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観測にまつわる問題

政治ブログです。「保険」「相続」「国民年金」「AIロボット」「運輸エンタメ長時間労働」「GX」を考察予定。

鹿を指して馬と為す

2017-12-19 23:54:07 | 日記
「台湾は中華人民共和国の不可分の一部だ」 広辞苑「台湾」表記問題で中国 中台の間に立たされた岩波書店(産経ニュース 2017.12.18 20:47)

広辞苑の表記は見ていませんが、台湾を客観的に見ると、中華人民共和国が自国の一部と主張している中華民国が実効支配している島になるかと思います。よもや中国(本土)人も台湾を現状支配しているのが中華民国であることが目に入らないってことはないと思うのですが、「鹿を指して馬と為す」国だけに分かっていて有り得ない辞書の表記を維持させようとしているのではないかと思います。

以上筆者のfacebook投稿からの再録。

鹿を指して馬と為す(故事ことわざ辞典)

>『史記・秦始皇本紀』にある以下の故事に基づく。秦の始皇帝が死んだ後、悪臣の趙高が自分の権勢を試そうと二世皇帝に鹿を献上し、それを馬だと言って押し通してみた。しかし皆が趙高を恐れていたので、反対を唱えた者はおらず、「鹿です」と言った者は処刑された。

中国が台湾を中国の一部と主張するのはまだいいとしても、中国の立場から見ても実効支配しているのは中華民国(台湾)のはずです。中国がこれをもし言ってはならないと捻じ込んでくる国だとすれば、「鹿を指して馬と為す」行為で下と認識したものを削る「政治」を行っているのだと考えられます。勿論こうした行為に対しては毅然と対応すべきですが、岩波書店にこうした対応ができることを信じている訳ではありません。

とりあえずおやすみなさい、そしておはようございます

2017-12-17 00:02:24 | 日記
平沢勝栄議員の講義を受けてきました。非常に面白かったです。いろいろ書くことはありますが、纏めるのは寝て起きてからにします。予告のテーマ「警察」もその講義に関する記事を持ってとりあえず終わりとします(予告期間過ぎた上、警察関係ない話題多くて申し訳有りませんが)。最後に失礼なことして申し訳ありませんでした。

満州事変関連は後日ですね。真面目にやると時間がかかりそうなので、明日も厳しいかもしれません。

・・・おはようございます。今日はネットカフェから(以降12月17日9時投稿)。朝起きてパソコンを立ち上げたら、インターネットができなくなっていました。琉球新報の社説を立ち上げたところで投稿ができず、画面を切り替えたところでそれ以降アウト。プロキシがウンチャラカンチャラで再読み込みしようが再起動しようが別のページを立ち上げようがクロームじゃなくてIEを使ってみようがプロキシーガーでギブアップ。思い当たるフシと言えば、昨日自民党のリーダー塾にいく直前にページが飛んで故障したとか何とかそんな表示が出てこのソフトで直るよでページを辿るとお金を請求されて何もしなかったことぐらい。その直後もネットは使えたし、深夜家に帰ってからもネットは使えたんですけどね。

何度か書きましたが、時々家のパソコンはページが飛んだり故障したり有り得ない事態が起こるので、突然書かなくなったら故障を疑ってもらえればと思います。ネットカフェから書けますが、ネットカフェに行く時間の余裕がないこともあります。それでもブログ自体が何らかの理由で壊れたらアウトです。新しいブログでやるだけですけど、過去のデータはどうにもなりません。ツイッターとfacebookもやっていますから、そちらを知っていれば新しいブログの場所は分かると思います。本人はやる気ありますけど(仕事で時間くったり、遊んだり、疲れて寝たり、誤解を招くようなことはあると思いますが、やる気がないとここまで続くことはありません)、どうにもならないこともあります。後は何らかの理由でポックリ逝くとか入院するとかね。

開戦に至る日米関係史と満州事変

2017-12-16 09:36:14 | 日記
歴史というのも勿論様々なファクターが複雑に絡み合うものであり、例えば唯物史観のような単純なものの見方をするべきではないと筆者は思いますが、それでも大づかみで何故日米が戦争に至り日本は完敗したのかを考えることは、歴史の教訓を引き出す上で無駄ではないだろうと思います。日本は真珠湾攻撃で奇襲開戦したものの、その後は健闘むなしくコテンパンにやられています。日中戦争以降、アメリカは援蒋ルートで事実上の敵国だったと思いますが、通説的な理解だと南部仏印進駐で石油禁輸が実行されたことにより、日本は対米戦を決断したという流れになります。ただ、事前に対日石油禁輸の可能性を警告され報告もされた上で、それを無視して南部仏印進駐したということですから、石油禁輸は寝耳に水の話ではなかったのではないかとも考えられなくもありません。蘭印作戦当時の蘭印の石油の年間生産量は日本の年需要量を上回っていたようです。関係悪化を口実に蘭印作戦を行い占領すれば石油禁輸をされてもお釣りがきます。こう考えると当時の日本が意外に合理的に動いたとも考えられますが、良く分からないのは何故蘭印作戦だけに止めなかったかです。蘭印だけで足りない資源があったか、日本が支配する地域(中国など占領していました)全体の需要を満たせなかったから、ジリ貧が見えていた可能性もあります(石油が無くなってから戦争を仕掛けられたらボロ負け確実です)。あるいは既にアメリカが事実上の敵国であったこと、同盟国ドイツとも大西洋の戦いなどアメリカは事実上の敵国であったことから、アメリカからの開戦が避けられないと見た可能性もあります。実際には日本が開戦を決断したのですから、日本(やドイツ)がアメリカに戦争を仕掛けなかったらアメリカの本格的参戦はあったのだろうかという疑問なしではありませんが、第一次大戦でアメリカは参戦したのだから、いずれ参戦するが当時の認識だったのかもしれません。いずれにせよ、日中戦争の時点で既にアメリカと間接的に戦争状態だったと見ることもできますから、何故そこまで険悪な状態になっていたかを見なければなりません。

日米関係史の始まりは一般にペリー来航だと思いますがそれはさておきます。アメリカのアジア進出はペリー以降もそれほどではなく、明治期アジアにおいてより存在感があったのは、イギリスだったと思います。日英同盟・日露戦争がありましたし、イギリスは中国とも戦争しています。日露戦争後にアメリカ大使館の襲撃もあったようで、それによる関係悪化も考えられますが、第一次大戦やシベリア出兵で日米は同じ陣営に属しましたから、決定的なものであったとは考えにくいところです。

やはり日中戦争を見るなら満州事変を見ないと分からないところがあると思いますが、かと言って=日本が先制攻撃で悪いと日本が見る必要はないと思います。日本には日本の言い分があります。

満州事変(ウィキペディア)

>中国は清朝時代の1902年の英清通商航海条約改正交渉より、領事裁判権の撤廃や関税自主権の回復など国権の回復に着手しており、中華民国蒋介石派は1919年7月のカラハン宣言以降、急速に共産主義勢力に接近し、国家継承における条約継承否定説を採用し、日本との過去の条約(日清間の諸条約)の無効を主張しはじめた。とくに第二次北伐に着手中の1928年7月19日には日清通商航海条約の破毀を一方的に宣言し、これに対して日本政府はその宣言の無効を主張した。

>また1915年のいわゆる対華21カ条要求をめぐる外交交渉のさい対日制裁として発布された懲弁国賊条例はこの交渉で締約した2条約13公文に完全に違背する条例であったが、1929年に強化され「土地盗売厳禁条例」「商租禁止令」などおよそ59の追加法令となり、日本人に対する土地・家屋の商租禁止と従前に貸借している土地・家屋の回収が図られた。間島や満洲各地の朝鮮系を中心とした日本人居住者は立ち退きを強要されあるいは迫害された。このことは満洲事変の大きな要因となる。

