暇つぶし日記

思いつくままに記してみよう

藤沢周 ; 雨月

2007年05月19日 10時00分27秒 | 読む
雨月(うげつ)

藤沢周 著

2002年

光文社 刊 ISBN4-334-92371-2


読了してもう何週間も経っているので細部は覚えていないから印象もぼやけたものになるのはしかたがないが、けれど、それを思い出しながら要点を記す。

二十代なかごろの青年が東京鶯谷の連れ込みホテル、曖昧宿、ラブホなどと言われるところで働いておりそこでの人間模様に奇妙な人物を投じて現代的な性の舞台と態様で読者を引っ張りながら読了後にニヤリとさせるような仕掛けである。

これで思い起こすのは一昨年だったか「新潮」に連載されていた村上春樹の「東京奇譚集 」なのだが村上の方は別段毒にもクスリにもならないものだったのだが藤沢のものは老婆と、いるかいないかわからないような痩躯の若い女性の残像が後味として残る。 

この2年ほど「文学界」だったかに単発的に掲載される藤沢のものに興味が惹かれるがこれらは藤沢の持ち味である、現代的な浪曲とでもいおうか、苦味と、精神がはじけそうな、神経がひきつりきれそうな瞬間までゆくプロセスとなりゆき任せ気味になる主人公に焦点があたっているからで、それでは本作ではどうかというと主人公にはそういう性格が与えられてはおらず、雨月物語の本歌取りなのか女にスポットがあたっているようで男はどちらかというと受身である。 現に主人公に圧力をかけるヤクザにもはっきりとした存在感がみあたらない。

文学雑誌掲載作にくらべて内面の切り込みが柔らかく感じられるのは掲載誌の読者を想定したからか、出来た作品が軽量級のものだったからからなのか判断が付きかねるがいずれにせよ文学雑誌の合評にとりあげられる(た)ものかどうか興味のあるところだ。





James Carter Organ Trio at BIMHuis

2007年05月17日 10時17分39秒 | ジャズ
James Carter Organ Trio at BIMHuis

16-5-07


James Carter (ss, as, ts, fl)
Gerald Gibbs (Hammond organ B3)
Leonard King (ds)

もうそろそろこのコンサートに陪席してから一ヶ月近く経つので記憶も定かでなくなっているものの、この日の印象を手元のアルバムと比較してみると数年前に初めて聴いたGardenias for Lady Dayには強く印象付けられなかったもののその後久しく名前を見なかったJames Blood Ulmerも聴けるOut of Nowhere; Live at Blue Note (Halfnote 4520)でJBUのギターもさることながらJCの実力のほどを収録の初めの2曲で驚きと関心をもって聴いたのだが、これ以上に当日のライブは興味深いものだったことを記憶している。

四本の楽器を手に入場するJCを待ち受けたのは満場の老若男女で、中でも熱狂的な2,3の女性のノリには当人も曲の合間の語りで受け答えをしていたものの時には当惑気味なほどだったのだがそれも本人のまいた種で興奮させた結果である。 

途中20分ほどの休憩を挟んで9時半に始まり12時を少し廻ってのアンコール終了まで第一セット3曲、第二セット4曲の熱演ではさまざまな意匠を開陳して飽かせることはなかった。 ハードバップからフリー、そして甘いバラードにカリプソ調まで慣れたユニットでアンサンブルも多様である。

4ヶ月前にここでその現在を確認したグレッグ・オズビーと同じく、次の演奏会が今から待ち焦がれる中堅トップたちである。




Palliative Care(緩和ケア)についてのドキュメンタリーを見て想うこと

2007年05月16日 09時31分32秒 | 日常
先日、Dead Manという映画を見て今では経験できないようなさまざまな死の形をスクリーン上で追体験したからというわけでもないのだが、このところマスコミに登場する新たなる尊厳死に向けて医療機関の動きががPalliative Care(緩和ケア)というものであるらしく、その医療の分野の死の最前線をイギリス医療現場で踏み込んだドキュメンタリーをBBC局で見た。

人間というものは、いや、生きるものすべては生まれたその瞬間から死に向かっているのであるし、昔には「正月や冥土の旅の一里塚」と詠んで目出度さの中で真実の冷や水を浴びせた人もいることはいるのだが大抵の人間はそんなことは承知でも自分には死はすぐには訪れないと思っているのがほとんどであり、一里塚を70里も80里も越してきたものを対象とし、特に死がもう確実にその角まで来ているところでどのように幕引きをするかが老人医療の部門では焦点ではあるらしく、そのことを考える便にはなった。 しかし、概ね昔から長命の年齢は飛躍的に伸びているもののその数は少数で老人の死は普通のことである。 

