◎末松太平事務所(二・二六事件異聞)◎ 

末松太平(1905~1993)。
陸軍士官学校(39期)卒。陸軍大尉。二・二六事件に連座。禁錮4年&免官。

父今泉義道の二・二六事件(近衛歩兵三聯隊第七中隊)その4

2023年04月06日 | 今泉章利
【5】教訓 学びきれない歴史の深さ  
① 人生とはわからない。父の場合は、雪と共事件に巻き込まれていった。事件はいつ父のようなことが起こるか、誰もが備える必要がある。

② 事件では、「そんな奴らはぶった切るんだ」といった山下将軍の言葉で、本当に殺してしまった。殺すということは、どんなに正しい素晴らしいことを言っていても、間違いなく逆の結果となってしまう。おまけに残された家族、一族に計り知れない悲しみを与え、永遠に負の連鎖は続いてゆく。

③ 歴史をもう一度学びなおすこと。父のことですらまだまだ新しい発見がある。
その時代の価値観をすべて理解するには、無理があるとしても、何回も繰り返し継続して考えてゆくこと。

④ 以上は、二・二六事件という大きな事件に突然巻き込まれたたある軍人の姿ではあるが、その思いは、2月と7月の法要、慰霊像護持の活動に中に生きている。

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父今泉義道の二・二六事件(近衛歩兵第三聯隊第七中隊少尉)その3

2023年04月03日 | 今泉章利
(続き)
今泉少尉に関する意見書(近衛歩兵三聯隊→東京陸軍軍法会議)

東京陸軍衛戍刑務所 

衛戍刑務所内略図(図の左上が現在の慰霊像の位置)(斜線部は銃殺家の場所)

⑤ 近衛歩兵三連隊の香月清司師団長から寺内陸軍大臣に対し、今泉義道少尉に対する裁断参考資料が提出され、4月4日に東京陸軍軍法会議が受領している。一言でいえば、無罪の嘆願であったが、7月5日の判決で、父は禁錮4年となり、免官となった。
15名の処刑は、7月12日に衛戍刑務所で行われたが、父は中野刑務所(豊多摩刑務所)に移送されていたのか、どうかわからなかったが、父は一言も話さなかったのである。
ただ、2015年に発見された「花淵文書」に、の寄せ書きに、「我が思いいかに言うふとも術(すべ)なしや ただつゝましふ末松黙しゆかるる 今泉」とあるので、衛戍刑務所にいたのだと思う。
末松太平さんのお話によれば、実弾は空砲と違いピュン、ピュンとはっきり聞こえたという。また、北島軍曹によれば、獄舎全員が「安藤大尉殿、中隊長殿!!安藤さん!!」など、夫々のお名前を揺るがすように泣きながら絶叫していたという。安藤さんは、処刑場に向かう列の中から、突然中庭の三聯隊の下士官たちの獄舎の前に立たれ、「この度は本当にご迷惑をおかけし安藤心よりお詫びいたします」とご挨拶されたとのことである。

花淵文書(看守の方)(今泉、清原、常盤、山本又、池田の5名)(処刑直後ではないか)



【3】釈放されて 国賊に対する国家の監視 
中野刑務所(豊多摩刑務所)
 
父は禁錮4年で中野刑務所(豊多摩刑務所)に収監され、むさぼるように一般の本を読み漁った。監獄の食事は貧しく、汁物に卵が入っていると喜べば、実は自分の目玉の影だった、など、泣き笑いの話もしてくれた。ありがたかったのは風呂で、砂時計の浴槽時間がどれほどうれしかったか、外にさらされている上窓に飯粒を置くと小鳥が決まって食べに来ること、冬の寒さでしもやけがひどくなったことなどを時折話してくれた。外気温とほとんど同じ牢屋は、どんなに厳しかったことか。
父はその後、昭和13年2月11日、禁固3年に減刑され,昭和13年11月23日に出獄した。
少尉任官から3年の時がたった。25歳であった。しかし、出獄はできても、国賊は国賊のため、鎌倉警察署の特高刑事の監視は頻繁に続いた。
鎌倉の右翼担当特高は、10月事件に関係していた天野辰夫氏と父の二人だけが対象だったと、ある古老の方から伺った。父と鎌倉を散歩しているとき、父が指さす古書店の奥に老人が座っていたが、私にこっそりとあの人が特高だよと声を潜めて告げた。