欧米との不平等条約の改正問題で穏健かつ漸進的に交渉を積み重ねた優等生的な日本と違い、中国は日本をターゲットに暴力的かつ急進的な手法で条約改正を迫りました(条約改正(ウィキペディア))(欧米列強に対抗すると結束されるから人種が違う日本をターゲットにしたのかもしれませんし、歴史的経緯から下に見ていた日本に負けた屈辱感から日本をターゲットにしたのかもしれません)。明治維新以降当初の日本のアジア主義(ウィキペディア)(>欧米列強の脅威の排除とアジアとの連帯を目指した主張)は中国・朝鮮と提携を目指していました。これが日清戦争・日露戦争の勝利を経て強い日本を盟主とする新秩序を目指すものに変わっていきます。日本としては中国や朝鮮に支援してやったという意識があったんだと思います(例えば和製漢語(ウィキペディア)>和製漢語は特に近代以降、中国に逆輸出されたものも少なくない。中国が近代化を遂げる過程で、特に日清・日露戦争前後に、中国人留学生によって日本語の書物が多く翻訳されたことが大きいともされる。中国語になった和製漢語の例として、「意識」、「右翼」、「運動」、「階級」、「共産主義」、「共和」、「左翼」、「失恋」、「進化」、「接吻」、「唯物論」など種々の語がある。中国でも自ら西洋語の翻訳を試み、華製新漢語なるものを作り出していた。しばしば和製漢語と競合するようになることもあった。>「中華人民共和国」の「人民」「共和国」も和製漢語であり、国名だけでなく中国の体制に必要不可欠な概念までも和製漢語には含まれている>こうして日本人により作られた大量の漢語が中国のなかに入ったことに対し、賛成する中国人もあれば、強烈に抵抗を唱える人もあった。>梁啓超、孫文、魯迅、毛沢東などは賛成派であった)。それが戦争で勝つことにより日本がリーダーでいいだろうという意識が強くなり、大国でかつて日本の先生だった中国のプライドを傷つけていたのかもしれません。抗日にはそうした背景があったと思います。日本としては何とか欧米列強に吞みこまれないよう必死だったし、清は改革が遅れ隣国で利害が対立する国だったから衝突しましたし、日露戦争で特には協力できた訳でもありません(日露戦争で日本側に立ったのが英米でロシア側に立ったのが仏独です。清や朝鮮は保険をかけてどちらにも協力したようです。勿論同じ人がどちらにも協力した事例はあまりないと思いますが、日和見で一部の人が見返りを求めてそれぞれ異なる外国勢力に近づいたと見るべきでしょう。これは国内事情ですが、日本でも古来武士は親兄弟分かれて異なる勢力について戦争を行うことは珍しくありませんでした。家を残すための保険です。ずっと英米と連携していたらアメリカとの開戦は無かったでしょうが、日英同盟は解消され結果的に日本と英米は戦争に至ります。ドイツとは対立が多かったですが、義和団の乱では同じ陣営でした。フランスとは第一次大戦・シベリア出兵で同じ陣営です。いずれにせよ、何処かと協力したらずっと一緒というナイーブな世界ではなかったと思います。日英同盟を継続していたらどうにかなったかもしれませんが、日米は対立することも多くなり結局は破局に至ります)。日本は歴史の自然な流れでアジアのリーダー意識を強めたと思いますが、中国・朝鮮は歴史的経緯で日本に対抗意識があり抵抗運動があったと思います。支援してやったのに(特に朝鮮には)逆らっているという意識が日本にはあるでしょう。ですが、特に日本には中国・朝鮮を差別する政策はありませんでした。日本=悪魔の図式は大体プロパガンダだと思います。日本も勿論完璧ではありませんが、当時の国際社会の中では大筋優等生的にふるまったはずです(軍人の暴走を抑えられなかったことや(結局武士の国だったのでしょう)、鉄拳制裁などの下のものに対する厳しい躾が「平等に」外国人に向いて恨まれた可能性はあると思います)。にも関わらず、自分達がやってきたことと同じことが出来ず、(日本から見て)暴走した中国に対する制裁意識が満州事変に繋がったと思えます。当時の日本人は中国・朝鮮に悪さしたとは思ってなかったでしょうし、筆者から見ても当時としては然したる問題も無かったように思えます。これは欧米列強に対してもそうでした。反省点としては、日本がアジアにおいて強くなり過ぎたことによって、欧米列強の警戒心が高まり対抗馬(中国)を支援し始めることまで計算に入れられなかったことではないかと思います。三国干渉など煮え湯を飲まされた経緯はあってそれが分からないということは無かったはずですが、それが欧米何するものぞ我々こそがと悪い方向に行ったかもしれません。結局のところ、日本は長らく武士が支配する国で明治維新も武士が起こした革命でした。島国ですし、外交・政治がそれほど得意でもなく、武士の論理に限界があったということではないかと思います。下のもの(軍人)が暴走したのも、武断的な価値観を上層部が貫徹しないできないことによる反発があって、それに同調する国民がいたからではないかと思います。国民性を言い始めることは決定論に繋がり日本は悪くなかった=無謬だったという結論になりかねません。筆者の意図はそうではなく、当時日本では主流でなかったしなれなかった場合もあるかもしれませんが、こう考えこう動くことができれば破局は防げたのではないかと想定し教訓を引き出していくことです。良いところを活かすにしても(それが保守の立場と思っています)、悪いところを改善したり学んだりすることを否定する必要はないのですから。

>1902年の日英同盟の締結を期に、ロシアは満洲から撤兵を開始するが、日本を軽視し全兵力の撤兵は行わなかった。日本では対露強硬論が噴出し、また韓国、満洲の利益に関する日露外交交渉は決裂、1904年には日露戦争が勃発し。1905年、この戦争に勝利した日本はロシアとの間にポーツマス条約を締結した。これにより、日本は、東清鉄道の内、旅順-長春間の南満洲支線と、付属地の炭鉱の租借権、関東洲の租借権などを獲得した。この規定に基づいて、12月、日清間でロシア権益の継承に加えて併行する鉄道新設の禁止などを定めた満洲善後条約が締結され、1906年6月7日の勅令第142号をもって1906年11月26日に南満洲鉄道が設立された。以降、南満洲鉄道を柱とする満洲経営権益は日本の重大な課題となった。鉄道守備隊はのちに関東軍となった。一方で、日本は、1905年10月、満洲軍総司令官下に関東総督府を設置し軍政を敷いた。これに清が抗議し、日本の門戸閉鎖に英米が反発し、1906年3月に満洲の門戸開放を迫ったため、日本は満洲開放の方針を確認し、同年7月31日の勅令196号をもって、関東総督府が関東都督府として改組された。