医者の使命は死なせないことである。 人は死ぬものであるから理屈を言えばこれは無理な話である。 多分、多くの人が理想とするところは長い人生の末に日常の幸せの中で静かに眠るように身罷ることなのだろうが、理想が理想であるように現実はそうはいきにくいようだ。  現実の死には人間の生誕以上に厄介ごとが付随していて時々聞く話では臨終を迎えた当人が家族、医療関係者を含めて死を巡るさまざまなことどもに疲れて、死ぬのは俺だゆっくり死なせて呉れと叫ぶ様な場面もあるようで多かれ少なかれそのようなことがあるようだ。 安楽に死ぬことは必ずしも楽ではなく非常な努力がいるようだ。

死は医療技術を施しても防ぐことが出来ないとなれば医者もこれを受け入れざるを得ないのだろうが現代医療技術の進歩で40、50年前にはしかたのなかった消える命を延命させる技術が普通にあるようで、家族からすれば本人がもう本人ではないような状態で生命は保ち続けているというケースがあるようだ。 これを医術の一応の頂点は達したとものと見る人がいるが、一方で人間の尊厳を考える上ではその状態に疑問を呈するものもある。 この状態では死は医者の手の中にあり家族、本人の手の中にないと言う。 それを本人、家族に戻すためにそのようになる前にあるところで延命治療を打ち切らせるプロセスを入れて本人の人間的な死を作り出すということでそのような状態に陥るのを避けようとするのらしい。 本人にまとわり付く死への肉体的、精神的、社会的苦痛からの緩和に重点を置いたものであるから本人を焦点に、家族、医療各々のコーディネートを中心にしたところに従来の尊厳死議論とは一画を呈したものだと言う。

尊厳死の論議でも医者が手を下すための幾つかの条件がある中で、それが不治の病で末期であること、最終段階で患者本人がその時が来たことを確認でき、医者がそれを認知すること、それが始めの段階ですべて書類にされていること、その書類が委員会に認知され、患者の死後もチェックを受ける、というような楔がついており実際には医者には実際上のプロセスで必ずしも契約項目のとおり進行しない場合があり忌避する傾向があること、などの安楽死を巡る難しさが各国で浮かび上がり、実際的に安楽死、尊厳死の難しさが認識される中、ここにきて大まかには誰もが尊厳死、安楽死をもとめることは当然としてある現実に目をむけ、ターミナルケアを実際的に死に向かう患者の現実上、各種苦痛の軽減に重点をおいたことが硬直化した議論から実際的に運用する展開をみせるものと注目されているらしい。

患者と医者の間にチームをたばめるコーディネーターを置いたところがミソのようだ。 日本では老後にぽっくりと逝くことが理想だと昔からいわれ、各地にぽっくり寺などと神仏の手助けをうたうところもある。 葬儀の場でもそのようにして逝った故人を実にうらやましがる老人たちを幾人も見聞きしたがそれは少数派であることを彼らは経験的に知っているからでもある。 世界中の病院、家庭で毎日、死への努力が続けられているのだが自分がそれに加わるときにはどのような形になるのだろうか。 すくなくとも自分はこうありたくない、という形はあるのだがそうならないためには努力が要りそうだ。 死ぬのは楽ではない。

スパゲッティに紅薔薇

2007年05月15日 08時49分52秒 | 喰う

遅い昼食に子供が好きなケチャップライスを作り食わせ自分もビールで残りを喰えばもたれて夕食のスパゲッティが腹に入らなかった。

疲れがまだ足腰に残っているけれど明日から来る庭師の準備にと隣家との間にあるとげのある立ち木を短く剪定し散らばったものが高さ1m2,30cmある紙袋に4袋となったので市の処理場まで車で持って行ったのが昼食が遅れた理由だったのだが消化しきれないうちにトマトソース系の食事が続いたのも食欲を減退させた理由かもしれない。

新鮮なハーブとチーズ専門店で求めた古いパルメザンの塊をおろしたばかりで味は息子の十八番のものとは比較にならないほど豊かなものだったのだけれど如何せんときにはこういうことがあるのだ。

