◎末松太平事務所(二・二六事件異聞)◎ 

末松太平(1905~1993)。
陸軍士官学校(39期)卒。陸軍大尉。二・二六事件に連座。禁錮4年&免官。

5.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」 水上源一さんのこと(その4)

2016年12月31日 | 今泉章利
5.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」
水上源一さんのこと(その4)

今年も大晦日を迎えました。あと一時間ほどで、2017年、平成29年を迎えます。
水上源一さんのこと(その4)今年は、いろいろなことがありました。4月に、二年続いたある組織の役員の職が解かれましたが、その疲れの反動でしょうか、心因性のめまい、不整脈、息切れ、、が続きました。5分くらいのものから、5時間ぐらいのものまで、 一日のうちに何回も現れます。11月にようやくよくなりましたが、9月は、最悪でした。ただ、数値にはでてこないものの苦しさは深刻で、このまま逝くのかなあとよく思っておりました。医者からなんともないですよ、といわれるのは本当につらく、恨めしい思いでした。

さて、水上源一さんの一人娘の水上宣子さんは、お父様に目元、顔だちがそっくりです。お目にかかることのできなかったお母様のはつね様は実業家と聞いておりましたが、宣子さまは、よく通る声とはっきりとした考えを持ち、行動もお早いので、お二人の血を受け継いでおられるのがよくわかります。元麻布の賢崇寺に、お母様の建てられた「水上源一の墓」を欠かさずお参りしておられる様子は、胸を打ちます。

前回から延々と資料の目次を書いていてうんざりかもしれませんが、事件の裁判記録とはどんなもので、私がとりあえず扱った手法はいかなるものであったのかを、参考に書いているもので、少々長いですが、水上源一の裁判記録にたいする私の方法論なので、もう少しお付き合いください。
なお、気分転換に、今日の写真は、わたくしの生まれ育った故郷、鎌倉の材木座から見た富士山です。私の撮ったお気に入りの写真です。



31.被告人訊問調書 陸軍歩兵軍曹 宇治野時参 (注:26歳、歩一の六)  (丁数一一〇)
32.被告人訊問調書 陸軍歩兵一等兵 黒澤鶴一  (注:26歳、歩一)   (丁数一二四)
33.被告人訊問調書 中島清治 (注:29歳、支那事変 昭和6-9年従軍) (丁数一三四)
34.被告人訊問調書 黒田昶 予備歩兵上等兵 (注:27歳)        (丁数一五六)
35.被告人訊問調書 水上源一 第一補充兵役陸軍電信兵(注:29歳)(2月28日)(丁数一六三)
36.被告人訊問調書 綿引正三 (注:兵役なし、 23歳)         (丁数一七一)

31-36の標目の書き方については必ずしもその通りではないかもしれない。いつか確認したい。

37.聴取書 植松正司(自動車運転手) (注:25歳)            (丁数一七七)
38.拘引状(宇治野、黒澤、中島、黒田、水上、綿引)(注:2月26日)    (丁数一八三)39.證拠物目録(十一年式軽機 二、二六年式拳銃 二、モーゼル 一、三八 二)(丁数一八九) 
40.被告人訊問調書送付通牒 (注:三島→一師軍法)(河野壽(四〇期、30歳)(丁数一九〇)
41.被告人訊問調書 河野壽                         (丁数一九一)      
42.押収調書                                (丁数二〇七)
43.押収目録                                (丁数二〇八)
44.押収目録<宮田晃> 予備役陸軍歩兵曹長、日本特殊鋼社員         (丁数二〇九)
45.勾留状 宮田晃 3月2日 一師軍法                   (丁数二一一)