一般には栄光の歴史として語られる日露戦争ですが(筆者も評価しますが)、マイナス面も意識されていいと思います。戦費は莫大でしたし、戦果はそれほどなく暴動が起きましたし、自衛と言ったところで、ロシアはある程度撤兵していて何処まで野心があったか不確かなところがあるのではないでしょうか?防衛戦の方がコスト安で守りきれた可能性があると思います。如何せん極東はロシアの本拠地から遠すぎました。満州に根拠地をつくられないよう適度に邪魔をするという戦略も有りえたように思えます。ロシアは倒れ結果的にソ連が生まれています。勿論アジアの小国日本が欧米列強の一角の大国を倒したというのは快挙でした。当時の別の大国英米の協力もありましたし、兎も角日露戦争に勝って良かったとして考えます。英米は協力しましたし、英米の反発を容れるのは分かります。それに対する国民の不満をどうにかできなかったかという考え方は有り得ると思いますが、この辺では明治維新に功があった元老支配で抑えられていたのでしょう。後に軍部が暴走し始めるのは、元老に代わる権威が政治家に無かったからだと思います。権威を言うと何か欧米で嫌われるところもある権威主義のようですが、欧米と異なり日本の借り物の民主主義には権威が無かったと思います。今でもそうした傾向は無きにしもあらずですね。米軍もいますし、暴走は有り得ないと思いますが、潜在的な体質は変わっていないところがあるようにも思えます。今から考えると、当時の事情を国民に説明していたら元老達がそう判断したようにどうにかなったと考えられなくもありませんが、戦争のマイナス面を強調したら一般国民がついてこなかった可能性が高いとも考えられます。大津事件で恐露病のイメージが当時あったはずです。戦争をするなら吞んでかかる必要はあるでしょう。大体が明治維新を成し遂げた雄藩の一方である薩摩は「議を言な」(理屈を言うな実行しろ)の国だから、説明能力を期待する方がおかしいのかもしれません。いずれにせよ、日露戦争の結果の暴動も日本は抑えてその辺は特には大過なかったようにも思えます。

>1922年、日英米仏の四国公使が中華民国政府に対し財政整理勧告を出した。1923年、鉄道において臨城事件が起こり、多数の英米人が被害を受けたため、英米を中心に列強による鉄道警備管理共同案が議論された。また、中華民国の内政全ての共同管理案も議論されていた。

>この列強による共同管理案は、中華民国広東政府をソ連へと近づけさせ第一次国共合作を始めさせたり、直隷派の北京政府にカラハン協定及び中蘇解決懸案大綱協定を結ばさせる原動力となってしまった。

この辺は第一次大戦~シベリア出兵の流れで考えるべきですね。当時の大国英米との協調はこの辺までは上手くいっていたでしょう(しつこいようですが結局のところアメリカと戦争して敗戦に至ります)。ただ、この辺も後世から見ると無謬ではないと思えます。第一次大戦の(欧州での)惨禍は凄まじく国際社会では厭戦感が広がりました(不戦条約など結ばれました)が、ドイツに対する過酷な賠償がナチズムの台頭を許し、第二次戦後は戦争に勝っても過酷な賠償を要求しないようになったと思います(ソ連との対立の問題もあったでしょう)。第一次大戦でロシアは大きなダメージを受け、景気の反動で起こったとも言われる世界恐慌に力を得て誕生したのがソ連です。当時の日本を含む列強はこれに介入しました。それがシベリア出兵ですが、ほとんど何も成果無く撤兵することになります。日本はほとんど唯一の隣接する大国として(アメリカもアラスカで隣接していると言えなくもないですが)大兵を送ったようですが、成果がでないことに納得いかなかったのか、最後まで粘って領土的野心を疑われたようです。後世から見ると、犠牲を払って成果はでないわ、欧米に疑われるわ、ソ連に恨まれるわ(恐らく)、何もいいことが無かった事件だと思います。粘り強さ・強い意志は日本の美点かもしれませんが、ここでは裏目に出ているような感じがあります。やってみないと分からないにしても、駄目だと判断したらさっと引くような合理性が感じられません。シベリア出兵に踏み切ったのが寺内内閣で、そのシベリア出兵が原因で起こった米騒動の対処に失敗した寺内内閣は倒れ、続く原内閣は英米協調路線に転じたもののシベリア撤兵を実行することはできず、高橋内閣を経て、海軍大将の加藤友三郎内閣においてシベリア出兵の中止が決まります。ここは軍人が無駄な戦争を止めたという形になりますね。後世から考えると中国がソ連に近づいたことは痛手だったかもしれません。叩かれた国の「弱者連合」ではありますが、共に大国です。いずれにせよ、当時の日本の政権は短命政権が続いてシッカリとした外交ができる状況ではありませんでした。

>関東軍は、地元の親日派軍閥長である張作霖に軍事顧問団を送り、取り込みを図った。しかし、張作霖が排日運動の高まりや欧米からの支援をとりつけようと日本との距離を置き、海外資本の提供をうけて、いわゆる満鉄の並行線を建設し始めると、両者の関係は悪化した。1928年(昭和3年)6月4日、関東軍は張作霖が乗る列車を秘密裏に爆破し、殺害した(張作霖爆殺事件)。事件を首謀した河本大作大佐は、予備役に回される軽い処分とされた。田中義一内閣はこの事件処理をめぐり昭和天皇から不興を買ったことにより、翌年7月になって総辞職に追い込まれた。

日本の失敗の最初のきっかけは張作霖爆殺事件だったかもしれません。明らかな軍の暴走でしたが軽い処分でこれが後の2.26事件など軍の暴走傾向を加速させた印象があります。支配を引き継いだ息子の張学良は柳条湖事件(日本の自演でした)に始まる満州事変で不抵抗を指示して日本の侵略をアシストした形になりますが、これは蒋介石の指示でもあったようです。日本がズルズル事態を拡大させると思わなかったんでしょう。アメリカのスティムソン談話を無視する形になって、関係はドンドンこじれていきます。結局満州国は建設され事態は拡大し、塘沽協定を持って戦争は治まることになりますが、こうした経緯で中国とアメリカを同時に敵に回したことが後の破局に繋がったとしか考えられません。国際連携も総スカンに近い形で脱退することになります。味方の少ない日本はあぶれもの同士でくっつく形になります。当時の日本はこの程度のことも分からなかったんでしょう。あまりに武に偏り過ぎている印象です。そういう意味で中国やアメリカの言い分に理解できるところはありますし、筆者も満州事変について批判的ですが、日本の言い分も(支持しませんが)分かります。

>張学良は、満鉄の付属地に柵をめぐらし、通行口には監視所を設けて、大連から入ってきた商品には輸入税を支払っているにもかかわらず、付属地から持ち出す物品には税金をとった。さらに「盗売国土懲罰令」を制定し、日本人や朝鮮人に土地を貸したり売ったりした者を、国土盗売者として処罰した。多数の朝鮮人農民が土地を奪われ、抵抗した者は監獄に入れられた。満洲事変直後、奉天監獄には530人の朝鮮人が入れられていたという。そのうえ、林業、鉱業、商業などの日本人の企業は、日露戦争後の日清善後条約で、正当な許可をえたものは、満鉄付属地外でも営業できることになっていたが、昭和5、6年には、一方的な許可取り消しや警察による事業妨害のために、経営不振が続出した。奉天総領事から遼寧省政府に交渉しても、外交権はないので南京政府の外交部に直接交渉するようにと相手にされなかった。外務省を通じて南京総領事が南京政府に交渉しても、いつまでたっても音沙汰なしであった。満洲事変前には、このような日中懸案が370件あまりあった。危機感を抱いた関東軍は、再三に渡り交渉するが聞き入れられなかった。これにより関東軍の幹部は、本国に諮ることなく、満洲の地域自決・民族自決にもとづく分離独立を計画した。

結局のところ張作霖も張学良も日本を満足させることができず、日本から見ると暴走しています。自分達の土地という意識だったのでしょうが、漢民族は新参で本来満州において余所者に過ぎません。張作霖というのも馬賊の頭目あがりで、所詮はならず者に過ぎません。満州を大きな犠牲を払ってロシアから解放したのは日本という意識が日本にはあったでしょう。中国人はほとんど指をくわえて見ていただけであがりを掠め取った存在です。当然日本が権益を確保して然るべきと思っていたでしょうが、その結果アメリカなどの軍閥支援にイラついていたと思います。そこで我慢ができなかったのが誤りだったでしょう。アメリカを説得し協調路線をとるか、あまり無茶をせず国際社会の反発を大きく招かないように行動すべきだったとしか思えません。リットン調査団の報告書も日本に配慮があったと言われますし、日本が国際社会に受け入れられる言い分で行動できればどうにかなる余地はあったのではないでしょうか?ある程度分かっていた人はいると思いますが(昭和天皇など)、如何せんそうした声は日本では小さくどうにもならなかったということになるんでしょう。やはりそうした反省を元にこれからの政治はつくられていくべきなのだと思います。

