず、これまで行われてきた伝統的事実も無視され、思い付きのように、法務官から出されました。日本の軍隊の統制は、これから崩れてゆきます。日本の軍隊の自殺はここから起こっていった、と、言っている人もいます。私もそう思います。

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二・二六事件 全殉難諸霊 八十二回忌法要 と いくつかのご報告

2017年03月10日 | 今泉章利



二・二六事件 全殉難諸霊 八十二回忌法要

早いもので3月も10日になってしまいました。
今年は、末松さんがお見えになり、また、久しぶりに森田(折目)朋美さんが明るい笑顔でお見えになり、とても心がみたされるような法要でした。
安田さんも大変お喜びでした。泉下の皆さまも、特に池田俊彦さまなどは、にっこりと微笑まれたような気がいたします。

法要後、仏心会より、東京地検にあった「裁判資料(公判資料)」が国立公文書館に移管され、今年中の公開に向けて準備中であることが報告されました。
また、二・二六事件裁判資料を法学者の立場から研究された故松本一郎先生(元裁判官、独協大教授、熊本幼年学校卒)が、事件の方たちのお気持ちに感銘され、ご自分のお墓を賢崇寺に立てられたお話もされました。

このブログでお目にかかった伊牟田さまや、新しく安藤大尉のことを研究された佐川仁一さまともご挨拶を致しました。また、慰霊像の奉仕を申し出てくださった方もおられました。心から感謝しております。

これからも、様々な視点で、様々な方たちが事件を研究してくださることが大切と思いました。私自身も元気なうちになるべく多くを、書き残しておきたいと思っています。

 


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水上さん関連覚え書き

2017年03月10日 | 今泉章利
水上さん関連覚え書き

まだ、書きたいことがいくつもありますが、先に進めないので、とりあえず、順不動ですが、覚えを書いておきたいと思います。

なお、26日に、私がこのブログに書かせていただいた記事を印刷製本し、井上宣子様にお送りしましたところ、宣子様より、ご丁重なるお礼の言葉を頂いたほか、この記事を読んで、母から聞いたいろいろなことを思い出したので、
別途お話をしたいとの有難いご連絡がありました。


書けなかった覚えとは次のようなものです。


(1)河野大尉の遺書

(2)皆川巡査のお墓詣り、ご遺族のお苦しみ

(3)襲撃された家屋の様子(東京地検の資料から私がスケッチしたもの)

(4)襲撃撤退時の最後の発砲と牧野侯爵の救出   (誰も訂正しなかった高橋正衛氏「二・二六事件」の明らかな誤謬記事)

(5)伊藤屋旅館と光風荘  牧野峯子氏と天野屋旅館 

(6)牧野伸顕侯爵の避難していたところ

(7)水上さんの「救国学生同盟」と「捨て石救国論」

(8)山内一郎氏と歩一栗原中尉

(9)埼玉挺身隊事件と水上源一

(10)遺された遺族

(11)当時の社会の姿 富める者と貧しきもの

(12)日本の政治 普通選挙の実施の現実

(13)日本を取り巻く世界の状況 軍事、帝国主義、清国崩壊の中国

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たった一人の法要 近衛歩兵三聯隊少尉 今泉義道23回忌

2017年03月04日 | 今泉章利
たった一人の法要

2月26日(日)の82回忌の御法要は、皆様のおかげをもち、滞りなく終えることができました。心からの感謝の気持ちで一杯でした。

それから数日たった3月2日(木)、小雨の降る賢崇寺で、私は、たった一人で法要をしていただきました。木版がなり、本堂に入ると、住職の藤田俊英さまからのご説明が、ありました。

「ただいまから青雲院禅心義道居士、故今泉義道さまの第23回忌の法要を行います。導師(藤田俊孝、前住職さま)の入場を待ち、入場の際には合掌にて迎えます。正面の座についた導師の合掌礼拝にならい、礼拝をお願いします。
本日は、読経のあと修証義第5章「行持報恩」を共にお読みします。そのあと、ご焼香になります。香のかおりが、わが身を清め、そして、立ち上る香は、私たちの思いや願いを亡き人のもとに届けてくれるといわれています。
身心を正し、心を静め、故人の冥福をお祈り頂きたいと思います。」たった一人の私に対しても、普段と何ら変わることなく、淡々とご説明をされ、御導師のご法要が引き続き行なわれました。
私の家は、江戸時代から賢萗寺が菩提寺であるため、子供のときから父に数えきれないほど連れられてきた居りますが、今回、この静かな本堂で、父と初めて、ゆっくりと再会したような気がしました。懐かしくてむねが熱くなりました。