目がちらついてきました。、、だれかアシストがほしいですね。

46.押収調書<宇治野時参>   3月3日一師軍法              (丁数二一二)
47.勾留状 宇治野時参                           (丁数二一四)
48.押収調書 中島清治 3月3日                      (丁数二一五)
49.勾留状 中島清治                            (丁数二一七)
50.押収調書 黒田昶 3月3日                       (丁数二一八)
51.勾留状 黒田昶                             (丁数二二〇)
52.押収調書 黒澤鶴一 3月3日 (注:歩兵一等兵とあり、要確認)     (丁数二二一)
53.勾留状 黒澤鶴一                            (丁数二二三)
54.押収調書 綿引正三 3月3日                      (丁数二二四)
55.勾留状 綿引正三                            (丁数二二六)
56.押収調書 水上源一 3月3日(注:ここでは弁理士とのみあり)      (丁数二二七)
57.勾留状 水上源一 (注:刑務所へは十四時五十分引致した とあり)    (丁数二二九)

つぎの58から70までは、法務省の開示に関する省内検討に基づき、公開はされていない。その顛末は承知しているものの、いつが時が来れば書いてみたい。
なお、国立公文書館での公開基準は、法務省とは異なるため、どのような扱いになるか、ご検討中と思われる。

58.前罪科身上書送付の件                          (丁数二三〇)
59.身上調書 (宇治野時参)                        (丁数二三一)
60.身上明細書写(黒澤鶴一)                        (丁数二三二)
61.身上調査票(黒澤鶴一)                         (丁数二三五)
62.<証拠物件追走ニ関スル通牒> 予備役歩兵曹長 宮田晃 (注:二十九歳) (丁数二三六)
63.遭難者(皆川巡査)所持拳銃調査回答(注:警視庁から横須賀、ブローニング)(丁数二三七)
64、<素行調書>作成ノ件                          (丁数二四〇)
65.<素行調書>(綿引正三)                        (丁数二四一)
66.<前科取調書> (黒澤鶴一)                      (丁数二四二)
67.<前科取調書>送致ノ件 (宮田晃)                   (丁数二四三)
68.<前科取調書>(中島清治)                       (丁数二四四)
69.<前科取調書>送致ノ件 (注:人名未記載)               (丁数二四八)
70.<前科取調書> (水上源一)                      (丁数二四九)


うー、ありますね。これで、約半分。でも、一目散に写していたころの自分は、本当に若かったんだなあと思います。
これをみていると、刑事事件とは、検挙から判決にいたるまで、我々には気の遠くなるような手続き、証拠調べが行われるのがよくわかります。
皆さま、どうか良いお年をお迎えくださいませ。と書いていましたら、年が変わりました。
新年になりました。2017年!!平成29年!!昭和11年即ち1936年の事件から81年目になりました。皆様のご多幸を心よりお祈り申し上げます。 (今泉章利)


《今泉章利の書いたブログの著作権は関連法により今泉章利に属します。事前の許可なき引用、転載は一切お断りいたします。どうかご理解ください。》

PS:なお、東京地検の裁判記録の閲覧は、刑事訴訟法47条の但し書きに基づいて行われています。と、東京地検から説明があったのを、思い出しました。
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4.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」 水上源一さんのこと(その3)

2016年12月30日 | 今泉章利
4.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」
水上源一さんのこと(その3)
私が爆睡している今朝、末松さんがウォーキングの途中、慰霊像にお参り頂いたようで、美しい写真に感動いたしました。うれしい!
さて、、裁判記録の話に戻りますが、、
この膨大な資料のどこに水上さんの資料があるのか。全体を見て、しっかりと計画しなければなりません。資料の中には、自分の興味のあるものが、宝箱の中の宝石のようにたくさんあるので、気が散ってしまわないように、限られた時間の中で集中することが必要です。とは言っても、私の場合でも、初めてみる父の予審や公判の記述に、たまたまページが開いたりすると、目が釘付けになって読み込んでしまいましたが、、、

水上さんのものは以下にあります。記憶が定かでないのですが、表紙に書いてあったように思います。

訴訟記録(行動隊二十九冊ノ内第十八號)    注:(號という字もいかめしいですね、、)(地検のファイル番号では、46、で、これは(東京地検の46は、三分冊になっています)
東京陸軍軍法會議               注:(會という字もいかめしい。けれど、あとでご説明しますけど、これらの字が、草書体でくずされているので、本書に書かれている字をいい加減に読み飛ばさないことも肝要です。)

