◎末松太平事務所(二・二六事件異聞)◎ 

末松太平(1905~1993)。
陸軍士官学校(39期)卒。陸軍大尉。二・二六事件に連座。禁錮4年&免官。

◎「新版/年表・末松太平」/(9)事件前年波乱万丈◎

2023年03月19日 | 年表●末松太平

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《「年表・末松太平」1935(昭和10)年。/末松太平=29歳~30歳。》
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◎1935年。青森第五連隊/機関銃中尉。
◎1935年2月3日。第五聯隊派遣記念(写真)。
★(参考資料)★・・・・・・・・・・
《笹田正史氏「弔意書状」の要旨。/1993年「喪主」の私宛。》
「昭和10年の2月。当時第五連隊機関銃付中尉だった末松さん(10年の夏頃、第3大隊副官となり大尉に進級されたと記憶)が教官のとき、私が助教として部下となり教育召集の予備兵(旭川第27連隊から第五連隊に来ていた)を指導した。/末松教官から学んだことは、私の軍隊生活(特に赤紙召集での北支野戦生活)で役立った。末松教官は精神教育に重点を置き、倦くことなく聞けて効果があった。/後年、登戸のお宅にも3度ほど伺い、懐旧談をしている。」

◎1935年春。腸チフスで3ヶ月入院。

◎青森での行動。
・・・竹内俊吉、淡谷悠三など「民間人」との交友など。
★参考資料★・・・・・・・・・・
《高橋正衛「二・二六事件」中公新書。P149》
「淡谷悠蔵の『野の記録』によれば、昭和10年に渋川善助が、当時共産党系・全農全国会議派の現場指導者であった淡谷を訪ねて、次のように提案したという。/『農民大衆を率いて(警戒の名目で)農民と警察の間に入り、農民を守る』・・・後略。」
★参考資料★・・・・・・・・・・
《東海林吉郎「二・二六事件と下級兵士」太平出版。1972年刊。》
「1970年5月11日から4日間、末松は『東奥日報』に『野の記録と私』を連載している。そのなかで末松は『私はたしかに飢餓行進の話をした。渋川がこれに興味を持って尾ひれをつけた。が、その場限りの話だったので、私は忘れてしまった』といっているのである。」
★注記/淡谷悠三「野の記録」には「大真面目な渋川や末松と、そんな考えで議論したところで、到底一致しそうもない」と書かれてあるという。


◎1935年8月12日。「相沢事件」勃発。
★資料★・・・・・・・・・・・
《松本清張「昭和史発掘」文春文庫/7巻・P56。》
「相沢は、大岸頼好を後輩ながら自分の目を開いてくれた師として尊敬していた。/相沢中佐には素朴な軍人精神に固まったコチコチの隊付将校の姿が浮かんでくる。・・・」
◎1935年9月。「重謹慎30日」の罰を受ける。
・・・「不穏な文書を印刷送付した」という罰目である。

◎1935年10月。大尉に昇進。
◎1935年。久保敏子と結婚。結婚式場=軍人会館(その後「九段会館」に改称)。

★資料★・・・・・・・・・・
《大蔵栄一「二・二六事件への挽歌」読売新聞社刊/P227。》
「末松の結婚に一役。/縁談のぶち壊し役を頼まれ、面会場所の『主婦の友社』に同行した。相手は久保三郎・元千葉市長の令嬢である。/『主婦の友』の社長ば雑誌を行商的販売していた頃、久保元市長が強力な援助をしたので、その恩に報いるために退官後の久保を顧問に迎えていた。
・・・結婚写真には、渋川善助、西田税、大蔵栄一が写っている。
・・・青森での「お披露目」は 11月であった。

◎12月。「歩兵砲隊長」となる。
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◎「新版/年表・末松太平」/(8)満州から青森へ◎

2023年03月18日 | 年表●末松太平

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《「年表・末松太平」1934(昭和9)年。末松太平=28歳~29歳。
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◎3月末まで「満州」での日々・・・
※写真説明「歩兵班補備教育要員/承徳にて」。戦いの日々に「歩兵」の「補備教育」が必要になるということだろうか。

  

◎末松太平の遺品「写真帳」から「見森伍長の墓標」。
・・・伍長の墓標は立派だが 遺体(遺骨)は埋葬されたのであろうか。遺骨なら「遺族」に届けられるが、火葬する余裕は(戦地では)なさそうである。/写真左から二人目の遠藤中尉も その後 戦死したという。写真右端が末松太平中尉。
◎「歩兵第五聯隊/満州事変写真帳」は何種類も作られていた。それだけ需要があったということで 当時の世相が想像できる。

◎1934年3月末。「満州」から凱旋して「青森第五連隊」に戻る。
★資料★・・・・・・・・・・
《芦澤紀之「暁の戒厳令」1975年・芙蓉書房刊》
「3月末、満州では末松中尉の凱旋帰国が迫っていた。末松中尉は自ら破壊消防夫と称していたように、クーデター成功後の建設案を考えることすら邪道とする思想があった。破壊後の建設は大岸や西田に委せるという思想に徹底していた。/だが、約3年近い満州出征は、末松に、ふと建設案を考えさせる精神的余裕をもたらした。/そこで、凱旋途中に、在満中の菅波中尉と新京で会い、相談した。」