簡単に纏めると戦前に無く今も怪しいのは国際協調路線と国益の確保及び主権者の意志の尊重のバランスですね。国益の確保が無さ過ぎると何のための国だと怒る国民が当然出てきますし、国際協調がないと戦前のように国際社会に総スカン(に近い感じでした)をくらって破局に至ります。戦前の日本に国際協調が無かったとは寧ろ思わないのですが、国益への配慮が無さ過ぎたせいで国民や軍の暴走を止められなかった(その後国際協調路線を切った)のかなという印象ですね。じゃあ俺達がやろうと軍が思って国民もそれを支持した感じだったんでしょう。今の外務省も国際協調路線は寧ろ良くやっている方かもしれませんが、日本は安全保障政策をあまりにやらな過ぎた印象があります。戦前の失敗が頭をよぎるのかもしれませんが、もういいでしょう。別に依存するつもりもありませんが、戦前と違って日本だけが全てでなくなりましたし(米軍もいますし)、安全保障政策はシッカリしていく必要があると思います。軍隊がない世界という念仏を唱えても仕方がありません。隣国は小さくない軍隊を持ちせっせと周囲を侵略しているのですから。また、国民を納得させていく外交も必要でしょう。専門家(外務省)から見たら国民の議論などちゃんちゃらおかしいかもしれませんが、主権者は国民です。主権者をあまりに置き去りにすることは寧ろ危険で、それが戦前の反省でなければならなかったと思います。メンツがある国で反省も難しいかもしれませんが(筆者も納得いかないことで強制されるとイライラする性分ですが)やらなければいけないことなんだろうと思います。

差別用語を自ら名乗る例

2017-12-11 01:35:52 | 日記
今日の保守速の本スレ(やコメント欄)で、自らネトウヨと名乗る奴はいないと決め付ける投稿を見かけたので、自分のことが言われているような気がして(コメント欄では実際言われたw)、(ここで)反証しておきます。

曰く自らパヨクと名乗る奴はいないという主張らしいですが、なるほど自らパヨクと名乗る奴はいない気がします。どうだか知りませんが。でもネトウヨと名乗ったことがある奴はいます。自分です。保守速の住人的には(自分も結構見ていますし投稿していますが)、ネトウヨを言う朝鮮人だから自分をネトウヨと名乗ったことになるようです。自分の中では説得力ゼロですが(自分が朝鮮人ではないことを知っているので)、事実をそのまま説明できないとくやしいので(そういう性格です)、どう説明すれば分かるか考えました。自分以外の実例など挙げて反証します。

「腐女子だけど」で検索してみてください。グーグルだと約 1,140,000 件Hitして、上位からゾロゾロ自ら腐女子と名乗っている事例が出てくるはずです。

腐女子(ウィキペディア)

>もともとはホモセクシャルな要素を含まない作品の男性(的)キャラクターを同性愛的視点で捉えてしまう自らの思考や発想を、自嘲的(じちょうてき)に「腐っているから」と称したことから生まれたといわれる。使われ始めた当時はへりくだったニュアンスとして、自身の特殊な趣向に対する防衛線の役割を果たしていた。多摩美術大学の溝口彰子は、「マスコミがねつ造したネガティヴなヤオイ愛好家像のステレオタイプに対するレッテルとして、ヤオイ愛好家たちは抵抗を示していた」が、現在は多くの愛好家が自称として使うようになっていると述べている。

>社会学者の上野千鶴子によれば、自らのことを腐女子と表現する背景には、相手から「腐ったような女子」といわれる前に自分からそれを表明して侮蔑を回避するという「居直りのレトリック」があるという。ライターの松谷創一郎は、自分自身を相対視して自虐的に表現するだけの余裕ができたという点において、この言葉の発生はやおい文化の成熟を意味していると述べている。

ネトウヨは明らかな差別用語(らしい)ですから、自ら名乗った(と言われる)腐女子とは違う部分もあると思いますが、そのレッテルに抵抗感を示していたようでもあり(腐っていると言われて通常喜ぶ人はいません)、まぁ似たようなものではないかと思います。ちなみに筆者が2chまとめブログを見だしたのはそれほど昔には遡りませんから、使われだした当初からの状況を知っている古株の人とは、ネトウヨという言葉に対するイメージが違うのだと思います。またコメント欄に沸いている左翼工作員(?)も特に相手にはしていません。触りにいく人の心理も分かるような気はしますが(10数年前だったら自分も自治しにいったでしょう)、実際のところネトウヨという言葉にそれほど(自治しているような人ほど)拘っていないというか、差別用語であることは分かるがさして気にしていないというのが本当のところです。あまりに使われすぎて腐女子は市民権をえつつある印象もありますが、字面を見れば分かるように褒め言葉では勿論ありません。

筆者の性別は男ですが、自ら腐女子と名乗る人の心理は分かります。居直りで言われる前に言ってしまえという感覚がありますよね(自分の記憶では保守でフリーター(無職)を説明しなければならなかった機会に一回だけです)。自嘲的・自虐的な気分の時もあってポロっと言うこともあるでしょう(「自虐 日本」で検索すると 624,000件Hitします。分からない人は参考にしてみてください)(自分の記憶ではこれも保守速のコメント欄で一回だけですが、その時叩かれたから覚えているだけの可能性もあります)。漫画を読む趣味もあります。

他にないのか?あります。「社畜ですが」で検索してみてください。約 703,000 件Hitします。腐女子ほどは自ら名乗っていないようですが、わざわざ自分で社畜と言っている方々が少なからず見つかるはずです。ものすごく居直っている感じがします。勿論社畜は褒め言葉ではありません。

「デブだけど」は、約 955,000 件 Hitします。デブは勿論侮蔑用語です。

「ハゲだけど」は、約 1,020,000 件 Hit。こちらはハゲだけどかっこいいみたいな他人からの指摘も多いですが、結構自らハゲを名乗っている人も見つかります。ハゲは勿論侮蔑用語です。

え?人種差別でそれはないだろって?筆者はネトウヨを人種差別のニュアンスで使っていませんが(そうイメージする人が多いことに気付いたので、これから気をつけていきたいと思いますが)、人種差別用語を自ら名乗るケースも有り得ます。日本ではかなりメジャーなバンドですが(コンビニで有線が流れていた時代に流行ったバンドです。その年代なら誰でも知っています)、THE YELLOW MONKEYなるバンドがありますよね(筆者も結構好きで、歌えないのにカラオケで歌ったものです)。イエローモンキー(ウィキペディア)>黄色人種(東アジア人)に対する蔑称である。人種差別も参照。>THE YELLOW MONKEYは、日本のロックバンド。

日本人こそ、自分を自嘲的に差別用語・侮蔑用語で紹介してしまうのかもしれません。その感覚が絶対に分からない人こそ外人の可能性があります(笑)。どうです?以上反証でした。ブログだとこうやって説明できますが、中々コメント欄など即興でやるのは難しいですね。ネトウヨと自ら名乗る奴はいないと頑張ってた人に、この記事を見せて顔を見てみたい(笑)。

筆者は自虐史観(ウィキペディア)を目指していませんので、そこは誤解無きよう。考えてみれば、ああいうのも日本的な現象なのかもしれません。この辺でも筆者は賛同しながら(つくる会とかいいねと思ったものです)、やや距離を置いているところがあるかもしれません(東京裁判を無かったことにしようとはしないが、パール判事分かるわ~ぐらいの感覚です)。日本の場合(自分を守る)自衛隊ハンタ~イもありましたね。こちらは全く理解できません。当事者じゃないからだと思いますが。

