◎末松太平事務所(二・二六事件異聞)◎ 

末松太平(1905~1993)。
陸軍士官学校(39期)卒。陸軍大尉。二・二六事件に連座。禁錮4年&免官。

◎「新版/年表・末松太平」/(15)進駐軍の支配下で・・・◎

2023年03月27日 | 年表●末松太平
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《「年表・末松太平」1946(昭和21)年。/末松太平=40歳~41歳。私=5才~6才》。
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◎終戦直後の生活に追われる日々。
★資料★・・・・・・・・・・
《週刊新潮「墓碑銘」1993年2月4日号掲載。》
「戦後の生活は苦しかった。夫人がデパートの下請けとして洋裁などをやって家計を支え、三人の子供を養育した。」
・・・「家計を支えた」のは事実だが「デパートの下請け」かどうかは(小学校入学前の私には)記憶にない。

◎やがて「家計のため」自宅2階に学生二人を下宿させる。部屋代の一部は「家主=久保三郎宅」に届ける。
・・・初代の下宿人は、東大第二工学部に在学中の石川六郎氏(後の鹿島建設会長)と吉田氏の二人である。
・・・末松太平は「下宿屋のオヤジ」になっても威張っていた。部屋を貸すのも「家計のため」ではなく「学生援助のため」だと思っていた気配もある。下宿人にとって「迷惑な存在」だったと思う。

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《「年表・末松太平」1947年(昭和22)年。/末松太平=41歳~42歳。私=6歳~7歳。》
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◎終戦直後の生活に追われる日々。
・・・客観的な資料(出版物とか)が殆ど見当たらない。

◎余談/昭和22年頃 秋葉原に「太平通商(株)」という会社があったという。
・・・ビルの窓に大きく書かれた社名が 総武線電車の窓からよく見えたという。
・・・大岸頼好の会社「昭和通商」のマネのような会社だったが すぐにつぶれたという。
★証言★・・・・・・・・・・
《久保晃(義弟)の記憶》
「昭和23年。久保晃、早稲田大学入学。アルバイトの件を ここ(太平通商)で心配してもらった。西田税の実弟が 特許局(現・特許庁)の技官で『青年互助協会』を主宰していた。バイトを監督していたのは(西田税の使い走りだった)佐藤某で『末松先生』と言っていた。佐藤某という人物は佐藤正三ではない。」


◎1947年4月。長男・建比古(私)が「千葉市立登戸小学校」に入学。
・・・ランドセルの代用品は(軍隊時代に使用した)革製の「背嚢」であった。

◎食糧難で「買出し」に追われた日々。箪笥の着物が米や野菜に化けた日々。
・・・母のお伴で「豊四季」や「那古船形」へ「買出し」に出掛けた記憶がある。
・・・電車のドアが(壊れていて)開いたままだった光景。車内や駅頭での「警察の抜打検査」の光景。
・・・食料は没収されるので「私が捕まっても貴方だけは構わずに逃げなさい」という母の教え。
・・・千葉神社境内の「闇市」の光景。私が「小学一年生」だった頃の記憶である。

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《「年表・末松太平」1948(昭和23)年。/末松太平=42歳~43歳。私=7歳~8歳。》
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◎敗戦後の生活に追われる日々。
◎1948年10月26日。名古屋で「勝谷文信」の仲人を務める。


★関連資料★・・・・・・・・・・
《田村重見編「大岸頼好 末松太平/交友と遺文」掲載。勝谷文信の報告書。》
「私は、昭和18年(拓殖大学二年の時に)学徒動員令に依り朝鮮竜山の歩兵部隊に入営。その後、航空部隊に転科して飛行機乗りになりました。/昭和20年2月頃、仙台の東部第五四〇部隊に転任になり、先任将校の田村先輩(拓大出身)と出会いました。暫くして田村先輩は軍需省生産戦指導部に転任されましたが、私も陸軍空軍特攻隊員に編成され、平常心にて死地に赴けるような精神教育を受けていました。/戦況不利となり そして敗戦国となり 我々は死から見放されて生き残ることになりました。しかし特攻隊員としての長い月日、立派に死ぬことのみを教育され洗脳されていた私は 暫くは放心状態でした。/たまたま田村先輩が東京に居られると聞いて、上京し『鷺ノ宮』に行きました。故相沢中佐の住居は 未亡人及び家族が宮城県に疎開していたので 留守宅には『梁山泊』として、五・一五事件、二・二六事件の残党と拓大の先輩方が居られました。」
・・・そして1993年1月。勝谷文信は「車椅子に乗って」末松太平の葬儀に遠方から駆けつけた。

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《「年表・末松太平」1949(昭和24)年。/末松太平=43歳~44歳。私=8歳~9歳。》
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◎貧困生活の日々。
・・・家は広いので「同居家族=満州時代に御縁のあった方々」がいたり 時には「居候のような人」がいたり・・・。

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《「年表・末松太平」1950(昭和25)年。/末松太平=44歳~45歳。私=9歳~10歳。》
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◎貧困生活の日々。
・・・当時の私(小学三年生)にとっては「普通の生活」だったと思う。
・・・住居は徐々に老朽化が目立ちはじめて 特に「茶の間」の雨漏りは凄かった。
・・・今で言う「デザイナーハウス」的な試みがある家で「2偕の洋間」は「アトリエ/20畳ほどの広さ」を意図されていた。アトリエの周囲は「広いベランダ」で 遠方から眺めると「白いペンキ塗りの洒落た二階屋」といった風情だった。


★資料★・・・・・・・・・・
《雑誌「道標」1950(昭和25)年発行。非売品。/末松太平「随筆/話さない方がよいはなし」。》
●道標発行所=弘前市富田大通り大谷方。編集発行印刷人=大谷誠藏。非売品である。
●雑誌「道標」第5号(昭和25年5月発行)も遺されていたが 表紙に「落丁」とメモされていた。
・・・目次を見ると「随筆/ティ・ファンラ・マー」を寄稿している。
・・・「道標」には「佐藤正三との関係」があって寄稿したのだと思う。
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