前庭から折ってきた薔薇の大輪がもたれた腹を眼で助けるようだった。

Dead man デッドマン ;見た映画 May 07 (3)

2007年05月15日 08時26分04秒 | 見る

デッドマン
 (1995)
DEAD MAN

上映時間 121分

監督: ジム・ジャームッシュ
脚本: ジム・ジャームッシュ
撮影: ロビー・ミューラー
音楽: ニール・ヤング
 
出演: ジョニー・デップ
ロバート・ミッチャム
ミリー・アヴィタル
ゲイリー・ファーマー
ランス・ヘンリクセン
マイケル・ウィンコット
ユージン・バード
ジョン・ハート
ガブリエル・バーン
アルフレッド・モリナ
クリスピン・グローヴァー
イギー・ポップ



ジム・ジャームッシュ書き下ろし脚本による、モノクロのウェスタン。1870年頃、アメリカ西部に東部クリーグラントから来た会計士ウィリアム・ブレイクは、ディッキンソンが支配する町マシーンで花売りの娘のセルの難儀を助け、彼女の部屋に誘われた。そこへ、突如ディッキンソンの息子でセルの許嫁だったチャーリーが現れる。2人を見てチャーリーの銃が火を吹いた。銃弾はブレイクをかばおうとしたセルの胸を貫き、ブレイクの心臓の脇にのめりこんだ。お返しに撃った1発がチャーリーの喉に命中する。ブレイクは胸をおさえて窓から逃げ出したが、息子を殺されたディッキンソンは、3人の殺し屋を雇って彼を追わせるが……。ジャームッシュがアメリカの原像とも言える、19世紀後半のアメリカ西部、ウェスタンの世界を、コミカルに、残酷に、雄大に描いた長編叙事詩。 と「映画データーベース」に出ている。

この映画を見よう、いやDVDを買おうと思ったのはこの間テレビで見た「スリーピー・ホロウ(1999年)」のジョニー・デップがらみともう10年ほど前にドイツのテレビ局で見た3分ばかりのシーンが印象的だからでそのときにはデップの名前を覚えていたのは私の贔屓のフランスのカワイコちゃんポップスターを取られたこと、その恨みからで、しかし、そのときのセピア色の美しい色調、西部劇には珍しいカナダ太平洋側のネイティブ・アメリカンの民俗学博物館でみるような村が写されていたからでもあった。

西部劇ファンだから最近ではスピルバーグ・チームの若手監督がオムニバス形式でネイティブ・アメリカンと東部から西部に流れる何家族かの三代にわたるドラマを平行、交差させ綴った「Into The West(2005年)」を見たのだけれどこれはブッシュ政権の国威発揚策に貢献するべくアメリカ白人の西部開拓時代からの歴史を合理化させる意図もあるのかとも勘ぐらせるような部分もありまた映像的にも若手監督数名の寄せ集めであったから一貫性に欠けるところでギクシャクしているようでもあった。

これはセピアトーンの美しさを久々に再確認する映画だ。 上記スピルバーグものと対照して観るとおもしろいだろう。 我々の眼が色に翻弄され現実的に撮ろうとデジタルカラー撮影されたものがうそ臭く、逆に暗く猥雑な白黒映画に美しい色が見えるのは久しぶりに見るジム・ジャームッシュの力である。 ほぼ初めから20年ほど前の「ストレンジャー・ザン・パラダイス」や「ダウン・バイ・ロー」の画面を思わせるそれぞれの人物が生き生きと生々しく撮られているのに喜んだ。 ジャーミッシュの癖とも言うべきものが色濃く出ているだろう。

西部劇のステレオタイプがあり台詞の面白さに噴出すことも一度や二度ではなかったし小道具や細部まで楽しめるものだった。 だからこれを私が所属する、当時の住まいを想いいろいろな古式銃を扱う射撃クラブで仲間ともう一度観てみようと思わせるほどだ。 人は銃器で簡単に死ぬものでもある一方簡単には死なないのも見せるリアルなものでありもし自分がこういう世界にいても納得できる映画だから虚構の中に現実を見せる作品といってもいいだろう。

それにジャーミッシュの作品では音楽が特色のようにここでは私の贔屓のカナダ先住民の血をひくニール・ヤングがギター一本で適宜さまざまな音を奏で、時には鬼才デイヴィッド・リンチの映画に出てくるような効果も出していることだ。 ヤングの想いいれも貢献しているのではないか。 音楽がらみで言えばイギー・ポップも奇妙でもあるが納得の行く、味のある役割りをはたしている。

