◎末松太平事務所(二・二六事件異聞)◎ 

末松太平(1905~1993)。
陸軍士官学校(39期)卒。陸軍大尉。二・二六事件に連座。禁錮4年&免官。

◎幻の名書《相澤正彦著「大岸頼好論序説/敗戦との闘い」》国民新聞社刊◎

2024年06月26日 | 末松建比古
相澤正彦氏(相澤三郎中佐の御長男)は 相澤中佐が刑死直前に記した遺言で「相澤家・第十三代」を託された。幼少の身で「第十三代」を託された正彦氏は 相澤家の「当主」として 戦中戦後の混乱期を乗り切ることになる。
今回は 相澤正彦氏の「幻の著書」をご紹介。相澤家(東京都中野区鷺宮)を舞台に展開した「戦後混乱期の記録」には、知られざるエピソードも多々含まれている。 


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《大岸頼好論序説/敗戦との戦い》
・・・現代史懇話会「史」№86・1994(平成6年12月号)

◎はじめに◎
大岸頼好は、ここに改めてその軌跡を紹介するまでもなく、大正末期から昭和の終戦直後の混乱期にかけて、所謂革新運動(昭和維新)の先駆性を遺憾なく発揮し、時代を駆け抜けていった傑物である。北一輝、西田税らとは、その天皇論をめぐり若干の主要点の相違から、革新陣営内において対峙的に位置づける捉え方が一般的である。(以下、4行割愛)
昭和2年12月、いわゆる「怪文書」にはじまり 幾多の檄文、論文、大綱案に類するものを 公然・非公然裡に世に出してきたが、これは本人の精神理念に基づき、激動する時局を見据える理想・意識の昂まりと、迸る情念のなせる業とみるべきであろう。いみじくも、敗色漂いはじめた昭和十九年春、満州交易会社を設立して新京にあった大岸は、同志の問いに対して「(私は)相変わらず抽象論を言っていますがネ、もっともな抽象論は もっともな具体論だと思ってる・・・」と煙に巻いて、ここらが大岸哲学の神髄のあるところと捉えられたりしていたようである。
本文末尾に抜粋を紹介する『是々否々』(原文のまま)一巻は、大岸の筆に成る、国体明徴と天皇親政に裏打ちされ、一部の停戦をも視野に入れた戦争遂行案とも謂うべきもので、敗戦の年の三月、大岸(当時、満州交易株式会社常務)は東京出張という名目で、本土に帰還の前後から構想を練り、五月初め頃より一気呵成に筆で浄書したものである。(以下、6行割愛)。

  

◎相見える◎
私が大岸頼好の名前を知ったのは、父(相澤三郎)が青森から秋田の歩兵連隊に転じた昭和七年秋頃である。当時、三日にあげず深更まで、民間人も交えた軍人達が客間に集まり、酒宴での声高な論争、襖ひとつ隔てた私の寝所では、到底寝付かれるものではなかった。しばしば「何が国家、社会ですか!」と、母が客人に説教することもあったが、不思議なほど父の声は聞こえてこなかった。そうした日常生活のなかで、大岸さん、末松さん、その他の方々が父と関わっていることを、朧気ながら知ったわけである。
私が 大岸ご本人と相見えるようになったのは、昭和十二年、父の一周忌も終わった夏の盛りだったろうか。中野区鷺宮の拙宅に 白絣絣の和服姿で颯爽と現われたものである。それ以降、父への御参りと称して、しばしば訪れるようになった。結局、言うところの同志たちと、夜遅くまで酒宴となるのが常であった。
中村義明、末松太平、吉原政巳、三上卓、大庭春雄、林正義、八木春雄、その他陸海民間を問わず、その時々の必要に応じて組み合わせがなされたようであったが、その辺りのことは私の認識外であった。(以下、数行分を割愛 修正)
支那事変が深まるにつれて、大岸さん十八番の歌は軍国歌謡、軍歌に変り、その中でも「愛国行進曲」は大層お気に入りのようだった。その愛国精神は私なりに理解できたが、時の時流に乗って動いているのではないかという疑念にかられたものである。
太平洋戦争に突入した翌年、昭和十七年の秋だったと思う。拙宅を訪れた大岸さんに、応接間で話し相手になつて頂いた。以前からの疑念が深まるばかりなので「あんまり軍の尻馬に乗りすぎると、今に振り落とされますよ」と精一杯の嫌みをぶつけたつもりだった。が、例の通り、ニヤニヤ私の顔を眺めているだけである。腹に据えかねて「おじさんは狸だね」と つい口走った。しかし、大岸さんは意に介せぬ様子で 丁度茶菓子を運んできた母に 破顔一笑 呵々大笑 上機嫌の様子であった。(以下、約7行分を割愛修正)

