◎末松太平事務所(二・二六事件異聞)◎ 

末松太平(1905~1993)。
陸軍士官学校(39期)卒。陸軍大尉。二・二六事件に連座。禁錮4年&免官。

◎《弱者救済という「反乱」二・二六》について◎

2017年01月31日 | 末松建比古


◎千葉県ウオーキング協会「忠敬江戸入りフォーデーウオーク」最終日。
※コース途中で「江戸川区中央図書館」に寄道して《小林亮著「弱者救済という『反乱』二・二六」勉誠書房刊》を読んだ。

※小林亮氏=昭和39(1964)年生まれ。私が大学卒業した年に生まれた「若者」である。年代記風に記せば、1993年(末松太平逝去)当時の小林氏は29歳、2002年(池田俊彦氏逝去)当時の小林氏は38歳だったことになる。
※私が、賢崇寺の法要に参列し「事件関係」の皆様と接するようになったのは、1993年2月26日以降(私は53歳)のことである。
賢崇寺では「年下の参列者」と言葉を交わすことも多々あった。しかし、小林亮氏に法要参列の体験があるかないかは、著作から判断できない。
※この「弱者救済としての『反乱』二・二六」という著作は「事件関係者への直接取材」をしないで書かれているようだった。その代わりに大量の「出版物&各種資料」を取捨選択して纏め上げたように思える。労作ではあるが、そのことに、多少の不安は感じていた。

※事件関係者の皆様が逝去して、取材が不可能になってから、怪しげな「二・二六事件の騙り部」が目立つようになった。そして、事実無根の騙りに気付くだけの「知識」がない輩は、「騙り部がまき散らす嘘」を そのまま引き写してしまう。
なかには《早瀬利之著「石原莞爾と二・二六事件」2016年・潮書房光人社刊》のように、それなりの内容を記していながら「7月12日に《17人》が処刑された」という致命的な誤記によって、他の部分の信憑性まで疑わせてしまった例もある。

※今回 私が安心したのは「弱者救済という叛乱」という認識である。
最近は、二・二六事件を「統制派×皇道派」に無理矢理結びつける捉え方が多い。確かに事件の底流に「派」が存在したかも知れないが、決起と「派」を直結させるのは悪意ある暴論である。
著者の小林亮氏は「平成5年に公開された裁判記録には彼らの肉声が収められていた」として、記録を素直に読み解いていく。「ここで、読者は驚くかも知れない。約1500名もの部隊を動員し、帝都の中枢を四日間に渡って占拠した日本史上最大の事件は、決行の一か月前の時点で何の計画も、いや計画の謀議すら出来ていなかったのだ。(P140)」と、著者自身の「驚き」が記されたりもする。
末松太平は事件に参加していないから「事件の経緯」には全く登場しない。しかし、引用、引用また引用という「引用だらけの本書」のなかで、最初に引用されているのは「末松太平の感慨」であり、終結で引用されているのも「末松太平の感慨」であった。

※この著作の終盤は、15人が処刑された後も獄中に残された、磯部浅一氏に目を向けている。
「そんな中で、磯部は何としても北と西田を救おうと企てる。獄中にある磯部には執りうる手段は一つしかない」
「この磯部の遺した手記を読むと、おそらく将校の中で彼だけが異なる思想的位相の中にあったのではないかと推測できる。その位相は同志の青年将校でなく、同志として起った下士官らと似ているような気がする。即ち、当時の一般的な市民の位相であることだ」
同志として起った下士官のひとり、北島弘伍長(禁錮5年)の温顔が目に浮かんでくる。(末松)

コメント

12.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」(20170130) 水上源一さんのこと(その11)

2017年01月31日 | 今泉章利
12.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」(20170131)
水上源一さんのこと(その11)

ここのところ、ちょっとハードな仕事や、又、別の大変お世話になった親せきの方が先週亡くなったり、体力の減少を自覚したり、なかなか思うように投稿ができず申し訳ないと思っております。
馬齢を重ねるとは、わたくしのためにある言葉ような気がしておりますが、お目にかかった方たちのメッセージなどに思いを馳せ、頑張れと、自らを奮励し続けておりますが、筆の進まぬ点、どうか、ご寛恕賜り、もうしばし、よもやま話も含めてお付き合いいただきたく存じます。

最近二通のコメントを頂きました。夫々へのお返事をかねて次のように書こうと思います

(1)AZUさま
コメント:7月12日処刑直前の絶筆を拝見しては、何を申せましょうか。
どんな死も悲しい。けれど思わぬことで大切な人を失くすほど哀しいことはないでしょう。せめて、その背景を原因を解きほぐして書き留めてくださいまし。

今泉の考え:コメントありがとうございました、人が死ぬのは悲しいことです。湯河原事件では、結局3人の人が亡くなりました。2月26日には警察官の皆川義孝巡査が、3月5日には熱海衛戍病院で河野壽大尉が切腹自決、そして民間人水上源一さんは7月12日に代々木の刑場で亡くなりました。それぞれのご遺族は今も重い気持ちを引きずっておられます。日本の一大悲劇の原因と結果は、かなり詳細なデータを用いながら、じっくり構えて考える必要があると思いますが、まずは、お墓(元麻布賢萗寺)や慰霊像(処刑場、宇田川町)をお参りただくとともに、、河野司さまなどがまとめられた、遺言、遺文などもお読みいただき、じっくりと、ご自分なりの考え育ててゆくことが、21世紀の日本の大切な宝になると信じております。
また、ともすると一方的になるこのようなブログにご感想ご意見をお寄せ頂きましたことあらためて御礼申し上げます。またのコメントをお待ちしております。