◎1934年4月中旬。休暇をとって上京。西田税宅へ。
★資料★・・・・・・・・・・
《芦澤紀之「暁の戒厳令」続き。》
「この日は、親友渋川善助の奔走で、在京中の青年将校は殆ど全員が集まっていた。/末松の『日本改造法案大綱』に根ざした提案は時宜を得ていた。同志が一度は解決しておかなければならぬ重要課題であった。/(大岸、菅波を除いて)最も西田に近い末松は、革新派の中でも別格の存在だった。ここに革新派における存在価値があった。しかし、末松の提案に対し、同志は中途半端なまま終始した。」

◎休暇を利用して、和歌山の大岸、福岡県門司の両親を訪ねたりしている。
◎相沢三郎中佐(慶應病院入院中)の見舞いもしている。

◎毎週、土曜の夜行で上京し、日曜の夜行で青森に戻る日々が続く。
★資料★・・・・・・・・・・
《東京12CH「私の昭和史」1975年2月27日放送/司会・三国一朗。》
「司会/満州から帰られた当時に考えていたことは?」
「末松/日本にもういっぺん『出征』するつもりで。だから やることがみんなチグハグで、東京の平和ムードとは分裂していたわけです。」
「司会/そして、一応、青森の連隊に帰った。それから?」
「末松/ピストルを懐に忍ばせて、東京通いを始めました。やいのやいの言うよりは『日本で一番悪い奴』を、一人で行って殺せばいいじゃないかと。一人犠牲になればそれで済むと思って。段取りだけは、渋川善助に頼んで。(ひと月余りやって)ちょっと見当外れかなと思い、途中で止めたんです」
★資料★・・・・・・・・・・
《松沢哲哉・鈴木正節「二・二六事件と青年将校」1974年・三一書房刊》
「1934年頃から、雑誌『核心』西田系と雑誌『皇魂』大岸派の競合が、運動内容を巡って表面化していた。/大岸派唯一の闘将校と言われた末松は 満州から凱旋した直後に『東京勢』と『和歌山勢』の対立状況に直面て戸惑った。/末松は 仕方なく『農民色を一段と色揚げする』東北勢独自の運動方針を提案していった。/末松のこうした農村工作への志向は、この頃の東北大飢饉を目前に見たこともあって、すぐれてリアルスティックなものであった。大岸のかっての思想的影響が、この時期に新たな運動内容の提案となっているのである。軍隊と農村の同時決起を将校運動内部で提起し実践していこうという末松的な方法は、大岸の兵農一致論の具体化であり実践化であった・・・」
★注記/いかにも「三一書房」らしい階級的分析だが、末松太平本人の読後感は知らない。

◎10月半ばから年末まで。再び「歩兵学校(千葉市)」の日々。
・・・「機関砲」についての研修のため。
・・・下宿(千葉神社の脇にある天麩羅屋2階)は「千葉青年将校グループ」の溜まり場となる。
・・・下宿時代に知り合った小母さんが,、翌年に「縁談」を持ち込むことになる。
★資料★・・・・・・・・・・
《芦澤紀之「暁の戒厳令」続き》
「千葉の歩兵学校では、末松中尉を中心とする『千葉グループ』が誕生して蹶起を主張し、東京の自重論を刺激した。/・・・昭和9年の大晦日。歩兵学校を終えた末松中尉は、福山から上京した相沢中佐と肩を並べて、凶作の待つ青森の原隊に帰っていった。」

◎昭和10年の元旦は、仙台の旅館で、大岸・相沢の三人で迎えている。
・・・それから58年後。末松太平は「相沢中佐の長男・正彦」に「米寿の祝い」をしてもらうことになる。
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◎「新版/年表・末松太平」/(7)満州出征の日々◎

2023年03月17日 | 年表●末松太平

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《「年表・末松太平」1932(昭和7)年。/末松太平=26歳~27歳。》
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◎ 満州。歩兵砲隊長の日々。写真中央 指揮刀を持つ二人の将校。右=末松太平。
★証言★・・・・・・・・・・
《松浦義教氏(当時弘前連隊)から戴いた私宛の書状/1993年1月20日》
「末松さんは、,私の3期先輩で青森連隊の青年将校として輝ける存在だった。熱河作戦の末期長城戦で払暁攻撃が準備された時、末松さんはその中隊の先登に起ち、夜襲をもって南天們を白兵奪取され、中隊長代理だった私どもの攻撃を容易なものにして下さった。/二・二六事件の際は、私は仙台で区隊長だったが、代々木の陸軍拘置所に拘引され、予審法廷への往復途中に二度ばかり偶然にお会いしたことがある・・・」
★・・・松浦さんとは(この書状をいただいた後で)賢崇寺の法要でお目にかかることができた。
ボランティアで「歴史を学ぶ会」を主宰していて 当日も(教え子の)御婦人を数人引率していた。
これを御縁に、年賀状の交換が始まったが、数年後に「喪中」の葉書が届いた。