◎手稿『是々否々』◎
昭和十九年晩秋の頃だったか、ひょっこりと満州からの出張で大岸さんが来訪した。既に時局は表面的な戦意高揚とは裏腹に、蔭の部分ではかなりの腐食・腐敗が進行しており、冷静に見て、このままで敗北は免れぬところと感じていた。そこで大岸さんに「このままでは敗けてしまいませんか」と云うや「否、日本は不滅です」と即座に強く否定した。
その理由づけとして、以前にも拝聴したことのある日本精神論を語られた。そのあとで語気を和らげ「戦争に限らず勝負事というものは、勝敗を度外視し無心になったとき、勝てるものなんですよ」と諭され、畏れ入ったものである。
佐郷屋義昭は 昭和十八年頃 京城で懇談した際に 大岸が「戦争なんか後回しにすれば良いのに、でなければこれは負けだ。軍人なんか全部堕落していて、もはや皇軍なんかではない」と、かなり大声で話し、その声は外に立っている憲兵にも聞こえていただろうと(「回想・大岸頼好」で)述べている。(以下 6行割愛)。
昭和二十年一月十八日、最高戦争指導会議。同二月四日より、ヤルタ会談。同二月十六日以降、本土制空権の事実上潰滅。
こうした戦況を踏まえた大岸は、一時停戦を視野に入れた戦争遂行案の構想を抱いた。この構想を成文にまとめたことは、冒頭に述べたとおりである。
大岸は その以前からも拙宅を週に一、二回は同志達との連絡場所にしており、小磯内閣が倒れたあとは、近衛公に出馬してもらわなければ、など様々な話しを耳にしたものである。それは 大岸自身が近衛公に直接会い、また要路の関係者とも頻繁に会っていたことを覗わせるものであった。
(以下、25行を割愛。この部分は『是々否々』の解説が主で 時系列の混乱を避けるため割愛した)
尚、昭和二十年六月、応召という名目で陸軍省入りした大岸は、当時お茶の水にあった日仏会館を拠点とし、敗戦前後の混乱期に 大岸一流の政治工作、実践行動を推し進めていった。その間にも 例によって拙宅が連絡場所に使われていた。
しかし私も勤労動員で航空軍需工場での徹夜作業、東北方面への疎開準備などに追われ、大岸さんとゆっくり話す余裕はなかった。従って 沖縄陥落 近衛公のソ連特使申込み 鈴木首相のポツダム宣言無視声明などについて 大岸さんがどう考え、どう関わっていったか、当時は知るよしもなかった。
ただ、七月初め(父の命日の前後だったか)、家の客間で太田良先生(頭山満翁の愛弟子)が大岸に「アメリカでは東京を一瞬にして吹き飛ばす程の爆弾が、既に出来つつある」と熱心に話していたが、彼も情報を得ていただろうに 真面目な顔で頷きながら拝聴していたのが印象的だった。
『是々否々』の原文は、陸軍起草用・B4版29行用紙✕30枚に筆書きされ、1行に27文字の運びで統一しており、前言16枚、條々14枚に納められている。
ここに前言の一部を紹介する。(以下、43行割愛)。
(以下次号)
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冒頭に《幻の著書》と記した。《幻》のまま消えた原因については 稿をあらためて・・・。(末松建比古)
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◎徹子の部屋??・太平の部屋!!◎

2024年06月19日 | 末松建比古
築地本願寺の合同墓(第二期募集)窓口を訪れ「末松太平夫妻+私夫妻=4件」の登録を完了。正式書類も無事に届いた。
次のステップは 末松太平夫妻が眠る「千葉市営・平和公園墓地」を訪れ 諸手続を済ませることである。

  

