◎末松太平事務所(二・二六事件異聞)◎ 

末松太平(1905~1993)。
陸軍士官学校(39期)卒。陸軍大尉。二・二六事件に連座。禁錮4年&免官。

◎末松太平「二・二六事件/外伝・異聞・断章」仮総括◎

2022年06月21日 | 末松建比古

◎中公文庫「私の昭和史/二・二六事件異聞」上巻が めでたく在庫ゼロに到達した。下巻も間もなく在庫ゼロに到達する筈である。
※大袈裟に表現すれば 末松太平著「私の昭和史」は《ひとつの役割》を終えることになる。この時点においての《総括》は それなりの意義があると思う。

※1963(昭和38)年2月20日、みすず書房「私の昭和史」第1刷発行。
※1974(昭和49)年5月15日、みすず書房「私の昭和史」第5刷発行/装丁&表紙カバーを一新。
※1980(昭和55)年2月26日 大和書房「軍隊と戦後の中で/『私の昭和史』拾遺」初版発行。
※2013(平成25)年2月25日、中公文庫「私の昭和史/二・二六事件異聞(上下巻)」初版発行。



※単純に眺めれば 1974年刊と2013年刊 みすず書房版と中公文庫版の間の「39年間の空白」に目が停まる。
今回の「文庫発行から残部ゼロまでの期間=約10年」を参考に 約10年を差引けば「約29年間の空白」ということになる。
勿論 この間 出版関係からの接触が皆無だったわけでもない。末松太平存命中のことは知らないが 私が著作権を引継いだ後も 出版のお誘いを時折いただいていた。中には「色よい返事をお待ちしております」などと 編集者(それなりに著名な方なのだ)の品性を疑わせるような文面もあって 立腹したりもした。

※今でも大切に保管しているのは 2004年1月に届いた「末松太平様 御遺族様」宛の速達便である。
差出人のSH氏は ある出版社の編集者で 新会社の設立を進めているところだった。
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※「謹啓 新春の候 お健やかにお過ごしの事とお祈り申上げております/新年早々見ず知らずの者から、宛名も曖昧なままこのようにお便り申上げる失礼をどうかお許し下さい/本日は一つお願い事がございましてペンを執っております/私、名はSHと申しまして、出版を生業とする三十八歳の男子です。本日のお願い事は、故末松太平様の御著作に関する事でございます。」
「本題の前に簡単に自己紹介させていただきます/私は(18行割愛=個人情報)/お願い事を不躾ながら端的に申上げますと、現在、一般の市場で手に入れることのできなくなっております『私の昭和史』および『軍隊と戦後の中で』などを『末松太平著作集』として(15字割愛=個人情報記載のため)是非とも出版させていただきたいということでございます/御高著の品切化に関しましては、様々な御事情もおありであろうと推察申上げておりますが、以下に私の考えるところの要旨を申し述べ、御高覧賜り、御遺族様の御検討をお願い申上げます次第です。」
「『私の昭和史』の出版に直接携われたであろう故高橋正衛氏や『軍隊と戦後のなかで』を企画された大和書房編集子が考えていらしたように、末松太平様の御著作が、一人の稀有な倫理的人間の姿を表現していると同時に、歴史的な資料としても第一級の価値を有するものであることは、今更私が申し述べるまでもない事と存じます。私も御著作を何度か拝読し、その稀有な魅力に敬意を深くし、その歴史的証言の恩恵に与っている一人です。/(52行割愛=末松太平著作への賛辞&礼賛)大略以上のような考えによりまして、私はそれら御著作を再び、そして若干の新しい工夫もほどこして長く世に紹介し続けていきたいという強い願望を抱いております。」
「『そうした論理ならば、どこの出版社から発行されても良いのではないか』と問われれば言葉に詰まりますが、(約10行割愛=◎◎氏の理念あれこれと)理念の表現として、末松太平様の御著作を自社の出版物として世に問うことに拘りたいという気持ちがあります。」
「一方的なお話を長々と重ね過ぎたように思います。このあたりで筆を慎み、凡そ以上のお願いを謹んで御検討下さいますようお願い申上げます。拙い私ではありますが、是非ともお力添えを賜れますよう深く心よりお願い致します。/前向きに御検討いただけるようでありましたら(25字割愛)一度お近くでも伺い、少し詳しくお話しさせていただく機会を頂戴できましたならば(以下約14行割愛=個人情報&文末挨拶)/頓首」
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※以上 達筆で便箋12枚 ギッシリ書き込まれて(些か回りくどい部分もあるが)熱い思いは伝わってくる。しかし 私の回答は「著作物の再刊は見合わせたい」であった。主な理由は「老母を刺激したくない」ためである。
この当時 92歳の母は 老齢に伴う精神不安定が徐々に目立ち始めていた。特に「新婚早々に夫が逮捕され青森に独り残された辺り」の記憶が蘇るようで 昔の「恨み・愚痴」が噴出した。フィクションや事実誤認や時系列無視の「恨み・愚痴・怒り」が錯綜して 周囲を困らせていた。
こういう状況では「末松太平の話」はなるべく避けておきたい。再刊に伴うアレコレには近づきたくない。止む得ない選択だったと思う。