日中戦争開戦に纏わる誤解

2017-12-09 16:07:30 | 日記
Newsweek12月12日号「「歴史」とは何か、「記憶」とは何か」「「開戦」の歴史と向き合わずに和解はできない」を読みました。

アメリカは開戦に注目し、日本は終戦に注目するという指摘はなるほどそうかなと思いますが、まぁ申し訳ないんですが、日本の議論をよく知らないなという印象がなくもないですね。アメリカの見方として参考になると思いましたので、取り上げます。もっとも誤解だと思うのは日本の開戦時期についてです。

グラック教授は先の大戦の開戦を37年(7月7日)盧溝橋事件、中国においてであると主張しますが、筆者は端的に誤りだと思います。別に1941年の真珠湾攻撃が先の大戦の始まりだから、中国は関係ないと主張したい訳ではありません。アメリカとの開戦を始まりと見るか中国との開戦を始まりと見るかは、どちらでも可能だと思います。確かにアメリカは中国を影ながら支援していましたから、中国との戦いを始まりと見ることに無理はありませんが、そう考えると先に手を出したのは日本との関係ではアメリカという見方も可能です。当時米中軍事同盟があった訳ではありません(少なくともそんな話は聞いたこともありません)から、日本はアメリカには手を出していないという前提で、真珠湾攻撃が日本の奇襲開戦だという話が成立しています。ですから、アメリカに負けて終戦したなら、開始を日本の対アメリカ攻撃に見ることも決して誤りではないでしょう。1941年(昭和16年)12月12日に東条内閣が閣議で「大東亜戦争」と決定し、支那事変も含めるとされましたが、(準備はしていたかもしれませんが)これは真珠湾攻撃の後です。日本がアメリカと戦う意図なく中国と戦争を始めたということを意味すると思います。アメリカから見たら中国に手を出していることが自国に対する挑戦だと思えたのかもしれません。この辺は(筆者の知る範囲では)満州の権益争いで日米関係が拗れたことが原因だろうと認識しています(近現代史に詳しくないので誤っている可能性もあります)。その辺はさておき、筆者が指摘したいのは、事実として日中戦争は盧溝橋事件で開戦していないだろうということです。

支那事変(ウィキペディア)

>支那事変(しなじへん)とは、1937年(昭和12年)に日本と中華民国(支那)の間で始まった、長期間かつ大規模な戦闘である。なお、盧溝橋事件(1937年7月7日)は、4日後の松井-秦徳純協定により収拾している。その後の中国共産党の国共合作による徹底抗戦の呼びかけ(7月15日)、及び蒋介石の「最後の関頭」談話における徹底抗戦の決意の表明(7月17日)により、中国軍の日本軍及び日本人居留民に対する攻撃、第二次上海事変が連続し、戦闘が本格化した。したがって、日中戦争(支那事変)の端緒を、盧溝橋事件と考えるか、国共合作による抗戦の呼びかけ・最後の関頭談話と考えるかにより、同戦争の歴史的な評価は大きく変わることになる

>1941年(昭和16年)12月までは、双方とも宣戦布告や最後通牒を行わず、戦争という体裁を望まなかった。戦争が開始された場合、第三国には戦時国際法上の中立義務が生じ、交戦国に対する軍事的支援は、これに反する敵対行動となるためである。国際的孤立を避けたい日本側にとっても、外国の支援なしに戦闘を継続できない蒋介石側にとっても不利とされたのである。

>特に中国にとっては、アメリカの国内法である中立法の適用を避けたかったことも大きい。中立法は1935年に制定された法律で、外国間が戦争状態にあるとき、もしくは内乱が重大化した場合に、交戦国や内乱国へ、アメリカが武器および軍需物資を輸出する事を禁止するものであった。当時、アメリカでは日本に対し中立法の適用を検討したが、中国に多量の武器を輸出していた事もあって発動は見送られた。

支那事変=日中戦争だと考えると、盧溝橋事件で開戦という見方が当たっているように見えなくもありません。ですが、盧溝橋事件は、4日後の松井-秦徳純協定により収拾しているのですから、盧溝橋事件をスタートと見るのは事実として誤りと断定せざるを得ません。終わったのに終わってないというのは形容矛盾です。終わったものを誰かが開始したから、停戦協定後に治まった状況が動いた訳です。他に解釈のしようがあるでしょうか?停戦協定の嘘を真実と認めたら、停戦協定を結べる道理がなくなります。停戦協定が必ず守られると考えるのはナイーブですが、停戦協定をやぶったものを停戦協定をやぶって戦争を開始したと見ない限り、本当のところは分からないはずでしょう。盧溝橋事件はすぐ終わった(同様の事件はその後もあった)。そして何ものかが日中戦争を開始した。これが歴史的事実です。盧溝橋事件とは所詮は小競り合いに過ぎません。まぁ小競り合いが大規模戦争に繋がる可能性も否定できませんが、少なくとも日本は事態不拡大に努めていたようです。

日中戦争をどちらが開始したかですが、これは中国が開始しました。何でそう言い切れるかと言えば、中国自身が戦争(徹底抗戦)を呼びかけて攻撃を開始しているからです。抗戦という言葉に誤魔化されてはなりません。日本が攻撃を開始した訳では明らかにありませんから、抗戦もクソもない訳です。中国が日本の進出に不満を持って追い出したいと思っていたであろうことは理解しますが、事実は事実。如何に中国の見方で中国に大義名分があろうとも、先に手を出したのは中国です。日本にはABCD包囲網などアメリカの圧力が開戦の原因だという主張があって、一定程度の説得力はありますが、開戦したのはどう見ても日本です。それでも開戦させられたと言いたがる人は保守派(右派)には結構多いです。中国も同じでしょう。どう見ても中国から手を出したのですが、日本を追い出すためだったから仕方が無いで(理解はします)、先に手を出すというのは不味いですから、誤魔化そうとしているんでしょうね。日本がそこで徹底的に中国が戦争を仕掛けてきたと宣伝すれば良かったはずですが、何故かそうしていません。当時も説明力が無かったんだろうなという気がしますが、その辺は良く分かりません。国際的孤立を避けたいとか言っても、結局全然避けられていませんし、事変だと日本が誤魔化したのは、戦争が起こってないことにしてアメリカの支援を得たい中国を利するだけだったではないでしょうか?戦争だと宣言して日本がアメリカに中立法を適用されたとしても、交戦国(中国)にも適用しなければならかったはずです。まぁ新しい立法もできますし、米中関係・日米関係を考えれば、戦争が始まったら、日本だけが一方的に制裁されるというのが当時の見方だったのかもしれませんが、中国の攻撃の出だしから批判すべきは批判していればどうなっただろうなと思わなくもないんですよね。青いのかもしれませんが。この辺は中国の開戦をアメリカが事前にどの程度知っていたのかにもよります。

もっと詳しく見るために第二次上海事変(ウィキペディア)を参照します。

>中華民国に駐在していたドイツ軍事顧問団団長ファルケンハウゼンは、「中国の敵は日本が第一、共産党を第二」と考え、1935年10月1日、漢口と上海にある租界の日本軍に対する奇襲を提案し、1936年4月1日、「今こそ対日戦に踏み切るべきだ」と蒋介石に進言し、北海事件後の9月12日には河北の日本軍を攻撃するよう進言した。