6月13日。妹夫妻とJR稲毛駅前で合流。妹の愛車(ナンバープレート「226」)に便乗して 先ずは「平和公園管理事務所」へ。ここで「改葬許可申請書」に「埋蔵収蔵証明の押印」を受けて、最初の関門をクリア。末松太平夫妻の墓へと向かう。
久しぶりの墓参は「墓じまい直前の墓参」でもある。記念撮影は欠かせない。撮影結果はご覧のとおり。セルフタイマーの設定ミス(僅か2秒でカチャリ)で・・・。墓石の下から哄笑が聞こえた。
次の関門は「千葉市役所生活衛生課」を訪ねて「改葬許可証=千葉市長名義」を貰うこと。平和公園近くの人気蕎麦店で小休止。新築移転したばかりの千葉市役所に向かう。駐車場周辺工事が進行中の状態で 妹夫妻も「初めて足を踏み入れた」とのことだった。改葬許可証を入手して 次にすることは《石材店にお骨の取り出しとお墓の撤去工事の相談をして日程を決めます》なのだが とりあえず今日はここまで。
今後の課題は《取り出した骨壺2箇》の運び方。骨壺のサイズは7寸(東日本)と5寸(西日本)があるらしい。直径約22㎝✕高さ約25㎝=9430CCの壺が2個。千葉市若葉区の墓地から東京都板橋区の我家まで「脊柱管狭窄症(間歇性跛行)に悩む84歳老人=私」が 交通機関を乗り継いで 2個を抱えて・・・。そして納骨の際には 我家から築地本願寺まで 2個を抱えて・・・。

   

予定業務は全て完了。 千葉市役所の近くにある「妹夫妻の住居」に案内される。
妹が 私に見せたかったのは「末松太平の部屋」である。

2014年に「末松太平(1993年逝去)が住んでいた家」は取壊され 更地になった。
その際に「末松太平の遺品=書籍&史料類」は 近くに住む妹(末松太平長女=千葉市美浜区在住)に預けられた。
妹は 段ボール数十箇分の遺品を保管するため 自宅以外に「3LDK」を買い足し 緊急対応した。
当時 このことを《「◎番外篇/遺品資料移動大作戦◎」2014年7月29日付》で報告している。

最近 全室をリフォームしたらしく 案内された「末松太平の部屋」も《壮観》ともいうべき変貌を遂げていた。
ズラリ並んだ書棚は リフォーム業者が仕上げたものだが 完成までには多少のトラブルもあったらしい。
妹曰く「だって 書棚が完成すれば隠れて見えなくなる壁紙なのに わざわざ高級品を貼っちゃうんだもん・・・(苦笑)」
10年振りに「末松太平の蔵書」と対面する。記憶を辿れば 当時廃棄処分した大量の《紙の山》には「日本及日本人」や「不二」「四国不二」といった雑誌や 自費出版の印刷物が多数含まれていた。全てを保存するのは到底不可能だった。
画像=対面した蔵書の一例。青森放送の記念出版「竹内俊吉集成」1988年12月発行。豪華箱入・2巻セット(竹内俊吉の世界+竹内俊吉の時代)。内容ギッシリ 重量ズッシリ。
2巻の表紙は「棟方志功オリジナル版画」で飾られている。末松太平は「竹内俊吉の時代」に全3篇(1934年・1935年・1940年)を寄稿している。

例えば《白井タケ+波多江たま共著「邦刀遺文」自費出版箱入2冊組》・・・。「末松太平の部屋」の蔵書リストは いずれ公表する予定ではいる。
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今回のタイトル「徹子の部屋? 太平の部屋!」・・・ということで 蛇足を少々。
昔々 私は2度ほど「徹子の部屋」を訪れ 黒柳徹子サンと会話している。テレビCMの打合せのためである。
事前に所属事務所の社長サンから「チャック(徹子サンのこと)にCMプランを押しつけちゃだめよ。どうして私がこんなことしなくちゃいけないの と反発されるから・・・」とアドバイスされていた。
「例えば ◎◎とか ✖✖とか どうですか?」「あ それ面白いわね。こうすれば もっと面白くなるわね!」。ミーティングは和気藹々。撮影本番当日もスタジオに笑顔が溢れた。(末松建比古)
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◎「定本 私の昭和史/二・二六事件異聞」増補改版◎