◎「血盟団事件」(2月9日、3月5日)を、満州で聞く。
◎「五・一五事件」を、満州で聞く。
◎藤井斉少佐の戦死(上海戦)を、大岸からの葉書で知る。


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《「年表・末松太平」1933(昭和8)年/末松太平=27歳~28歳》
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◎満州での日々。
◎満州でも「内偵」の対象にされていたらしい。
★資料★・・・・・・・・・・
《松本清張「昭和史発掘」文春文庫」/7巻・P263》
「東京憲兵隊は『一部将校』思想の調査を詳しく試みて対策の資料にしていた。思想調査だけでなく、要注意の青年将校の行動を詳しく内偵していた。/『昭和8年8月現在調べ』による各地連隊の要注意将校は、およそ次の人々である。/東京(磯部、香田、栗原、安藤、新井、大蔵、村中など)14名。大阪3名。豊橋2名。奈良3名。和歌山(大岸)。姫路(橋本)。福山(相沢)。丸亀(小川)。福岡4名。小倉(後藤)。久留米3名。台南2名。大邸。羅南3名。支那2名。満州(片倉、菅波、末松、対馬など)12名。/内容的には「幕僚派」と「青年将校」との両派混合になっている。」



◎末松太平の遺品「写真アルバム」に貼られていた写真。
・・・末松太平は「カメラ」が趣味のひとつだったので 多分「本人撮影」だと思う。
「懐かしい顔もあり 嫌な面もあり・・・」。
戦友とはいえ「個々の人間性」には「容認できない部分」も見受けられたということだろう。
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◎「新版/年表・末松太平」/(6)戸山学校と満州出征◎

2023年03月15日 | 年表●末松太平
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《「年表・末松太平」1931(昭和6)年/末松太平=25歳~26歳。
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◎1931年3月18日。東京では所謂「三月事件」が起こる。
・・・青森にいる末松太平とは「無関係」な事件である。

◎1931年8月1日。上京し「戸山学校」学生(6ヶ月)。「歩兵第五連隊付中尉」になる。
・・・戸山学校入学は「上京目的」の手段。大岸頼好の勧めに応じての上京だったという。
・・・平田連隊長談「旅団長が、お前を東京にやるのは虎を野に放つようなもの、と反対したのだが」
◎戸山学校時代の東京生活。
・・・下宿(牛込若松町)に、大岸、対馬、相沢中佐などが度々訪れる。
・・・戸山学校での「陸軍体育」は、剣道を選択。
◎西田税と4年ぶりの再会。毎晩のように西田を訪ねる日々。
・・・西田宅(代々木)で出会った人々。(菅波三郎大尉、藤井斉大尉・安藤輝三大尉など)


★資料★・・・・・・・・・・
《芦澤紀之「暁の戒厳令」1975年・芙蓉書房刊/P・68》
「安藤は 陸士1期後輩の末松に対しても、革新派の先輩として、常に教えを乞う態度であった」  
★資料★・・・・・・・・・・
《松本清張「昭和史発掘・8巻」文春文庫/P・296》
「『天剣党規約』を製作配布して以来の西田税は、隊付将校に接触し国家改造計画を説き、同志の組織づくりに努めていた。/彼のもとに出入りしたのは、陸士35期の大岸、36期の大蔵栄一・菅波三郎・村中孝次・香田清貞、38期の安藤 輝三・磯部浅一・河野寿・小川三郎、39期の渋川善助(中退)・末松太平などがいた。」
 
◎1931年8月。「郷詩会」の会合に参加。
※「郷詩会」という名は西田がつけた。
西田、大岸、井上日召、藤井、菅波、等々。急進派、時期尚早派が混在。
その後の事件(五・一五事件、二・二六事件、血盟団事件)に登場する顔触れが一同に会している。
◎1931年。何故か「桜会/前年10月結成」に顔を出すようになっている。
 
★資料★・・・・・・・・・・
《芦澤紀之「暁の戒厳令」1975年・芙蓉書房刊》
「桜会の情報を得るためにも、末松、菅波の両中尉が、戸山学校先輩の野田文雄中尉に連れられて出席した」

