10.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」(20170109)
水上源一さんのこと(その9)
親戚に不幸があり、山口まで行っておりました。あっという間に日が過ぎるなと思っています。
さて、日本の歴史教科書は、大正、昭和になるといきなりわけがわからなくなる、とは、よく言われています。特に戦後、唯物史観という歴史認識が大きな伏流となって、各大学の文学部の歴史担当者に引き継がれ、文部省にもなだれ込み、マッカサーの占領政策ともなじみつつ、「歴史学」がその自由な学問的な立場を失い、「プロパガンダ」的、歴史”学”になったからだ という人がいましたが、いい得て妙であります。
筆者は二・二六事件の窓から、歴史を振り返るのみですが、「なぜ」とか「その背景」があまりに述べられていないし、研究もされておらず、いくら本を買っても事件の本質は近寄れない気がします。例えば前回の、犬養、鈴木の話でも、あるいは普通選挙でも、なぜあれほどに国民全体が怒っていたのかがわかりません。私の見るところ、二・二六事件につながる政党不信やその攻撃の標的となった人は、当たり前なのですが、ほとんどみんな政友会や其の周りの大きな沼の中にいます。
政友会の初代総裁伊藤博文は、1900年、その結党に当たり明治天皇から2万円のご下賜を頂いたそうですが、地方地主や三井などの財閥などをその基盤として選挙(普通選挙前の特定選挙)を行い、帝国議会を運営、内閣を組閣して政治を行いました。政友会を源流とする45年の歴史の中には、当たり前ではありますが、西園寺公望、高橋是清、清浦圭吾、田中義一、原敬、浜口雄幸、久原房之助、犬養毅、鈴木喜三郎などがおります。もうあまり残り少ない人生ではありますが、この方面の研究をもう少しやってみようと思っています。またこの流れは、今の自民党につながっている、私たちの政治の歴史でもあります。
また、もう一つ分かりにくいのが賄賂や特権階級のことです。一部商売的なものも感じますが、富の偏在、階級の存在などが、いかに、人々の心をいら立たせていたかです。軍費用に係るもの(キックバック)、塩など統制品に係るもの、許認可に係るもの、朝鮮や中国における様々なもの、その他権力の座にとってのフリンジベネフィットは山ほどあると思います。
またさらに、究明すべきは、農村の大地主制についてです。北一輝が問題としていた大地主制度は、敗戦とともにマッカーサーの指令により、一朝にして崩れ去りました。然しそれまでは、大地主と小作人という構造には一切、手が付けられませんでした。それは、政友会政権の基盤が、地方地主にあったからです。人力に頼っていた農村の徴兵の負担も大きかったかもしれません。
二・二六事件の大きなきっかけであった貧農問題は、小作人問題であり、大地主制度にありました。末松太平さんが、私に言われたことの中に、二・二六事件の原点は、津軽の「車力村」にあるといわれました。私は、過去3回ほどこの地を訪れました。そして、山背の風の中、胸まで浸かって田植えをしたという当時の小作人の方たちに思いを馳せました。
扨て今日は、三島憲兵隊における水上さんの憲兵調書の後半を書きます。
(続きです。救国学生同盟についてです。)
当時ノ会員ハ日大、拓大、中大、早大、慶大等テ 約4百名アリマシタカ 之ハ、既ニ解散シ、昭和九年二月十一日 日本青年党ヲ設立シ、同十年八月郷軍同志会ヲ設立致シマシタ
カウシタ私ノ気持カ今回ノ事件ニ加担シタ主因トナッテ居リマス
問)オ前ト栗原中尉トノ関係ハ如何