2024年06月11日 | 末松建比古


中央公論新社刊の《末松太平「完本 私の昭和史」》と 画像掲載の《「定本 私の昭和史」増補改版》と・・・。
「完本」と「定本」との違いは 私流の印象操作術である。自費出版で「増補改版」を作成した・・・というわけではない。
今回は《末松太平「完本 私の昭和史/二・二六事件異聞」》を所有している皆様への限定メッセージ。所有者以外の方々には「どうでもいいこと」の連続になるが 御容赦いただきたい。
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私が《「完本 私の昭和史」中央公論新社刊》を初めて手にしたときに「あれれ・・・?」と感じたのは《解説がない》ということだった。
確かに「完本」の「帯」には「同時代書評 三島由紀夫 橋川文三」と並んで「解説 筒井清忠」と記されてはいる。しかし その「解説」とは(完本の解説ではなく)中公文庫版についての解説だったのだ。
冒頭に「本書は最初1963(昭和38)年に刊行され、その後2013年に中公文庫版が出たものの増補改訂版である」とは書かれてはいる。でも 中公文庫版の解説との違いは《最初の2行だけ》で《増補改訂部分》については一切触れていない。
はて?・・・。《解説がない》のであれば 私自身が《「完本 私の昭和史」の解説》を記すしかない。画像掲載の「増補改版」には そういう意図が込められている。

「完本」の目次には「拾遺」として8篇が加えられている。
そして巻末の「編集付記」には《本書は中公文庫版を底本として『軍隊と戦後の中で/「私の昭和史」拾遺』(1980年2月 大和書房)の第Ⅰ部を「拾遺」として収録したものである》と記されている。だが、この8篇と「二・二六事件異聞」との関連は どこにも記されていない。

  

昔々、高橋正衛氏(みすず書房の編集者)は、雑誌「政経新論」連載の「二・二六事件異聞」の中から 冒頭に「残生」を据え「大岸頼好との出合い~大岸頼好の死」という流れに沿って「私の昭和史」全編を構築した。そのとき採録されなかったものの「そのまた一部」を 大和書房編集者が「拾遺」として出版している。
但し、この8篇全てが「二・二六事件異聞」からの「拾遺」だったという訳ではない。その辺りのことを 末松太平が「あとがき/若干の解説」として記しているが 今回の「完本」では「あとがき/若干の解説」の部分は掲載されず「筒井氏の解説」にも反映されなかった。
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◎末松太平自身による「あとがき/若干の解説」。
Ⅰについて。
拙書『私の昭和史』(みすず書房刊)は「政経新論」に「二・二六事件異聞」という題で連載したものの一部を採録したものだが、Ⅰはそのとき採録されなかったもののうち、大和書房編集子が、そのまた一部を選び出したものが主になっている。その意味においてⅠは「私の昭和史」拾遺である。
但し「赤化将校事件」は、学藝書林刊『ドキュメント日本人③反逆者』に。「青森連隊呼応計画」は『人物往来』(昭和40年2月号、特集「二・二六事件」に。「有馬頼義の『二・二六事件暗殺の目撃者』について」は河野司著『私の二・二六事件』(河出書房新社刊)に載ったものである。
「夏草の蒸すころ」のなかの三角友幾は昭和50年7月17日に亡くなった。遺書のなかに次のことばがある。「生死のことは結局何もわからぬままですが一応世を去ります」。
亡くなる数日前、7月11日の日記に「せめて明日の渋川さんたちの命日まで・・・」と書いている。その12日も過ぎ17日になって三角友幾は、二・二六事件のころに発病した脊椎カリエスが遂に癒えず、渋川が「今度会う時は別れる心配はなくなるんだね」と本人に言ったという、その時空を超えたところ、それを西田税は、青雲の涯てと表現したが、その渋川のもとへと今生を去っていった。
「続・夏草の蒸すころ」のなかの、十七の盆提灯は昭和31年の「主婦の友」三月号に載ったもので・・・(以下割愛)
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◎(筒井清忠解説に)補足が必要な事柄/当ブログ(2013年2月24日付)から一部を再掲。
突如 私の名前と「年表・末松太平」が登場したので、いささか驚く。1974年(みすず書房版)と2013年(中公文庫版)では「時代の空気」が異なるのはやむを得ない。解説者の役割のひとつは《執筆当時の筆者の想い》を《2013年の読者に伝える》橋渡しだと思う。そのために、筒井氏が《田村重見編「大岸・末松/交友と遺文」》を活用したことは、望外の喜びだった。

