フィクションのチカラ(中央大学教授・宇佐美毅のブログ)
テレビドラマ・映画・演劇など、フィクション世界への感想や、その他日々考えたことなどを掲載しています。
 



        


 港区にある四季劇場「海」で、ミュージカル『ウィキッド(Wicked)』を見てきました。
            
 このミュージカルは、児童文学の名作『オズの魔法使い』(ライマン・フランク・ボーム作、1900年初版)がもとになっています。竜巻で巻き上げられた少女ドロシーの冒険、魔女との戦いを描いたこの作品を、子どもの頃に絵本などで読んだ人も多いことでしょう。
           
 この作品をもとにグ、レゴリー・マグワイア『オズの魔女記 (Wicked: The Life and Times of the Wicked Witch of the West)』という作品が書かれました。今回のミュージカルはこの『オズの魔女記』をウィニー・ホルツマンがストーリーをかなり書き直し、スティーブン・シュウォルツが曲を付けたミュージカル版です。
           
 私はマグワイアの『オズの魔女記』は未読ですが、原作のイメージから考えて、ある程度子ども向けの要素の強いミュージカルかと思っていました。ところが実際にはかなり違っていました。
 まだ見ていない人のために詳しい内容は書きませんが、『オズの魔法使い』に描かれた二人の女性が、なぜ「良い魔女」と「悪い魔女」と呼ばれるようになってしまったのか。それが物語の中心です。実は二人は大学の同級生だったという設定から、二人の過去の物語が描かれます。
 人間を簡単に「善」「悪」と決めてしまうことを、あらためて問い直すような、深い物語でした。
            
 私の好きなA・L・ウェバー作曲のミュージカルの場合、劇場を出てもそこで流れた曲が耳から離れず、その夜に眠りにつくまでその音楽が聞こえているような感覚を味わいます。このミュージカルではそこまで印象的な旋律には出合いませんでしたが、その代わりに、ストーリーの面で考えさせられることが多くありました。
 文学研究者、フィクション研究者として、児童文学の名作『オズの魔法使い』が小説『オズの魔女記』を経てミュージカル『ウィキッド』に作り替えられる。その変遷に強い興味をひかれました。いずれ、『オズの魔女記』も読んで、この課題を考えてみたいと思っています。
            


          



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




六本木ストライプ・シアターで演劇『恋むらさき』を見てきました。
          
この『恋むらさき』は、中央大学の同僚である黒田絵美子先生が構成された演劇です。演劇と書きましたが、従来的な演劇の概念にはあてはまらないかもしれません。能と現代劇のコラボレーションによって構成された、これまでにない舞台でした。
          
当日配布されたパンフレットによると、黒田先生が文学座公演に出演されていた神野崇さんの役がとても印象的で、神野さんに「恋」「白」「超越的存在」という3つの要素を含む芝居をしてもらいたいと考えたとのことです。一方でシテ方金春流能楽師の中村昌弘さんの舞台を見て、「先の3要素を実現するには中村さんの能とのコラボしかない!」とひらめいたとか。
          
創作する人間にはこうした「ひらめき」の瞬間というものがあります。私のような研究者でも研究や論文のヒントが浮かぶ瞬間というものはありますし、研究している作家や脚本家の証言を調べてみると、「まるで勝手にアイデアが湧いてくる」ような特異な時間があるといいます。
          
黒田先生のこのお芝居のヒントもまさにそのようなものだったのでしょう。元の能の部分にはほんのわずかしか手を入れていないそうですが、能と現代劇の部分がまったく違和感なくつながって、ひとつの舞台空間を形作っていると感じられました。
          
また、お芝居は地下のスペースでしたが、受付のある1階には生花(カキツバタやアジサイなど)が飾られたスペースが用意されていました。私にはその場所が、地下の「超越的」空間につながる「現実」と「異界」のはざまのように感じられました。
こうしたていねいな舞台設定による斬新な発想のお芝居を見て、一回だけの公演ではもったいなかったなと感じた一日でした。
          



