◎末松太平事務所(二・二六事件異聞)◎ 

末松太平(1905~1993)。
陸軍士官学校(39期)卒。陸軍大尉。二・二六事件に連座。禁錮4年&免官。

水上さんの重要資料

2009年07月20日 | 今泉章利
朝から集中して、水上さんの資料を37種類、資料としてデジカメに収めることができた。ほんとうは、スキャンがいいのだが、時間がかかるので、とりあえず、デジカメとした。
1.昭和5-6年 弁理士関係(1点)
特許局長官中松真卿氏(昭和5年7月就任)の印あり。
実用新案登録心得(14ページ)

2.昭和6年
北海道瀬棚にいた夏休み中の源一氏からはつね様への手紙(6通)

3.昭和7年
北海道瀬棚にいた夏休み中の源一氏からはつね様への手紙(12通)

4.軍隊関係(近衛師団、電信第一補充兵)(昭和9年12月1日~昭和10年5月10日)(4点)
①奉公袋
②軍隊手帳(説法、誓文、心得、所属)
③第一補充兵服役上主要心得
④軍隊手帳

5.昭和11年(11点)
①香田清貞大尉より、水上源一厳父様への遺書
②メモ
③源一遺書(三首が一枚に書かれている。これをベースに遺書を書かれた)
④7月 はつねから源一へ
⑤7月5日 源一からはつねへ
⑥上記返信
⑦はつねから源一に(般若心経)
⑧最後のはつねからの手紙 許可印あり
⑩7月12日 遺体引き取り通知
⑪はつねさんメモ(決意)

6.昭和15年(1点)
①池上本願寺納骨料収書

7.昭和44年(1点)
①文春からの取材申し入れ

8.昭和46年(1点)
①澤地久栄の取材依頼

9.昭和60年(1点)
①北海道新聞記事(山名康郎)

実は、涙なくしては読めない。

(今泉章利)
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二・二六 日本革命史 山本又(一部)

2009年07月15日 | 今泉章利
各位

法要で読ませて頂いた部分を本日、下田の鈴木様のご了解をいただいたので下記します。

(なお、一部に、同じ場面におられた方とのご証言と異なることもありますが、それは、また、別の交渉が必要と思いますが、その、気迫たるや胸に迫ります。三角さんのもの、大蔵さんのもの、、それぞれが少しずつ違います。それでいいのだと思います。ついに語れなかった父今泉義道も、同じ思いだったと思います。)

暗黒裁判に同志散る。
思いもよらない暗黒裁判だ。特に予審はことごとく彼らの憶測、推断により、でっち上げで、我々陳述の千分の一の真実もなく
公判においても、千分の一も真実、真意を披歴せず、最も短い時は、五十二分間で訊問を終わっている。何たる非武士道なる行為だ。

同志、七月十二日午前七時三十分より、八時三十分までの間に、刑場の露と消ゆ。
午前七時ごろ、君が代の斉唱を聞く。この時我等も斉唱をした。

銃声の間、天皇陛下万歳の声を聞く。

我等同志、号泣、胸は張り裂けんばかりであった。
終日、もだえ、もだえて号泣に号泣を重ね、ただ泣き暮らした。

断じて再び、尊王討奸の神義軍を起こすべきだ。天も哭(な)け、地も哭(な)け、鬼神も哭(な)け、雪、血、涙。

命の限り、魂のある限り、おけらとなっても生まれ変わり、生まれ変わり、君国のために尽くさん。

(以上は山本又陸軍少尉の書かれたもの。鈴木俊彦様がワープロ貸したもの。無断転載を禁じます。)

(今泉章利)
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麻生さんと吉田さん、牧野さん、大久保さん DNA

2009年07月15日 | 今泉章利
麻生政権は、今はとてつもなく評判が悪いのだそうで、フワライドウの荊妻なども怒っている。
批判のひとつに、国民のほうを見ていない、国民を相手にしていない、、いい仕事をすればいいのでしょ といいたげなやり方に国民は怒りを覚えているのだそうだ。外交的に見ていると、相手が最近では相手にしてくれなくなってきているが、歴代の首相の中では、なかなか外交的と思うが、金をばら撒けばいいだろうという安易なやり方には無責任さを感ずる。やはり、俺はサラブラッドだ。吉田の孫だ。文句あるの?という感じがする。吉田も、人々の目線という優しさはまるでなかった。