しかし ひとむかし前には「望外の喜び」だったことも 再び「同一文章」に出会ってしまうと 別の感慨が生まれてくる。
「完本 私の昭和史」掲載の「筒井解説」は全186行。そのうち52行分は「年表・末松太平」からの引用である。
「同一文章」であるが故の奇妙な部分(例えば「完本」に掲載されている三島由紀夫の書評の引用)などもある。
・・・ということで 筒井解説に対する感謝の念を前提としながらも 補足すべき事柄を記しておきたい。

補足①=「私家版/年表・末松太平」について。これは(没後1ヶ月の短期間に)私が急遽まとめたもので「ゼロックスA4版✕33枚」をホチキスで綴じたもの。冒頭に記した「作成ルール」を含めて《田村重見編「大岸 末松/交友と遺文」》に転載された。なお その後に《修正すべき箇所》を幾つか発見している。引用する際は要注意である。
補足②=「末松仲七の三男として・・・」の部分について。この説明に誤りはないが、あえて補足を加えれば、末松太平は仲七(父)とフシ(母=後妻)との間に「最初に生まれた男子」でもある。末松太平の言動に《長男》の印象が漂うのは、このためだと思う。
補足③=「主幹として雑誌『政経新論』を発刊し」の部分について。素直に読むと「末松太平がリーダーとなって、雑誌を発刊した」という印象になる。この部分は「編集兼発行人は片岡千春(政経新論社オーナー)だったこと」を省くと拙いような気がする。どうして《拙い》のかにつては、ここでは触れない。
補足④=「これに対する批判が『最後の戦い』となった」の部分につて。重箱の隅を突くようで気がひけるのだが、私の原文では「これが【末松太平「最後の」事件】の始まりとなる」と記されている。それを《田村重見編「交友と遺文」》に転載する際に「これが【末松太平「最後の」たたかい】の始まりとなる」に書き改めた。戦いでなく「たたかい」である。 
半盲目状態になっても闘志満々だった末松太平は(何歳まで生きるつもりでいたかは知らないが)82歳の時点ではまだ「最後の戦い」などと思う筈がない。私が「最後の」を括弧したのは、詠嘆を込めてのことである。
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先日「國風講座」の講師を務めた際に 当然「私の昭和史」関連の話題も登場した。
そして 最も反応があったのが《「私の昭和史」誕生に到る経緯》について簡単に触れた部分であった。
画像参照=日本読書新聞掲載記事。「名著の履歴書/高橋正衛・私の昭和史」「西田税の仏壇の前で」・・・。
西田税の命日に 西田家を訪れた高橋正衛氏は 仏壇の前に置かれてあった雑誌「政経新論」に出会った。そして・・・。
言うなれば《末松太平「私の昭和史」みすず書房刊》は《西田税のお導き》によって誕生した ということである。

1963(昭和38)年。みすず書房「私の昭和史」発行。
2023(令和05)年。中央公論新社「完本 私の昭和史/二・二六事件異聞」発行。
高橋正衛氏(みすず書房)と橋爪史芳氏(中央公論新社)。二人の編集者には 感謝以外の言葉がない。
それにしても 60年の歳月を超えて いまなお「私の昭和史」が(古本屋でなく)一般書店で購入できるとは、高橋正衛氏も想像しなかったことだと思う。(末松建比古)
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◎「末松~神~村方ライン」の周辺◎

2024年06月04日 | 末松建比古
つい先日「◎◎書房」のWサンの来訪を受けた。Wサン=自分史アドバイザー。写真集、句集、随筆集、論文、研究書、画集、絵本・・・、要するに「自叙伝・自分史作りを中心に、少部数から大部数まで承ります」という立場の方である。
私について「それなりのリサーチ」をしているから 自費出版を勧誘するようなことはしない。「完本 私の昭和史」などの話をして「今後もよろしく・・・」と帰っていった。

