我が郷は足日木の垂水のほとり

文化芸術から政治経済まで、貧しくなった日本人の紐帯を再構築したいものです

堂本暁子

2010年11月10日 | 政治家

堂本 暁子(どうもと あきこ、1932年7月31日 - )は、日本の政治家、ジャーナリスト。
千葉県知事(民選第16・17代)、参議院議員(2期)、新党さきがけ議員団座長を歴任した。
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%82%E6%9C%AC%E6%9A%81%E5%AD%90

 

 

 

 

 

 

 略歴 [編集]アメリカ合衆国カリフォルニア州生まれ。清泉女学院中学高等学校、東京女子大学文理学部卒業。1959年、東京放送(TBS)に入社。1980年、報道ドキュメンタリー「ベビーホテルキャンペーン」で日本新聞協会賞、放送文化基金賞、民間放送連盟賞を受賞した。

1989年、第15回参議院議員通常選挙に日本社会党公認で比例区から出馬し、初当選を果たした。1993年、社会党シャドーキャビネット環境庁長官に就任。その後社会党を離党し、新党さきがけに入党。同党参議院議員会長に就任する。

1995年、第17回参議院議員通常選挙では新党さきがけ公認で比例区から出馬し、再選。1996年には新党さきがけ議員団座長に就任し、辞任した井出正一代表に代わり、事実上の党代表職を務める。この間、新党さきがけは自社さ連立政権の村山内閣、橋本内閣に参画し、堂本は自由民主党の加藤紘一や社会党(のち社会民主党に改称)の辻元清美らが結成したNPO議連に参加。「特定非営利活動促進法(NPO法案)」の成立に尽力した。1997年、UNEP(国連環境計画)の「環境に貢献した25人の女性リーダー」に選ばれた。新党さきがけを離党後、参議院クラブを経て無所属の会に入党。第19回参議院議員通常選挙には不出馬。

2001年、千葉県知事選挙に無所属で出馬。「無党派」を標榜し、自民・公明推薦の岩瀬良三、民主・社民・連合千葉推薦で出馬した若井康彦らを破り、当選を果たした。太田房江(大阪府)、潮谷義子(熊本県)に次ぐ全国で3人目の女性知事。2005年の千葉県知事選挙では一転、政党(自民・民主・社民・公明・市民ネットワーク・千葉県)、宗教団体、労働組合、市民団体の推薦を受けて組織型選挙を展開。終盤では自民党本部が推薦する森田健作の猛追を受けるが、僅差で逃げ切り、再選を果たした。

2009年千葉県知事選挙への出馬にも当初は意欲を見せていたが[1]、最終的に3選不出馬を表明し、2期8年で千葉県知事を勇退した[2]。退任にあたり、いすみ鉄道社長の吉田平を後継指名したが、吉田は森田健作に敗れた。

障害者団体向け割引郵便制度悪用事件で虚偽有印公文書作成・同行使罪で起訴された村木厚子をめぐり、弁護士の住田裕子らと共に、2009年7月9日に厚労省を訪れ、「無実の村木厚子さんの解放を求めます」などとする声明を発表した[3]。

 政策・主張 [編集]女性の社会的地位の向上や、女性の家庭における処遇の改善がライフワーク。一方、女性の権利に偏重した傾向の見られる姿勢には批判もある。
東京湾岸の干潟三番瀬埋め立て計画を白紙(埋め立てについては禁止しない)に戻した。
首都圏中央連絡自動車道の建設を推進した。
「障害者差別をなくす条例」の審議において、自民党県議から慎重論が出されたが、最終的に自民党の賛成を得て、成立にこぎつけた。
男女共同参画センター設置関連条例を千葉県議会に提出したが、自民党県議の反対により否決された。その後、「男女共同参画センター」の名称を「ちば県民共生センター」に改め、規模も縮小した上で再度条例案を提出。自民党も修正案に賛成し、可決された。
 その他の役職 [編集]GLOBE(地球環境国際議員連盟)日本総統(1993年)
IUCN(世界自然保護連合)選任理事(1994年-2000年)
IUCN副会長(1997年-)
GLOBE第5代世界総裁(1999年-2001年)

 

 

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