加えるに、この政権は 小泉以来の「たらいまわし政権」で、選挙で民意を到底ない。この{たらいまわし政権」の技術は、昭和初めの普選を前にした若槻礼次郎が始めたことなのだけれど、、国民をばかにしているというものの人々はなすすべがなかった。新憲法でもこの「たらいまわし政権」に対する規制はなく、しかも、議論もない。昭和のはじめは、このたらいまわしの術で国民は激怒したが、いまはあんまり怒っていない。、小生は、これは、憲法の欠陥で許すべきではないと思う。憲法を改定してきちんとしなければ、独裁政権ですら生まれうるので、この点をもっと憲法学者なり マスコミや新聞が問題視すべきと思うが、目を疑うべくだれもこんなことは言わない。

麻生さんの曾おじいさんである、牧野さんのことは、水上さんとの関連でもっと調べなければならないが、フランスへ留学中の伸顕は、実にりっぱな有能な役に立つ人間だったのに、国民を見下しているような気がする。事実か誤解か今は断定できないけれど、キャッスル疑惑や、陛下の御威光をさえぎる暗雲と国民の目に映ったのは間違いない。しかし、彼は、国民に向って、何らメッセージを発することはなかく、始終、テロの対象とされた。

牧野さんの父親の大久保さんも実務派の実力者であったけれど、何か、人と同じ視線で見るような感じがしないのはなぜだろうか。。紀尾井町で殺された理由はよく知らないが、有能な人間であっても、目線を下げたり、人間的な温かみがほしい。
人は、本人が作った本当のメッセージを待っているものである。

(今泉章利)
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7月12日 二・二六事件 二十二士第七十四回忌法要

2009年07月15日 | 今泉章利
皆様

7月12日(日)の、ご法要は、おかげさまで無事におわりました。
40年近くご法要にご参加いただいた方、靖国神社の方、辻さんのサキソフォンによる献奏など どれも心にしみるものでした。
22の御霊も喜んでくださっていると思いました。

なお、小生のこのブログをみているという熊幼ご出身の方が、自分は、なぜ 九州出身者に 維新の関係者が多いのか いろいろと並べてみると 西郷隆盛に行き着くことに気がついた。西郷さんの影響は大きく、玄洋社 頭山満にも受け継がれているとのお話を頂きました。

それから、下田から来られた方より、山本又さんの獄中資料の現物を見せていただき、又さんが、小菅で書かれた日本革命論という事件の覚書も見せていただきました。法要では、その一部の7月12日の様子をご紹介させていただきました。日本革命論という題は、衛戍刑務所で、安藤さんが又さんに、ぜひとも書くように言われたものだそうで、法要後、御存命の又さんの奥様、妹様に話をしたところ、大変によろこなれたとのことでした。
また、小生も初めて聞いたのですが、黒幕は川島陸相ではないか、というかたもおられました。人を非難するのは、簡単ですが、この方は自分でそれなりに一生懸命何年も研究されているとかで、人の受け売りでない態度には共感するものがあります。

あんなに、睡眠時間もなく忙しかったのに、なぜか 心穏やかな一日でした。いろいろと怒られたことはありましたが、まあこんなものかと思っております。

なお、法要に先立ち、渋谷の慰霊像の清掃と、白井さんのお墓参りを、大阪の中原さん、森田さん、小生の三人で行きました。終わってからは、白金台の池田さんのお墓にもおまいりを、護持の会のメンバーと行ってまいりました。

どうか、泉下の皆様方。この小さな法要をお守りくださいませ。と本気でお祈り申し上げました。

本日は、波多江タマ様と電話でお話をしました。お元気そうでした。これもうれしいことでした。

74回忌の御命日はこうして終わったのでした。小生ようやくほんの少しですが皆様と話ができるようになりました。今度の二月までに一人でも多くの方と一対一のお話ができればと思っております。本当にありがとうございました。

