◎末松太平事務所(二・二六事件異聞)◎ 

末松太平(1905~1993)。
陸軍士官学校(39期)卒。陸軍大尉。二・二六事件に連座。禁錮4年&免官。

父今泉義道の二・二六事件(近衛歩兵三聯隊第七中隊)その4

2023年04月06日 | 今泉章利
【5】教訓 学びきれない歴史の深さ  
① 人生とはわからない。父の場合は、雪と共事件に巻き込まれていった。事件はいつ父のようなことが起こるか、誰もが備える必要がある。

② 事件では、「そんな奴らはぶった切るんだ」といった山下将軍の言葉で、本当に殺してしまった。殺すということは、どんなに正しい素晴らしいことを言っていても、間違いなく逆の結果となってしまう。おまけに残された家族、一族に計り知れない悲しみを与え、永遠に負の連鎖は続いてゆく。

③ 歴史をもう一度学びなおすこと。父のことですらまだまだ新しい発見がある。
その時代の価値観をすべて理解するには、無理があるとしても、何回も繰り返し継続して考えてゆくこと。

④ 以上は、二・二六事件という大きな事件に突然巻き込まれたたある軍人の姿ではあるが、その思いは、2月と7月の法要、慰霊像護持の活動に中に生きている。

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父今泉義道の二・二六事件(近衛歩兵第三聯隊第七中隊少尉)その3

2023年04月03日 | 今泉章利
(続き)
今泉少尉に関する意見書(近衛歩兵三聯隊→東京陸軍軍法会議)

東京陸軍衛戍刑務所 

衛戍刑務所内略図(図の左上が現在の慰霊像の位置)(斜線部は銃殺家の場所)

⑤ 近衛歩兵三連隊の香月清司師団長から寺内陸軍大臣に対し、今泉義道少尉に対する裁断参考資料が提出され、4月4日に東京陸軍軍法会議が受領している。一言でいえば、無罪の嘆願であったが、7月5日の判決で、父は禁錮4年となり、免官となった。
15名の処刑は、7月12日に衛戍刑務所で行われたが、父は中野刑務所(豊多摩刑務所)に移送されていたのか、どうかわからなかったが、父は一言も話さなかったのである。
ただ、2015年に発見された「花淵文書」に、の寄せ書きに、「我が思いいかに言うふとも術(すべ)なしや ただつゝましふ末松黙しゆかるる 今泉」とあるので、衛戍刑務所にいたのだと思う。
末松太平さんのお話によれば、実弾は空砲と違いピュン、ピュンとはっきり聞こえたという。また、北島軍曹によれば、獄舎全員が「安藤大尉殿、中隊長殿!!安藤さん!!」など、夫々のお名前を揺るがすように泣きながら絶叫していたという。安藤さんは、処刑場に向かう列の中から、突然中庭の三聯隊の下士官たちの獄舎の前に立たれ、「この度は本当にご迷惑をおかけし安藤心よりお詫びいたします」とご挨拶されたとのことである。

花淵文書(看守の方)(今泉、清原、常盤、山本又、池田の5名)(処刑直後ではないか)



【3】釈放されて 国賊に対する国家の監視 
中野刑務所(豊多摩刑務所)
 
父は禁錮4年で中野刑務所(豊多摩刑務所)に収監され、むさぼるように一般の本を読み漁った。監獄の食事は貧しく、汁物に卵が入っていると喜べば、実は自分の目玉の影だった、など、泣き笑いの話もしてくれた。ありがたかったのは風呂で、砂時計の浴槽時間がどれほどうれしかったか、外にさらされている上窓に飯粒を置くと小鳥が決まって食べに来ること、冬の寒さでしもやけがひどくなったことなどを時折話してくれた。外気温とほとんど同じ牢屋は、どんなに厳しかったことか。
父はその後、昭和13年2月11日、禁固3年に減刑され,昭和13年11月23日に出獄した。
少尉任官から3年の時がたった。25歳であった。しかし、出獄はできても、国賊は国賊のため、鎌倉警察署の特高刑事の監視は頻繁に続いた。
鎌倉の右翼担当特高は、10月事件に関係していた天野辰夫氏と父の二人だけが対象だったと、ある古老の方から伺った。父と鎌倉を散歩しているとき、父が指さす古書店の奥に老人が座っていたが、私にこっそりとあの人が特高だよと声を潜めて告げた。

出獄して2か月、父は、親戚が支配人をしている上海内河汽船という国策会社に入社した。大陸に渡ったのである。大陸に夢を託したのである。
  父は御国に奉仕すべく、上海で必死に働いた。もちろん事件の十字架を背負いながら。