(2)伊牟田伸一さま
コメント:早速ご厚意に甘えますが下の記事を読んだ時に衝撃を受けました。奥様への限りない愛を超えて蹶起に踏み切った民間人、少ない資料の中貴重な投稿をありがとうございます。下記に記事の信憑性は如何なのでしょうか?教えて下されば嬉しいです。「検察官の論告の際に禁固15年を言い渡された水上源一が「他の同志の人たちが死刑になるのに、自分だけが助かってはすまぬなぁ」と言ったため死刑に回されたと伝えられています。・・・」


今泉の考え:コメントありがとうございました。
お書きになられたものは、橋本徹馬さんの「天皇と叛乱将校」という昭和29年の著書に、聴いた話として書いてあるのを記憶しています。伊牟田さまはどこで資料をご覧になられましたか。水上さんが栗原さんの死刑求刑を知っていたかについては、小学館資料資料によれば「将校班の求刑は、昭和11年5月6日の第23回公判で行われ、21名が死刑(求刑)であり、湯河原班の求刑は5月10日の第4回公判で、水上源一、宇治野時参、中島清治、黒澤鶴一が懲役15年(求刑)、、、」となっておりますので、御存じであったと思います。
この発言があったといわれる湯河原班の第4回公判は、私は残念ながら見ていません。然し、もしそのような不規則発言があったとしても、まず記録には残らないと思います。(将校班の公判でも、いくつかも不規則発言が、磯部さんや對馬さんや中橋さんなどからなされたようですが、記録には残っていないと、私は、池田さんや父から聞いております.) 一方、国家立て直しのため「捨て石」の覚悟を持つ水上さんにとっては、確かに同志栗原さんが死刑であったのは些かショックであったかもしれません。
また、別の話では、河野大尉の了解を得て行った放火を「水上が指揮した」とか、栗原さんが着用してくれと言う「軍曹の軍服を着ていた」という理由から死刑になった,という話もあります。
ちょっと話はずれますが、公判記録を注意深く読んでいくと、事件の計画は何も知らない水上さんがいつの間二・二六事件か主犯になるような記述に代わってゆくのがわかります。きっと、大卒で理路整然としていたから注目され、主犯にしてしまえといわんばかりの書きぶりです。(これは別途機会があれば書きます。)

水上さんの死生観を書きます。ご遺族にはつらい思いますが、水上源一さんは、昭和7年「救国学生同盟」を設立しました。集まる学生と面談しながら、結局、本当に国のためになる、自らの命を犠牲にする「捨て石」にできるもののみが、本質なのだととらえ、その意味でその年の12月栗原さんと意気投合したようです。火力の大きさは軍にはかないませんが、水上さんは単独でもことを起こそうと考えていました。利権まみれの政治家、倒れた犬養の後継の鈴木を倒そうとした熊谷事件(埼玉挺身隊事件)、首班に迎えようとしている腐りきった陸軍大将暗殺未遂など、怒りは収まっていません。しかし、捨て石の向こうには、一君万民の世が待っていると信じて居ました。(当時の日本人の大多数はこうした考えでした。)

私の解釈ですが、水上さんは、綿引正三さん、を引き連れ、二・二六事件に参加したのですが、小さいながらも、水上部隊は、軍とは精神的に協同してに参加したと思っています。これは、宇治野さんたちが、栗原さんに軍で薫陶を受けて参加したのとは、質的に異なると思います。軍がやらないなら、自分たちだけでもやる。国家がよくなるための「捨て石」となるという確信は、第一次救国学生同盟を解散するときに水上の心の中に強く芽生えたものでありました。
二・二六事件は、水上部隊の参加によって、軍だけの運動ではないと思っています。(その意味で5・15事件の延長線上であると思います。これをいう人は誰もいませんが。)

単にこれまでの、二・二六事件研究は、昭和40年に出版された高橋正衛の中公新書で、「二・二六事件は真崎甚三郎の野心と重なり合った青年将校の維新運動」であるといってよいであろう」と断じた考えから一歩も出ていません。即ち、「二・二六事件は、悪役真崎大将と陸軍の内部抗争事件である」と断じたベストセラーが 値段もお手頃で、わかりやすく40版以上なので、多分50万部も、売れたのではないでしょうか。これを私は、「高橋正衛史観」と呼んでいるのですが、これは、二・二六事件を陸軍に絞って推理と経緯を述べたもので、なぜ、その前史、国家構造、国家思想、二・二六事件に至る様々な事件との関連、そしてその後日本民族に与えた被害、一方、二・二六事件を想定して合法的に処罰と粛清を行ういかつ速やかなマスコミ統制を行うためのシステム研究=昭和9年㋀「政治的非常事変勃発に処する対策要領(片倉衷、後藤他新官僚などが研究)についてなどはまるで論じていません。「二・二六事件産業の人たちは」二・二六事件を陸軍内部抗争に焦点を絞り、鍬を振り上げスコップを金の生る畑に掘り下げていったように思われます。
(「高橋正衛史観」に基づいて、NHKと共同で「真崎が黒幕だった」と結論づけたよみものである「雪は汚れていた」は100万部売れたと言われているので、日本人の大半は「真崎黒幕説」で洗脳されているに違いありません。実際「雪は汚れていた」の著者は、高橋正衛の真崎黒幕説が書いてあるノートをNHK経由写しをもらってまとめたものです。彼女は一言も書いていませんが、高橋さんが雑誌で、「澤地は自分のノートを使い、かつまとめ方について電話で相談してきた」と其の経緯を公表しています。ちょっとだけ触れておきますが、「真崎黒幕説は、何の根拠もなく、高橋正衛の想像です」と、高橋は、1990年2月、千葉の末松宅で、末松太平さん、山口富永さんに対しあっけなく説明します。しかし、日本人の頭の中に植え付けられた真っ黒い性格の悪い真崎像はどうしてくれるのでしょうか。、、)