今から22年前の1995年平成7年3月2日、父、今泉義道が、亡くなりました。81歳でした。

父は、只の一度も、私に怒ったことがありませんでした。いつも春風駘蕩、仕事一途で、几帳面で、おしゃれで、綺麗な整った字を書き、お風呂の好きな父でありました。
生意気盛りの私は、それがなんとも歯がゆくて反発を感じたものでしたが、父や事件関係者の方たちから、いろいろと事件のことをお伺いし、自分も、68歳の齢を迎えようとするこの頃になって、改めて、父の気持ちがわかる様な気がしています。

父は、鎌倉師範学校付属小学校卒業後、神奈川県の湘南中学1年をおえて、東京陸軍幼年学校に入学、47期陸軍士官学校予科(近衛歩兵第三聯隊)、本科に入ります。父の少尉任官式である、命課布達式(注:課命布達式ではない)は、昭和10年10月に、今のTBSのところにあった、赤坂の近衛歩兵三聯隊の営庭で、行われました。
1000名を超える連隊長以下全員整列の前で行われたようです。詳しい文言は忘れましたが、声の良く透る大きな声で、
「天皇陛下ノ命ニヨリ今泉義道士官候補生は陸軍歩兵少尉ニ補セラル。因テ同官ニ服従シ各々軍紀ヲ守リ職務ニ勉励シ其ノ命令ヲ遵奉スヘシ。」「カシラーナカ」」
このようなことを父は言って居たように記憶しております。軍に命をささげた21才の男にとっての最高の瞬間でありました。ほとんどすべての陸軍の将校が、この布達式を経験されていることと思います。

任官後、父は直ちに11月に徴兵された第7中隊の新兵たちに教育を行ないました。我が家には、父の持っていた新兵さんたちの身上一覧表がのうち残っています。いろいろとプライバシーも書いておりますが、同様のものを私は、歩三の麥屋少尉から見せてもらったことがあります。教育は、よく計画されているものでした。終戦頃に殴るけるの陸軍内務班話をきくと、信じられないといつも言っていました。

兵隊さんは、陛下からお預かりした大切な方たちで、一人前の兵隊さんになれるよう1,2,3期と検閲を受け乍ら、基本動作を訓練するものです。そんな中、ある時、軍曹が、青ざめた新兵さんとともにやってきました。
歩兵銃の、いわゆる「営倉バネ」をなくしたということのようでした。父によれば、話を聞いたあと、机の引き出しをあけ、その兵隊の顔の少し傷ついたところに、メンタムを塗ってあげたと言っていました。(もちろんバネは備品をあてがったようです。)
これには、後日談があり、父は戦後の集まりで、この兵隊さんは、その後、聯隊一の射撃手になったときいたそうです。その時の、うれしそうな父の顔が今でも浮かんでまいります。

父の葬儀は、賢萗寺藤田俊孝さまにより行われました。私は46歳、御老師は58歳、御老師は、法要の一部として、皆様への私のご挨拶の時間をくださいました。私は、父の二・二六事件参加の決断となった、部下の斎藤特務曹長が、必死の形相で、「今泉少尉殿、私は、命ぜられるままに実弾を運びました。今泉少尉殿、私は死にます。」と、軍刀の柄を握りしめ、ボロボロ涙を流された話をさせていただきました。父への思いやりをくださった俊孝様の御心に胸が詰まる思いがいたします。

あれから22年、私は68歳、俊孝老師は80歳になられました。事件の多くの方たちが鬼籍に入られました。もう父の事も知っている人はほとんどいなくなりました。気が付いたら、いつも一緒に歩いていた人が、消えてしまったのであります。
3月2日、たった一人の私にしていただいた、、父の23回忌に、そんなことを思ったのでした。




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