【4】法要と慰霊像 亡くなった方への慰霊 そして兵隊に対する謝罪 
事件を阻止しえなかった原罪、問い続けた生き残ることの重さは子供の私でも計り知れない。昭和11年7月24日、処刑のあった12日後、父は刑務所から、第七中隊にお別れの手紙をしたためている。
「二月事件以来如何程諸君が懊悩煩悶せられしか私にとっては身を斬られる思いです。当時受けた屈辱の傷はまだまだ諦めきれぬかも知れませんが、その時はどうか私を怨んで下さい。決して亡くなられた方を悪意的に批判してはなりません。私が現在生き恥を晒しているのも私なりに使命があるのです。私は今国家の制裁を受けておりますが、一日といえども諸君の幸福を祈らぬ日はありません。諸君とともに軍務に励んだ感激は生涯忘れないと思います。(中略)私の不徳不敏の致すところ、事件の阻止も果たし得ず多大の辛酸とご迷惑をおかけ致しましたること改めておわび致します。何卒上官各位の御教導に従って軍人精神を鍛え立派な人間になってください。これが私の衷心よりのお願いです。」

東京宇田川町にある二・二六事件全殉難物故者のための慰霊像 


戦後になり、昭和40年、渋谷宇田川町の処刑場跡地の一角に、二・二六事件記念慰霊像が建立された。建立のための資金は、全国約1000名の方からの浄財によった。
昭和40年と言えば、二・二六事件に関する出版物が、雨後の筍のように出版された時期であった。全貌が分からず、父の事件に対する思いは悶々としていた。
人々は、自分の若き日の情報を求めていた。
それからしばらくした昭和52年の早朝のことだった。母に促されて、玄関に行ってみると、すげ笠、はだし足袋、白ずた袋、六尺棒をもった、真っ白な父がたっていた。父はこれから四国八十八か所遍路の旅に出るといった。余計なものは何も持たず、命がけの父の固い意志を垣間見た気がした。父63歳。事件から41年、父の書いた文章には次のように書かれている。
「昭和五十二年四月、悶々の情已み難く、飄然として四国八十八ヵ所遍路の旅に立つ。室戸岬を過ぐる頃、耳底に私を呼ぶ声がする。今泉!今泉君!今泉さん!或いは低く、あるいは高く、数十名の異なった声である。私は翻然として悟った。それは、二・二六事件の全殉難物故者のお声であると。旅を了えると直ちに東京渋谷区宇田川町に建立されている二・二六事件の慰霊像に馳せ参じた。そしてこのご供養を生涯かけて吾勤めと心に決めた。」父は、花と線香と水筒に入れた水を持ち、鎌倉の一番電車にのり、渋谷駅から歩いて慰霊像に向かう。ビルの時計の針を見定め、慰霊像の周辺を清掃し、花を供え、香を焚き、心を浄め、恭しく般若心経と観音経を諷誦する。「十字架を負う身の証として静かに見守って頂き度い。」
私は、いつしか、お経のあとに父が唱える偈文を教えてもらい今日に至っている。
父は、亡くなられた方たちを、41年たって、全身で慰霊することになった。

昭和59年2月26日 慰霊像護持の会を結成 柳下中尉、同期の池田少尉、北島軍曹、など父を含め6名の会で、毎週当番を決めて慰霊活動続け、今も、回数は減ったものの活動は続いている。
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父今泉義道の二・二六事件(近衛歩兵三連隊第七中隊陸軍少尉)

2023年03月31日 | 今泉章利
(続き)
③ 事件に使われる愛する部下を、一死を以て守ろうとした決断と遺書

午前4時ごろ、父の部屋に、斎藤特務曹長が完全武装で入ってきた。軍刀の柄を左手に握り、「今泉少尉殿!」両眼から大粒の涙を流し「中橋中尉に伴われ、歩兵一連隊から小銃実砲1500発を運びました」「私は死にます。今泉少尉殿、私は死にます!」父は斎藤特務曹長の右手を固く握りしめた。父は愛する部下と共に死地に赴くことを決意したのだった。そして、父は、次のような遺書をしたためた。
 御祖父様、御両親様
  申譯ありません  部下のため死にます どうかご健在に御暮し下さい。
  御兄上様、妹等よ お迷惑を御かけします  御宥し下さい
 二月二十六日 午前四時二十五分
    於居室 義道  注:ご祖父様とは今泉利義海軍少将、実父は原道太海軍大佐
将校団あて遺書
 午前三時五〇分 突然中隊長ヨリ企図ヲ示サル 余ガ愛スル部下ハ既ニ動キヌ
 事ノ成否ハ明瞭ナリ 一死以テ部下ニ代ラン
 余 企図ニ関シテハ尚早ノ意アリ 然ドモ今ニ及ヒテ 如何トモスル能ハス
 各位 諒トセラレンコトヲ
二月二十六日午前四時ニ十五分 陸軍歩兵少尉  今泉義道