 

※末松太平には「二・二六事件の真実」の伝播こそが「残された者の使命」だと思っていた気配がある。
残された者の使命=刑死せず残された者の使命。末松太平が書き残した「二・二六事件関係」は、ローカル紙&誌も含めると 夥しい数に達している。それらの作品に再び光を当てる好機到来とも考えて 前述の「SH氏発案=末松太平著作集刊行」に心が動いたのも事実である。

※末松太平「二・二六事件関係著述」の殆どは単発作品だが 以下のようなシリーズ作品もある。
①「二・二六事件外伝/草のことば」1952年。掲載誌不明(連載6回分が残存)シリーズ。
②「二・二六事件異聞」1960年発刊「政経新論」掲載シリーズ。
③「二・二六事件断章」1988年~1902年。現代史懇話会刊「史」掲載シリーズ。

※「二・二六事件異聞」の掲載誌(政経新論)は 西田初子様の手許にも毎号届けられていた。そして偶々 西田邸を訪れていた高橋正衛氏が、仏壇前に置かれた「政経新論」に着目し、みすず書房「私の昭和史」刊行の発端となった。



※画像=末松太平直筆の履歴書メモ。もしも「末松太平著作集」が刊行されていれば掲載されていた・・・?(末松)
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◎中公文庫「私の昭和史・上巻」在庫ゼロ到達◎

2022年06月15日 | 末松建比古

◎中央公論新社文庫編集部のHFサンからメールを戴いた。
※彼女と頻繁にメール交信していたのは「2012年1月~2013年2月」だから 今回は実に「10年ぶり」の連絡ということになる。

※「・・・その節はたいへんお世話になりました。久しぶりに突然のメールで恐れ入ります。お元気でお過ごしでいらっしゃいますでしょうか?/私はその後、文庫編集部を離れ、雑誌や校閲などを経験し、このたび再び文庫編集部に戻ってまいりました。/丁度このタイミングで『私の昭和史・上巻』の在庫がゼロになったことを知らされました。/現在は返品を待ちながら改装して出庫するという状態です。(下巻は通常通り購入できます)/ここで重版をするか社内で検討してまいりましたが、約10年の間に世の流れや編集者の入れ替わりとともに、弊社文庫のラインアップも変化しており(かって力を入れていた『昭和史』関連は少なくなりました)単体で重版し今後も文庫の形で長く維持していくのは難しいという結論に到りました・・・」



※画像=2013年2月26日付の「出版等契約書」で「発行部数・上下各8000部」と記されている。
当時から「この種の書籍で いきなり各8000部発行とは HFサンの判断ミスで責任問題に・・・」という不安も感じていたので(10年要したとはいえ)在庫ゼロの知らせにはホッとした。
今回あらためて契約書を眺めると「この契約の有効期間は契約の日から初版発行まで、および初版発行から満3カ年とする」と記されてあった。無論 契約期間終了後も(著作権料は支払済みだから)販売権利は継続していた訳である。

※「・・・単体の重版が難しいと書きましたが、そもそも約10年間も一度も『抹消候補』にあがることなく、ついに在庫をほぼ売り切るというのは、文庫の優等生です(売れ行きの悪いものは在庫ゼロになる前に品切れ扱いになります)/それは、もともとの価値に加え、文庫化の際に、末松建比古様がお力添え下さり、しっかり修正すべきところは修正したうえで復刊できたからだと考えております。あらためまして心より感謝申上げます。(HF)」
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※実は HFサンのメールには(文庫版在庫ぜロ以降の)新しい企画提案書が「添付」されていた。
私の意向を問われたので「HFサンに全て一任します」と返信。メールして直ぐに HFサンから電話がきた。
企画提案書の内容については(まだ最終決定ではないので)いずれ稿を改めて・・・。(末松)
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◎「青雲の涯」と「あを雲の涯」のことなど◎