行動隊第二十九冊ノ内第十八號(湯河原班)
行動記録 昭和十一年 記 一號
件名  反亂(湯河原関係)全部        注:(亂という字も難しい。 ここでは反亂 反は 簡単な「反」になっていますが、書記官によって「叛」の字を用いることもあります。ニュアンスも変わりますが、そのまま移すことが大切です。)

主任 検察 向坂法務官
   豫審 高橋(外二)法務官
      宮内(外二)法務官
   公判 伊藤法務官
      鈴木録事
裁判 言渡 昭和十一年七月五日
   確定 昭和十一年七月五日
拘留  昭和十一年三月三日
保釈責付  なし
被告人 航空歩兵大尉 河野壽     注:ひさし
    歩兵軍曹   宇治野時参   注:ときぞう
    歩兵一等兵  黒澤鶴一
    常人     中島清治
    常人     宮田晃
    常人     綿引正三
    常人     黒田昶     注:きよし
    常人     水上源一    注:みずかみ
次のところから「文書ノ標目」、つまり目次として、以下117点が、ページ数(「丁数」と書かれている)とともに示されています。なお、記録には、「ひらがな」で出なくてカタカナが使われています。 私のメモも、カタカナで書いているはずです。(疲れて間違って書き写した部分もあるかもしれませんが、、)一番気になるのは、河野大尉のことですが、もう一度このブログで思い出したいと思います。ここでは拘引状、皆川巡査検案書、牧野峰子証人他、押収品、送致書、被告人尋問調書、勾留状、事件調書、水上はつね(源一さんの奥様)などのほか、被告人尋問調書、上申書(黒田)、手記(綿引正三)、第一回公判(5月5日)、第二回公判(5月6日)、第3回公判(5月9日)、第4回公判(5月10日)および判決の出た第5回公判(7月5日)が、921ページにわたって綴られています。

で、標目ですが、件数があまりに多いので、エクセルで表を作ってみ隊と思いましたが、このブログでは見られないのですよね。、、それでは、内容がわかるために三回くらいに分けて書きましょう。()内の数値は丁数です。但し、実際にチェックしてみると少し違っているところがあります。数字の番号は、私が便宜上つけたものです。少し解説をつけましたが、これをかくと時間がかかります。すこし端折りますので、ご寛恕。ブログは書きっぱなし、読まれっぱなし、反応はないので、どうかコメントを送っていただけるとありがたいと思います。なお、この記録は、私のノートからのもので、記録間違いなどあるかもしれません。精査はしておりません。また、このブログに書きこんでいるうちにインプットミスもあるかもしれません。そのようなことから、引用は必ずわたくし(今泉章利)の許可を得てからにしてください。この今泉の書きましたブログの著作権は私にありますので、無許可の引用は、お断りします。
いずれ、国立公文書館から公開がなされると思います。どうかそれをご参照ください。健康なうちに一刻も早く、私も、改めて、読んでみたいと強く願っています。