④ 渋谷宇田川町の衛戍刑務所に収監され、東京陸軍特設軍法会議へ 

詳細は書ききれないが、元裁判官の松本一郎先生は1999年に発表された「二・二六事件裁判の研究」の中で、この軍法会議そのものが、明治憲法違反・違法なであり、国家権力の行使の最高責任者が陸軍大臣寺内寿一を頂点とする陸軍首脳部であっと述べられている。私は、先生が作業に使われた膨大な資料を勉強してゆきたいと願っている。明治憲法に違反する裁判における判決とはなんであったのか、これからの一番の課題であると思っている。
さて、父によれば、軍法会議の冒頭、裁判長より、この軍法会議は、「非公開」「一審、上告なし」「弁護人なし」と言われ衝撃を受けている。しかし、なぜかこの発言は資料には残っていない。事件前は何も知らないノンポリの父であったが、村中、磯部、安藤、香田各位と同じ23名の裁判で、25回も席を同じくしたので、事件の本質は理解したと思われるが、私には感想めいたことは何も言わなかった。わずかに、皆さんは本当に立派な方だったとのみ言った。ただ中橋さんが、裁判長になぜ蹶起したのかと聞かれたとき、大きな声で「義を見てせざるは勇無きなり」と言われたことや、第20回の父の公判で、父以外の全員が退廷する時、「今泉少尉は私の命令で出しました」と大きな言われたことなどを話してくれた。

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父今泉義道の二・二六事件(近衛歩兵3聯隊第7中隊少尉)

2023年03月30日 | 今泉章利
事件から87年、立ちました。わたくしは今泉章利と申します。僭越ながら私の父、今泉義道の二・二六事件を書かせていただきます。4000字くらいなので4-5回に分けて投稿したいと思います。、写真は、赤坂、今のTBSのところにあった、近衛歩兵三聯隊兵舎です。



【0】はじめに  
今年の二月で、昭和11年(1936年)の二・二六事件から87年目を迎えた。事件は、改めて歴史となってゆき、今後とも様々な方々が研究されてゆくことを願っている。
以下は、事件に突然巻き込まれ、囹圄の身となり、国賊として出獄し、81歳で生涯を閉じたた私の父、今泉義道の、事件を背負いながら生きた姿の一部である。

注: 父は大正3年に原道太(海軍大佐)と母ヒロ(旧姓今泉)の間に原義道として生まれたが、昭和9年、20歳の時、母(ヒロ)の父、今泉利義(海軍少将)の孫として養子入籍を行い今泉義道となった。


【1】職業軍人への道 腰に剣を帯びた14歳の夢 
今泉義道は、鎌倉で軍人の家で育った。師範学校の付属小学校から、昭和2年、湘南中学に入学した、文学好きの少年であった。武人の風格を備えた兄、原素道(東幼29期)の影響からか、翌年、湘南中学から、東京陸軍幼年学校(東幼32期)へ入学した。14歳であった。「将校生徒」と言われる軍人教育、7年間の内訳は、幼年学校に3年、陸軍士官学校予科で2年、本科2年(近衛歩兵三聯隊第七中隊)であった。この教育を修了後、昭和10年9月27日、近衛歩兵第三聯隊3000人の全員整列のもと、父は陸軍歩兵少尉に任官した。
少尉になりたての父は、同年12月1日、84名の徴兵入隊を受け、初年兵教官として3か月の訓練を担当した。軍隊教育の神髄は「愛と誠」であるということを胸に、12月は「徒手執銃各個教練」、1月は「分隊訓練」、2月は「夜間訓練 実弾射撃等」の計画を作成し、その実施を行なった。この3か月で終了した教育が、図らずも、父にとって、初めにして、最後の勤めとなった。2月の訓練が終わった翌日に二・二六事件が始まるのである

【2】雪とともに突然 二・二六事件  22歳の過酷な決断  

① 午前3時に起こされて、初めて聞く襲撃計画 勅諭に悖る行為
第三期の検閲を受ける前々日の2月25日夕方、久しぶりに鎌倉の実家に帰るべく、溜池で市電を待っていたが、雪のためか市電もタクシーも来ない。仕方がないので、すし屋で食事をとり、兵舎に戻り、眠りについた。
午前3時ごろ、突然、上司である中隊長代理の中橋中尉、中島少尉が来室、蹶起の説明および、第三連隊の坂下にある高橋是清邸を襲撃、襲撃後、帝都緊急時のため、宮城に赴援隊として入城する旨の説明があり。お前の部下を連れてゆくとの発言があった。勅諭に悖り、国法を犯す行為に、父は即座に兵隊を連れて行動することには反対、どうしてもというならば、自分を斬ってから出かけてくれと不同意を表明。二人は黙って部屋を出てゆく。軍律違反、初年兵、阻止、自決、父の心は大変なものだったろう。