◎そして「十月事件」に遭遇する。
※十月事件/橋本欣五郎大佐のクーデター計画(実行予定日=10月20日)。
●「戸山学校甲種学生」の末松太平は、別働隊「抜刀隊長」を自認するが、実際には先輩の柴大尉に名称を譲る。
●10月17日。末松太平は「失敗」を知る。その後 約1ヶ月もゴタゴタが続く。
①/「砲工学校」の講堂に集結。「計画漏洩」の原因追及。
・・・「橋本が正しい」か「西田が正しいか」の両派対決。西田暗殺の噂もあった。
②/大森「料亭松浅」に集結。橋本派による「末松つるしあげ」の会合。
・・・末松の独白「・・・西田税の受け売りをしたのが軽率だった」。
③/「松浅」集結の翌々日。予定された「橋本・西田対決」の場(偕行社)を西田がすっぽかす。
・・・「斡旋役」の末松は窮地に立つ。
★資料★・・・・・・・・・・
《松本清張「昭和史発掘」文春文庫/4巻・P190》
「十月事件の計画は、どこから上層部に漏れたのであろうか。諸説ある。/・・・西田に従っていた隊付将校たちが次第に脱退していったための、内部動揺(橋本が参謀本部大佐に漏らした説、北と西田が情報を売ったという説、橋本が事の重大さに動揺して杉山陸軍次官に計画の同意を求めたためという説、などなど)。/北・西田に属している隊付将校団の、橋本たちに対する反感からの情報漏洩」
「西田と親交のある隊付将校は十月事件に加盟していたものの、内心、自分達は革新運動の先駆者であるとの自負心があった。ことに菅波や末松は、幕僚連中が既に天下を掌握したかの如くおおきなことを言って連日待合や料亭で会合しているのを苦々しく思っていた。/末松などは彼らの態度に疑惑をもつようになり、橋本たちは真の憂国の至誠から決起しようとしているのではなく、権勢欲から出たものだと思うようになった・・・」。

◎「満州出征」との電報により、急遽青森に戻る。
◎1931年11月14日。満州出征のため 青森を発つ。
※青森歩兵第五連隊・末松太平中尉。弘前歩兵三十一連隊・対馬勝雄少尉。
※満州出征に際し、西田税から二百円を貰うなど いろいろ世話になった。
※東京出発の際は、井上日召、四元義隆、渋川善助などの見送りを受けた。

・・・満州では「第8師団」管下に各歩兵連隊が混成。末松中尉は「歩兵砲隊長」を任じられる。
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◎「新版/年表・末松太平」/(5)歩兵学校と青森第五連隊と◎

2023年03月14日 | 年表●末松太平

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《「年表・末松太平」1928(昭和3)年。/末松太平=22歳~23歳》
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◎1928年秋。歩兵学校(千葉)に、3ヶ月間在学。
・・・「年表」作成当時の私は 陸軍士官学校本科を卒業したのに 何故「歩兵学校」に行くのか理解できなかった。
◎歩兵学校卒業後、青森第五連隊に復帰。初年兵教育を担当する。
・・・上の写真の横には「甲班教育(新任少尉時代)」と記されている。

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《「年表・末松太平」1929(昭和4)年。/末松太平=23歳~24歳》
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◎青森第五連隊の日々。少尉。


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《「年表・末松太平」1930(昭和5)年。/末松太平=24歳~25歳。
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◎1930年5月。大岸頼好が「第五連隊」に復帰する。
◎1930年の夏ごろ。大岸の「兵火事件」に関与する。
★資料★・・・・・・・・・・
《竹山護夫「陸軍青年将校運動の展開と挫折」/史学雑誌(第78編・第7号)抜刷。》
「1930(昭和5)の天長節に 大岸と末松は、パンフレット『兵火』によって、全国の青年将校に宛てて『現在日本に跳梁跋扈せる不正罪悪(宮内官、華族、政党、財閥、学閥、赤賊等々)を明らかに摘出して国民の義憤心を興起せしめ正義戦闘を開始せよ』と呼びかけた。所謂兵火事件である。この出来事は、折からのロンドン海軍軍縮会議の締結に伴う統帥権干犯問題騒動の中に於いて、一部青年将校を刺激して、益々結束せしめる役割を持ったとされている。」
・・・大岸と末松は 表面的にはお互いに疎遠を装っていた。

◎1930年9月。陸軍省や参謀本部の少壮派によって「桜会」が作られている。
◎1930年半ばから年末にかけて。青森第五連隊で機関銃隊長代理。
(本来の「機関銃隊長」が歩兵学校に派遣されている間の「代役」である)
◎1930年末。第五連隊赤化将校事件(青森特高史に記録されていた)。
※「赤化将校」とは末松太平のことである。
機関銃隊長代理だった頃、除隊兵を送る際に渡したガリ版パンフ「憂国教育」について、憲兵隊の取調べを受ける。
★資料★・・・・・・・・・・
《「ドキュメント日本人3・反逆者」学藝書林1968年・学藝書林刊》
・・・磯部浅一、西田税、北一輝、大杉栄、尾崎秀実など 12名が「反逆者」として紹介されている。
目次には《末松太平「青森歩兵第五連隊の記録」自伝/2・26事件前夜、東北凶作に心痛めた青年将校の記録。》
本編では《「青森歩兵第五連隊の記録/赤化将校事件」》
「五連隊赤化将校事件とは、私が昭和五年の頃、仕出かした、事件というほどのこともない些細な事件のことをさしているわけで・・・」
・・・この「赤化将校事件」は《末松太平著「軍隊と戦後のなかで/『私の昭和史』拾遺」1980年・大和書房刊》に再録された。そして《「完本 私の昭和史/二・二六事件異聞」2023年・中央公論新社刊》で三度目の登場となった。
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◎「新版/年表・末松太平」/(4)陸軍士官学校(予科・本科)卒業◎