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




 劇団シアター・キューブリックの演劇公演『葡萄酒色のミストラル』を、東京中野のザ・ポケットで見てきました。
             
 シアター・キューブリックの芝居は、以前に何度か見たことがあります。旗揚げ公演は見ていませんが、その後、『フェイス・ザ・ラビリンス』 『おしゃまんべ』 『おとうさんのいちばん長いクリスマス』などを見ています。脚本・演出の緑川憲仁自身がホームページで「癒し系エンターテイメント演劇」と語っているように、ほのぼのとしたファンタジー風の作品が特徴です。
 その後はあまり見に行っていませんが、2002年初演のこの『葡萄酒色のミストラル』は宮沢賢治を題材にした作品ということで、前から見てみたいと思っていました。何度か再演されていますが、今回都合がついたので、ようやく見ることができました。
             
 作品前半は戦後の東京の家庭が舞台。その家の飼い犬が主人公となる話です。しかし、作品のちょうど中間頃からこの犬と宮沢賢治とのつながりがわかってから、作品は急激に雰囲気を変えていきます。キューブリックの持ち味の「癒し系」とか「ほのぼの」というよりは、哀切な物語が展開されます。
 宮沢賢治を題材としているということで見にいったので、前半の1時間は私にはやや退屈でした。その部分はコント仕立ての場面を含めて構成されているので、この部分を楽しみに見ているお客さんもいるようですから、退屈だという私は見方はやや一方的かもしれません。
 文学研究者の私としてはもっと賢治の作品との直接的な重ね合わせの要素というものが強く見られるかと思っていたのですが、その部分は思ったよりも少ないという印象でした。
 とはいえ、脚本家の意図を推測するなら、賢治の作品を直接的に用いるよりも、むしろ芝居の構成や登場人物たちの言動をとおして、賢治の世界を表現しようとしたのかもしれません。あるいは、そういうことこそがインターテクスチュアリティーなのですから、それはそれで意味のある舞台の作り方だということは感じました。
             
 前半に、「どうして人間と犬がこんなに仲良くなれるのか」という話が伏線となり、そこから後半で賢治との結びつきが語られるという展開には感嘆させられました。この部分は書きませんが、この作品の根幹となる発想としておおいに評価した部分でした。
 実は今、2冊の本の仕上げなどで目の回るような忙しさなのですが、その中で時間を割いて見に行ってよかった作品でした。
             

※最初と最後の音楽の音量が大きすぎて、出て行こうかと思うくらいでした。
 あの小さい劇場でなぜあれほど音量があげるのか、よくわかりませんでした。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




 中島みゆき『夜会 2/2』(やかい・にぶんのに)を見てきました。
 年末の忙しい時期にそんな暇あるのか、と言われそうですが、フィクション研究者として一度は見ておくべきものなので……。また、仕事が詰まりすぎて気分転換が必要になりました。
 『夜会 2/2』は、中島みゆき『夜会』シリーズの中でも名作と言われるもので、映画などにもなり、今回は再演となりました。せっかくの機会だったので、赤坂ACTシアターに見に行ってきました。
                           
 シンガー・ソングライター中島みゆきの『夜会』は1989年にスタートしています。「コンサート、演劇、ミュージカルといった枠を超えた言葉の実験劇場」というのがキャッチフレーズで、今回が17回目。「2/2」は、1995年と1997年に続いて3回目の上演です。中島みゆき自身が長編小説化もし、映画化もされた作品です。

 作品の鍵になるのは「多重人格」というテーマ。主人公・莉花が自分の中のもうひとりの存在に気づき、苦悩するというストーリーです。また、莉花が失踪して滞在するベトナムの装置も見応えがありました。竹林や川を走る船などにも目を奪われます。
                            
 先に、「コンサート、演劇、ミュージカルといった枠を超えた言葉の実験劇場」というのがキャッチフレーズと書きましたが、どれかと言えば「ミュージカル」に近いと言えるでしょう。歌を音楽による幻想的なストーリー展開は、ミュージカルの得意とする分野です。この作品の中にも、鏡の2重写しや船が走る場面などがあり、ミュージカル『オペラ座の怪人』を思わせるシーンが多くありました。
 とはいえ、ミュージカルと違うのは、こちらは徹頭徹尾「中島みゆきの世界」であるということ。中島みゆきの曲を中島みゆきが歌い、そして中島みゆき自身がストーリーを演じていきます。