1.送致書(宮田晃) (昭和十一年三月二日横須賀憲兵分隊カラ第一師団軍法会議)(丁数一)
 注-1:宮田さんは、明治四一年一〇月九日生まれ、元戦車第二聯隊第二中隊、予備役陸軍歩兵曹長、茨城県猿島(さしま)郡古河町出身
 注-2:光風荘の中で、皆川巡査より、河野大尉とともに銃で撃たれ、出血多く、近くの松野病院にて治療を受けていたが、水上さんが顔を出した後、詳細はわからぬが、混乱のうちに水上さんたちは、車で出発。横須賀憲兵隊が宮田さんを拘束。横須賀の衛戍病院に搬送。
 注-3:横須賀憲兵分隊より「第一師団軍法会議」へ送るとあり、そこから「東京陸軍軍法会議」(特設的性格を帯びている)へ送致されたものと思われる。
2.  書類目録             (丁数三)
3.  拘引状(宮田晃)         (丁数四)
4.  報告書              (丁数五) 
5   被告人宮田晃横須賀憲兵尋問調書  (丁数七)
6   検證調書(憲兵)         (丁数二三)
7.  皆川義孝ノ検案書         (丁数三七)
8.  xx引渡證            (丁数四二)
9.  xx受領証            (丁数四三)
10. 証人森すゞ江憲兵尋問調書     (丁数四七)
11. 同 松野鐡之助憲兵尋問調書    (丁数四九)
12. 同 牧野峯子憲兵尋問調書     (丁数五二)
13. 証人 高橋正雄憲兵尋問調書    (丁数五八)
14. 証人 西田久野憲兵尋問調書    (丁数六二)
15. 証人 村松梅子憲兵尋問調書    (丁数六六)
16. 証人 岩本亀三憲兵尋問調書    (丁数七〇)
17. 証人 生駒林二憲兵尋問調書    (丁数七四)
18. 証人 堀部粂次郎憲兵尋問調書   (丁数七八)
19. 証人 伊藤昶清憲兵尋問調書    (丁数八二)
20. 証人 伊藤亀吉憲兵尋問調書    (丁数八八)
21. 診断書 森鈴江          (丁数九四)
22. 診断書 岩本亀三         (丁数九五)
23. 診断書 宮田晃          (丁数九六)
24. 押収調書(於伊藤屋別荘)     (丁数九七)            
25. 押収目録(ブローニング、発射弾) (丁数九八)
26. 押収調書(於回春病院)      (丁数九九)
27. 押収目録(二十六年式拳銃)    (丁数一〇〇)
28. 証拠品目録            (丁数一〇一)
29. 送致書(河野壽、宇治野時参、黒澤、中島、黒田、水上、綿引)  (丁数一〇三)  (注:宮田は抜けている。別途横須賀憲兵分隊より送致)
30. 書類目録(尋問調書、前科及び身上、素行調書、拘引状  宇治野、黒澤、中島、黒田、水上、綿引)(丁数一一〇)

《今泉章利の書いたブログの著作権は関連法により今泉章利に属します。事前の許可なき引用、転載は一切お断りいたします。ご理解ください。》
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3.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」 水上源一さんのこと(その3)

2016年12月29日 | 今泉章利
今日2016年12月28日は、御用納めです。東京渋谷の慰霊像に来年のお正月用の飾付けと、関係者に挨拶をしてきました。
昔は、この日には、みんな慰霊像護持の会のメンバーが分担して、忘年会と称してお昼ご飯を頂くことになっていました。松は今泉義道(少尉)、水仙は柳下さん(中尉)、千両は池田俊彦(少尉)さん、飾り餅は北島弘(軍曹)さん、が分担だったように記憶しています。みんなとても楽しそうで、今でも声が聞こえるようですが、みんな鬼籍に入られました。今日はいつものように、仏心会の香田代表理事と二人で清掃し、花を手向け、香を上げ、父の行っていた通りに開経偈、般若心経、十句観音経、回向文をお唱えしました。写真は慰霊像護持の作業を終えて、写真を撮ろうと思ったところ、スマホの電池切れで写真が撮れなかったので、18時半ごろ、仕事の帰りに再び戻って撮った写真です。真っ暗で、よくとれておりませんが、飾り餅の横に、どなたかが缶コーヒーをあの後お供えくださっていました。私たちが去ったわずか数時間後のできことでしたが、慰霊像にご関心をよせ、お供え物までしていただいた方のお気持ちがしみいりました。とても冷たい風が吹いていましたが、私の心は満たされた気持ちでした。 (今日の写真は曲がったままです。いくらっても治りませんので鵜日を曲げてご覧ください)(すみません)

さて、裁判記録といってもその量は膨大なものです。全体はⅠからⅥに分けてあります。
Ⅰ訴訟記録 32巻 
(地検の閲覧用ファイル番号では、1~30.ファイルが30冊ということではなくて、だいたいそれぞれが2から4冊のファイルになっていて、全体のファイル冊数は90冊ぐらいあります。B4の横綴じです。B4一ページにB52枚がコピーされています)
Ⅱ行動隊記録 29巻 (地検のファイル番号は、31から53)(注:池田さんが一部を、ご自分の裁判を思い出しながら、原書房から1998年に出されたものがある)
Ⅲ不起訴(その1) 6巻 (地検のファイル番号は54~59)
Ⅳ不起訴(その2) 7巻 (地検のファイル番号は60~65)
Ⅴ裁判書 1巻 (地検のファイル番号は66)
(「さいばんがき」と読む。判決文のこと。死刑判決は100年保存の義務があるらしいが、軍法会議の扱いは小生にはよく理解していない。世に「裁判記録」と称して出版されて売れているのがこの部分が多い。東潮社版や朝日新聞社のものがある。最近では本文そのものの写真版が出版された。)
Ⅵ事件簿 1~4冊および被告人索引簿があります。(地検は 別冊1-4 という分け方をしている。)