伊牟田様、だいぶ話がそれてしまいました。長くなりました。水上さんの死刑の問題は、水上さんが言われたかもしれない発言ではなく、もっと直接的に、天皇の前で厳罰を誓った、責任者の寺内寿一大臣(川島陸軍大臣の後任で、誰からも、ロボット大臣といわれていた)、および梅津次官(もと、安藤大尉の上官であった歩兵三聯隊長)をよく調べる必要があると思います。
そして、最後に、干与審理を行った井上一男法務官を調べるべきでしょう。匂坂資料のオリジナルがそのまま国立国会図書館の資料室にありますので調べるのもひょっとしていみがあるかもしれません。

長くなりましたので擱筆しますが、私は、よく、令嬢の宣子さまから「なぜ二・二六事件は青年将校ばっかりなの?」と聞かれました。今回初めて書いたことは、私の心の中にずっとあったものです。また、様々な、コメントをお待ちしております。

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11.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」(20170119) 水上源一さんのこと(その10)

2017年01月19日 | 今泉章利


11.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」(20170119)
水上源一さんのこと(その10)



前回お話しましたように、今年に入り私親戚が亡くなりました。人が亡くなるということは、理由の如何を問わず、悲しいことです。

二・二六事件で処刑や遭難された方のご家族がどれほど苦しみ悲しみを引き継いでおられるか、思いを一層深くいたしました。水上源一さんは、明治41年北海道の太平洋に面した長万部から、日本海に面した瀬棚という町を結ぶやや瀬棚寄りにある内陸の、そして日本で一、二美しさを競う後志利別川(しりべしとしべし がわ)が流れる、今金(いまかね)という地で生まれました。

船乗りになるべく15歳のとき、函館商船学校に入学しました。大正12年のことでした。昭和2年19歳で卒業しましたが、宣子さんが「お父さんはね。船酔いがひどくて船乗りになれなかったとお母さんが言っていた」というのは本当でしょう。
この学校には練習船がなく、鮭漁の漁船などに乗る実習で、環境は良くなかったと記録されております。
函館の高台のお寺、確か、高龍寺というお寺だったと思いますが、そこに、函館商船学校の卒業者名が刻まれた大きな碑があり、水上源一のお名前は確かに彫られてありました。写真が見当たらないのが残念です。

水上さんのご親戚は裕福で、叔父様が水上さんの学資のスポンサーでありました。
水上さんは、翌昭和3年の4月、東京の日本大学専門部政治科に入学しました。それからのことは次回に書きますが、このころの大きな出来事は、奥様の佐藤はつねさんとの出会いです。
初子というのは水上さんが、好んで付けたお気に入りの名前で、戸籍上は、「佐藤はつね」さんです。はつねさんは明治44年岩手県の前澤で生まれました。二十人町という歴史のある町で生まれました。
かなり急な道をのぼった丘に前澤小学校があります。前澤の町を一望できる場所ですが、はつねさんはこの小学校に通われたと思います。はつねさんはその後、東京の学校に通われました。

源一さんは北海道、はつねさんは岩手県前澤、ですが、お二人は東北本線の汽車の中で知りあったそうです。昭和3年源一さん20歳、はつねさんは17歳でした。
それから8年間、源一さんが二・二六事件で生涯を終える昭和11年まで、水上さんと、はつねさんと共に居られました。令嬢の宣子さんから、源一さんが、はつねさんに、昭和7年の7-9月の3か月に出された7通の手紙を見せていただきましたが、はつねさんがしっかりと源一さんの手紙を大切に保管していたことに思いを馳せると熱いものを感じます。

昭和9年に宣子さんが生まれ、婚姻届けを出しています。(宣子さんの名付け親は、澁川善助さんです。)写真は、28歳の源一さんが処刑される直前まで持っていた、25歳のはつねさんあてのセンスとその箱です。センスには、「我が永遠の最愛なる妻初子よ 義務終りたらば来れ 我れは嬉んで迎ふ それ迄は強くゝ生きよ昭和拾壱年七月拾壱日 夫源一」 箱の裏には「今処刑台に行かんとし これ迄我手に固く持っていたもの 既に栗原さん露と消えたり」とあります。

この絶筆は、昭和11年7月12日、朝7時の栗原さんの処刑直後に書かれたものでしょう。源一さんは、8時30分に澁川善助さんたちと共に処刑されました。


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◎番外篇/私流・末松太平××回忌ウオーク◎

2017年01月17日 | 末松建比古


◎1993年1月19日「朝日新聞」朝刊。
※「末松太平氏(元陸軍大尉)。17日午前8時33分、急性心不全のため、千葉市中央区登戸5の8の8の自宅で死去。
87歳。葬儀・告別式は20日正午から千葉市若葉区桜木町47の1の博全社式場で、喪主は長男建比古氏。(以下省略)」
※実は、私なりの考えがあって「法要は三回忌まで」と決めている。納得できない方もいるようだが、末松太平の場合も、末松太平夫人の場合も、喪主の権限(?)で「三回忌法要」で、物理的な束縛を終結させた。しかし、形式的な法要はやめても、命日は命日である。私流の「◎◎回忌」は持続している。
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◎2017年1月17日。ちば歩こう会設定・通年コース「遥かなる縄文文化(加曾利貝塚と水運)探訪」17km。
※独り歩きの「◎◎回忌ウオーク」である。
画像は、千葉市営霊園「平和公園」に向かう道。平和公園正門の手前には「特養介護施設・清和園」があって、末松太平未亡人(私の母)が 死去するまでお世話になっていた。
当時は「特養施設訪問&墓参」のセット歩行が「毎週の定番」で、両親に対する「心理的な責務」を一気に果たしていた。
※今日の歩きは、正規コースの加曾利貝塚から(コースアウトして)千葉市営桜木霊園に立ち寄った。
この市営霊園には「久保家の墓」がある。末松敏子(私の母)の旧姓は久保敏子。久保三郎(私の祖父=千葉市の2代目市長)は、末松太平が恩賜で釈放される際の身元引受人だった。
※久保三郎の旧邸(登戸2丁目)は売却されてマンション2棟に姿を変えた。
※末松太平の旧邸(登戸5丁目)も売却されてマンションに姿を変えた。
※末松太平の葬儀が行われた博全社式場は市営桜木墓地に隣接していたが(火葬場移転に伴い)既に別の場所に移転している。
即ち今回の「◎◎回忌ウオーク」は、消え去った“過去”に対する追悼ウオークでもあった。
因みに、私の本籍は今でも「千葉市中央区」のままにしてある。