② 阻止と自決
私は、ある時、父に、「阻止」とは具体的にどうするのかと聞いたところ、一つは正門を閉鎖し、連隊長へ伝令を送ること、二つ目は薬研坂を駆け下り高橋邸に至急避難を要請すること、三つめは拳銃で中橋さんを撃ち殺すこと、、といってから、、「でもね、人を殺すなんてことは簡単にできるものじゃないよ」 と私に答えた。自決は、武器庫から戻った自分のコルトの拳銃に実弾を装填して覚悟を決めた。
しかし、結局のところ事件を阻止できなかったし、自決もできなかった。これが、父の一生の原罪となったのである。(続く)



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二・二六事件十五士諸霊 八十四回忌法要

2019年07月13日 | 今泉章利

2019年7月12日、二・二六事件十五士諸霊 八十四回忌法要が元麻布の賢崇寺で行われました。

導師は藤田俊英和尚で、雨にもかかわらず20名の方々が参列致しました。

悲しいお知らせですが、6月29日に、對馬中尉の妹である波多江たまさまが104才でご逝去されました。83年前、お兄様の処刑直後の御遺体の引取りをされた方で、お兄様はまだ温かく、眠って居る様だったが、額にまかれた厚い包帯に真っ赤な血がにじんでいたと話されていました。ご冥福を心よりお祈り申し上げます。

 

 

    

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国立公文書館二・二六事件資料 目次 行動隊29巻の内 19-29號(兵班)

2019年01月16日 | 今泉章利


この兵班では1449名が関与している。

【19號】
①記録概要  憲兵尋問調書

②内容細目 歩一ノ機 兵二六七名  歩一ノ十一 兵五十一名


      ニ対スル憲兵ノ訊問調書

【20號】
①記録概要 憲兵尋問調書

②内容細目 歩三ノ一 兵一三九名 、  歩三ノ七 兵一三九名  


      ニ対スル憲兵ノ訊問調書


【21號】
①記録概要 憲兵尋問調書

②内容細目 歩三ノ二 兵九名、 歩三ノ六 兵一四九名、 歩三ノ十 兵三十三名、歩三ノ機 兵一四六名


      ニ対スル憲兵ノ訊問調書
     

【22號】
①記録概要 憲兵尋問調書

②内容細目  歩三ノ三 兵一四一名  

      ニ対スル憲兵ノ訊問調書
  


【23號】
①記録概要 憲兵尋問調書

②内容細目 歩三ノ十 兵九十八名

      ニ対スル憲兵ノ訊問調書
     

【24號】
①記録概要 憲兵尋問調書

②内容細目 歩三ノ十一 兵九十八名

     ニ対スル憲兵ノ訊問調書
     


【25號】
①記録概要 憲兵尋問調書

②内容細目 近歩三ノ七 兵五六名

      ニ対スル憲兵ノ訊問調書


【26號】
①記録概要 憲兵尋問調書

②内容細目 野重七ノ四  兵十二名

      ニ対スル憲兵ノ訊問調書
     
 

【27號】
①記録概要 検察官聴取書

②内容細目  歩一兵 二十五名 及 歩三兵 四十八名  及 関係人 首相秘書官迫水久常、 首相官邸詰巡査等拾貮名ニ対スル聴取書

       


【28號】
①記録概要 公訴提起者ニ対スル憲兵尋問調書、検察官聴取書、予審調書

②内容細目 公訴ヲ提起セラレタル兵十九名(歩一ノ機 十名、歩三ノ一 六名、歩三ノニ 三名)ニ對スル憲兵、検察官ノ各調書 及 豫審調書


【29號】
①記録概要 公判関係

②内容細目 歩兵、上等兵倉友音吉以下十九名ニ對スル公判調書及関係書類 




以上で行動隊29巻 の目次です。これは筆者が2006年10月に、東京地検記録係で筆写したノートからのもので、今は、国立公文書館に移管されており、公開(一部審査中)されているので、そちらをご参照くだされば幸甚です。
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国立公文書館二・二六事件資料 目次 行動隊29巻の内 18號(湯河原班)

2019年01月16日 | 今泉章利
国立公文書館二・二六事件資料 目次 行動隊29巻の内 18號(湯河原班)

