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《「年表・末松太平」1935(昭和10)年。/末松太平=29歳~30歳。》
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◎1935年。青森第五連隊/機関銃中尉。
◎1935年2月3日。第五聯隊派遣記念(写真)。
★(参考資料)★・・・・・・・・・・
《笹田正史氏「弔意書状」の要旨。/1993年「喪主」の私宛。》
「昭和10年の2月。当時第五連隊機関銃付中尉だった末松さん(10年の夏頃、第3大隊副官となり大尉に進級されたと記憶)が教官のとき、私が助教として部下となり教育召集の予備兵(旭川第27連隊から第五連隊に来ていた)を指導した。/末松教官から学んだことは、私の軍隊生活(特に赤紙召集での北支野戦生活)で役立った。末松教官は精神教育に重点を置き、倦くことなく聞けて効果があった。/後年、登戸のお宅にも3度ほど伺い、懐旧談をしている。」
◎1935年春。腸チフスで3ヶ月入院。
◎青森での行動。
・・・竹内俊吉、淡谷悠三など「民間人」との交友など。
★参考資料★・・・・・・・・・・
《高橋正衛「二・二六事件」中公新書。P149》
「淡谷悠蔵の『野の記録』によれば、昭和10年に渋川善助が、当時共産党系・全農全国会議派の現場指導者であった淡谷を訪ねて、次のように提案したという。/『農民大衆を率いて(警戒の名目で)農民と警察の間に入り、農民を守る』・・・後略。」
★参考資料★・・・・・・・・・・
《東海林吉郎「二・二六事件と下級兵士」太平出版。1972年刊。》
「1970年5月11日から4日間、末松は『東奥日報』に『野の記録と私』を連載している。そのなかで末松は『私はたしかに飢餓行進の話をした。渋川がこれに興味を持って尾ひれをつけた。が、その場限りの話だったので、私は忘れてしまった』といっているのである。」
★注記/淡谷悠三「野の記録」には「大真面目な渋川や末松と、そんな考えで議論したところで、到底一致しそうもない」と書かれてあるという。
◎1935年8月12日。「相沢事件」勃発。
★資料★・・・・・・・・・・・
《松本清張「昭和史発掘」文春文庫/7巻・P56。》
「相沢は、大岸頼好を後輩ながら自分の目を開いてくれた師として尊敬していた。/相沢中佐には素朴な軍人精神に固まったコチコチの隊付将校の姿が浮かんでくる。・・・」
◎1935年9月。「重謹慎30日」の罰を受ける。
・・・「不穏な文書を印刷送付した」という罰目である。
◎1935年10月。大尉に昇進。
◎1935年。久保敏子と結婚。結婚式場=軍人会館(その後「九段会館」に改称)。
★資料★・・・・・・・・・・
《大蔵栄一「二・二六事件への挽歌」読売新聞社刊/P227。》
「末松の結婚に一役。/縁談のぶち壊し役を頼まれ、面会場所の『主婦の友社』に同行した。相手は久保三郎・元千葉市長の令嬢である。/『主婦の友』の社長ば雑誌を行商的販売していた頃、久保元市長が強力な援助をしたので、その恩に報いるために退官後の久保を顧問に迎えていた。
・・・結婚写真には、渋川善助、西田税、大蔵栄一が写っている。
・・・青森での「お披露目」は 11月であった。
◎12月。「歩兵砲隊長」となる。