2023年03月13日 | 年表●末松太平
   
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《「年表・末松太平」1925(大正14)年。/末松太平=19~20歳。》
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◎1925(大正14)年3月、陸軍士官学校・予科卒業。
※「卒業記念写真帳」掲載の集合写真から。末松太平(左写真・中央)、渋川善助(右写真・後列中央)。
・・・末松の「集合写真」には 市吉中隊長・今関区隊長・田尾曹長・根本曹長+卒業生23名。
・・・渋川の「集合写真」には 今村中隊長・長第一区隊長・田中歩兵曹長・上田砲兵曹長+卒業生30名。
・・・集合写真は合計12枚。末松と一緒の写真には(第五連隊での同僚)草地貞吾と森本赳夫も写っている。



◎1925(大正14)年4月、歩兵第五連隊「士官候補生」として、初めて青森の土を踏む。
★初公開資料★・・・・・・・・・・
《末松太平の「遺品」から。/原稿の下書き(掲載予定先は不明)が残されたノート。》
「私が青森を故郷のように恋うようになった因縁は 大正14年に遡る。が 青森が私に与えた初印象は甚だ悪いものだった。/私は青森の第五連隊を任地として志願したわけではなかった。九州人の私には 縁も所縁もない第五連隊のことなど意識のひとかけらもなかった。瀬戸内海の海の色が好きだった私は(親友の森本と一緒に)広島と姫路の連隊を志願した。/そして 森本は姫路の連隊に決まった。が 私は飛ばされて青森の連隊にやられた。飛ばされるというのは 士官学校生徒間の俗語で『希望もしない辺鄙な連隊にやられる』ことでわる。私は 青森に連隊があることさえ知らなかった。/第五連隊に配属が決ると 雪中遭難のあった連隊とか 軍神橘中佐の連隊とか教えてくれる者もいた。しかし 青森がどんな所であるかという知識はなかった。/私の初印象が甚だ悪かったというのは 青森駅頭に着くところからだった。駅頭には誰も出迎えに来ていなかった。先輩からは『士官候補生が赴任するときは 連隊の将校が駅に迎えに来る』と聞かされていた。/着いたのは4月14日だった。雪切りは終わっていたが 駅前の家と家の間には汚れた雪が積み上げてあった。当てにした出迎えはいなかった。連隊はどの方向にあるのか見当もつかない。当時はまだ駅前タクシーなどはなく 人力車夫が屯していた。/人力車は かなりの距離を走っても 連隊らしきものに行き当たらなかった。人力車は とうとう町並みを外れた。寒々とした一本道がどこまでも続いた。青森の第五連隊は『青森市内』にはなかった。筒井村にあった。」
「衛兵所では 星ひとつもついていない肩章の新入兵の扱いに戸惑った。衛兵司令が あちこち電話をかけ問合せていた。そのうち中尉が一人来て 私の身柄を引き取った。温かく迎えるというようなものではなかった。私は この連隊から この青森から逃れることを考えた。/私を引き取った結城中尉は(これから6ヶ月続く)隊付候補生生活の『担当教官』であった。/こうして私は『上等兵の階級の士官候補生』になった。」

◎1925(大正14)年5月、陸士4期先輩の大岸頼好(当時少尉)と出会う。
・・・これが「青年将校運動」に足を踏み入れるきっかけである。
・・・大岸頼好少尉(当時)は、弘前歩兵第31連隊から第5連隊へ転属してきた。
★資料★・・・・・・・・・・
《「少殿殿と士官候補生」末松太平/記念誌「追想・大岸頼好」1996(昭和41)年3月発行・掲載》。
「私が士官候補生で上等兵の階級だったころ、大岸さんは二年目の少尉だった。『候補生』と呼ばれれば『ハイ』といって、不動の姿勢をとらねばならない上官だった。が 五連隊では私の方が少し先輩だった。/大岸少尉は五連隊にくると独身将校の巣、合同宿舎に住みついた。/大岸少尉が週番士官になると、私はひとりで毎晩のように、週番士官室を訪ねた。/・・・軍縮は師団廃止にとどまらず幼年学校も、東京だけを残して、あとの五校は全部廃校になることが決まっていた。/さほど未練のある広島幼年学校ではなかったが、私は意地になって『廃校反対』を全国出身先輩に呼びかけるため印刷配布する文を持って 週番士官室の大岸少尉を訪ねた。/大岸少尉は『そんなことより、もっと大事なことはないかな』と言った。その後、その大事なことの話が始まった。革命のことだった。その時以来、講師一人、聴講生一人の革命講座が開かれることになった。/・・・革命講座には 日本軍隊の分析も含まれた。日本軍隊の構造改革論である。テキストのひとつが『兵農分離亡国論』だった。ガリ版刷りで、かなり部厚に綴じてあったが、活字で刷れば薄っぺらなものだったと思う・・・。」