(今泉章利)
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悲しいお知らせです。湯河原光風荘、山本寅太郎様ご逝去。

2009年07月09日 | 今泉章利
湯河原の光風荘を、つよい御意志で、皆様の賛同を得て、記念館にされた山本寅太郎様が、7月7日、湯河原のご自宅で亡くなられました。82歳でした。
今年の2月、入場者数がニ万人を超えましたと、ごあいさつ頂いたのに、何と言っても残念でなりません。
光風荘には、河野壽さんの自決されたナイフなどが展示されています。
これもひとえに山本様のご尽力の賜物と心より感謝しておりました。
心よりご冥福をお祈り申し上げます。
ありがとうございました。
(今泉章利)
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一日(ひとひ)の終わり

2009年07月04日 | 今泉章利
名残は尽きねど 団居(まどい)は果てぬ 
               今日の一日(ひとひ)の幸 静かに想う

テレビではハースとフェデラーの一騎打ち。あのウインブルドンである。
ハースの緩急をつけた長い伸びるボールと フェデラーの柔らかい手首と小さくも素早いステップの勝負。

さあどうなるか。昔なら平気で徹夜だが、、今日はいろいろとあり疲れたので寝ます。

でも、今日はとてもうれしい。。そんな気持ちです。8月の7日に、帰天50年の、追悼ミサをする、鎌倉雪ノ下教会のジョセフ・フィリップ・レベック神父様の記念ホールにも行けて、、私の拙い思いの一部がある人に伝わってくれたようで、、気の短い私が 祝福を受けたようで。。うれしい気持ちで眠りにつきます。

皆様 ありがとうございました。

(今泉章利)
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増え続けるもの 消えゆくもの

2009年07月03日 | 今泉章利
実はいま悩んでいることがある。

それは、本とか、資料の処分である。
自分はこれまで、書物をきちんと受け入れるために、30年近く苦心を重ねて、対応可能な状況になり、先輩から引き継いだ本も含め、相当数の本がある。
日本ファイルの会社の人が、本棚を設置するとき、そうですね、個人でここまでやるのは私の知っているのは、大学の先生 お一人ぐらいですねえ、、といっていたのを思い出す。
自分の限られた脳みそのエクステンションとして、一生懸命に集めた本類をどのように処分するのか、これが意外に、、というか、、本当に大変だということを最近実感している。そのくせ、原稿の一行を書くために、いまだに一冊の本を求めている自分にあきれ果てもする。そして自分の手元に、異常なスピードで増殖し続けている本にいとおしさとともに現実問題を突きつけられている。逗子にお住まいの、オペラ歌手の菅原さんのご子息(といっても80数歳であられるが、)が、ほんとに、焚書坑儒だよ。俺が死ぬほど一生懸命にためてきた本を、家族のやつらがみんな捨てたと寂しさと憤りをこめて私に言われていた。
自分の書斎にある本の数、、いま簡単に見たが、、5000冊はある。
庭の書庫、ニ棟には、この倍はあるだろうから、残りの限られた人生で、これら1万5000冊をどう処分するのか、、、まったく自分は、、ゴミ男、、だと思った。なお、追加で説明すると、、自分は、ほとんどのこれらの本に見出しをつけたり、マークをつけたり折ったりするから、古本屋さん的には、まったく、価値のない代物である。

とはいえ、この収納のため、30年近い努力を重ねてきたのだから、今度は、後10年で、なんとか、しなければと、、暗い気持ちで思っている。

(今泉章利)
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歴史の中での主張と誤解

2009年07月03日 | 今泉章利
われわれはこの瞬間を生きているのだが、歴史におけるこの瞬間の位置づけは、絶望的なほどわからない。

歴史を振り返り、さまざま事柄でそれを再構築してゆく過程において、人々は、歴史を少しずつ評価してゆく。

尾崎士郎の人生劇場ではないが、大正の末年から昭和はじめの激動のとき、情報が限られ、強い共通の価値観がありそのなかで、その現在を主張することは、きわめて困難でもあったろうし、反対に、容易であったかもしれない。人々は限られた情報の中で漠然とした不安を感じていたかもしれないし、何らかの先入観で、何かを声高に主張したかもしれない。それが、誤解であったとしたら、後世のわれわれはなんと彼らを評価すべきであるのか。

