◎末松太平事務所(二・二六事件異聞)◎ 

末松太平(1905~1993)。
陸軍士官学校(39期)卒。陸軍大尉。二・二六事件に連座。禁錮4年&免官。

澁川善助プロフィール(渋川)

2011年09月22日 | 渋川明雄
明治38年12月9日、福島県若松市七日町にて父利吉母ヨシの長男として生まれる。当時澁川家は、海産物問屋を営ん でいた。
 会津若松市立第二尋常小学校卒業、福島県立会津中学校第二学年を修業、小中学校を首席でとおす。
大正9年4月1日、仙台陸軍地方幼年学校の第24期生として首席で入校する。入校式では、入校宣誓文を読む。
大正12年4月1日、陸軍士官学校予科第三期生として入校する。歩兵になることを志願し、大正13年11月21日の 兵科発表で志願通りとなる。
大正14年3月14日、同校卒業。成績は326人中の2番で、恩賜の銀時計を拝受し、摂政殿下裕仁親王の御臨席を仰 ぎ、御前講演を「日露戦役ノ世界的影響」という題目で行う。
 卒業後、士官候補生として郷土の若松歩兵第29連隊に6ヶ月間配属される。
大正14年10月1日、陸軍士官学校本科・第39期生として入校する。入校して間もない頃西田税と知り合い、北一輝 著「日本改造法案大綱」を手に入れ読む。
昭和2年4月、同校を退学となり、同年5月28日士官候補生を免ぜられる。
昭和3年4月、明治大学専門部政治経済科に入学する。「天皇賛美論」を書いた遠藤友四郎、大森一声等が主宰する「錦 旗会」のメンバーとなる。
昭和3年9月23日、満川亀太郎を訪ねる。
昭和4年、「興国連盟」のメンバーとなる。
昭和4年10月、明治大学内に「興国同志会」を設立する。
昭和5年9月、満川亀太郎塾頭とする「興亜学塾」の塾生となる。
昭和6年3月、明大専門部政治経済科卒業。
昭和6年4月、明大政治経済学部に入学する。
昭和6年8月26日、全国同志将校の会合「郷詩会」に出席する。
昭和7年、西田税等と「維新同志会」を結成し、全面的に革新運動を展開する。
昭和7年5月15日、五・一五事件、裏で策動する。
昭和7年7月、明大を退学する。
昭和7年12月、「敬天塾」の塾生となる。
昭和8年1月、松平紹光・植田勇・竹嶌継夫らによって会津若松市に設立された「皇道維新塾」の塾長となる。
昭和8年4月、「非国難非非常時」の小冊子を発刊する。
昭和8年4月16日、満州に行く。関東軍特務部と「在満決行大綱」を作成しクーデター計画を立て、そのことで満州に いた菅波大尉に会う。
昭和8年11月、「救国埼玉青年挺身隊事件」で検挙される。翌年1月14日に釈放される。
昭和9年1月、大森一声を道場長とする「直心道場」に所属し、「核心」の同人となる。
昭和9年9月20日、結婚する。夫人は絹子さん。
昭和9年10月、「統天塾事件」に関与したということで「鉄砲火薬類取締法施行規則違反」で検挙される。翌年7月末
 に釈放される。
昭和10年8月以降、「相澤事件」の裁判に向け奔走する。また、国体明徴運動に奔走する。
昭和10年12月31日、中村義明宅で大岸頼好大尉等に蹶起に加わることを迫る。
昭和11年1月26日、石原莞爾大佐を訪ねる。
     2月23日、牧野伸顕を偵察するために湯河原へ行く。
     2月25日、帰京する。
     2月26日、二・二六事件勃発。外部工作を担当する。
     2月28日、12時頃、赤坂見附山王下料理店「幸楽」にいた安藤大尉の部隊に身を投じる。
     2月29日、陸相官邸で憲兵により施縄される。
     7月5日、 謀議参与及び群集指揮の罪で死刑判決
     7月12日、午前8時34分刑執行
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