「自費出版」という領域に、私自身は興味が無い。しかし《田村重見編「大岸頼好・末松太平/交友と遺文》や《河野司篇「遺詠集」》など 諸先輩が自費出版した書籍の数々は 今なお「貴重な史料」として高い評価を受けている。 それを思えば 自費出版に興味がない私にも「埋没している資料」を(何らかの方法で)後世に遺す責務がある訳で・・・。
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「埋没している資料」をピックアップ。
先ずは 前々回「平和観音」関連の話題で登場した「末松~神~村方ライン」の周辺から・・・。

 

《末松太平「軍隊と戦後の中で」大和書房刊=1980年2月26日初版発行》の「あとがき」から・・・。そして 続けて「本文」を・・・。
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◎「反『八甲田山死の彷徨』の風土」は「日本読書新聞」(昭和48年2月8日号「わが町・わが本」)に書いたものである。当時東京周辺の数人の読者から「日本読書新聞」を通じて「陸奥の花」の歌詞、楽譜の希望があった。その都度、青森市の神保氏を煩わして希望に応じたが、その人たちの私への礼状には、老母にねだられて・・・という点が共通していた。老母の年齢は判で押したように、いずれも八十余歳だった。
神氏がはじめて「青森放送」のテレビで「陸奥の花」楽譜発掘の顛末を放送したとき、楽譜希望者が殺到し、それに応じるため、放送後しばらくは、神氏は嬉しい悲鳴をあげたという。
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◎《反「八甲田山死の彷徨」の風土》
私にとってのわが町は少年時代しかいなかった生れ故郷の門司(北九州市)でもなく、今住んでいる千葉市でもない。やはり、青森県、なかでも津軽の町々ということになる。
青森市郊外の歩兵第五連隊に十年在職した。二十歳から三十歳まで、二・二六事件で軍職を去るまでの十年間だった。花にたとえれば、その盛りの情熱に生きたころだった。それに「花と竜」の風土に育った私には、縄文時代から途中を抜かして近代に短絡したといわれる津軽の風土が、私の心奥の欠落部分を補填するかのように思えて、津軽への愛着を深めることになったようでもある。そのせいで津軽には軍隊時代の兵たちを含めて、旧知旧友も多く、生れ故郷の九州への玄関口東京駅から汽車に乗ることより、東北へ向かう上野駅からの汽車の旅をすることのほうが多くなっている。昨年十二月にも津軽に行くため私は上野駅を発った。約一週間津軽の町を遍歴して旧知旧友に会うためだった。
遍歴は当然青森市から始まり、そこで先ず数人の人に会った。そのとき、地元だけに新田次郞の『八甲田山死の彷徨』に関連したことが、話の中心になった。
私が十年間在職した歩兵第五連隊が『八甲田山死の彷徨』の素材になっている雪中遭難の悲劇を歴史に持つ連隊である。日露戦争に先立つこと二年、明治三十五年一月二十三日に、八甲田山麓を経て三本木に抜ける雪中行軍をするため兵舎を出発した歩兵第五連隊の集成大隊が猛吹雪にあい、八甲田山麓で二百十名中、十一名の生存者のほか、全員凍死した。このとき概ね時期を同じくして、逆コースを雪中行軍した弘前の歩兵第三十一連隊、福島大尉の指揮する一隊三十七名は、予定どおり全コースを踏破して全員無事兵舎に帰還した。この二つの連隊の雪中行軍をからませて小説スタイルに構成したのが新田次郞の『八甲田山死の彷徨』である。