安藤先生は、右翼や青年将校たちはピンボケな主張をおこなったと書いておられるが、どのような意味であれ、そのような断定に対して、私は言葉を失う。ただ、その人たちが、そのときになぜそのように感じたのかを、一生懸命に理解してあげたいと思うのだ。

(今泉章利)
注:このブログの内容の一部もしくは全部の著作権は一切筆者に帰属しますので、ブログの内容の一部もしくは全部を、著者の許可なくコピー、引用されることを禁じます。理由は、このブログが必ずしもすべて正確というわけでなく、筆者は、投稿後も、書いたものを反省しつつ読み返し、不適当と思われたり間違っているところは、つど訂正したり削除していることによります。私のブログは、そのようなレベルのものであり、論文のような精緻に完成されたものでないことをあらかじめお断りし、読者の方のご理解と御寛恕を賜りたいと願っている次第です。
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安藤先生について(追記)

2009年07月03日 | 今泉章利
補足ですが、当時、安藤先生が言われたことは、このあたりの研究はまだ始まったばかりであること。評価も定まっているわけではないこと。。とはいえ、第一次世界大戦から敗戦、戦後復興までの日本経済が、実際にどのように運営されてきたか、を研究することは重要であることなどであったように思う。

先日、あるビデオ出版企画の方に対して、おもわずコメントをしてしまったが、この安藤先生も、日中戦争を始めたのは二・二六事件であると断言しておられ、いま、この教科書を見てもなんともいえないものを感じる。又、論文中、所々に明らかな間違いもあるが、今から40年前、大きな捉え方で経済の実態を政治の流れで、丹念に分析されていた態度には共感を覚えている。しかしその後、このような研究がどのように発展しているのか興味のあるところである。

(今泉章利)
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安藤良雄先生 結城財政について

2009年07月02日 | 今泉章利
大学一年の教養で、安藤先生の現代日本経済史を選択したことがある。
先生は、りっぱな風貌と格調高い授業をされる方だった。青年将校や当時の右翼については極めて厳しい発言をされていたが、正直言うと小生にはその授業がほとんど分らなかった。そしてそれは、試験の時に決定的に明らかになった。

試験問題はただ一行。「結城財政について述べよ」というものだった。

ヤマをはって臨んだ小生にはまったく理解できずに結果は見事に不可となった。
私は、広田内閣の馬場エイイチ(字が難しい)蔵相はわかっていたが、結城豊太郎が何者であるかはわからなかった。結城さんは、広田内閣のあとを継いだ林銑十郎内閣の大蔵大臣で、大型の予算を組み、軍部を批判していた財界も巻き込んで、軍部と財界の「抱合」した体制を確立し、この時点において、日本は、完全に国家総動員の戦時経済に突入したのであった。

昔、日銀を訪問したとき、結城さんの大きな肖像画が、歴代総裁のなかにあり、この人が小生を不可にしたのだなあと懐かしくも苦笑を禁じ得なかった。

事件の理解には、政治や国際情勢だけでなく、当時の倫理・道徳や経済に対する正しい知識が要求されると思う。第一次大戦後の恐慌、関東大震災のあとの昭和2年の金融恐慌、浜口内閣の井上財政や金解禁の意味するもの、昭和4年の暗黒の木曜日と昭和恐慌、井上財政が崩れて、高橋是清、藤井大蔵大臣の行ったこと、そして二・二六事件、馬場財政と結城財政、、、、そして近衛政権、国家総動員体制。これらのことをすらすらとわかりやすい言葉で語ってくれる学者はどれほどいるのだろうか。

(今泉章利)
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