 実を言えば、私は高校生の頃からの中島みゆきファンです。彼女がデビューしたのが1975年で、その年私は高校3年生。受験勉強をしながら聞いていた深夜放送から中島みゆきのデビュー作『アザミ嬢のララバイ』を聞いて衝撃を受け、それ以来の中島みゆきファンです。
 とは言え、彼女の曲を1人でじっくり聴くのが好きなので、『夜会』はもちろん、コンサートにも行ったことはありませんでした。しかし、仕事がつまっていて何か気分転換が必要になり、ちょうど再演される『夜会 2/2』に行ってみることにしたのでした。
 中島みゆき曲は1人でじっくり聴く方がよいと思うのは変わりませんが、彼女の代表作である『夜会」も一度は見てみたかったので、たいへん刺激を受けた舞台でした。いずれ中島みゆき論を書いて見たい気持ちも起こってきました。
                 



コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )




 新橋(汐留)にある四季「海」劇場で、ミュージカル『アイーダ』を見てきました。本当は今、仕事がたまっていてそれどころではないのですが、もう数ヶ月も前に買っておいたチケットなので、無駄にしてはもったいないと思い、行ってきました。
 御存知のように、ミュージカル『アイーダ』のもとになっているのは、ジョゼッペ・ヴェルディが作曲した19世紀後半のオペラ作品です。この作品をディズニーがブロードウェイ・ミュージカルとして2000年に上演しました。今回見たのは、そのディズニー・ミュージカルの日本版です。
               
 舞台は古代エジプト。エジプトの将軍ラメダスによって捕虜となったアイーダは実はヌビア国(原作ではエチオピア)の国王の娘。しかし、敵国同士、将軍と奴隷でありながら、ラメダスとアイーダは愛し合うようになる、というのが基本の物語です。そこへ、ラメダスの婚約者であり、エジプト王の娘アムネリスがからみます。
 私は小説を含む物語研究者なので、ミュージカルを見る場合にも俳優さんの演技力とか歌唱力よりも、物語の作り方の方に目がいきます。今回もオペラ原作の作品ということで、当然原作との差異が気になりました。
 一番感じたのは、アイーダとラムネリスという二人の女性像。アイーダは原作以上に強い意志をもった主体的な女性として描かれています。また、アムネリスは原作では主人公の仇役の性格が強いのですが、ミュージカルでは、自分の愛する婚約者の心が他の女性に向いていることを知って苦悩する、きわめて人間的な女性として描かれています。
 こうした女性像の改編は、『美女と野獣』のベルなどディズニー作品に共通する性格でもありますが、同時にまたディズニーに限らず、古い原作を現代的によみがえらせるためには不可欠の要素なのかもしれません。それだけ、時代によって大きく変わった女性の生き方と価値観だということがわかります。
 ミュージカル版では、単純な三角関係ではなく、アイーダとアムネリスの間に奴隷と王女という階級を超えた友情とも言えるような深い理解(お互いに自分の責任と愛との葛藤に苦しむ点で共通する)を持つ、という描き方がされており、そこに人物関係の深みが感じられます。
 オペラ版では、生き埋めになるラメダスの地下牢にアイーダがこっそり入り込んでいて二人で死ぬという結末ですが、ミュージカル版では、アムネリスが特別の計らいで王の決定をくつがえし、二人が共に死を迎えることを自ら取りはからいます。ここに、愛する者が他の女性との愛を選んだことを哀しみながらも、メダスとアイーダの愛を承認するアムネリスの苦悩が集約されており、予定調和的なディズニー作品の中ではかなり異質な結末になっていました。
 音楽はエルトン・ジョンで、作詞は『エビータ』『ライオンキング』『アラジン』などのティム・ライス。エルトン・ジョン作曲のミュージカルと言えば、昨年ニューヨークで『ビリー・エリオット』を見ました。→ 
「ブロードウェイで『ビリー・エリオット』を見る」
 『ビリー・エリオット』はサッチャー時代のイギリスが舞台ですから、ロック調の音楽も合っていて良かったと思いましたが、古代エジプトを舞台とした作品にロックはちょっと好きになれませんでした。バラードのところはよかったです。
 俳優さんたちはみな熱演でした。アイーダ役は濱田めぐみ、ラメダス役は阿久津陽一郎、アムネリス役は光川愛。3人の中では光川愛だけまだ実績が浅いようで、多少かたい印象のあるところもありましたが、最初に笑わせて、途中はしんみりさせて、最後に泣かせるという難しい役を見事に演じていたと感じました。
 ディズニー作品にはそれほど期待していなかったのですが、思ったよりもいい舞台見ることができました。
             