この湯河原班では8人が関与している。

【18號】
①記録概要  湯河原関係  

②内容細目 河野壽、宇治野時参、黒澤鶴一、中島清治、宮田晃、黒田昶、綿引正三、水上(みずかみ)源一、ニ対スル、憲兵、検察官ノ各調書、予審調書、

      河野ヲ除ク七名ニ対スル公判調書及関係書類

      河野壽ニ対スル検視調書

     
あと、兵班(19-29號)(1449名)と続きます。

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国立公文書館二・二六事件資料 目次 行動隊29巻の内 14-17號(下士官乙班)

2019年01月16日 | 今泉章利
国立公文書館二・二六事件資料 目次 行動隊29巻の内 14-17號(下士官甲乙班)

この下士官甲班では取調41名、うち起訴は34名

【14號】
①記録概要  首相官邸 高橋私邸 関係

②内容細目  歩一( )見習医官羽生田進以下十名
       歩一( )曹長尾島健次郎一名
       近師司  同 大江明雄一名
       近歩三ノ七 特捜斉藤一郎以下三名

      ニ対スル、憲兵、検察官ノ各調書、予審調書、及、各関係書類。

【15號】
①記録概要 陸相官邸関係

②内容細目 歩一ノ十一 見習医官板橋三郎以下十二名
      野重七ノ四 軍曹 川原義信一名 
      
      ニ対スル憲兵、検察官ノ各調書、予審調書、及、各関係書類。


【16號】
①記録概要 侍従長官邸関係

②内容細目 歩三の六 曹長永田露以下十一名
      歩三ノ機 軍曹上村盛満以下二名 
    ニ対スル憲兵、検察官ノ各調書、予審調書、及、各関係書類。
     

【17號】
①記録概要 公判関係

②内容細目 歩兵曹長大江明雄以下三十四名に對スル公判調書 及び関係書類 



あと、湯河原班(18號)(8名)、兵班(19-29號)(1449名)と続きます。

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国立公文書館二・二六事件資料 目次 行動隊29巻の内 11-13號(下士官甲班)

2019年01月16日 | 今泉章利
お久しぶりです。遅くなり恐縮です。

国立公文書館二・二六事件資料 目次 行動隊29巻の内 11-13號(下士官甲班)

この下士官甲班では調書50名、内、起訴分40名(追起訴北島伍長を含む)

【11號】
①記録概要  斎藤邸 渡邉邸 関係 (16名)

②内容細目 歩三の一 軍曹 新(あたらし)正雄以下八名
      歩三の二 曹長 渡邉清作以下六名
      歩三の機 軍曹鳥羽徹雄以下二名
      ニ 対スル 憲兵、検察官ノ各調書  予審調書及各関係書類

【12號】
①記録概要 警視廰関係 (34名)
②内容細目 歩三の三 軍曹 藤倉勘市以下九名
      歩三の七 特曹 桑原雄二郎以下十二名
      歩三の十 曹長 福原君男以下九名
      歩三の機 同  立石利三郎以下四名
      憲兵、検察官ノ各調書  予審調書及各関係書類

【13號】
①記録概要 公判関係 (40名)

②内容細目 歩兵軍曹新正雄以下四十名(追起訴ニ係ル北島弘ヲ含ム)ニ対スル公判調書、及、関係書類。
     


あと、下士官乙班(14-17號)、(75名)湯河原班(18號)(8名)、兵班(19-29號)(1449名)と続きます。

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国立公文書館二・二六事件資料 目次 行動隊29巻の内5-10號  (将校班)

2018年02月05日 | 今泉章利

国立公文書館二・二六事件資料 目次 行動隊29巻の内1-4號(全般関係)に引き続き 5-10號(将校班)の内容は次の通り。
この将校班では23人が関与している。
写真は、私が閲覧した5,6,7號の写真である。

【5號】
①記録概要  上部工作関係

②内容細目 村中孝次(たかじ)、磯部浅一(あさいち)、香田清貞ニ対スル、憲兵、検察官ノ各訊問調書、予審調書、及、各関係書類。片倉中佐ノ病状書、其ノ他
      傷害ニ関スル書類。小藤大佐ノ憲兵聴取書

【6號】
①記録概要 首相官邸、高橋私邸 関係

②内容細目 栗原安秀、林八郎、池田俊彦、對馬勝雄、田中勝(まさる)、中橋基明、中島莞爾(かんじ)、今泉義道ニ対スル憲兵、検察官ノ各訊問調書、予審調書、及、各関係書類。