>1935年冬、国民政府は、南京・上海方面の「抗戦工事」(陣地)の準備を張治中に密かに命令し、優勢なる兵力をもって奇襲し上海の日本軍を殲滅しこれを占領し、日本の増援を不可能にしようと企図した。このため、上海の各要地に密かに堅固な陣地を築き、大軍の集中を援護させ、常熟、呉県で洋澄湖、澱山湖(中国語版)を利用し、主陣地帯 (呉福陣地: 呉県と福山(中国語版)の間)と後方陣地帯 (錫澄陣地: 江陰と無錫の間)、淞滬線: 呉淞と竜華の間、呉県から嘉興を通って乍浦鎮の間(呉福延伸線)にトーチカ群が設置された。阿羅によれば、呉福陣地や錫澄陣地は、「ヒンデンブルク・ライン」と総称された、という。

中国(国民党政府)が日本を追い出そうとドイツの顧問の意見を参考に戦争準備を着々と行ってきたのは間違いない歴史的事実でしょう。ただし、この時は決断できていないようです。

>7月7日に起きた盧溝橋での日中両軍の衝突は停戦協定で収まるかにみえたが、その後も中国各地で日本軍への抵抗は続いた。直後の7月10日蒋介石は蘆山会議を経て、徐州付近に駐屯していた中央軍4個師団に11日夜明けからの河南省の境への進撃準備を命じた。7月16日には中国北部地域に移動した中国軍兵力は平時兵力を含めて約30個師団に達している。アメリカはこの行動を非難し、地方的解決をもとめている。一方、日本軍は日本政府の事態の不拡大政策に基づき事態の沈静化に努め、8月3日には天津治安維持委員会の高委員長に被災した天津のための救済資金十万元を伝達している。

抵抗と言いますが、日本軍が攻撃してきたとは書いていません。中国軍が抵抗と称して攻撃してきたからです。抵抗と言うのは日本を追い出すことが大義名分になると思っていたからであって、日本が手を出したことに対する直接の反撃を意味する訳ではありません。仇討ちにやや近い感じで、日本が進出した後になって、それを不服とする中国から襲撃してきたと見るのが客観的と思います。いずれにせよ、日本は中国のこうした挑発にのりませんでした。ヒンデンブルグラインとかどう見ても中国がやる気満々で戦争を求める中国に挑発されたからといって、大義名分(日本から先制攻撃)をくれてやって戦争を始める気は無かったんだと思います。しかし指導部は分かっていたでしょうが、国民に我慢を強いたことが後の南京事件に繋がった可能性はあると思います。いずれにせよ、中国のこうした行動は当時の国際社会は承知していてアメリカも中国を非難したようですし、日本は明らかに事態の不拡大政策をとっています。問題は盧溝橋事件の類が日本からの開戦を意図した中国(コミンテルンの謀略だと言う人もいます)の謀略か、偶発的な事件かということです。この辺は個別の事件を丹念に見るしかないでしょうが、その辺は学者・研究者の仕事でしょうね。ちなみに舞台となった上海には上海租界(ウィキペディア)があって、かつての香港のように中国の統治が及ばない国際都市でした。東洋のパリとも言われ、かなり繁栄したようです。

>1937年(昭和12年)7月7日の盧溝橋事件を発端に、同月28日に至り日中両軍は華北において衝突状態に入った(北支事変)。

停戦したり事件が起こったり派兵したり一触即発の状態でしたが、本格的な攻撃の開始は中国が始めています。日本は事態の不拡大の政府方針通りだったと見ていいでしょう。挑発にのらない日本に痺れを切らした中国がついに決断したのではないかと思います。それでも中国は宣戦布告などしていませんし、宣戦布告なしの開戦を認めた訳でもありません。

>8月12日未明、中国正規軍本隊が上海まで前進、中国軍の屈指の精鋭部隊である第87師、第88師などの約3万人が国際共同租界の日本人区域を包囲した。日本軍の上陸に備えて揚子江の呉淞鎮と宝山にも約1千名を配置した。

>対する日本軍は、上海陸戦隊2200、漢口から引き揚げてきた特別陸戦隊300、呉と佐世保から送られた特別陸戦隊1200、出雲の陸戦隊200、他320の計4千人あまりであった。

>8月19日以降も中国軍の激しい攻撃は続いたが、特別陸戦隊は10倍ほどの精鋭を相手に、大損害を出しながらも、租界の日本側の拠点を死守した。蒋介石は後日、「緒戦の1週目、全力で上海の敵軍を消滅することができなかった」と悔やんだ。

戦争を仕掛ける側が圧倒的に有利な状況にあるのは当然のことです。当然真珠湾攻撃そのものは成功しましたが、日本はアメリカにボコボコにされています。中国は圧倒的に優位な状況で戦争を仕掛けたにも関わらず緒戦から敗北してしまいます(だからウッカリすると日本が攻撃したとか、どっちもどっち式のデマが流れることになります)。ですが、最終的には中国は日本に勝ったことになります。日本がアメリカに負けたことによる棚ボタではありますが、日本が広い国土を攻め切れなかったというのもあります。ドイツもソ連を落とせませんでしたが、広い国は厄介なところがあります。中国は援蒋ルートで英米ソの支援もありました。ソ連もアメリカの支援を受けていたようです。アメリカは今も強いですが、当時も滅茶苦茶強かったということでもあります。戦争中に自分から参戦できなかったのですから、もしも日独が中ソを落とせていれば、アメリカから開戦することは無かったような気がしないでもありません。

>937年8月31日の『ニューヨーク・タイムズ』では一連の事件について「日本軍は敵の挑発の下で最大限に抑制した態度を示し、数日の間だけでも全ての日本軍上陸部隊を兵営の中から一歩も出させなかった。ただしそれによって日本人の生命と財産を幾分危険にさらしたのではあるが…」と上海特派員によって報じた。1937年10月7日の『シドニー・モーニング・ヘラルド』は「(居留民を)保護するための日本軍は増援を含めて4千だけであった。…ドイツの訓練を受けた部隊から徴用された2~3万の中国軍と向かい合って攻勢を開くだろうとは信じ難い」とする。 また、『ニューヨーク・ヘラルドトリビューン(英語版)』は9月16日に「中国軍が上海地域で戦闘を無理強いしてきたのは疑う余地は無い」と報じた。

別に歴史を修正する意図はありません。寧ろ当時日本が戦争を仕掛けたと見る外国勢は(恐らく)いなかったのであって、中国がこうした過去の歴史を修正しているように見えます。日中戦争で戦争を停止する試みもあったようですが、この記事の目的と異なりますので、深入りはしません。結局は日本は事態の不拡大方針にも関わらず戦争を止められず、泥沼に入ってアメリカと戦い終戦を迎えます。アジアにおける第二次世界大戦のスタートを中国に見るなら、開戦を決断し実行したのは中国であると事実を指摘するのみです。日本がその辺に気を使わず事態を曖昧にしてきたことも悪いのですが、盧溝橋事件のような取るに足りない小さな事件に着目して、歴史の大きな流れを見失うべきではありません。

中国は最近こういうことに気付いてきたフシがあります。

「抗日戦争は満州事変から」 中国教育省が教材改訂指示(朝日新聞 2017年1月12日00時24分)

どうしても日本から攻撃してきたことにしたいようですが、満州事変は満州国の建国を持って切れているので、無理がある見方だと思います。まぁ近現代において、「中国人の土地」に先に進入したのは日本かもしれませんが、満州は歴史的に満州人の土地で、漢民族が入ったのは清代以降(それも長年移住は禁止されてきた)に過ぎません。人口の問題もあって、漢民族の土地になったていもありますが、中国人自身も含めて少しでも東アジアの知識がある人であそこが漢民族の土地だったと思っている人はいないと思います。そもそも中国に進出したのは欧米列強も同じで、日本は欧米列強の侵略を何とか跳ね返しましたが、そういう複雑な事情が当時にはあります。いずれにせよ、広く戦争をとろうと思えば広くとれると思いますが、満州事変(1931~32年33年)と支那事変(1937年~)を一緒にするのは無理があると思いますから、中東戦争よろしく、第一次抗日戦争、第二次抗日戦争ぐらいにするべきでしょうね。そして二次の方は自分から開戦したのですから、歴史を修正しないでもらいたい。歴史は勝者がつくると言いますが、中国だけが勝者なのかもう一度考えてみるべきかもしれません。