※写真上=末松太平の墓/2017年1月17日撮影。写真下=石原裕次郎氏の墓/2016年12月23日撮影。
毎年12月23日は《よこはまウオーキング協会「汽笛一声ウオーク」34km》を歩いている。
新橋(日比谷公園)と桜木町(赤レンガパーク)を結ぶ“明治5年・鉄道開通の道”ウオークである。
途中で鶴見総持寺に寄り道して、裕次郎氏の墓を表敬訪問するのが、私流の歩き方になっている。
実は、裕次郎氏に関わる「思い出ばなし」は多々あるのだが、本題と離れすぎるので別の機会ということに…。(末松)
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10.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」(20170109) 水上源一さんのこと(その9)

2017年01月09日 | 今泉章利
10.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」(20170109)
水上源一さんのこと(その9)

親戚に不幸があり、山口まで行っておりました。あっという間に日が過ぎるなと思っています。

さて、日本の歴史教科書は、大正、昭和になるといきなりわけがわからなくなる、とは、よく言われています。特に戦後、唯物史観という歴史認識が大きな伏流となって、各大学の文学部の歴史担当者に引き継がれ、文部省にもなだれ込み、マッカサーの占領政策ともなじみつつ、「歴史学」がその自由な学問的な立場を失い、「プロパガンダ」的、歴史”学”になったからだ という人がいましたが、いい得て妙であります。
筆者は二・二六事件の窓から、歴史を振り返るのみですが、「なぜ」とか「その背景」があまりに述べられていないし、研究もされておらず、いくら本を買っても事件の本質は近寄れない気がします。例えば前回の、犬養、鈴木の話でも、あるいは普通選挙でも、なぜあれほどに国民全体が怒っていたのかがわかりません。私の見るところ、二・二六事件につながる政党不信やその攻撃の標的となった人は、当たり前なのですが、ほとんどみんな政友会や其の周りの大きな沼の中にいます。
政友会の初代総裁伊藤博文は、1900年、その結党に当たり明治天皇から2万円のご下賜を頂いたそうですが、地方地主や三井などの財閥などをその基盤として選挙(普通選挙前の特定選挙)を行い、帝国議会を運営、内閣を組閣して政治を行いました。政友会を源流とする45年の歴史の中には、当たり前ではありますが、西園寺公望、高橋是清、清浦圭吾、田中義一、原敬、浜口雄幸、久原房之助、犬養毅、鈴木喜三郎などがおります。もうあまり残り少ない人生ではありますが、この方面の研究をもう少しやってみようと思っています。またこの流れは、今の自民党につながっている、私たちの政治の歴史でもあります。

また、もう一つ分かりにくいのが賄賂や特権階級のことです。一部商売的なものも感じますが、富の偏在、階級の存在などが、いかに、人々の心をいら立たせていたかです。軍費用に係るもの(キックバック)、塩など統制品に係るもの、許認可に係るもの、朝鮮や中国における様々なもの、その他権力の座にとってのフリンジベネフィットは山ほどあると思います。
またさらに、究明すべきは、農村の大地主制についてです。北一輝が問題としていた大地主制度は、敗戦とともにマッカーサーの指令により、一朝にして崩れ去りました。然しそれまでは、大地主と小作人という構造には一切、手が付けられませんでした。それは、政友会政権の基盤が、地方地主にあったからです。人力に頼っていた農村の徴兵の負担も大きかったかもしれません。
二・二六事件の大きなきっかけであった貧農問題は、小作人問題であり、大地主制度にありました。末松太平さんが、私に言われたことの中に、二・二六事件の原点は、津軽の「車力村」にあるといわれました。私は、過去3回ほどこの地を訪れました。そして、山背の風の中、胸まで浸かって田植えをしたという当時の小作人の方たちに思いを馳せました。

扨て今日は、三島憲兵隊における水上さんの憲兵調書の後半を書きます。

(続きです。救国学生同盟についてです。)
当時ノ会員ハ日大、拓大、中大、早大、慶大等テ 約4百名アリマシタカ 之ハ、既ニ解散シ、昭和九年二月十一日 日本青年党ヲ設立シ、同十年八月郷軍同志会ヲ設立致シマシタ

カウシタ私ノ気持カ今回ノ事件ニ加担シタ主因トナッテ居リマス

問)オ前ト栗原中尉トノ関係ハ如何

答)ソレハ昭和七年十二月友人ノ山内一郎カ幹候トシテ歩一ノ十中隊ニ入隊シマシテ ソノ月ノ半頃 山内ニ面会ニ行キマシタ際「中隊ニ君ノヤウナ気持ヲ持ツテヰル将校カ居ル 会ツテ見タラドウカ」ト言ワレタノテ ソレテハト言ツテ将校室ニ行キ栗原サンニ  会ツタノカ初メテゝ其時オ互ヒニ信念ヲ語リ会ヒ大イニ 共鳴スル処カアリマシタノテ 爾来今日迄同志トシテ交際シテ居リマス