Nobodyとよばれる数奇な運命を持つ単独行の先住民を配したところが秀逸である。  ゲイリー・ファーマーの先住民には見えない風貌もその数奇な生い立ちを知ると納得するところとなり、おかしくも禅問答のような対話がデップと交わされイギリス詩人William Blake (1757 – 1827)と同名であるということでデップとNobodyの時には頓珍漢でもあり詩的な対話に和むものでもある。 

脇役がいい。 ジョン・ハートにはじまりロバート・ミッチャムの味のある振興企業家のボス、雇われ殺し屋の3人でとりわけランス・ヘンリクセンをニタニタしながら観ていた。 

本編のほかにDVDには編集過程で除かれた部分が納められており、そのいちいちのシーンに感心したのだが夜、キャンプの火に顔を照らし出された殺し屋二人の対話とその間に見える照準器つきのシャープ・ライフル、まるで北欧の森かとも思わせる茫洋とした北米の森を馬でデップを追う雇われ殺し屋二人のうちスコットランドに先祖を持つといい荒くれ男ながらぬいぐるみの熊を話さない、どうでもいい無駄話を始終喋り続ける男を歯痛に悩むランス・ヘンリクセンが撃ち殺すシーンなどは納得がいき思わず笑いがこぼれたものだ。 笑い事ではない世界である。


セントラルヒーター

2007年05月15日 00時42分49秒 | 日常
昨日の庭作業の疲れから今日はゆっくり眠って朝玄関のチャイムが鳴るのでパジャマにガウンを羽織ってドアを開けたらセントラルヒーティングのボイラーを定期点検するべく道具類と強力電気掃除機を手に提げた2mばかりの男が立っていた。

16年前にこのボイラー装置を取り付けたときに定期点検と24時間サービスの契約をしてある会社の社員である。 この地域を手広くカバーしている会社で16年も使っていればそろそろ買い替えの時期でもあることも考慮に入れてこの男がバーナー部分を取り外し掃除してコンピューター制御のユニットもテスター類で検査する間にもいろいろ訊いてみる。 この5,6年はトルコ人の男が家に来ていて今日はその男が休暇を取っているので自分が来たのだという。 しかし、こっちは覚えていなくとも7,8年前に温度計が壊れたときに修理に来たというからそういうこともあったのだろう。

ガスが小さなノズルから吹き出て金属の細かい襞を500,600度の炎で熱してそれがセントラルヒーティングの水を温める熱源らしいのだがその部分をシールする鋳鉄製のカバーのパッキンが硬化して使い物にならくてそういうものを2箇所ぐらい取り替えただけであとはノズルを鉄製のブラシで掃除するぐらいだったのだが、メーカーの言う耐用年数は15-18年と見ているがそれは一般的に信頼できる年数で固体の振れがあるからあるものは20年も25年も上手くいけば操業するかもしれないけれど細かい部分で、例えばコンピューター制御のチップの具合であるとか他の部分のユニットに疲労がでて壊れるということが起こる可能性がありそうで、そうなれば新しいものに買い換えた方がこの10年ほどの技術の進歩と熱効率のよさ、ひいては燃費の経済性から、、、お徳で、、、というような、どの機械でも売り込みのときに聞かれるような話がこの男の口からも出てきて、去年のトルコ人と交わした会話と同じであることを確認したとともにこのボイラー施設もまだ今のところ信頼性が十分あるということという二人の話も附合した。

他の機械ならまあ、鷹揚に済ませることができるもののこの暖房装置の格別な性格はこちらの住まいの、特に冬の生活に欠かせぬものであるからだ。 この何年も比較的暖冬でそれでも暖房がなければ生活できないところであるから昔のようにマイナス20度が3週間も続くような冬であれば室内で20度を保障する装置は命の綱といってもよい。 そのような冬には必ずニュースで暖房装置の不手際でホテルに避難したり地区により避難所で共同生活を何日か強いられるというようなことも聞かれるのだが我が家では幸いなことにそういうことはなかった。