中国が最近言い出したところの抗日戦争の発端満州事変は、日本の謀略による侵略と思います。アメリカもトンキン湾事件を捏造して、ベトナム戦争を仕掛けたということがあったような気がします。まぁ中国には中国の言い分があると思いますが、嘘をついたらいけません。国際社会を騙そうとするのは止めて欲しいですね。アメリカという国も分かってか分からいでか、アジアを良く知らずに中国(韓国)に騙されるところがあるんじゃないですか。戦前日本は台頭するアメリカファクターを重視することが出来ず、敗戦に至ったような気がしますが、中国(韓国)並みといかないまでも、アメリカ世論を軽視して、同様の敗北を繰り返さないで欲しいですね。別に自分の歴史を都合よく解釈しろとも言いませんが、相手の主張で当時の文脈と違うものは資料を見れば分かるでしょうから、相手の修正を止めさせることぐらいは敗戦国でもできるんじゃないでしょうかね。歴史資料(ウィキペディア)を歴史学における資料批判を通じて常識的な解釈をしていただければ、少なくとも筆者が文句を言うことはありません。聞いてますか?中国さん、韓国さん(笑)。

今度は中国の台頭だろと思うそこのあなた!筆者とは相容れない見解のようですね。健闘を祈ります(笑)。

※なお、日中戦争が中国の開戦だというのは筆者が独自に考えたアイディアではありません。筆者が知る範囲では一度だけ会ったことがあるある人(分かる人は分かると思いますが、事情があって名前はあえて出さないでおきます)が言い出したことです。あの国のその筋の人の間では結構周知の事実なのかどうかは知りません。この記事はその着想を元に筆者がNewsweek記事を読んで独自に肉付けしたものです。

中国よ、おまえもか

2017-12-09 14:49:30 | 日記
Newsweek12月12日号「中国人の命は空気よりも軽い」(李小牧)を読みました。

何でも中国人女子留学生が東京都内で中国人の男に刺殺された事件が中国で話題をさらっているのだそうです(事件自体は1年と少し前に起こっています)。事件については検索したら出てきたので貼り付けて起きます。

友人を守ろうとして殺害された中国人女子留学生の悲劇…「生きる希望失った」母親の慟哭(産経ニュース 2016.12.10 16:00)

李氏によると、殺害された江歌さんは小さい頃に父親を亡くし、母親が女手一つで育て上げた一人っ子で、中国は長年一人っ子政策で来て自分の子供が亡くなったらという不安を抱えているので、(共感して)この事件でヒートアップしてしまうということのようです。江歌さんの母親が犯人に試験を求め、日本で署名運動まで始めているようで、それが中国での炎上の原因になっているようです。日本の司法では初犯で1人を殺しても死刑になるのは極めてまれだが、社会感情や政治状況次第で判決基準が変わるのが当たり前の中国人にそのことは納得し難いとの指摘です。

中国よ、おまえもかって思いますね。何処かお隣に情治国家を嘯き、法律より国民感情を優先してしまう国がありますが、さすが宗主国様といった趣があります。

人口が中国の4分の1のアメリカは死刑執行は年間20人ですが、国際人権団体によると(中国は死刑執行数を公開していません)、中国の死刑執行は1000人を超すとの指摘もあります。李氏が指摘するように、中国人民の命と人権を中国指導者が軽く見ているのは間違いないと思いますが、中国人民自身は一人っ子政策の影響もあって、やや異なる見解があるような気がしないでもありません。例えば中国軍は戦える組織なんでしょうか?(中国軍 一人っ子の若手将兵で惰弱なポテチ族蔓延に危機感も NEWSポストセブン 2015.04.11 07:00)北の某国の人質になるぐらいしか使い道が無かったりして(笑)。アメリカも別に中国人民軍など恐れてはいないと思いますが、まぁ中国と開戦する訳にはいかないというのは分かります(北の某国みたいになりたくなければ、世界の独裁者さん達止めてくださいね?)。幾らメンツを潰されても中々中国ってキツイお仕置きを決断しませんよね。韓国も形の上では一応手打ちしましたし。メンツ重視とは何だったのか?

李氏によれば、中国最高検の機関紙、検察日報は「犯人が中国に帰ったら中国の法律で処罰できる!」と煽っているのだそうです。日本も元検察政治家が他人になりすまして投稿した記事を紹介して流行語大賞をとったり(一応疑惑ですからセーフなようです)、病気の妻から夫を略奪したり、ガソリンプリカで地球5周したり、やりたい放題で背筋が寒くなったものですが(てか、おまえこそ氏ね)、1人の問題行動と組織の問題行動は比べるまでもないような気はしますが、政治家ですからね・・・。理論上は首相になる可能性があるのが恐ろしいところです。

事件そのものに関しては、痴情のもつれで巻き込み殺人ですがら、それほど再犯の可能性無いですし、やはりそこまで重い量刑にはならないような気はします。金のためとか快楽のために殺人を繰り返すとかしたら日本でもアウトかと思いますが。これは殺人未遂であって殺人罪ではありませんが、殺人に関する量刑の基準に関して殺人未遂における量刑の相場|量刑の加重減軽を決める基準(刑事事件弁護士ナビ)を参考にしました。犯人は黙秘していますし、あまり反省の色もなさそうですから、それほど情状酌量はないかもしれませんが、死刑相当とは思いませんね。筆者も日本の殺人に対する刑罰は若干軽いような気がしますが(素人の感想です)、殺意が無ければ(証明も難しいと思いますが)、死刑は重すぎる印象です。当人と話し合おうとして邪魔され激高して暴力をふるったということなんでしょうか?良く分かりませんが、日本の司法は精査して妥当な判決を出すのではないかと思います。犯人は協力的ではないようですけどね。こういう人物について報復が怖いですから、被害者が本当のことを何処まで言えるかの疑問は無くもありません。そう考えると中国の判断が妥当に思えるかもしれませんが、この程度(?)で死刑判決を出していたら、中国人自身から見ても、死刑が年間1000人では足りなくなるんじゃないだろうかと思わなくもないですね。やっぱり炎上したからパフォーマンスで殺そう(しかも検察当局が自ら関与)という危険なにおいを感じます。

「南京大虐殺」の背景

2017-12-05 07:28:30 | 日記
「南京大虐殺を国レベルの記念日に」=カナダ国会議員が呼び掛け―中国メディア(Record China 2017年12月2日(土) 11時50分)

>2017年12月1日、中国新聞網によると、カナダ議会で先月30日(現地時間)、華人議員が毎年12月13日を「南京大虐殺記念日」にするよう政府に呼び掛けた。

>カナダでは今年10月、オンタリオ州議会が華人議員の提出した南京大虐殺記念日設置を求める動議を可決している。

ひょっとしたら、カナダでの印象が悪いことが、TPP11でのカナダの行動に影響してたりはしませんよねぇ・・・。それは兎も角、悪口で印象が悪くなると、全ての言動が悪くとられることは間違いありません。日本外交の力が試されると思います。

南京事件 (1937年)(ウィキペディア)

南京事件に関しては、これまで日本は数の問題で抵抗してきました。確かに中国は数を誇張していると思いますが、あまり良くない戦術だったかもしれません。筆者は南京で虐殺の類があったことは否定できない感じがしていますが、何故こうした事件が起きたか考える必要があると思います。通州事件(ウィキペディア)が著名ですが、中国は日本に追い出したいあまりに日本人を猟奇的に虐殺してきたんですね。米人記者の証言もあります。