◎1925(大正14)年10月1日。陸軍士官学校・本科(市ヶ谷)に入学。
・・・「本科」の集合写真。題して「赤い糸」。この日 渋川善助氏は欠席したのだろうか。

◎入学直後。「大学寮」に西田税(陸士34期)を訪ねる。 
★資料★・・・・・・・・・・
《須山幸雄著「西田税/二・二六事件への軌跡」1979年・芙蓉書房刊》
・・・グラビア「西田税をめぐる人々」。16人の写真が紹介されている。
・・・秩父宮、北一輝、大川周明、井上日召、磯部浅一、安藤輝三、末松太平、他。
 
《「年表・末松太平」追補改訂版》・・・・・・・・・・
《末松太平「悲哀の浪人革命家/西田税」・雑誌「人物往来」1966(昭和41)年2月号》
「私が西田税に会ったのは大正十四年の十月だが、この年の六月、西田は軍職を退き、上京している。私が会ったのは、西田が東京での浪人生活を、やっと始めた時期だったわけである。/西田税は会うやいきなり『このままでは日本は亡びますよ』といった。私の一年と十ヶ月の士官学校本科在学中にでも、革命を起こしそうな語調だった。もし西田税ら行地社の人々が革命を起こしたら、直ちにこれに参加するため、今から覚悟を決めておかなければなるまいと私は思った。/浪人とはいえ、この頃の西田は予備役少尉、すなわち軍人に違いなかった。完全な浪人になったのは、大正十五年、宮内庁恐喝事件で有罪となり、上告棄却で懲役五ヶ月の判決が確定して失官した昭和五年十月三十日だった。十月事件の一年前である」

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《「年表・末松太平」1926(大正15・昭和1)年。末松太平=20歳~21歳》
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
◎陸軍士官学校本科在学中。西田税に伴われて、北一輝を訪問。
★資料★・・・・・・
《松本清張「昭和史発掘」文春文庫・8巻/頁300》
「末松太平は、大正15年頃、初めて西田税に伴われて北一輝を訪問した時『軍人は軍人勅諭を読み誤り腐敗政治に染まらなかった。いまの日本を救えるのは腐敗していない軍人、しまも若いあなたがたです』と言われたときの感銘は、クラーク博士における『ボーイズビーアンビシャス』だった、と書いている・・・」
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《「年表・末松太平」1927(昭和2)年。/末松太平=21歳~22歳。》
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◎1927年夏。陸軍士官学校(第39期)卒業式。(★写真参照★)
・・・航空兵科への転科を考えていたが(大岸頼好の影響もあって)結局は青森に戻る。
★資料★・・・・・・・・・・
(松沢哲成・鈴木正節「二・二六事件と青年将校」三一書房・1974年5月刊)
「陸士39期生の中に『革新』思想との出会いを持ち込んだのは末松である。/末松が同期の森本赳夫や草地貞吾などを、西田、北に会わせた。森本が『ひどく熱をあげた』こともあって、末松はいつのまにか『革新党の首領株』になったという。/西田による『天剣党・同志録』には、現役軍人47名のうち、39期生は18名にのぼっている」(・・・これらは「1972年12月9日の末松談話による」とのこと。)

◎原隊復帰。歩兵第五連隊付「見習士官」となる。写真には「昭和2年連隊幹部」と記してある。
・・・青森に戻ってみると、大岸頼好は既に仙台に転属しており、失望する。
◎「天剣党事件」
・・・西田税が作成した「天剣党趣意書」に同志として「末松太平」の名前も列記される。 
★資料★・・・・・・・・・・
《中公文庫「日本の歴史・24(ファシズムへの道)」大内力/P・209》
「昭和2年7月には天剣党事件がおこった。これは西田税が中心になり、陸海軍と民間の右翼を集めて国家改造団体を組織しようとしたものであったが、まもなく憲兵隊に摘発されて失敗に終わった。ここに名を連ねたのは、海軍少尉藤井斉・陸軍見 習士官末松太平・陸軍少尉村中孝次・民間の渋川善助らであったが、これは本人の承諾なしに西田が名を書いたものという。」  
★資料★・・・・・・・・・・
《土門周平「二・二六事件の全貌」中央公論/歴史と人物・1981年2月号》
「昭和2年7月、西田は北の指導下に陸海軍現場将校を中心とする同志を集めて 天剣党を組織した。参加者の中に、菅波三郎、大岸頼好、村中孝次、末松太平、野田文雄、渋川善助、海軍の藤井斉などがいた。」「これを偵知した憲兵隊は、ただちに西田を留置取調べ、天剣党も創立そうそうに解散した」
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※ 原隊復帰以降、1931(昭和6)年の夏までの約4年間、末松は西田と会っていない。
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◎「新版/年表・末松太平」/(3)幼年学校~士官学校◎

2023年03月11日 | 年表●末松太平
 
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《「年表・末松太平」1920(大正9)年/末松太平=15歳~16歳)。
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◎1920(大正9)年。広島幼年学校時代の写真。当時16歳。
※写真の横に「入校直後 運動会にて我が運動班優勝せり」と書いている。