旧軍の廃止によって歩兵第五連隊は兵舎も取払われて跡形もなくなったが、自衛隊創設により、同じ隊番号を持つ第五普通科連隊が、別の場所だが青森市内に駐屯した。昨年この五連隊が柴田連隊長統率のもと、雪中遭難のときと同じ日時、同じ編成、同じコースでの弔行軍を決行し成功した。が、その後で「陸奥の花」という雪中遭難を弔った歌の楽譜探索に柴田連隊長は執心することになる。歌詞の作者は大和田建樹、作曲者は当時青森師範学校の音楽教師だった北村季晴である。が、柴田連隊長が入手できたのは歌詞だけで、楽譜がなかった。歌うことも演奏することもできなかった。雪中遭難を弔った歌はほかに何種類かある。そのいずれも楽譜がわかっていて歌うことができる。なかでも「しら雪ふかくふりつもる」にはじまる「陸奥の吹雪」はひろく歌われ、私のいた時代の第五連隊でも盛んに歌われていた。
七年前の昭和四十一年、同じように「陸奥の花」の楽譜探索に執心したグループがいた。古い青森師範学校出身者グループである。
故あって探索の中心になったのは 当時青森市内長島小学校長の神保氏であった。神氏は先ず後輩の津軽の柏木小学校長村上方一氏に協力を求めた。
村上氏には、ことし八十四歳の母堂がおられる。この母堂が村上氏に「陸奥の花」を謳って聞かせた。村上氏は母堂の謳うにつれ、歌詞を筆記して神氏に送った。それは歌詞としては完璧に近かったが、母堂の歌った歌曲がそのまま楽譜になるわけではなかった。神氏はしかし、これに勢いづけられ、更に探索を続けた。一年あまりして偶然のことから神氏に朗報がもたらされた。後輩の弘前時敏小学校長大谷誠蔵氏関係から問題の楽譜が届けられたのである。
それから五年後のことになるわけだが、柴田連隊長としては楽譜発掘に執心はしたものの、これといって妙案があるわけではなかった。が試みに小学校時代の級友村上方一氏に相談してみた。この試みは如何にも誂向きだった。簡単に柴田連隊長は神氏との連絡がつき「陸奥の花」の楽譜を意外に早く掌中におさめることができた。

昨年は雪中遭難七十周年だった。それを記念しての第五普通科連隊の弔行軍でもあった。雪の消えた六月、楽譜を得た柴田連隊長は、新田次郞が『八甲田山死の彷徨』のなかで、死んでも階級の差が歴然としているといっている青森市幸畑の雪中遭難将兵の墓地で七十周年墓前際を催し、そのとき軍楽隊に「陸奥の花」を演奏させ、隊員にも歌わせた。
「陸奥の花」の歌詞は八十五行の長編で、最後に和歌一首が添えてある。内容は死の間際の将校と兵の友愛を哀切に描いたものである。興津大尉と、それを抱くようにして、一緒に凍死していた軽石一等卒のことをモデルにしたようである。
私が昨年の津軽遍歴で最初に会った人々というのは、神、村上両氏をはじめ青森師範学校出身者のグループであり「陸奥の花」の楽譜発掘に関係した人々だった。その時 カセットに収めてあった「陸奥の花」を聴いた。神氏や村上氏は何度聴いても涙が出るといっていた。
柴田連隊長は、かねて連絡のある雪中遭難遺族関係者の何人かから『八甲田山死の彷徨』に対しての憤激を訴えられていた。それを代表する意味もあって柴田連隊長は新田次郞に抗議した。人体実験と背中遭難を総括し、死者を鞭打つことは、地元の人が大切にしている雪中遭難者への感情を逆なでするものだという趣旨だったという。これに対し新田次郞の弁明は、フィクションだから了承してほしい、ということだったという。

新田次郞は『八甲田山死の彷徨』では当世流に階級による将兵離間、反軍、軍民離間の概念を取ってつけたように所々に挿入し、雪中遭難を「人体実験」と総括している。「陸奥の花」に盛られたような将兵友愛の事実は抹殺し、将兵離間の状況を叙述することに熱心である。「陸奥の花」は一番を知っていれば、あと何番あっても歌えるという種類の歌ではない。全編知っていなければ歌えるといえない長い歌曲である。
が、村上氏の母堂、大谷氏の母堂、いずれも八十余歳の老母が、少女時代愛唱したこの歌を、多少の転訛はあるであろうが、子の小学校長に、今に忘れず歌ってきかせるというのである。いわき市の 神氏らの大先輩である阿部忠治郎氏は著書の、青森師範生徒愛唱歌集『母校の歌』の解説のなかで 歌集に採録されている「陸奥の花」ぬふれ、「私がこの歌を教わったのは小学校六年の時である。何しろ六十年も昔のことである。学芸会の時合唱、後半は先生(明治三十八年青森師範卒業の方)の独唱、先生が歌っているうち、涙声になったのは今も深く印象に残っている。どこの学校でも音楽会などにこれが歌われると紅涙をしぼらせたという。」といっている。
この阿部氏に、神氏は「陸奥の花」の楽譜探索を頼まれたのである。前に「故あって」といったのはこのことである。これらの事実をみても少なくとも津軽では、当時軍民離間はなかったといっていいようである。「陸奥の花」の楽譜探索をし、それを聴いて涙するのも、旧五連隊関係者ではなく、軍に対して民といわれあ青森師範関係者である。新田次郞は柴田連隊長の抗議に対し、フィクションだから・・・と弁明したというが、それが弁明になるのもかどうか。『八甲田山死の彷徨』の性格からいって、作家である新田次郞氏御自身が先刻承知の筈である。(1973.2)
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上記は「日本読書新聞~軍隊と戦後の中で」に掲載されたものであるが、他にも「雪中遭難」に関連した作品は いくつかある。
例えば「わが國最大の雪中遭難 末松太平」という「どこかの雑誌に書いた作品」が 手許に遺されている。
「A4版ゼロックス✕8枚綴じ」の長編で、図面が2枚、写真が2枚(昭和6年3月の偵察行軍集合写真=末松太平スキー隊長の姿もある)。内容は「まえがき/行軍の目的・準備/遭難第一日/遭難第二日/遭難第三日/遭難第四日/救援・後藤伍長を発見/あとがき・弔行軍」という8部構成。かなりの力作だが「掲載誌不明」では 資料価値半減と言わざるを得ない。