>当時中国を取材していたアメリカ人ジャーナリストフレデリック・ヴィンセント・ウィリアムズは1938年11月にBehind the News in Chinaを刊行し以下のように報道している。

>日本人は友人であるかのように警護者のフリをしていた支那兵による通州の日本人男女、子供等の虐殺は、古代から現代までを見渡して最悪の集団として歴史に記録されるだろう。それは1937年7月29日の明け方から始まった。そして一日中続いた。日本人の男性、女性、子供たちは野獣のような支那兵によって追い詰められていった。家から連れ出され、女子供はこの兵隊の暴漢どもに暴行を受けた。それから男たちと共にゆっくりと拷問にかけられた。ひどいことには手足を切断され、彼等の同国人が彼等を発見したときには、ほとんどの場合、男女の区別もつかなかった。多くの場合、死んだ犠牲者は池の中に投げ込まれていた。水は彼等の血で赤く染まっていた。何時間も女子供の悲鳴が家々から聞こえた。支那兵が強姦し、拷問をかけていたのだ。

日本人がどう反応したか想像に難くありません。暴支膺懲(ウィキペディア)は支那事変でのスローガンでした。虐殺をやられたから、こっちも虐殺していいという訳でもないと思いますが、こうした背景を無視して南京事件を評価するのは誤りだと思います。

日本人は当時、列強の一角でしたし、事実として満州国では五族協和を唱えています(清朝の後期から中華民国の初期にかけて使われた民族政策のスローガン「五族共和」に倣ったもののようですが)。まぁ支配すれば差別の類はどうしてもあるでしょうが、人道犯罪の類の政策を行ったことはまずないんだろうと思います。極東国際軍事裁判でもB項「通例の戦争犯罪」の適用が主でC項「人道に対する罪」はほとんど適用されていないようです。こうした文脈は当時日本と同様中国に進出していた欧米列強は承知していたと思いますし、中国も自覚していたはずですから、戦争直後に大事にならなかったし、日中平和友好条約の障害にもならなかったんだろうと思います。今中国が盛んに取り上げるのはこうした文脈が忘れ去られているからで、カナダを狙うのはカナダが中国に進出した欧米列強ではないので、そういう記憶がないからではないかと考えられます。アメリカは満州の利権の問題で日本と対立していました。

若干テクニカルな問題ですが、支那事変は日中双方の都合で戦争と認定しなかったため、ハーグ陸戦条約を日本陸軍が意識的に徹底しなかったという指摘もあるようです。

日本の保守派も誤解されていると思います。何か言い訳をしている戦争賛美者のように言われがちですが、当時さしたる問題にならなかったものが、今大犯罪のように言われるのは直感的に納得いかなかったのではないでしょうか?説明下手で状況が悪化している感じもありますが。

信長・秀吉・家康の共通点

2017-12-03 13:30:12 | 日記
ふと思ったのですが、鳴かぬなら~で信長・秀吉・家康と特徴を表した句がありますよね(江戸時代後期の肥前国平戸藩主である松浦静山の随筆「甲子夜話」が出典だそうです)。この三者の共通点を見つけました。

鳴かぬなら 殺してしまえ ほととぎす ――織田信長
鳴かぬなら 鳴かせてみせよう ほととぎす ――豊臣秀吉
鳴かぬなら 鳴くまで待とう ほととぎす ――徳川家康

それは鳴かないほととぎすをそのまま認めないってことですね。そう考えるといろいろ示唆的に思えてきます。

中国よ!文化大革命を忘れるな

2017-12-03 09:52:31 | 日記
「慰安婦性奴隷」登録阻止へ激闘! ユネスコ、第2R突入でこれからが勝負(産経ニュース 2017.12.1 06:15)

>中国側は、韓国、日本など8カ国・地域の市民団体で「慰安婦の声」を共同申請した。「慰安婦は日本軍の性奴隷」と定義し、「ホロコーストやカンボジアの大虐殺に匹敵する戦争悲劇」と記した。

文化大革命(ウィキペディア)の悲劇の証拠は掃いて棄てるほど見つかると思うんですがねぇ・・・。中国共産党がユネスコ(ユネスコとは:文部科学省)でデカい顔するとは笑わせます。反省部屋で反省して一生出てくるなっつうことですね。

てか、中国のやったことそのまま世界の記憶に申請するべきか・・・。文化大革命が比類なき大虐殺・文化破壊行為であることは間違いないでしょう。世界は記憶しておくべきですね。

※筆者のfacebookコメントの再録。加筆修正。

陛下の沖縄に対する思い

2017-12-03 09:15:13 | 日記
<社説>天皇陛下退位日決定 皇室制度考える機会に(琉球新報 2017年12月3日 06:01)

>天皇陛下は皇太子時代の1975年に初めて沖縄を訪れて以来、これまで10回来県している。琉歌を自ら詠むほど、沖縄への思いは深い。

失礼ながら琉歌(ウィキペディア)って何ぞと思って検索したのですが、奄美の島唄(ウィキペディア)の親戚というか本家みたいなもののようですね。奄美はかつて琉球王国の一部でしたが(琉球王国に征服されるまでは鎌倉時代以降「ヤマト政権」の一部。奄美群島の歴史(ウィキペディア)参照)、THE BOOMの「島唄」のヒットで島唄の方が知名度があります。

沖縄の方々には奄美に対して複雑な思いもあるかもしれませんね。沖縄の奄美差別(ウィキペディア)(>これらの政策は沖縄本島住民が、奄美群島出身者によって職を奪われるとの危機感のもと、琉球列島米国民政府に陳情したことによる。また当時の沖縄タイムスなど在琉マスコミもこれを容認し、さらに奄美群島出身者を敵視する報道を行った。これらは日本本土の国会でも問題となったが、沖縄県がアメリカ統治下のため、それ以上の干渉が出来なかった。沖縄返還により、以上の奄美群島出身者に対する制度的差別は撤廃された)もあったようです。何時か過去のわだかまりが解消されるといいなと思います。違いもあると思いますが、やはりお隣さんですから、両者は良く似ているところがあると思います。

奄美に関しては今年の11月に日本復帰50周年記念式典以来2度目の訪問をされたようです。陛下は分け隔てない方だと思いますが、琉球新報の指摘通り沖縄への思いが深いことは間違いないと思います。そしてそれも琉球新報指摘の沖縄県民に基地の負担を感じている人が多いこと、本島で大規模な地上戦があったことと関係しているんだろうと思います。だからと言って琉球新報の如き主張を丸呑みする訳にもいかないんですが、筆者も感じるものはありますね。ただ、沖縄戦でよく指摘される集団自決ですが、必ずしも沖縄特有の現象では無かったようです(沖縄戦における集団自決(ウィキペディア)>太平洋戦争(大東亜戦争)では、日本側の軍人をはじめ、戦闘に巻き込まれた民間人などの間で、沖縄戦をはじめとしてサイパンの戦い、樺太の戦い、満州の戦いで多くの集団自決が発生している)。

>今回の退位と即位の時期決定を受け、多くの国民の目が象徴天皇制について向けられた。ぜひこの機会を捉え、皇室制度の在り方について広く議論を深めたい。

皇位継承問題に関しては、皇室の問題ですから、陛下の意志が大切なんだろうと思いますが、日本国憲法を尊重してかあまりそういう発言はされませんね。これは譲位の件でもそうでした。男系に拘る方は皇位継承の歴史で一度も女系継承が無かったという事実を重視します。女系容認の方は男系で旧皇族(伏見宮家)が南北朝時代の崇光天皇まで遡ってしまうことに対する抵抗感が大きいのだと思います。筆者の意見は一々纏めませんが、何時かこの対立も解消されるといいなと思いますね。

筆者のツイッターからの再録記事。加筆修正済み。