問)今回ノ事変ニ対スル計画ニ参與シ非サルヤ如何

答)私ハ今回ノ事件カ如何ニ計画サレテヰタカハ一向存シマセン  唯実行ニ加ハッタゝケテアリマス

問)指揮官河野大尉トハ面識アリシヤ如何

答)決行ノ夜 栗原サンニ紹介サレタノカ 初メテゝ存シマセンテシタ

問)本件ニ就キ他ニ陳述スルコトハアリヤ

答)私ノ信念ハ尊王絶対テアリ今回私達ノ採ツタ行為ニ依ツテ皇運ノ益々隆昌ナルコトヲ希フモノテアリマス

水上源一(自筆)拇印

右讀聞ケタル處相違ナキ旨申立ツルニ付署名拇印セシム

昭和十一年二月二十八日

三島憲兵分隊

陸軍司法警察官  陸軍憲兵曹長 山中梅吉 (印)

この三島憲兵隊での訊問調書は、事件直後であり、率直に語られていて、私は一級の資料と思っています。そのあと、東京の訊問調書や公判記録では、誘導的な尋問がなされ、いつの間にか、水上さんが軽機、拳銃、弾薬を用意したように言わせていますが、東京の資料を引用するにあたっては十分な注意が必要です。

求刑は懲役十五年。判決は死刑。
死刑の判決文には、「右ノ者等ニ對スル叛亂被告事件ニ付當軍法會議ハ検察官陸軍法務官井上一男干與審理ヲ遂ゲ判決スルコト左ノ如シ  主文 被告人水上源一ヲ死刑ニ処ス (以下略)」とあります。
井上一男法務官の「干與審理」とは、まだ不勉強でよく分かっていませんが、いやしくも懲役十五年の求刑が、決定的理由も述べられず、無期を飛び越え死刑になったのであります。
事情を知っている筈の湯河原班の「裁判官陸軍法務官」の伊東章信は、戦後の雑誌対談では、明らかにしていません。
一方、この東京陸軍軍法会議の最高責任者であり、天皇に厳罰を誓った寺内寿一陸軍大臣は、この決定にどのようにかかわったのか。元歩三の連隊長で部下の安藤大尉の参加に愕然とした梅津陸軍次官や匂坂法務官はどのように考えたのか。
研究課題は、湧き上がってくるばかりであります。 なお、次回の10回目で一応水上さんの記事はとりあえず擱筆する予定です。


追伸:井上一男法務官は、1929年4月9日陸軍法務官に任官、終戦時は第6空軍法務部長でありました。

「干與審理」も含め、何か情報をご存知の方はご教示くださいませ。

なお、私の写した第一回公判調書のノートの該当部分を恥ずかしながら添付します。



写真の中央部をよく見ていただくと井上一 までは読めるのですが、草書体の文字が読めず、」その位置づけがわかりかねています。
どなたか、誠に申しわけないのですが、お教えいただければ幸甚です。

なお、、その前後の関係分は次の通りです。

「第一回公判調書 元陸軍歩兵軍曹 宇治野時参 、、、(略)」、、、、右ノ者ニ対スル反乱被告事件ニ付 昭和十一年五月五日東京陸軍軍法会議公判廷ニ於テ  裁判長判士陸軍歩兵中佐人見秀三  裁判官陸軍法務官伊藤章信  裁判官判士陸軍砲兵大尉根岸主計  裁判官判士陸軍歩兵大尉石井秋穂  裁判官判士陸軍歩兵大尉杉田一次(?)補充裁判官判士陸軍騎兵大尉吉(?)橋健児  陸軍録事鈴(?)木又三郎 XXXノ上 検察官陸軍法務官 井上一男(?)XXXXX 公判ヲ開廷ス  陸軍軍法会議法第四百十七条ニ依リ 審判ヲ公開セズ 各被告人ハ  XXXX。。。 わかりづらく自分で辞書っぽいものも作りましたが大変です。但し、この草書はきちんとしたものですが、ほとんどが立派な毛筆のため、難物です。
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9.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」(20170104) 水上源一さんのこと(その8)

2017年01月04日 | 今泉章利


9.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」(20170104)
水上源一さんのこと(その8)

裁判制度は、私たちにとって、わかっているようでなかなかわからない世界です。しかし、そのベースとなるものは法律という取り決め事です。感情で人を裁くのではなく、法律という約束事で世の中を治めるのです。このような国家を法治国家と呼んでいます。しかし、世の中が複雑になってゆくと、裁く側の奇妙な論理の組立て、結論ありきの見せかけ裁判が横行します。二・二六事件の裁判は、東京陸軍軍法会議という特別な、天皇の命令、「昭和一一年勅令第二一号東京陸軍軍法会議ニ関スル件」によって設けられた軍法会議です。この軍法会議は、いわゆる戦時下での「特設軍法会議」と見做し、裁判官の忌避はできない、弁護人の選任を許さない、審判を非公開、上訴を認めないというものであり、さらに、対象を裁判管轄権の変更なく、民間人にまで広げたものでありました。事件の重大性はあるとしても、このような裁判手続きが明治憲法下の法治国家で許されるのか、明治憲法といえども、権力による私刑ともいうべき裁判を容認してはいなかったはずである、と、私に多くを教えて頂いた松本一郎先生はいわれています。(写真参照ください。二・二六事件裁判の研究、1999年7月、緑陰書房)また、別のある人は、この「東京陸軍軍法会議」の設置を「明治憲法の自殺」と断じました。

水上さんの第一回の訊問調書は、3月18日に行われました。小学館の二・二六事件秘録第三巻195ページに水上さんの訊問状況が書かれていますが、同席した憲兵の記憶報告であり、要点は間違っていませんが、実際のものはかなり長文で,やり取りに満ちています。
今回は、ほとんど見ることのない、というか、多分初めての発表になると思いますが、事件直後の2月28日に憲兵隊三島分隊における訊問調書を一部記載したいと思います。

