◎末松太平事務所(二・二六事件異聞)◎ 

末松太平(1905~1993)。
陸軍士官学校(39期)卒。陸軍大尉。二・二六事件に連座。禁錮4年&免官。

◎「新版/年表・末松太平」/(14)終戦前後のあれこれ◎

2023年03月25日 | 年表●末松太平
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《「年表・末松太平」1944(昭和19)年。/末松太平=38歳~39歳。私=3歳~4歳》
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◎「大東亜戦争」継続中。

◎1944年秋。末松太平一家(夫婦+息子二人)は「千葉市登戸五丁目」に転居。
・・・戦争の激化に伴い、東京を離れた理由には「疎開」という一面もあったと思われる。
・・・「千葉市登戸五丁目」は「義父(久保三郎)の持ち家」である。/前住者は「防空学校長」の入江中将.。中将は 1994年8月22日「名古屋師団長」に転勤。しかし「入江一家の転居は1ヶ月以上かかり、容易に立ち退かなかった」というう。・・・以上は久保晃(末松太平)の記憶。

★資料★・・・・・・・・・・
《雑誌「青森県評論」掲載から》
「大東亜戦争の一周年を過ぎた頃、千葉に移った。帝国ホテルの近所に『事務所』を持って、神戸の友人達の会社の東京代表みたいなことをしていた」。

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《「年表・末松太平」1945(昭和20)年。/末松太平=39歳~40歳。私=4歳~5歳》
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◎「大東亜戦争」継続中。
◎私自身(4歳~5歳)の断片的な記憶。
・・・末松家の庭に掘られていた 新旧ふたつの防空壕。庭の敷地に余裕があったということ。
・・・千葉市街の空襲の時 近所の住宅が焼夷弾で全焼。我家の門前で それを眺めていた。不思議に恐怖感はなかった。
◎1945年1月2日。長女「末松田鶴子」誕生。

◎終戦前後の行動。「軍需省関連の業務」に拘わっていた気配がある。
・・・大岸頼好は「昭和通商・広東支店長」など、日本の対外経済活動に従事していた。

 

★初公開資料★・・・・・・・・・・
《末松太平の「遺品」から。/田村重見氏の(公的な)郵便貯金通帳。》
「変更前住所=宇部宮陸軍飛行学校分遺隊。変更後住所=東京都中野区鷺ノ宮・・・(相沢中佐の留守宅)。」
「●宇部宮=昭和19年5月3日(受入高)千円也。5月17日(払出高)五百円也。/●鷺ノ宮=昭和20年11月26日(受入高)百円也。/昭和21年10月7日(支払高)百円也。」
・・・田村重見氏の終戦前後の活動(敗戦処理・引揚援助)を髣髴させる資料である。

★資料★・・・・・・・・・・
《田村重見「追悼・大岸頼好」1966年3月刊。/寄稿》
「戦局も押し詰まった昭和20年5月、私(田村少尉)は仙台の飛行学校から軍需省(霞ヶ関)に転勤した。明石少佐の指令により朝田大尉など数名が、めまぐるしい活動を続け、しばしば激論の場となり、戦慄さえ覚える場面にも遭遇した。/そんな折り、ズック鞄を肩に掛けて飄々と現われては警句を発する末松さんの姿は、まことに一陣の涼風、我々の救いであり憩いであった。/終戦の詔勅直後のこと、生産戦指導部は本拠地をお茶の水に移し、大岸さん、末松さんを中心とする『詔勅必謹・敗戦処理』の活動が展開されていた。/終戦時の、ともすれば救うべからざる混乱に陥ることを未然に防止した、大岸さん、末松さん、佐々木さん、明石さん達の活動は、極めて大なるものがあると、私(田村少尉)は信じている。」

◎1945年8月15日。「大東亜戦争」敗戦。
・・・以降「大東亜戦争」の呼称は(連合軍によって)禁止されて「太平洋戦争」などとなる。
◎私自身(4歳~5歳)の断片的な記憶。
・・・8月15日正午。終戦の瞬間の空の様子。朝から飛んでいた数機の軍用機が 瞬時にして姿をけした。
・・・末松太平は(数日前から)自宅に帰ってこなかった。本人から「ある考えがあっての行動だった」と聞いたことがある。
★資料★・・・・・・・・・・
《末松太平の「遺品」から。/1973年の「日記帳」ベストン社ビジネスダイアリー。》
「1973年8月15日。/敗戦記念日。27年前、この日は暑くて短い一日だった。日仏会館で敗戦の詔勅を聞いた。当時、日仏会館に大本営軍事調査部があった。/14日までは軍人会館にいた。14日の夜は 近衛師団長森中将に会いに行った。途中で森中将が宮中に行ったので(私たちは)東部軍司令部に行った。東部軍司令部は日本相互の最上階にあった。東部軍は会議中で幹部候補生の将校が二人いるだけだった。この夜、悲劇があった。我々が去った後 森中将は殺され、近衛の一部が宮中に入り、天皇録音の音盤を探した。が見つからず、首謀者は自決した。別のグループが放送妨害のため愛宕山に行ったが 憲兵に捕まった。/15日の朝は日仏会館で迎えた。何かすることはないかと焦慮しつつ 何もすることはなかった。傍ではいろいろなことがあった。」
・・・文中の「日仏会館」は現在「恵比寿」にある。閲覧者の方からも「お茶の水のアテネフランス」のことではないかとの指摘を受けた。末松太平の「勘違い」かもしれない。しかし、田村重見氏も「お茶の水の日仏会館」と記している。
・・・しかし、末松太平(他数名)は、何のために森中将に会いにいったのだろうか。日記の記述からは推察できない。
★資料★・・・・・・・・・・
《久保晃(義弟)の記憶から・・・》
「終戦直後 阿南陸相、田中東部軍司令官は自決した。末松は『梅津参謀総長殺害のつもりでいたが、子供三人の寝顔を見て思い止まった』という話を(文章にするのはどうかと思うが)直接ご本人から聞いた記憶がある。」

◎大岸 末松たちの「終戦処理」は一段落。続けて「海外同胞」の「引揚げ援助促進」に着手する。
★資料★・・・・・・・・・・
《田村重見「追悼・大岸頼好」1966年刊。/寄稿》
「終戦の処理が連合軍の無血進駐によって一段落をつげるや、直ちに矛先を転じて 海外に在る同胞の引揚を援護し促進する仕事に着手されたのは極めて時宜を得たことであった。/その活動は精力的に展開された。引揚者の上陸地点・浦賀に勝谷文信君らを派遣して、LSTなどにより送還された人々の上陸を助けるなど、八面六臂の活動が続けられた。/同胞引揚援護の世論喚起のため、日比谷公会堂で植村環女史、河合ミチ子女史の講演会や、巖本真理のバイオリン独奏会を催したこともあった。/戦時中の生活苦から痩せ衰えていた巖本壮・マーガレット・巖本真理の親娘三人を、中野の西田税夫人のアパートに案内して《鋤焼き=北多摩の農村を廻って白米、野菜、卵を買い集めた》を御馳走したことも、微笑ましい思い出である。」
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