2022年06月13日 | 末松建比古
西田税が「かの子等はあをぐもの涯にゆきにけり涯なるくにを日ねもすおもふ」と歌った。その青雲の涯がのぞける晴れた日がつづくようになった。
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◎末松太平著「私の昭和史/二・二六事件異聞」には「青雲の涯」と題した章がある。
※上記はその一部だが 代々木衛戍刑務所に収容されていた末松太平が 中野新井町の豊多摩刑務所に移されるまでの日々が 村中孝次氏との交流を中心に綴られている。
この西田税氏の歌は 先ず前章「蹶起の前後」に登場し  続く「青雲の涯」にも記されて 末松太平の思いを伝えている。



◎以上が前説で 今回ご紹介したいのは《あを雲の涯》と題された「あるブログ」についてである。
※「あるブログ」の冒頭には「『二・二六事件て何や』親友・長野が筒う。『世直しや』私はこう答えた」と書かれている。
自己紹介には「若き日、昭和維新に殉じたる斯の人達に憧れた一人のローカルです」とある。

※ブログ《あを雲の涯》の充実ぶりは「カテゴリー」欄に目を向けただけで納得できる。
昭和・私の記憶「二・二六事件」/昭和維新に殉じた人達(クリックすると個人別に46のブロックが内包されている。)/私の想い 二・二六事件/以下省略。
このブログには実に「53のカテゴリー」があって、そこから更に枝分かれするものも多い。各人それぞれに(関心ある項目だけでも)確認してみることをお勧めしたい。

※カテゴリー「昭和維新に殉じた人達」をクリックすると、次の文章に出合う。
「人生は出逢い。昭和49年(1974年)19歳の私は、二・二六事件を知り、昭和維新なるものを知った。そして、昭和維新に殉じた人達と出逢った。その感動たる『勇躍する、歓喜する、感慨たとへんにものなしだ!』。
「時は滔々と流れ、時代は進化した令和元年(2019年)而今、65歳の私は斯の人達との出逢いを忘れないでいる。それは生涯忘れることはない。茲に、吾心懐に存する斯の人達への吾想いを記す」 因みに 皇紀二千六百年生れの私は 令和元年(2019年)には79歳であった。そして 82歳の今 ブログ《あを雲の涯》に出逢ったというわけである。

※「昭和維新に殉じた人達」の目次には「1・先覚者」と「2・蹶起した人達」が並ぶ。
「1・先覚者」に選ばれているのは「くさわけ・西田税」「明治武士・相沢三郎中佐」「カリスマ・北一輝」「青年将校運動のリーダー/菅波三郎大尉/大蔵栄一大尉/末松太平大尉/大岸頼好大尉」の諸氏である。適切な人選であると思う。

※とりあえず「末松太平」の項をクリックしてみる。予測していた以上のボリュームが展開して、いささか驚く。
「菅波中尉(当時)との出逢い/天剣党事件のこと/渋川善助のこと/赤化将校事件のこと/郷詩会のこと/十月事件のこと/・・・」
当然ながら「私の昭和史」からの全文転載が多いが 芦沢紀之著「暁の戒厳令」や橋本徹馬著「天皇と叛乱将校」からの引用が現れたりもする。特に大岸頼好「皇国維新法案大綱」のほぼ全文が転載されていたことには、いささか感心させられた。
「末松太平の結婚式写真」も掲載されていた。それが ブログ「末松太平事務所」に掲載した写真よりも鮮明だから苦笑してしまった(末松)
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◎続々・例えば「真実を語り継ぐ役割について」とか◎

2022年06月09日 | 末松建比古

例えば、何かの弾みで「二・二六事件というもの」に関心を抱いた方がいるとする。
その方は、今まで全く何の知識もなかったのだから、書籍やネット検索に頼って知識を吸収するしかない。
そして、運悪く「悪意ある歪曲本」や「間違い連発本」に出合って、そのまま素直に吸収してしまうと・・・。以下省略。
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◎ネット検索すると「2.26事件一般社団法人仏心会」というホームページを発見できる。
※このホームページは《仏心会について》《22士のプロフィール》《トピックス》の三本柱で構成され、開設した理由も記されている。
※「河野司編 2.26事件。1957(昭和32年)5月・日本週報社刊」
「河野司氏は河野寿大尉の兄であり、また元仏心会の代表を務め、事件関係の資料の収集、保存、そしてまとめて編纂し上梓したものです。
この本は現在入手は極めて困難と云われています。事件関係22士の経歴について教えて欲しいとの要望が多く寄せられていますので、この度仏心会のホームパージを立ち上げ、これら要望に応えようとするものです」