【7號】
①記録概要 陸相官邸、侍従長官邸 関係

②内容細目 丹生誠忠(よしただ)、竹嶌継夫、安藤輝三、澁川善助、山本又ニ対スル憲兵、検察官ノ各訊問調書、予審調書、及、各関係書類。
      

【8號】
①記録概要 斉藤邸、渡辺邸、警視廰関係

②内容細目 坂井直(なおし)、麥屋(むぎや)清済(きよずみ)、高橋太郎、安田優(ゆたか)、常盤稔(みのる)、清原康平(こうへい)、
      鈴木金次郎ニ対スル憲兵、検察官ノ各訊問調書、予審調書、及、各関係書類。

【9號】
①記録概要 公判関係

②内容細目 第一回及至第十一回 各公判調書及関係書類
      受命裁判官ノ証人尋問調書


【10號】
①記録概要 公判関係

②内容細目 第十二回及至第二十五回 各公判調書及関係書類
      被告人提出ノ上申書及手記(於公判)


注:公文書館における使い方:例えば、れまで、公表されなかった手記、上申書を見たいときは、29冊中の第9号にあるので、閲覧室の備え付けパソコンのリストから、29冊中の第9号の請求番号が示されるので、閲覧申込書に申し込む。
私のときは、たしか、パソコンリストの番号は、00356100であった。その後変更されているかもしれないので、親切な係の方に聞いて申込書を作成すればよい。


あと、下士官甲班(11-13号)(90名)、下士官乙班(14-17号)(75名)
湯河原班(18號)(8名)、兵班(19-29號)(1449名)と続きます。

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遅ればせながら、陸士47期 榎本忠孝さまのこと  (矢作雅男さまからのコメント)2017-07-26

2018年01月15日 | 今泉章利
昨年の7月に 矢作雅夫さまから次のようなコメントを頂いておりました。

QTE
大叔父に当たる 陸士47期 榎本忠孝  (矢作雅男)2017-07-26 16:53:14今泉章利様
大叔父に当たる 陸士47期 榎本忠孝 は昭和11年5月16日 近歩4営内将校舎にて自ら命を絶ちました。私は今年65歳 父親は平成24年鬼籍に入りました。90歳の生涯でした。陸士54期 近歩3でした。旧制 中学時代に突然亡くなった従兄弟 榎本忠孝のことを時々話してくれました。当時の時代背景を考えると胸が痛みますが真実が知りたいと思っています。
UNQTE

矢作様 返事が大変遅くなりお詫び申し上げます。
大叔父様の、榎本さまは、父と同じ47期、また、54期のお父上さまは、近歩三とは、不思議な御縁を覚えます。
まず、大叔父様の榎本さま(本籍埼玉)平成7年に発行された47期の任官六十周年記念号の物故者名簿の4番目に記載があり、「昭和11年5月16日 近歩4営内将校舎にて自決」とありました。
それよりも20年前に、任官40年記念号として「追憶」という追悼録がだされ、砂川清治さんが昭和11年10月に書かれた、「榎本忠孝君」という文章と、倉田宏さんが同じく昭和11年に書かれた文章が載っています。事件直後のこともあるでしょうが,
自決の原因に対する推測はされておりませんが、大変立派な方であったと記されております。お持ちでしょうか。
お父様の矢作さまは、矢作武三さまであられますでしょうか。記録には近歩三第九中隊とありました。
私も体調があまり良くないのですが、元気なうちに拝眉の機が与えられることを祈っております。

大変遅くなりました。お詫び方。
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国立公文書館二・二六事件資料 目次 行動隊29巻の内1-4號  (全般関係)

2018年01月13日 | 今泉章利
もう少し詳しく、、、1-4號  全般関係
以下のものは、東京陸軍軍法会議が作成したもの。1-4号では、1645人が関与している。

【1號】
①記録概要  捜査報告、予審請求、控訴状 等

②内容細目 全部ノ捜査報告、予審請求、予審終了報告、同意見書、控訴提起命令、控訴状、不起訴処分命令、三百十条告知書、
      身分異動通知、押収調書、死刑執行始末書 等

③備考   押収調書、全般ニ関係アルモノノミ  其他ハ各関係箇所ニ綴ル

【2號】
①記録概要 身元調書、 考課表写 等

②内容細目 将校、准士官、下士官、常人及 控訴提起ノ兵ニ対スル身元調書
      将校、准士官、下士官ノ考課表写
      将校班ニ属スル者ノ戸籍抄本

③備考   (記載なし)

【3號】
①記録概要 照会、回答、通牒 等

②内容細目 事件ニ関スル照会、回答、及 通牒ニシテ 記録トシテ保存スヘキ一切ノ書類

③備考   (記載なし)