※幼年学校時代や陸軍士官学校時代の記録は(青年将校運動に関る前なので)参考文献が見当たらない。
仕方ないので「駆け足」で通過。
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《「年表・末松太平/追補改訂版》・・・・・・・・・・
※写真左側=「広幼出身者名簿」1964(昭和39)年6月。「広幼会」発行。
目次を開くと「旧校の部」と「新校の部」に分れている。旧校と新校では「校歌」も異なっている。
「旧校の部」は 第1期(士官学校15期)から第29期(士官学校44期)まで。
「新校の部」は 第40期(士官学校55期)から第46期(士官学校61期)。そして第48期まで。
・・・第46期(昭和18年入校)以降は 卒業する以前に「終戦」を迎えることになった。
・・・旧校最後(第29期)は昭和3年3月卒業。新校最初(第40期)は昭和11年4月入校。
「旧」と「新」の間に10年の空白があるが その理由は・・・?。

※末松太平「第24期(士官学校39期)。大正9年9月入校、大正12年9月卒業」。
・西田 税「第19期(士官学校34期)。「現職(又は遺族及び死亡の状況)」=「刑死(二・二六事件)。
・磯部浅一「第23期(士官学校38期)。「現職(同上)」=「刑死(S11.7.12)」。

※写真右側=「創立90周年記念/広幼会名簿」1987(昭和62)年9月発行。
末松太平=82歳。写真左側と右側との間で「23年」が経過。当然「遺族及び死亡の状況」が主役になっている。
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◎「新版/年表・末松太平」/(2)小倉中学~幼年学校◎

2023年03月10日 | 年表●末松太平

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《「年表・末松太平」1904(明治38)年。/末松太平・誕生。》
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◎9月11日・北九州市門司区大里(現在の住所表示)にて誕生。
※ 父(仲七)の三男で、母(フシ)の長男/要するに「母=後妻」ということ。。
※ 本人いわく「没落農家の小せがれ」である。
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◎小倉中学(2年終了まで)。
★写真=幼年学校の受験写真・・・だと思う。
◎広島幼年学校(第24期生)。
◎陸軍士官学校(第39期生)。
※ 幼年学校に入学してからは 父母と暮らすことは二度となかった。
※ 父母の世話は 弟・仲義(父の四男・母の次男)の役目になった。

《「年表・末松太平/追補改訂版」》・・・・・・・・・・
  

★写真=小学校の卒業写真・・・だと思う。

◎1973(昭和48)年10月25日発行/百周年記念校史「だいりやなぎ」
※北九州市立大里柳小学校発行。編集=「大里柳」編集委員会。
  
※「そのころを語る/柳葉同窓生の思い出」寄稿者8人。末松太平もそのひとりである。
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◎「レモンの味/思い出すと甘酸っぱい」末松太平。(註/かなりの長文なので 要約して転載する)
※《大正改元》
私は明治38年(1905年)の9月生れだから、当時大里尋常高等小学校といった大里の小学校に入ったのは、明治45年(1913年)の4月である。
明治45年は7月20日に明治天皇の崩御により改元され大正元年となり、後大喪の当日の9月13日の夜に校庭で遙拝式があった。暗闇の中で、祭壇の辺りだけがほのかに明るかったことを、今でも覚えている。その祭壇の前に、一年生を代表して、私は出て行った。玉串を奉奠するためだったのだろう。
※《道草》
学校は昔の大里駅のすぐ西側にあり、校舎の北側すれすれに汽車が通っていた。
学校に入る前年に、九州電気軌道の電車が、学校の南側間近に開通していた。学校は汽車道と電車道に挟まれていた。
校門に通じるこの電車道が通学に便利な道であり、下校のときは、通る電車に気をつけながら、連れの同級系と、ふざけながら遊びながら帰った。うるさい教育ママが家に待っているわけではなかった。百姓をしていた私の家などは、帰っても戸締りもしない家に、誰も居ないことさえ多かった。
※《草履ばき》
金釦の小倉服に革靴は、中学校に入ってからで、大里の小学校は着物に草履か下駄だった。
着物に袴、それに裸足で運動会をし、遠足のときは、それに草履をはいた。
※《朝から昼から》
大里の町は、私が小学校に入った頃から急速に人口が増え、生徒の数も急増した。それで私が二年生になった頃、教室が足りなくなり、新しい校舎が建つまで「朝から」の組と「昼から」の組の二部授業が、しばらく続いた。
私は「昼から」が嫌で母を心痛させた。登校を拗ねる私の手を引っ張って、母はよく電車道まで来て、登校生徒の群れに「この子を頼みます」と頭を下げていた。が、母は百姓仕事が忙しく、昼頃いつも家にいるわけではなかった。それで、二年生の頃、私はよく欠席した。
※《出征、凱旋》
三年生のころ欧州大戦が始まり、日本も久留米の十八師団が青島に出征し、間もなく占領し凱旋した。その軍隊をのせた軍用列車が度々学校のそばを通った。
言用列車が通るたびに大里駅のあたりで歓呼の声があがった。授業など受けておられなかった。教室から廊下に飛び出し、汽車の窓から手を振る兵隊に、こちらも万歳万歳と手を振って応えた。軍用列車が通りすぎ机に戻ると、決まって先生に叱られた。それでも軍用列車が通るたびに、同じ事を繰り返した。
※《朝鮮人職工》
学校から汽車の線路を跨いだ海側に桜ビールの工場が出来た。朝鮮から沢山の職工が来ていた。この職工たちと生徒がトラブルを起こしたことがあった。
昼休みの時間、校庭で一部の生徒がボール遊びをしていた。そこに若い朝鮮人職工が何人か下駄履きで入ってきた。そのとき偶々、ボールが職工の足下に転がり、職工が何気なく蹴り返した。それに対し生徒の一人が侮蔑的な言葉を投げつけた。職工たちは激高し、校庭いっぱいに遊んでいた生徒達に襲いかかろうとした。生徒達は一散に教室に逃げ込んだ。
始業時間になると、校長先生が、緊急に全校生徒を校庭に集合させ訓示をした。朝鮮人は同胞だから侮蔑してはいけない。今後絶対に今日のようなことのないように、といった趣旨だった。 私はこのときの訓示を今日に至るまで、そのときの情景とともに忘れないでいる。
                 (大正七年三月卒。千葉市登戸在住。ベストンKK役員)
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◎「新版/年表・末松太平」/(1)「初版」作成までの経緯◎