答)ソレハ昭和七年十二月友人ノ山内一郎カ幹候トシテ歩一ノ十中隊ニ入隊シマシテ ソノ月ノ半頃 山内ニ面会ニ行キマシタ際「中隊ニ君ノヤウナ気持ヲ持ツテヰル将校カ居ル 会ツテ見タラドウカ」ト言ワレタノテ ソレテハト言ツテ将校室ニ行キ栗原サンニ 会ツタノカ初メテゝ其時オ互ヒニ信念ヲ語リ会ヒ大イニ 共鳴スル処カアリマシタノテ 爾来今日迄同志トシテ交際シテ居リマス
問)今回ノ事変ニ対スル計画ニ参與シ非サルヤ如何
答)私ハ今回ノ事件カ如何ニ計画サレテヰタカハ一向存シマセン 唯実行ニ加ハッタゝケテアリマス
問)指揮官河野大尉トハ面識アリシヤ如何
答)決行ノ夜 栗原サンニ紹介サレタノカ 初メテゝ存シマセンテシタ
問)本件ニ就キ他ニ陳述スルコトハアリヤ
答)私ノ信念ハ尊王絶対テアリ今回私達ノ採ツタ行為ニ依ツテ皇運ノ益々隆昌ナルコトヲ希フモノテアリマス
水上源一(自筆)拇印
右讀聞ケタル處相違ナキ旨申立ツルニ付署名拇印セシム
昭和十一年二月二十八日
三島憲兵分隊
陸軍司法警察官 陸軍憲兵曹長 山中梅吉 (印)
この三島憲兵隊での訊問調書は、事件直後であり、率直に語られていて、私は一級の資料と思っています。そのあと、東京の訊問調書や公判記録では、誘導的な尋問がなされ、いつの間にか、水上さんが軽機、拳銃、弾薬を用意したように言わせていますが、東京の資料を引用するにあたっては十分な注意が必要です。
求刑は懲役十五年。判決は死刑。
死刑の判決文には、「右ノ者等ニ對スル叛亂被告事件ニ付當軍法會議ハ検察官陸軍法務官井上一男干與審理ヲ遂ゲ判決スルコト左ノ如シ 主文 被告人水上源一ヲ死刑ニ処ス (以下略)」とあります。
井上一男法務官の「干與審理」とは、まだ不勉強でよく分かっていませんが、いやしくも懲役十五年の求刑が、決定的理由も述べられず、無期を飛び越え死刑になったのであります。
事情を知っている筈の湯河原班の「裁判官陸軍法務官」の伊東章信は、戦後の雑誌対談では、明らかにしていません。
一方、この東京陸軍軍法会議の最高責任者であり、天皇に厳罰を誓った寺内寿一陸軍大臣は、この決定にどのようにかかわったのか。元歩三の連隊長で部下の安藤大尉の参加に愕然とした梅津陸軍次官や匂坂法務官はどのように考えたのか。
研究課題は、湧き上がってくるばかりであります。 なお、次回の10回目で一応水上さんの記事はとりあえず擱筆する予定です。
追伸:井上一男法務官は、1929年4月9日陸軍法務官に任官、終戦時は第6空軍法務部長でありました。
「干與審理」も含め、何か情報をご存知の方はご教示くださいませ。
なお、私の写した第一回公判調書のノートの該当部分を恥ずかしながら添付します。
写真の中央部をよく見ていただくと井上一 までは読めるのですが、草書体の文字が読めず、」その位置づけがわかりかねています。
どなたか、誠に申しわけないのですが、お教えいただければ幸甚です。
なお、、その前後の関係分は次の通りです。
「第一回公判調書 元陸軍歩兵軍曹 宇治野時参 、、、(略)」、、、、右ノ者ニ対スル反乱被告事件ニ付 昭和十一年五月五日東京陸軍軍法会議公判廷ニ於テ 裁判長判士陸軍歩兵中佐人見秀三 裁判官陸軍法務官伊藤章信 裁判官判士陸軍砲兵大尉根岸主計 裁判官判士陸軍歩兵大尉石井秋穂 裁判官判士陸軍歩兵大尉杉田一次(?)補充裁判官判士陸軍騎兵大尉吉(?)橋健児 陸軍録事鈴(?)木又三郎
XXXノ上 検察官陸軍法務官 井上一男(?)XXXXX 公判ヲ開廷ス 陸軍軍法会議法第四百十七条ニ依リ 審判ヲ公開セズ 各被告人ハ XXXX。。。 わかりづらく自分で辞書っぽいものも作りましたが大変です。但し、この草書はきちんとしたものですが、ほとんどが立派な毛筆のため、難物です。