【4號】
①記録概要 検證調書

②内容細目 首相官邸、侍従長官邸、高橋私邸、斉藤私邸、渡辺私邸、朝日新聞社、警視廰、新議事堂、陸相官邸、海軍省参謀本部、
      華族会館、幸楽、蔵相官邸、文省官邸、鉄相官邸、農相官邸、山王ホテル、黒龍會宿泊所ノ検証調書

③備考 湯河原ノ検証調書及河野大尉検視調書ハ湯河原班ノ記録中ニ綴ル

あと、将校班(5から10号)(23名)、下士官甲班(11-13号)(90名)、下士官乙班(14-17号)(75名)
湯河原班(18號)(8名)、兵班(19-29號)(1449名)と続きます。

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公開された二・二六事件軍法会議記録について

2018年01月12日 | 今泉章利
公開された二・二六事件軍法会議記録について その1


私の理解している軍法会議資料は次の通りであります。但し、東京地検に保管されていたものであります。即ち、
1.訴訟記録 32巻
2.行動隊記録29巻
3.不起訴記録 6巻
4.不起訴記録 (310から315条告知分)7巻
5.裁判書(さいばんがき と読みます)(判決文のことです)
6.事件簿4冊
7.被告人索引簿

体調の関係で、国立公文書館にいけなかったのですが、パソコンにリストがあり、訴訟記録や行動隊の区分と、請求番号、および、要審査か公開かの記述があります。 要審査は、申請して1-2日で決定がなされるそうです。本が決まったら、「特定歴史公文書等簡易閲覧申込書」に必要事項を記入すると貸出てくれます。
国の宝のような歴史資料ですから大切に扱ってください。私は、東京地検のとき、行動隊記録、なかでも、18巻湯河原班を中心に写していました。(でもこの18巻は、9月の時点では、公文書館はまだ要審査としていました)公開されたらもっとゆっくりと見てみたいと思います。
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平成30年(2018年)あけましておめでとうございます。

2018年01月11日 | 今泉章利
皆さま、あけましておめでとうございます。皆様のご多幸を祈念申し上げます。
本年は、慰霊像の清掃、賢崇寺における法要の実施、そして公開されました国立公文書館の資料の研究をつうじて、諸霊を偲び、慰霊の誠をささげたく存じております。何卒宜しくお願い申し上げます。

扨て、昨年(2017年)はいろいろななことがありました。感謝の気持ちを込めて思いつくままに、書かせていただきます。

1.2017年8月25日 国立公文書館
念願だった「事件訴訟記録」が次のように、東京地検から、国立公文書館へ移転し、公開されました。
8月25日付の公文書館のホームページには次のように書かれています。
QTE
3)軍法会議関係文書(平成28年度受入分)
法務省 判決原本綴等 384冊 本館 (注:竹橋の公文書館本館のこと、なお384冊には二・二六事件以外の軍法会議以外分も含まれている)
私の8月31日にブログにも多少かいておりますが、私の東京地検で書いたメモノートによれば:
訴訟記録32巻、 行動隊記録29巻、 不起訴13巻、 裁判書1冊、事件簿4冊、 被告人索引簿 とあります。
なお、この資料は、まだ、地理的関係もあるのか、御関心が薄く、なかなかご覧になられる方も少ないのですが、是非とも、オリジナルのーターをご覧になり、賢崇寺や渋谷宇田川町の慰霊像の御参拝など賜れば幸甚に存じます。昭和の時代の悲劇に巻き込まれ、とことん兵を愛していた若き将校たちの気持ちが、少しお分かりになると思います。事件の首謀者はすべて処刑され、関係者を予備役においやった所謂「軍閥」将官たちが、始めた戦争、すなわち日中戦争からの悲惨な戦争は、ついに「兵」を「モノ」のように扱い「特攻」「玉砕」や「インパール」などをへ、多くの国民を巻き添えにして終戦を迎えました。

2。弘前にお住まいの波多江たまさま、103歳になられました。お兄様の對馬勝雄中尉をここまで思われ続けておられるお気持ちに深く敬意を表するものであります。

3.11月13日、末松建比古様が、初めて拙宅に来てくださり、小生の持っている資料等をご覧になり、様々な意見を交換いたしました。また、「二・二六事件諸士 遺詠集」(初版昭和27年7月12日)に,末松太平先生が鉛筆で遺詠を追加された者を見せていただきました。例えば、西田税様のうたには、「かの子達はあをぐもの淵に、、」などを書き加えておられました。(外にもたくさんあります)太平さまのお気持ちが、心に染み入る様な気がいたしました。お許しが得られれば、末松太平追補版としてこの遺詠集を、印刷したいと願っています。