被告人訊問調書  被告人水上源一

右者ニ対スル叛乱被告事件ニ付、昭和十一年二月二十八日 當分隊ニ於テ本職(注:三島憲兵分隊 陸軍司法警察官陸軍憲兵曹長山中梅吉)ハ右被告人ニ対シ、訊問ヲ為スコト左ノ如シ

問 氏名、年齢、族称、本籍、出生地、住所ハ如何
答 氏名ハ前述ノ通リ
  年令ハ當二十九年
  族称ハ平民
  本籍ハ東京市神田区西神田二ノ二一ノ三
  出生地ハ北海道瀬棚郡利別村今金
  住所ハ東京市麻布区霞町一
問 位記、勲章、記章、恩給、年金ヲ有スルヤ
答 アリマセン

問 兵役関係ハ如何
答 第一補充兵役陸軍電信兵
問 二月二十六日ノ行動ニ就イテ述ベヨ
答 私ハ二月二十四日午後三時頃、歩兵第一聯隊ノ栗原サンヲ久方振リデ 訪問シタトキ
  「明晩当直ダカラ遊ヒニ来イ」ト云ハレマシタノデ、同志綿引正三ト二人テ面会ニ行キマシタ処
  「今日ヤルゾ」ト云ヒマシタカラ 何時ダカ問ヒ返スト「明朝四時ダ」ト答ヘマシタ ソシテ
  軍ト着替ヘロト言ハレル侭ニ 其ノ部屋ニアッタ軍曹肩章附着ノ軍服ト着替ヘ編上靴、巻脚絆ヲ穿ケ  マシタ 
  ソノ内ニ同志ガ集ッテ来マスシ 軽機ヤ拳銃、弾薬等ガ運バレ 私ハ日本刀ヲ持チ 二十六日午前零時四十分頃 皆と共ニ 河野大尉ノ指揮ヲ受ケ 牧野伸顕殺害ノタメ湯河原伊藤旅館別館ニ向ヒマシテ同家ヲ襲撃シマシタ

問 襲撃時ニ於ケル状況ヲ述ベヨ
答 私達ハ隊長ヲ先頭ニ目的地タル牧野ノ宿舎ニ参リマシテ 門前ニテ区署ヲ受ケ 私ト綿引、宇治野ノ三名は、表カラト云ワレ、勝手口ノ板垣ノ横カラ侵入シ、表玄関入口ニ向ヒマシタ。 ソノ時、隊長ト同志二(宮田、黒田)ハ勝手口カラ入リマシタ。 私達ハ表玄関ニ行キ、私ハ日本刀ヲ、綿引ハ足テ硝子戸ヲ破壊シテ居リマスト 中カラ銃聲カ聞コエマスノテ「ヤッタナ」ト思ヒ 屋内カラ「畜生ヤリヤガッタナ」ト言フ聲カシタノデ 敵ガ 彼方ヘ集中シタト感シ ヤラレテハ大変タト勝手口ニ向ハウトシタ時ハ 共ニ来タ二人ハ其処ニハ居リマセンテシタ ソレテ私モ直グ勝手口ヘ廻ッタトキ 隊長カ 中テ同志ニ助ケラレテ出テ来ルノヲ認メマシタ 私ハ其ノ時「軽機来イ」ト大聲ヲ発シマシタラ 軽機(中島)カ降リテキテ勝手口カラ飛込ミマシタ ソコテ私ハ 屋内ヲ指示シ「敵は向フタカラ撃テ」ト言ヒマシタガ銃ノ故障カ彈丸ハ出マセンテシタ。ソコテ私ハ軽機カ使ヘナケレハ駄目タト感ジ 隊長ヲ探シマスト玄関前ノ所テ屈ンテヰタノテ隊長ノ許ニ行キ「火ヲツケマス」ト云ッテ、前ノ塀ヲ乗リ越へテ、玄関脇ノ物干場ニ行キ干物ヲ下ロシテ火ヲ付ケントシタカ干物カ湿ッテヰテ駄目ナノテ、、、(以下略)

問 襲撃ニ加担スルニ至レル動機ハ如何
答 私ガ日本大学ニ入校シマシタ当時、校内ニ於イテ、学生が共産主義ヲ云々シ 演説練習ニ共産党理論ヲ口説シ 畏クモ皇室ノ尊厳ヲ冒涜スルカ如キ言辞ヤ私有財産制度ノ非認ヲ云々スルカ学生間ニ非常ナ拍手感動を與ヘテ居ルノテ 田舎出ノ私ニハ共産党トハ如何ナルモノカ分ラナカッタカ 皆ニ向ッテ日本ハ他國ト國体ヲ異ニシ立派ナ國ノ筈タトテ國体観を述ヘタカ弥次ラレテシマッタ様ナ状態テ 当時ハ各大学共左翼化シ来テヰタ時代テアリマシタ

ソレカラ私ハ共産党ノ理論ヲ研究シテ見タカ 私ノ國体観カ正シイノタト信シマシタ 然シカウシタ学生間ノ叫ヒノ内ニ我國ノ何処カニ欠陥カアルヤウニ感ジマシタ ソレカラ一度議会ノ傍聴ニ行ツタ際 神聖ナルヘキ國会議場カ マルテ 政権争奪ノ修羅場ノ如クテアルノテ コレテハ立派ナ政治カ行ハレナイト
感シマシタ

ソレハ田中大将ノ張作霖爆死事件等議場ノ問題トスヘキモノニ非サルニ 政権争奪ノ具ニ供シ 議会ニ於テ暴露スルカ如キハ 徒ラニ國際関係ヲ悪化スルモノト思ヒ 政党ニ対スル不満ヲ抱クヤウニナリ、又、續イテ起ツテキタロンドン軍縮会議ニ於ケル政府特権階級ノ私利私慾ニ基ク屈辱的條約ノ締結及ヒ 政党財閥ニヨル弗買ヒ、満州事変時ニ於ケル塩賈事件等私利私欲ノタメニハ国家国民モ眼中ニナキ輩(特権階級)ニ対スル不満ヲ一層感スルニ至リマシタ  ソレカラコノ侭テハイケナイ 何ントカセネハナラヌト考ヘタカ如何トモ出キマセンテシタ