※要するに「一般社団法人仏心会」のホームページは《河野司編「2・26事件」日本週報社刊》を転載するために開設されたものである。
だから《仏心会を設立した栗原勇氏について》や《仏心会の歴史について》などの記述はない。それ以上を求めても仕方が無い。



◎画像参照。河野司編「二・二六事件 獄中手記・遺書」1972(昭和47)年3月・河出書房新社刊。本書の《あとがき》を紹介しておく。
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※「昭和32年5月『二・二六事件』を編纂刊行(日本週報社)してから、既に15年が経過した。
「当時は、まだ事件に関する一般的関心は薄く、初版二千部(内買取買取四百部)の市販に汲々としたものであった。
「これよりさき、昭和27年に立野信之氏の作品『叛乱』が直木賞を受賞し、これが映画化、演劇化されて、一時叛乱ブームを呼んで、国民の視聴に二・二六への新しい窓口を開いたものであった。しかも『叛乱』は磯部浅一の行動記を主軸に、叛乱将校側から描いた作品であり、それまで陸軍省発表以外に知らされていなかった国民に新たな関心を与えたものである。このような下地が芽生えていたにも拘わらず『二・二六事件』の売行きは出版社の思惑を裏切って伸びなかった。私がこの書の出版を意図して持ち回った大手出版社のどれもが、乗ってこなかったことも、むべなるかなと自信を砕かれた思いをした。時期尚早であったのだろうか。
「その後、徐々に需要を見て36年に千部の再版を見た。それも、41年頃、日本週報社の解散に際し、残部百余冊を私が買取ったのである。
「ところが此頃から、急速に二・二六関係の研究が、歴史家、作歌、関係者等によって進められ、数多くの著書、論文、作品が刊行、発表された。事件を取材した数本の映画も作られて上映された。昭和史上に占める二・二六事件の意義が再認識されての結果であったろう。それによって『二・二六事件』への需要も増えてきたが、絶版になっている本書は、古本屋にも殆ど出回らず、需要者の要請に報いることが出来なかった。
「偶々42年仙台において、磯部、村中両名の獄中手記が発見され『文芸』誌上に公開するに及んで大きな反響を呼んだし、其他に資料として追加採録を適当とするものも入手し、さらに、15年間に当時不明確であった事実が判明するなど、原本の解説、その他にて増補、訂正加筆を要する事項も重なった。
「このため、将来の歴史的資料性の正確を期するため、かねてより増補改訂版の出版を念願していた。幸いにして関係各位よりの再出版の御要請に支えられ、今回、河出書房新社より刊行の運びとなった。本懐之に過ぎない。深く御礼申上げる。なお改訂出版に当り、末松太平、高橋正衛両氏の御協力をいただいたことを、ここに深謝してやまない。
「事件以来三十有六年、この間多数の方々から、資料的にも、仏心会に寄せられた絶大なる御賛助と御高庇に対し、改めて深甚の感謝を献げるものである。昭和四十七年二月 仏心会代表 河野司」
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※日本週報社刊から河出書房新社刊へ。表記が「二、二六事件」から「二・二六事件」に変わったことにも御注目。



◎昔々 森田忠明サン(朋美サンの夫君)に誘われて「楯の会」のメンバーと居酒屋で歓談、その後も何度か同席している。
※先日の「国際文化会館」でのランチビールの席では、そういう昔話にも花が咲いた。
※私「賢崇寺法要が《三島由紀夫との合祀》になった事が、一度だけありますね」。皆様の反応「え?」。
今泉サンまで「え?」という意外な反応だったので、私の方も驚いた。

※三島由紀夫氏が市ヶ谷自衛隊で自決したのは、1970(昭和45)年11月25日である。
翌年2月26日。二・二六事件満三十五年忌の記念すべき追悼法要が「三島由紀夫氏の追悼慰霊」との合祀となった。
当時は(麻布賢崇寺ではなく)渋谷公会堂地下で法要が行われていたのだが、この「合祀」は「仏心会代表」の独断であったらしい。
※「仏心会の歴史にない異例のことで、この行事の案内発送後、幾多の人々からの異議申入れや強硬な非難も直接耳にした」。
その後 河野司氏ご本人が《自著「ある遺族の二・二六事件」1982年2月・河出書房新社刊》に記している。(末松)
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