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




 写真はロンドン版『ブラッド・ブラザース』のプログラム
 (左が1995年に見た時のもので右が2004年に見た時のもの)

 有楽町シアター・クリエで上演されている、ミュージカル
『ブラッド・ブラザース』を見てきました。貧しい家庭に生まれた双子の兄弟のうち、一人だけが金持ちの家にもらわれていき、二人はまったく別々の人生を歩むものの、二人は何故か何度も再会し、お互いに引かれ合い……という話です。
               
 この作品はウイリー・ラッセルが脚本・歌詞・音楽を一人で担当した作品で、1983年にリヴァプールで初演されました。その後ロンドンにも進出し、劇場をかえながらも26年間、つまり現在も上演され続けている超ロングラン作品です。
 26年間のロングランと言っても、ずっと大きな劇場で満員の観客を集めているというわけではありません。私はこの作品を、1995年と2004年の2回、ロンドンのフェニックス・シアターで見ていますが、このロンドン・フェニックスシアターというのは市の中心部に近いところにあるとは言え、電気街から少し裏路地に入ったところにある小さめの劇場です。場末とまでは言えないにしても、けっして場所の面でも建築の面でも、立派な劇場ではありません。それでも、同じ作品が26年間上演し続けられているというのは驚くべきことです(ちなみに、この作品はニューヨーク・ブロードウェイでは2年間ほどの上演だったようです)。
 この『ブラッド・ブラザース』では、イギリス階級社会の問題やイギリス特有の迷信の問題が重要な役割をしています。その意味では、この作品が長く上演し続けられているのは、イギリスという社会と密接な関係があるのだと思います。
 ところで、この作品特有の興味深い仕掛けは、「ナレーター」という人物が舞台上に常に立ち続けているところです。「ナレーター」とはナレーションをする人間のことですから、当然姿を見せないはずなのですが、この作品では舞台上に姿を見せており、この作品のギリシャ神話めいた不思議な因縁の世界へ導いていく進行役にもなっています。
 この「ナレーター」は、ロンドンのオリジナル版では地味な黒のスーツに黒の帽子を被っているのですが、日本版では燕尾服(後ろがツバメの尾のように長くなっている)フォーマルな印象の服を着ていて、かなり印象が異なります。この「ナレーター」は登場人物と同じ世界に住んでいる人物であるのと同時に、人々の運命を知る超越的な「影」の存在でもあります。ですから、私はロンドン版の目立たない服装の方がよいと思うのですが、日本版でなぜそのような服装にしたのか、その理由がいまひとつよくわかりませんでした。
               

 ロンドン版との違いということで言うならば、日本版では舞台に左右の傾斜を付けていることが目につきました。右(上手)がライオンズ家(双子の一人を貰う金持ちの家)、左(下手)がジョンストン家(双子の一人をあげる貧しい家)で、舞台の右がかなり高くなっています。これは、階級的な高低や登場人物の視線(見上げる、見下げる)を象徴しており、高低をつけた演出者の意図はよくわかるように感じました。
 ところで、今回の公演では、主役の双子を演じるのがダブルキャストになっており、8月は武田真治と岡田浩暉(25日昼夜と26日以外)、9月は藤岡正明と田代万里生が演じます。しかし、私は藤岡・田代コンビの方で見たかったので、8月に28回ある公演のうち、わずか3回しかない藤岡・田代コンビの方で見てきました。ちなみに、二人の母親役も金志賢とTSUKASAのダブルキャストで、今回はTSUKASA。二人の幼なじみのリンダ役はダブルキャストではなく、鈴木亜美(鈴木あみ)が演じていました。
 藤岡正明は、前に『レ・ミゼラブル』などで演じているのを見たことがあります。二枚目役が多いのですが、私は今回のようなややコミカルなところもある役の方が向いていると思いました。なお、以前にNHK教育の英語番組にも安良城紅と出演していました。そのときは、堅くなってしまいやすい語学番組を親しみやすいものにする、ちょっとコミカルな役を務めていたように記憶しています。
 田代万里生はミュージカル歴が浅いせいか、私は初めて演技を見ました。東京芸大声楽科卒だからというわけではありませんが歌唱力は確かですし、お坊ちゃん的な風貌で今回の役にはぴったりでした。ちなみに田代目当ての年配女性ファンもかなり来ていたようで、言ってみればミュージカル版氷川きよし路線でしょうか。
 重いストーリーではありますが、キャストも(ナレーター以外は)オリジナルのイメージに近い俳優さんたちでしたし、ロンドンで見た懐かしいミュージカルをまた見ることができて、幸せな観劇のひとときでした。
               