出獄して2か月、父は、親戚が支配人をしている上海内河汽船という国策会社に入社した。大陸に渡ったのである。大陸に夢を託したのである。
  父は御国に奉仕すべく、上海で必死に働いた。もちろん事件の十字架を背負いながら。

【4】法要と慰霊像 亡くなった方への慰霊 そして兵隊に対する謝罪 
事件を阻止しえなかった原罪、問い続けた生き残ることの重さは子供の私でも計り知れない。昭和11年7月24日、処刑のあった12日後、父は刑務所から、第七中隊にお別れの手紙をしたためている。
「二月事件以来如何程諸君が懊悩煩悶せられしか私にとっては身を斬られる思いです。当時受けた屈辱の傷はまだまだ諦めきれぬかも知れませんが、その時はどうか私を怨んで下さい。決して亡くなられた方を悪意的に批判してはなりません。私が現在生き恥を晒しているのも私なりに使命があるのです。私は今国家の制裁を受けておりますが、一日といえども諸君の幸福を祈らぬ日はありません。諸君とともに軍務に励んだ感激は生涯忘れないと思います。(中略)私の不徳不敏の致すところ、事件の阻止も果たし得ず多大の辛酸とご迷惑をおかけ致しましたること改めておわび致します。何卒上官各位の御教導に従って軍人精神を鍛え立派な人間になってください。これが私の衷心よりのお願いです。」

東京宇田川町にある二・二六事件全殉難物故者のための慰霊像 


戦後になり、昭和40年、渋谷宇田川町の処刑場跡地の一角に、二・二六事件記念慰霊像が建立された。建立のための資金は、全国約1000名の方からの浄財によった。
昭和40年と言えば、二・二六事件に関する出版物が、雨後の筍のように出版された時期であった。全貌が分からず、父の事件に対する思いは悶々としていた。
人々は、自分の若き日の情報を求めていた。
それからしばらくした昭和52年の早朝のことだった。母に促されて、玄関に行ってみると、すげ笠、はだし足袋、白ずた袋、六尺棒をもった、真っ白な父がたっていた。父はこれから四国八十八か所遍路の旅に出るといった。余計なものは何も持たず、命がけの父の固い意志を垣間見た気がした。父63歳。事件から41年、父の書いた文章には次のように書かれている。
「昭和五十二年四月、悶々の情已み難く、飄然として四国八十八ヵ所遍路の旅に立つ。室戸岬を過ぐる頃、耳底に私を呼ぶ声がする。今泉!今泉君!今泉さん!或いは低く、あるいは高く、数十名の異なった声である。私は翻然として悟った。それは、二・二六事件の全殉難物故者のお声であると。旅を了えると直ちに東京渋谷区宇田川町に建立されている二・二六事件の慰霊像に馳せ参じた。そしてこのご供養を生涯かけて吾勤めと心に決めた。」父は、花と線香と水筒に入れた水を持ち、鎌倉の一番電車にのり、渋谷駅から歩いて慰霊像に向かう。ビルの時計の針を見定め、慰霊像の周辺を清掃し、花を供え、香を焚き、心を浄め、恭しく般若心経と観音経を諷誦する。「十字架を負う身の証として静かに見守って頂き度い。」
私は、いつしか、お経のあとに父が唱える偈文を教えてもらい今日に至っている。
父は、亡くなられた方たちを、41年たって、全身で慰霊することになった。

昭和59年2月26日 慰霊像護持の会を結成 柳下中尉、同期の池田少尉、北島軍曹、など父を含め6名の会で、毎週当番を決めて慰霊活動続け、今も、回数は減ったものの活動は続いている。
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