参考:なお、ぜんぶ数えたわけではないが、66巻+別冊4巻=70巻のページ数は、超概算で、70巻x@3冊x@260px@2p=11万ページぐらいでないかと、今は思っています。
池田さんによれば、「この「裁判記録」は1988年(昭和63年)北博昭氏の学究によって東京地検に保存されていることが判明し、平成5年(1993年)2月、事件に対する学術研究者にその閲覧が許可されることになった」とあります。
池田さんは93年から95年まで東京地検に通われたとあります。

また、憲兵を中心とした記録を、早稲田ご出身の森伝(もり つとう)さんが所有されていたもので、1971年小学館より4冊で出版されています。正式な裁判記録ではありませんが、状況の把握しにくい時にあって、重要な資料でした。
今回の、裁判資料を、」将来研究する上において、比較資料として極めて重要と思います。国会図書館の県政資料室にあるとかで、いってみたいと思っております。
(今泉章利)

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2.水上源一さんのこと(その1)

2016年12月28日 | 今泉章利

私の存じ上げているはじめの方は、水上源一さんのご令嬢の井上宣子さんです。
この方から、父上である水上さんのことを調べてほしいと以前依頼を受けました。2006年のことでした。
その時、私は57歳、まだ現役で、忙しい盛りでした。
それでもその年の9月、東京地検総務部記録係に、「刑事参考記録(二・二六事件裁判記録)閲覧申請」を行い、全資料の閲覧が認められ、10月から、仕事の合間を縫って、2009年3月まで、23回閲覧し、ノート5冊の筆写を行いました。
勿論、関係部分のみですが、今見ても、初めての事実、肉声が記録されていて、少し読み返しただけでも頭が熱くなります。

その後、私は、会社生活が延長になり、体力の減退とともに、お話しましたように何もできていません。
これからどのように、投稿しようか、考えておりますが、まずは、私のノートを振り返りながらお話したいと思います。

写真は、東京地検への申請書やノートの写真です。(今回は写真がうまく乗るといいのですが、、前回の水上源一さんの写真は大きすぎました。)

(今泉章利)
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1.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」 はじめに

2016年12月26日 | 今泉章利


初めに改めて自己紹介をさせていただきます。
昭和10年に歩兵少尉に任官した、近衛歩兵第三聯隊の今泉義道の次男の今泉章利と申します。本当に久しぶりに投稿いたします。

ここ何年にもわたり、体調が悪く、何もできずにおりました。が、昨年の今頃、畏友であり、このブログの投稿者でもありました澁川明雄さんが急逝されました。明雄さんは澁川善助さンのことを克明に調べ、「澁川善助」という本を遺されました。 
何もしていないは私は、いよいよ自分の命の残りを感じ、体調に負けずに何かを残そうと思いました。
私は、実際に何も書いていないので、忸怩たる思いに駆られているのですが、末松建比古さまにもご無礼と思いながらも、拙文を投稿させていただきたく存じた次第です。

タイトルは「事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」といたしました。
勿論「事件関係者の息子」とは、昭和24年生まれのわたくし、今泉章利のことであります。

次回からの、お話は、10回程度、、水上源一さんの話をさせていただき、私の父、や、事件に関連して処罰された方たちのことを、私が直接接した人たちや関係者や肉親の方々から直接聞いた話などを通じて、書いてゆきたいと思います。
そして、これらが、近日中に、国立公文書館から公開される、東京地検の裁判資料などのはじめて公開される一次資料に当たって、なにがしかの参考になればと願っております。

次回は水上源一さんのことを書きたいと思っております。
(今泉章利)
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