パーティーの折によく話しに出るのが冬休みに熱帯の国に出かけてアロハシャツでスキポールに降り立ち厚いコートを羽織ってマイナス15度のオランダのうちに帰ってみればボイラーが故障で家の中にツララが出来ていた、というようなジョークのような話で、それは多分誰もが恐れるシナリオなのだろうからそういったジョークが話されるわけで、だから、どこでもそんなことになるのを防ぐために休暇中には知人、親戚に定期的にポストを確かめるのを口実に暖房装置が上手く作動しているか確かめてもらうのである。 もし、うまくいっていない場合は、ここに電話して、、、それに続く段取りがこれこれ、、とうちを出る前に指図をメモに記しておいたものを参照せよということになる。

この何年かは家人が親戚、知人に休暇先からメールで定期的に問い合わせをしているようだが幸いなことに故障は起こっていない。 今日点検の男と話をしていて今が一年中で一番暇なときだから点検に来る時間があるのだと聞いた。 9月、12月から2月までがかなり忙しいらしい。 快適さを求める我々の暮らしの中で熱帯に住んでいればいざしらず亜寒帯で20度ほどの室内と80度ほどの熱湯を一年中保障する装置が冬場になくなるときの恐怖は安物のホラー映画の比ではない。

点検が済んで飛び散った埃を大型の掃除機で吸い取ったあと男が差し出す請求書にサインした後で、その男はまた、最新式モデルが小型でこれよりも高性能、16年前の価格と比較するとずいぶん安価になっているから今度カタログを郵送しておくから2,3年のうちに予算の枠にいれておいたほうがいいとも言っていた。 

2,3年のうちに買い換えてその耐用年が15年だとすればその頃は我々が養老院に引越し、このうちを売りに出す頃になるのかもしれない。

そういうこともここに引っ越してきた16年前には考慮に入れてあったから今日の点検で確認したこともすべて計画のうちということになる。




庭作業

2007年05月14日 06時06分29秒 | 日常

今日は疲れた。

若い頃は、学生の頃だが、叔父が大工の棟梁だったもので長い休みは大抵その手伝い、土方のアルバイトをしていた。汚い重いきつい仕事がほとんどだった。

当時としては悪くない1日日当6000円で長い休みには30日は働いていたろうか。 肉体労働でカネを稼ぐという事を自分に課していた。 その金で国産最高級カメラやギターを買ったし、中国旅行もしている。

冬の作業はなんともないが真夏の仕事は厳しい。 昼休みに家に帰り冷たいシャワーを浴びてもほてりがやまず昼食がのどの乾きで通らないくらいだったのだが食べないと体力が続かないのでむりやり押し込んだのを覚えている。 屋根瓦の下に敷く、藁を混ぜた赤土をこねそれを特別な三叉槍のような棒で下から屋根の左官に投げる作業などはかなりきついものだし真夏の鉄筋を溶接する作業にも眼に入る汗に難儀したものだ。

それから30年以上も経って50も半ばを越し、当時どうということもなかった作業を昨日、今日と4時間づつしてかなり疲れた。 庭の古いポーチと表から裏庭に通じる小道に敷いてある一辺30cm厚さ5cmほどでレンガのタイルがある。 一つが3.5kgから4kgあるのだろう。 趣味で撃つコルトピースメーカーに6発弾をこめると2.5kgでそれよりもはるかに重いのだ。 それを数百枚掘り出して、この50年ほどそのままにして置いたのでかなり地面が下がり、凸凹も出来ているのでこの際、専門家に新しいポーチ用のインド産自然石とこのタイルを整地してその上にきっちり敷いてもらうことにした。 整地するために撒く砂を水曜日にダンプカーで家の前にどかんと運んできてうちでそのタイルをはがし、それを庭の芝生の上に積んでおきポーチ跡と通路跡に手押し車で砂を一定の厚さで撒いておくことを約束していた。 向こうに時間がなくすぐさま石を敷く作業に入りたいということと自分でやって労賃を節約できる、という事情もあった。

作業自体は別段難しいわけでもない。 体力だけのことだ。 10年前なら弱音を吐かなかったはずだが肉体労働がこたえる年齢になっているのだろう。 作業のあとの夕食では食欲がすすまなかったし、早く横になって読みかけの小説を読もうというような気持ちにまでなっている。 これじゃ、とてもサッカーの試合に出るなどということはできないだろう。 タイルを4枚重ねて運ぶときに気をつけたことはぎっくり腰にならないように急に腰に負担をかけないようにすることだった。 ぎっくり腰になったりすればまわりから何を言われるか知れたものではない。 