   


「末松~神~村上ライン」関連の資料の中に《柴田連隊長からの手紙》が遺されていた。
柴田氏は(青森を離れ)東京都杉並区の公務員宿舎に居住していた。
「謹啓 朝晩涼しくなって参りましたが 末松様には如何お過ごしでしょうか。私 本年七月まで青森の第五普通科連隊長を勤めて居りました柴田と申す者であります。安本様から末松様を御紹介を受け 旧陸軍と自衛隊の差こそあれ 同じ五連隊に籍を置いたものとして非常に嬉しく存じて居ります。私の隊員に対する精神教育は旧歩兵五連隊の伝統ある堅忍不抜、質実剛健を中心としたものでした。奇しくも旧歩兵五連隊も第五普通科連隊も創立記念日が五月一日であり、私は此の日には連隊の隊員を幸畑の墓地に連れて行き、在青の五連隊出身の先輩に昔の話をして戴いたものです。(中略)
昭和七年に歩兵第五連隊が弔行軍をされたことは 地元の新聞から聞きました。しかし新聞社にも当時の記事が見当たらず残念に思って居ましたので 是非御体験をお聞かせ戴きたいものです。(中略=新田次郞関連の記述)尚 同封の「陸奥の花」は(中略)七十周年の慰霊祭に九師団の音楽隊に演奏して貰ったものです。素晴しい曲で涙せずには歌えません。音楽隊が練習中のものをテープに取ってきてありますので、若しお目にかかる機会があれば持参いたします。
初めての御手紙に拘わらず不躾に冗長になりました事をお詫び申上げます。九月二十日。柴田繁」

画像左の印刷物は「雪中行軍における指揮官の心得」と題された(50頁を超えるボリュームの)報告書である。
表紙には「雪中行軍の写真」と共に 報告者「第5普通科連隊長 1等陸佐 柴田繁」と日付「昭和47年4月26日」が明記されている。細部に至るまで懇切丁寧に記された報告書は 柴田連隊長の人柄を髣髴させている。
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神保(かみ・たもつ)=明治42年8月12日出生~昭和49年3月26日逝去(64歳)。
《「不忘」創刊号/神保先生一周忌追悼記録集》40頁。発行=「不忘」を支える会(青森市)。表紙には「呈 末松大尉殿」とペン書きされていて、村上氏から送付された冊子だと判る。
私の手許には 神氏未亡人(美代様)の手紙2通が遺されている。①=末松太平宛て ②=末松敏子(未亡人)宛て。奥様の人柄が伝わる丁寧な御手紙である。どちらの手紙にも「竹内(俊吉青森県知事)さん」が登場する。停年を迎えた神氏が(県会議員にと煩くつきまとわれ困っていた時に)末松太平の計らいもあって 竹内知事により青森県人事委員に任命された・・・という経緯。
「末松~神~村方ライン」には「末松夫妻~神夫妻~村上夫妻ライン」という一面もあったようである。村方?、村上?、表示の混在は 村上方一氏が自らを「ムラホウ」と称していたためである。(末松建比古)
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