其処テ私ハ昭和七年五月十六日、自ラ主唱シテ学生間ニ愛國団体 救国学生同盟ヲ設立シ 事務所ヲ千田(ママ)ヶ谷ニ置イテ合法的運動テ進ンテヰマシタ


続きは次回ですが、水上さんが救国学生同盟を設立されたのは、24歳、日大法文学部政治学科 2年生です。憂国の思いが伝わってきますが、注意深い読者にはピンとくる日です。つまり、昭和7年五・一五事件の翌日なのです。つまり、犬養内閣が総辞職した日です。 政友会の総裁には、犬養毅に代わり鈴木喜三郎が就任します。この鈴木喜三郎を狙った事件が、埼玉挺身隊事件、翌年昭和8年の11月のことでした。(今泉)
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8.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」(20170103) 水上源一さんのこと(その7)

2017年01月03日 | 今泉章利



8.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」(20170103)
水上源一さんのこと(その7)

二・二六事件は、改めて大きな事件だったとしみじみ思います。登場人物も半端でなく人数も多い。
それはなぜでしょうか。私はずっとこのことを考え続けてきました。また、一生考えてゆきたいとも思っています。ひとつには、多分、事件を起こした人たちの心情が、国民の多くの共感を得ていたからだろうと思います。五一五事件にみる、全国からの減刑嘆願書。相澤事件への関心の高さ。確かに、大地主制のもとの小作人たちの農村は極限まで貧困になっていました。
国際経済に連携した不景気と労働争議の頻発、社会主義の伸長、半世紀が過ぎた明治憲法とその矛盾と貧富の差と権力の偏在。
念願の普通選挙によって選ばれた議員たちは、私利私欲に駆け回り、賄賂は横行、、怒りと絶望の中で、人々は押しつぶされそうになり不安に喘いでいました。
だから、多くの人たちは、それぞれの立場にあって、政治を変えたいと願っていました。当時の人々の願いの多くは、その中心には天皇がいてほしいと願っていました、私の父(今泉義道)は、「一君万民」と口癖のように言っていました。父によれば、天皇陛下は「帝王学」を修めておられるから、正しいことは、きちんと理解され、統治される能力をお持ちなのであると、言っていました。
この事件に参加した人たちは、天皇は、周りの取り巻きによって真の世情が伝わっておらず、もし本当のことを天皇が知ってくれれば、必ず、天皇様は日本のために大御心を開かれる、そう信じて、疑わなかった人たちでした。

もう少しお話します。昭和11年1月15日、日本はロンドン軍縮条約からの脱退を宣言。無制限建艦競争が始まりました。陸軍統制派の人たちは、民間人をも巻き込む国家総力戦のため、法律、経済の整備を画策していました。
司法省刑事局の調査によれば、昭和6年から14年までに検挙された左翼学生は3941人、同じ期間に新たに設立された右翼学生団体は163団体、約25000人を擁していました。
資本主義の行き詰まり金本位制は限界を迎えます。株の暴落による世界恐慌。共産主義国家の成立、清王朝の崩壊過程で、各地に軍閥政権ができている混乱の中国。各植民地は独立の機運が高まり、日露戦争に勝った日本に留学生たちを送る。まさしく多事多難が渦巻く、そんな時代の中に、この事件は起きました。

さて、今日の写真は、宇田川町の陸軍衛戍刑務所の中で処刑される最期までしっかりと水上さんの手に持っていた、愛娘(まなむすめ)に遺したきれいな扇です。トンボは秋津洲、つまり、日本のことであります。この日本の国に三頭のトンボが飛んでいて、赤いトンボの宣子さんを、母親の初子(はつね)さんと父親の源一さんが見守っているのであります。父親は娘に次の言葉を遺しました。

「此の國の如く父母は汝を愛せり。父は明日天皇陛下のために死す。汝成長なさば母に孝養せよ。  昭和拾壱年七月拾壱日」

さて、私は、水上さんをめぐって「行動隊第二十九冊ノ内第十八號(湯河原班)」の標目(目次)と丁数(ページ数)で、筆記すべきところを日にち順に次の11の箇所を選択いたしました。
<>は、私が前述した118までの資料番号で、( )は丁数(ページ数)を示します。

1.昭和11年2月26日<38> 拘引状(P.183) 6ページ記述あり

2.昭和11年2月28日<35> 水上源一第一補充兵役陸軍電信兵 (P.163) 8ページ記述あり

3.昭和11年3月3日<56、57> 勾留状水上源一 (P.227) 2ページ記述あり 

4.昭和11年3月8日<82>  顛末書 (水上はつね) (P.329) 2ページ記述あり

5.昭和11年3月18日<105> 被告人水上源一訊問調書 (P.551) 56ページ記述あり

6.昭和11年3月20日<106> 第二回被告人水上源一訊問調書 (P.607) 3ページ記述あり

7.昭和11年5月5日<111> 第一回公判調書  (P.620) 137ページ記述あり

8.昭和11年5月6日<112> 第二回公判調書  (P.757) 124ページ記述あり

9.昭和11年5月9日<113> 第三回公判調書  (P.881) 4ページ記述あり

10.昭和11年5月10日<114> 第4回公判調書 (注:求刑 懲役十五年) (P.885) 27ページ記述あり

11.昭和11年7月5日<118> 第五回公判調書 (注:判決 死刑)  (P.921) 裁判書へ
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7.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」(20170102) 水上源一さんのこと(その6)

2017年01月02日 | 今泉章利


7.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」(20170102)
水上源一さんのこと(その6)