ぼちぼち鰊(にしん)の季節だなあ

2007年05月11日 12時00分09秒 | 日常

スーパーでどっしりと買い物をして、そのあと、ナイトキャップにとちびちび飲んでいるジンの1Lビンが空になっていたので酒屋に寄ってそのビンと家人が好む南アフリカの白ワインを二本袋にいれてもらい、それをぶら下げてぶらぶらと魚屋に入り、そこでビールを飲みながら白身魚の揚げ物を大蒜白タルタルソースで喰っていたら新しいポスターが眼に入った。

そこには、今年は6月6日から新鰊が店頭に並びます、と出ておりオランダ伝統の生鰊の立ち食いの様子が美味健康という文言といっしょにイラスト、写真を添えて見える。

もうそんな季節になったのか、ああ、去年はそういえば北海の海水温度が異常に低く鰊の発育が悪かったので鰊漁の解禁を何週間か伸ばしたのだったなあ、ということを思い出した。 しかしそれも各国が競って今では狭くなった北海の漁場を乱獲から防ぐためなのだという陰謀説も年寄りあたりからまことしやかに話されていたのだし店頭に並んだ新鰊を口に入れたときには十分に生育しており、それから何ヶ月も時に応じてあちこちでビール、ワイン、酒にジンとそれぞれの飲み物で生鰊を楽しんだものだったが、その季節がまた巡ってきたのだ。

そういえば気象の変化のせいで京都あたりだったかで鰊が大量に獲れてそれがそのあたりではまるでなじみのない魚だったものだから市場でも売れず廃棄するような事態になっているというニュースを見たのは二ヶ月ほど前ではなかったか。 明治の昔から北海道ではソーラン節にみられるように鰊は漁業の主役でそれがもたらす栄華を歌っているし乱獲の後収穫が途絶えた経緯は今でも残る鰊御殿というような建物からそのようすが推測されるだろうが、今、その魚がずっと下った、鰊にしてはかなり南の海だというのはやはりこのところの異常気象の影響なのだろうか、というような事も魚を食い終わる頃までには思い出していたのだった。

そういえばもう20年以上前に何かの折に東京のオランダ大使館のレセプションに招かれ美しい裏庭の芝生で振舞われたのがこの新鰊や丸いコロッケ、チーズでそれをジンで食したのだが世界中のオランダ大使館で習慣どおりのこれらオランダ食が供されると聞いたものだ。 そこでもオランダでは今まで廃棄されていた数も子が日本に大量に輸出されて貿易に貢献しているとも聞いたのだがそれもこの新鰊が出る今頃だった。

国旗

2007年05月09日 10時19分45秒 | 日常
昨日シラク大統領から次に引き継ぐフランス大統領選挙で移民の息子が保守的な時代の風潮を映して、ヒラリーを抑えてアメリカに自由の女神を送った国の女性初代大統領になるかとそのフランス風を期待したうちの家人の期待を裏切り、165cmで保守的マッチョ、現実的な男が選ばれ、経済優先、保守的なフランスの空気を反映している、とニュースで大きく報道されていたのだが、その選挙戦のあちこちでフランスの国旗をデザインしたものがニュースの背景で多く見られたことで思い出したことがある。

5月5日は日本では端午の節句で、近世からは雛の節句が女の子の祝いの日、端午の節句が男の祝いとして祝われていたのに対して、子供の日が国民の祝日となってからは女子も含まれ、能天気に男の子が隅に追いやられる風で、それが社会の現在を象徴するようでもあるのだが、異国オランダではこの日は戦争の意味を問う慰霊祭がおこなわれる祭日だ。

第二次世界大戦の犠牲者を弔い戦争の意味を考える日でもあるのだが第二次世界大戦だけでなくオランダが関係するさまざまな戦地で犠牲になった兵士、一般人をも弔う日でありその前日、4日の午後八時には二分間の黙祷が捧げられアムステルダム、王宮前のダム広場で行われる女王臨席の慰霊祭はライブで放映される。 学校でも歴史のなかから現在も延々と続くさまざまな戦争の意味を考え、経験を語り続けることが行われており、もう十年以上前に徴兵制度は廃止されたもののオランダ兵は今も中東地域に派兵されており死傷者が出るほどでもあり戦争はいつも身近にある。