2023年03月10日 | 年表●末松太平
◎「新版/年表・末松太平」の作成に当り、1993年「初版」作成当時の記録を示しておく。

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《「年表・末松太平」について》
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《年表作成にあたって、以下のルールを定めた。参考までに記しておく。》

(1)資料だけを駆使して、年表をつくる。
 ◎ 自宅(父の部屋)にあった既存文書データだけで構成する。
 ◎ 文書とは、各種の書籍・雑誌・新聞・手紙・日記・である。
 ◎ 総て無断引用での「私家版」である。
 ◎ 末松太平の知人友人へのインタビューは、一切行わない。

(2)原則として「私の昭和史」からの直接引用は行わない。
  ◎ 間接的な引用は避けられない。例えば 松本清張「昭和史発掘」。
    これは既に「清張の著作」であり「末松太平の著作」ではない。
    その他の書籍類などについても、同様の解釈である。

(3)1993年2月26日までに(第1版を)完成させる。
  ◎ 末松太平の所有していた資料は膨大で、短期間ではチェックできない。
    しかし、ひとまずこの時点で「完成」としておきたい。

(4)網膜剥離手術の前後からは「年表」の表現方法を工夫する。
  ◎ 対外的な評価が不確定な事項が多く、客観的資料が不足している。
  ◎ 単なる事項の羅列は「晩年の記録」として不適切だと思われる。
  
《初版完成/1993年2月24日(水)》              
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★「解説」のようなもの★
「年表・末松太平」作成までの経緯を記しておく。

★1993年1月17日午前8時30分 末松太平死去。87歳。
それまでの私は「末松太平の世界」とは無縁だったし むしろ反発さえ覚えていた。
当然「二・二六事件関係」の知識も皆無で「賢崇寺」のことも「慰霊像」のことも全く知らなかった。
「謹呈せがれ殿 おやじ」と署名された「私の昭和史」は所有していたが 内容は理解していなかった。

★そういう私が 突然「喪主」を務めることになったのである。
「慰霊像護持の会の北島です。お花を贈ります」という電話がある。
とりあえず 電話の応対はしているものの 私には何が何だか判らない。
「慰霊像? 護持の会? 何かの慰霊像(仏像)を配布する団体?」
折しも 某宗教団体が配布する「幸福を招く壺」や「幸福を招く像」が世間を騒がしていた。
一瞬「葬儀の混乱を利用して《何かの像》を売りつける?」と警戒したのは 本当の話である。

★末松太平の急死を知って 多数の方が我家を訪れたが 私には「親父との関係」が判らない。
「こちらの《たたみやサン》には いろいろ世話になって・・・」と 末松太平の未亡人が教えてくれる。
「たたみやサン・・・?。末松太平は《畳屋サン》とも親しく交流していたんだ・・・」
たたみやサン=田々宮英太郞氏。これもまた 本当の話である。

★「2月26日には 賢崇寺に行って 皆様に御挨拶したい」と 母が言った。
「二・二六事件の法要」の参列は 母にとっても 私にとっても「初めての体験」になる。
葬儀に参列していただいた方々に 失礼があってはならない。誰が誰だか判らない・・・という訳にはいかない。
「末松太平の世界」を理解する一環として「年表」の作成を思い立った。

★父の部屋にあった「書籍&資料」を全てチェックして「末松太平が登場する部分」をマークする。
マークした「書籍&資料」を時系列に整理しながら「ワープロ」に書き込んでいく。
・・・会社勤務の合間に作業を続け 2月24日に(とりあえず)完成。
この間の《集中力》は 我ながら凄かった・・・と思う。(末松)

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◎追補事項◎
※2023年2月/「年表・末松太平/増補改訂版」に着手。
「初版」作成以後に発見した「遺品資料」を加えて再構成している。 
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