皆さま、本年もよろしくお願い申し上げます。この写真にあるハンカチは、水上源一さんが28歳で処刑される前日の、昭和11年7月11日午後8時に、25歳の妻、初子(はつね)さんへ遺したもので、宣子さん許可を得て撮った写真です。その時宣子さんは2歳でした。私は、今、裁判記録、すなわち、行動隊第二十九冊ノ内第十八號(湯河原班)の中に、どのような資料があるのかをお示したうえで、水上源一さんのそのうちの被告人尋問調書、公判調書を示したいと考えています。標目を続けたいと思います。

71.叛乱被告人河野壽自決ニ関スル通牒        (丁数二五十二)
72.xx引取證及假還付書送付ノ件通牒         (丁数二六四)
73.引取證                       (丁数二六五)
74.仮還付書                      (丁数二六七)
75.検視調書送付ノ件                (丁数二六八)
76.検視調書 (注:河野壽)            (丁数二六九)
77.聴取書送付ノ件                  (丁数二八三)
78.聴取書                            (丁数二八四)
79.陸密第250號 元陸軍航空兵大尉河野壽遺書送付ノ件通牒   (丁数二九二)
    (自二九八丁至三〇一丁三枚欠)

80.證拠物件追走ニ関スル件通牒 (宮田晃)          (丁数三〇二)
81.検案書 (皆川義孝) 32歳               (丁数三〇三)
82.顛末書(水上はつね) (注:3月8日)          (丁数三二九)
83.請書(水上はつね)                    (丁数三三一)
84.顛末書(綿引誠)                     (丁数三三二)
85.請書 (綿引誠)                     (丁数三三四)


86.被告人訊問調書(宇治野時参) (注:昭和11年3月13日) (丁数三三六)
87.第二回被告人訊問調書(同)  (注:昭和11年3月14日) (丁数三五一) 
88.第三回被告人訊問調書(同)  (注:昭和11年3月15日) (丁数三六一) 
89.第四回被告人訊問調書(同)  (注:昭和11年3月16日) (丁数三六六) 
90.第五回被告人訊問調書(同)  (注:昭和11年3月19日) (丁数三七三) 
91.被告人訊問調書(黒澤鶴一) 22歳 (注:昭和11年3月16日)(丁数三七五)
92.第二回被告人訊問調書(同)  (注:昭和11年3月18日)  (丁数三九二)
93.被告人訊問調書(中島清治) 明治41年2月1日生(注:昭和11年3月16日)(丁数四〇一)
94.第二回被告人訊問調書(同)  (注:昭和11年3月17日)  (丁数四〇九)
95.第三回被告人訊問調書(同)  (注:昭和11年3月17日)  (丁数四二一)
96.被告人訊問調書(宮田晃) 明治41年10月9日生(注:昭和11年3月18日) (丁数四二三)
97.第二回被告人訊問調書(同)  (注:昭和11年3月19日)  (丁数四三四)
98.被告人訊問調書(綿引正三) 大正3年2月28日生(注:昭和11年3月15日)  (丁数四五二)
99.同人手記           (注:昭和11年3月15日)  (丁数四八九)
100.第二回被告人訊問調書(同) (注:昭和11年3月20日)   (丁数四九六)
101.被告人訊問調書(黒田晃) 明治43年4月15日生(注:昭和11年3月16日) (丁数四九九)
102.第二回被告人訊問調書(同)  (注:昭和11年3月17日)  (丁数五一七)
193.第三回被告人訊問調書(同)  (注:昭和11年3月18日)  (丁数五二六)
104.上申書(同)                          (丁数五三六)
105.被告人訊問調書(水上源一) 明治41年9月28日生(注:昭和11年3月18日) (丁数五五一) 
      注:この調書は56ページあり)
106.第二回被告人訊問調書(同)  (注:昭和11年3月17日)   (丁数六〇七)


107.命令(注:裁判官6名)  昭和11年4月24日          (丁数六一〇)
108.命令(注:第一回公判を昭和11年5月5日午前10:00) 昭和11年5月1日  (丁数六一一)
109.受領書(注:命令の受領)                     (丁数六一二)
110.召喚通知書 (注:7人、宇治野、宮田、中島、黒田、黒澤、水上、綿引)(丁数六一三)
    (注:軍法会議→刑務所)
111.第一回公判調書  (注:5月5日)                (丁数六二〇)
    (注:この調書は137ページあり)
112.第二回公判調書  (注:5月6日)                (丁数七五七)
    (注:この調書は137ページあり)
113.第三回公判調書  (注:5月9日)                (丁数八八一)
    (注:この調書は137ページあり)
114.第四回公判調書  (注:5月10日)               (丁数八八五)

115.命令(第五回公判、七月五日 十一時)(注:7月4日)        (丁数九一二)
116.(命令)受領証           (注:7月4日)        (丁数九一三)
117.召喚通知書 (注:7人、宇治野、宮田、中島、黒田、黒澤、水上、綿引) (丁数九一四)

118.第五回公判調書  (注:7月5日)(注:裁判書へ、判決)       (丁数九二一)

以上が「行動隊第二十九冊ノ内第十八號(湯河原班)」の標目(目次)と丁数(ページ数)です。
それぞれの記録は、命令書等を除いては、ほとんどが毛筆による草書体で書かれており、読むためにはかなりの辛抱と
努力が必要です。筆者の場合、ノートを二行書きとし、判読できないものは、模写して、後でゆっくり眺めると、読めてくる。そのうち、一種の辞書のような比較表を作りましたが、
その後、草書体くずし辞典などを見ると、録事(記録係のこと)が異なり、筆致は変わっても、くずし字は、当然ながら同じものとなっています。
次回はこの記録の中で、どこを中心に水上さんの記録をたどったについてお話したいと思います。
(今泉)
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