私の子供の頃には戦争の影がまだ色濃かったのだが、それは村の墓場の墓石に会った事もなく生まれる前に亡くなっていた親戚の叔父たちの名前が刻まれていることや慰霊塔がそれら戦没者の墓を集めた公園にあり小さい頃そこで遊んだ記憶と共に高度成長期以前の戦後がまだ終わっていない頃の記憶につながる。

こどもの頃からの記憶では個人のうちの前に国旗を掲揚するようなことはあまりなかったような気がする。 大抵は学校でなにやかやの儀式の折に講堂の正面に掲げられて校長の話の背景になっていたり、校庭で行われる朝礼の際のプロセスであったりした。

月日も場所も変わって、現在、うちの通りでも祭日にフランス国旗と見まがうような赤、白、青が横に縞になったオランダ国旗をかかげる家がいくつかある。 我が家では今まで国旗を掲揚しようというような話はなかったものの、この日、国旗とポール、それにそれを壁にとりつける金具が私に渡され表の壁にドリルで穴を開け金具を取り付けるよう下命があった。 家人は国旗や国歌にたいして若い頃から敬遠するそぶりをしばしば見せてきたものだからこれはどういう風の吹き回しかといぶかったのだが、考えてみると、多分、あと1ヶ月ほどで息子の卒業試験が来るからその結果に備えてのことかというところに想像がおちついた。

オランダでは子供が高校の卒業試験に通ると家の前に国旗を掲げてそのポールに子供の古いかばんや今ではほとんどの子供たちがつかっている背中に背負うナップサックをぶら下げて、そのうちの子供が試験に通ったこと、これから社会、大学に向かうということを知らせる習慣がある。 すべてがそうするわけでもないのだろうがこの時期になるとあちこちでこれが目に付くものだが、そうすると我が家もぼちぼちそういう時期になったのかと今更ながら感慨も湧くけれど、考えてみると、それでは国旗はまるでふるいカバンの添え物ではないかということになり、母親の情は国家というより子供に向いているという古今東西の常識に想いが至るのだ。 




やっと雨が降ったのだけど、、、

2007年05月08日 06時02分18秒 | 日常

天気予報ではほぼ80日ぶりに降雨があったのだという。 週間天気予報でもう一週間以上前に今日から本格的に雨が降ると報じられていたものの、それまでに庭の草木の乾きを見ていて今日を待ちきれず、盛夏にはするように何日間か夕食後にほぼCD一枚分の音楽を聴きながらTシャツ、ショートパンツに木靴で庭に散水をしていたから既に気分は夏休みだった。

それに加えて家人は車がさまざまな花粉と埃をかぶって汚れているから洗浄したらどうかと私の重い尻をつついていたのだが、何年も路上駐車していて今までに3本の指で数えられるほどしかホースの水を車にかけて洗ったことがないほど、そのつど雨で適当に洗われていて何もしないでいけたものが、さすがにこの80日間の日照りで今までになくセメントの粉を振り掛けられたほどに積もった車のウインドウワイパーを水とともに動かすとそれで傷がつきそうで放っておいた怠け者である。 けれど、昨日の夕方、久しぶりに義姉のところに里帰りしていたシシリア人の姪夫婦とその子供たちが今週エトナ山の火山がマグマを流すところに帰るというので親を交えて一族郎党30人弱の記念撮影をしようと夕食前に義姉の家に急いだ高速の途中で今まで低くなっていた空から雨がフロントガラスにぽつぽつ降ってきて気温もそれにつれて夏から早春に戻ったようだしそれで一応車の埃もさらっと落ちたようだった。

今朝、というより昼に起き出してパジャマのままでは寒い気温に分厚い毛糸の靴下でキッチンの窓から鉛色の空を眺め、しっかりとした本格的な雨が咲き始めた庭木の葉っぱに溜まった水滴を眺めていたらあれほど待ち焦がれていた雨なのに早春の鬱陶しさがもどって来た。 勝手なものだ。 暑ければ暑いで涼しさを求め、乾いたといって湿り気を求めればそれをもたらす曇り空を鬱陶しく厭うのだ。 今年は普通の季節の移り変わりが列車の車両の順番を間違えたか英語の試験でストーリーをごちゃ混ぜにして順番を整えよという問題のようにちぐはぐである。 春がきた喜びはもう今年は戻ってこないとしてもこの早春の鬱陶しさは秋が来るまで忘れておきたいところだったのだがことは必ずしも思うようには行かないようだ。

蒲公英の枯れ首濯ぐ氷雨どき