4.6月、田中孝さま、御子息の千晴様のご案内による田中勝中尉のお墓参り(埼玉県児玉郡安光寺)を行いました。(下関のお墓のお骨を改葬したものです。墓石はそのままだそうです)なお、12月に、有志によるお墓参りを行いました。

5.これまで何度かお問い合わせのあった、仙台の郷土研究家の中嶋久壽さまの「村中孝次と仙台」(B5で6ページ)という研究論文が、仙台郷土研究(復刊第42回第2号、平成29年12月)に掲載されました。ご興味のある方はご連絡くださいませ。

本年もよろしくお願い申し上げます。

今泉章利(慰霊像護持の会世話人代表)

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35.事件関係者の息子が見た二・二六事件「重要!」:82回忌法要御礼と軍法会議裁判資料の公開

2017年08月31日 | 今泉章利
35.事件関係者の息子が見た二・二六事件「重要!」:82回忌法要御礼と軍法会議裁判資料

些か(いささか)遅くなりましたが、7月の法要に参列された方に対し、8月の初め、次のような御礼のご挨拶を致しました。

拝啓 
  去る、七月十二日の八十二回祥月忌法要には、ご多忙中にも関わらず、又酷暑の中、ご参列頂き、衷心より有難く厚く御礼申し上げます。 
おかげ様で、皆様方の深い思いに、支えられ、心のこもった静かな法要を執り行うことができました。
当日ご報告致しました「公判記録の公開」につきましては、その後、予定通り八月中に行うとのお話も頂いております。
「公判記録の公開」により事件への関心が高まり、新しい世代の方たちが、様々な角度から事件を研究して頂きたく願っております

 私共は、今後とも心を尽くして慰霊の誠を献げたく存じております。
先ずは、略儀ではございますが 御礼に代えさせて戴きます。
                              敬具
  平成二十九年八月

文中にある、公判記録の公開とは、1988年に発見された東京地検の軍法会議の二・二六事件裁判資料である。この資料は、米軍の接収後に、法務省管轄の東京地
方検察庁に返還され、東京地検に保管されていたものである。
この資料は、二・二六事件の研究者のみに限って、1992年になって、一部の学者に閲覧許可が与えられ、判決(裁判書(さいばんがき))のみが、1994年に朝日
新聞より「二・二六事件 判決と証拠」として出版された。また、1997年に裁判を受けていた池田さんが「二・二六事件裁判記録ー蹶起将校公判廷ー」として、
当時の裁判の状況もふまえて、青年将校たちの裁判記録を、原書房より出版されている。また、1998年には松本一郎教授が、名著「二・二六事件裁判の研究ー軍
法会議記録の総合的検討ー」を著された。

私は、2005年、東京地検より制限なしの許可を受け、主に「水上源一」や青年将校の行動記録を中心に、裁判記録を、東京地検記録係において、閲覧した。
当時は、原本が痛む理由から、東京地検がコピーを作成し、我々が接することができたのは、この分厚いコピーのファイルであった。
私のメモによれば、訴訟記録32巻、行動隊記録29巻、不起訴記録6巻および不起訴記録7巻、裁判書1巻、の計66巻の他、事件簿4冊、被告人索引簿があり、約11万ページにわたる裁判記録は、推定210冊くらいの白黒のB4コピーファイルであった。
夫々のファイルが大変重く、記録係の方を煩わしながら、ガラスに仕切られた閲覧室で、ノートに書き写していた。東京地検では、その立場上、コピーや写真は一切認めなかったのである。

ところが、、昨日の2017年8月30日この資料が、一般公開されたのである。わたくしは、12年前に与えられた東京地検の閲覧のときを思い浮かべながら、
また、本日、国立公文書館で、実際に閲覧した。
すべて原本で、資料を手に取った時の思いが強烈であった。
資料が驚くほど異常に軽いのである。 中を開くと、薄紙の陸軍用紙に鮮やかにかかれた裁判記録、鉛筆書きの自筆の上申書や所感などが、ぎっしりと綴じられている。
またさらに驚いたことには、デジタルカメラであれば、フラッシュを焚かない限り、自由に撮れるという。
二・二六事件は80年のときを経て、私たち国民のまえに、その姿を現わしたのである。
私は、この高ぶった興奮を胸に、すべての事件関係者に思いを馳せながら、公文書館を出て、竹橋に向い、紀伊國坂を下って行ったのである。
二・二六事件を、次の若い世代の人たちが、新しい視点で、研究されることを切望するものである。この11万ページの生々しい一次資料は、現代史における超一級の資料である。
非公開、弁護人なし、上告なし、暗黒裁判の殆どがわからなかったこの大事件の資料の全貌が21世紀の日本人の前に、いきなり現れたのである。
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