◎末松太平事務所(二・二六事件異聞)◎ 

末松太平(1905~1993)。
陸軍士官学校(39期)卒。陸軍大尉。二・二六事件に連座。禁錮4年&免官。

26.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」 二・二六事件を研究される方へ (1)私流の資料の読み方 

2017年05月02日 | 今泉章利
26.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」
二・二六事件を研究される方へ (1)私流の資料の読み方 

二・二六事件の資料はたくさんあるが、それらをどのように扱ったらいいのか。

1.第一次資料 孫引きではなくて本人が書いたもの。又、公判調書のような公的なものもある。但し注意を要するのは、二・二六事件の裁判には、弁護士がなく、裁く側が一方的に作った資料なので、恣意的に、微妙に書きぶりを変えることである。
但し、今年には国立公文書館で公表されることが予定されている、東京地検が保管していた「訴訟記録」には、本人が書いた「上申書」「手記」などが含まれているはずであり、これらは間違いなく「一級資料」である。私は、安藤大尉のものを少し読んだだけであるが、様々なことが読み取れる。また、上申書のないもの、例えば、水上さんの場合、たくさんの資料があるが、一番実態にあっているものは、その直後の、2月28日の三島憲兵隊の調書である。水上さんは、ほとんど何の説明も受けず日本刀一振りを支給されたのだが、一か月後の3月18日、陸軍法務官西原周治によってなされた第一回被告人訊問調書では、機関銃や小銃、ピストル、発煙筒など用意した武器、その目的を説明したようになっている。電信兵で応召された経験はあっても、武器の扱いは全くの素人であるにもかかわらず作文がなされている。河野さん亡き後、湯河原班の主犯としてのフレームアップである。これなど、いまの裁判で検察が作文した自白調書に似ている。また、本人が書いたものでも、ある意図をもって、ところどころ捻じ曲げた表現もある。これも又、厳に注意を要する。
又、昭和40年代に多く出された本の中には誤謬や思い込みで書かれているものが少なくない。注意を要する。

2.歴史をなりわいとする人たちがまとめた資料。 ある歴史観や目的謎解きに基づいた資料が結構多くあり、注意を要する。これが新事実と声高に言う。また、資料であっても、解説で、さらりと想像を交えて書くことが多い。解説は、一般の人がほとんど目を通す場所である。また、統計資料を使って人を幻惑する手法もある。
また、上から目線で、よくわかっていないのに解説する。読んでる方には、すっきりしない思いと軽くなった財布になんとなく気が付く。

3.マスコミ資料 新聞や週刊誌でそれなりの証言であったりするものも多いが、背後の認識が不勉強なものが多い。新奇性が要求されることは認めるが、検証が足りない。しかし、国会図書館などで昔の週刊誌などの記事を読むと、大切なヒントを発見することも多い。史実をつなげる助けとして丹念に集めることをお勧めする。

4.小説 これが一番難敵で、三島由紀夫のような場合は、はっきりと小説家の世界と分かるが、すらすら読めるものは、極めて注意を要する。作家は「歴史小説」とこの事件の書きぶり内容に責任は持たない。が、一般の人たちはこの小説に一番影響される。また、マスコミもこれを前提に「小説家の歴史」を膨らませる。有名な、真崎大将の「お前らの心はようッく分つとる」という文言は、磯部さんの行動記にある言葉だが、「行動記」そのもので、戦おうとした、囹圄の身の磯部さんの唯一のそして必死の戦術であったこと、つまり、事件に直接、真崎さんを引き込むことで、北、西田を救おうとした磯部さんの気迫である。したがって嘘もあった。この点は、後日、磯部さんは真崎さんに申し訳ないと言っている。
小説家立野信之は「叛亂」の第9章のタイトルに、此の言葉を使った。そして、この本で昭和28年、立野は第28回直木賞を手に入れた。日本人は、それ以来、真崎大将がそういったものと信じている。実際はどうだったか。真崎大将の護衛のため、真崎大将の自宅からの車に同乗し、真崎大将とともに陸軍省に入った陸軍憲兵伍長の金子桂さんによれば、真崎さんは相当怒っておられ、怒りをあらわに、青年将校たちに「馬鹿者!」といったとのことである。金子さんはそれを書かれたし、私もそれを金子さんから直接聞いている。

5.推理を込めた歴史書 1965年に発売された高橋正衛氏の中公新書「二・二六事件」の「彼らをつきうごかしたもの」のなかの「真崎甚三郎」の野心があったと断定する。黒幕は真崎だというのである。そして、このことは、膨大な証言資料を集めた松本清張を経て、や澤地久枝の「雪は汚れていた」を頂点に推理が進められた。結論から言えば、何もなかった。しかし、一般の国民は、真崎という黒幕がいたという印象を確信した。澤地は大量の本を売り、NHKや文部省から表彰を受け、朝日新聞は一面で新事実と書きたてた。
しかし、事実は何もなかった。東京地検の地下に「公判資料」があるらしいと報道されたころだった。そんな中、澤地は、匂坂法務官が遺した資料が、「これが最後の資料で、他には存在しない」と言い切って、「新事実も出なかった「雪は汚れていた」」を売り逃げしたのである。二・二六事件の資料は他には存在しないと言い切った澤地は、「歴史学者でもない匂坂法務官の子息がそういった」ということを根拠に書いている。物書きの文章は上手い。

そもそも、高橋正衛の真崎黒幕論は、1989年2月、末松太平氏の立会いのもと、高橋は、「真崎甚三郎」研究家の山口富永に対し、「あれは私の勝手な想像」と平然と言ったのである。この黒幕を求めて、日本の黒い霧を書いた「松本清張」が必死になるのは已むをえまい。ただ副産物として、事件に関連する方たちのインタビューや、様々な資料の収集物は残った。父のところまで、清張の事務所のひとが、インタビューに来たのを覚えている。
久野収を信奉する高橋という人の一言が生み出した、25年間の「二・二六事件黒幕探し」は今もかすかに脈動している。

6.まだ他にもあると思うが、これら文献資料が、脈絡なく、雨あられのように、いきなり飛んでくるので、一般の人は何が何だか当惑の極みに立たされるのである。
どうか、ご自分なりに分類し、年表をつくられることをお勧めする。今は、エクセルという便利なものがあるからなおさらお勧めしたい。


いま、教育の現場では、二・二六事件はソ連の革命の影響によって起こったもの と理解している中学校の先生がいる。イメージは、ソビエト兵の軍帽なのである。これは、事件直後、陸軍省がばらまいた事件の背後の可能性の中にあるものである。
又今の若い右翼の人は、仄聞ではあるが、二・二六事件は天皇陛下のご宸襟を悩ませたとんでもない不敬事件として見向きもしない人も多いらしい。
何が理由なのか。おそらく、情報が、整理されずめんどくさいのではないか。

多くの切り口があり、多くの方たちが関与した。そして、中国との戦争が起こり、アメリカとの戦争が起こった。戦直後、文部大臣前田多門(後藤新平秘書官、朝日新聞をへてソニー初代社長、神谷美恵子の父)は、学校教育局長に東大法学部の田中耕太郎を、社会教育局長に朝日新聞の関口泰などを置いた。其の教育方針のもと、私達、戦後生まれは、二・二六事件などは殆ど何も教えられなかった。

それにしても事件はわかりにくい。次回、何がわかりにくいのか、少し考えてみたいと思う。
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