(2009年8月26日記。他の記事を優先して、掲載が遅れてしまいました。)



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




 (写真は音楽担当のエルトン・ジョンとビリーを演じた主演3人)

 今年の3月、ニューヨークとワシントンに行った際に、ブロードウェイでミュージカル『ビリー・エリオット』と『ヘアー』を見てきたことが以前に書きました。
 →
「ブロードウェイで『ビリー・エリオット』を見る」
 → 「ブロードウェイで『ヘアー』を見る」
          
 その2本の作品が、すぐれたミュージカル作品に与えられるトニー賞を受賞しました。特に『ビリー・エリオット』は、もっとも名誉と言われる作品賞の他、演出賞・脚本賞・主演男優賞など10部門を受賞。『ヘアー』もリバイバル作品賞を受賞しました。
 賞を受けたら良い作品という権威主義に乗るつもりはありませんが、数多いブロードウェイ作品の中から自分が選んで見てきた作品が、高い評価を受けるのはやはり嬉しいことです。
          
 特に『ビリー・エリオット』は、ダンスに熱中する炭坑町の少年が主人公で、ミュージカルでも13~14歳の3人の少年が交替で主人公を演じていました(→
「MeetTheCast Billy」 )。私が見た時は3人の中のTrent Kowalik君が演じていて、他の2人を見ることはできませんでしたが、それでもたいへんなダンスと演技の実力であることはよくわかりました。今回トニー賞の主演男優賞は3人で受賞したことからも、3人全員のダンスと演技が評価されたことが明らかで、この作品を見ておおいに楽しんだ私としては嬉しい出来事でした。
 数多いブロードウェイ・ミュージカルの中で、悩んだ末に選んで自分が見てきた『ビリー・エリオット』と『ヘアー』が名誉ある賞を受け、ちょっと幸せな気持ちになったトニー賞報道でした。

※『ビリー・エリオット』と『ヘアー』を見る際に、チケットをインターネット経由で公式サイトから購入したので、それぞれトニー賞受賞を祝うメールが届いていました。『ビリー・エリオット』の方から来ていたメールも、ここで紹介しておきます。
          

WINNER! 10 Tony Awards Including Best Musical

New Block of Tickets on Sale Today!

     Last night, Billy Elliot danced away with the hearts of millions and 10 Tony Awards, including Best Musical and Best Leading Actor in a Musical for David Alvarez, Trent Kowalik and Kiril Kulish. After opening the ceremony with a high-flying performance of "Electricity" alongside composer Elton John, the cast of Billy Elliot wowed the crowd with a powerful rendition of "Angry Dance."

Congratulations to the entire company of Billy Elliot the Musical on their well-deserved X Tony Awards.

WINNER!

Best Musical
Best Performance by a Leading Actor in a Musical, David Alvarez, Trent Kowalik, and Kiril Kulish
Best Book of a Musical, Lee Hall
Best Performance by a Featured Actor in a Musical, Gregory Jbara
Best Direction of a Musical, Stephen Daldry
Best Choreography, Peter Darling
Best Orchestrations, Martin Koch
Best Scenic Design of a Musical, Ian MacNeil
Best Lighting Design of a Musical, Rick Fisher
Best Sound Design of a Musical, Paul Arditti



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




 連休中は仕事でパソコンに向かっていることが多かったのですが、その合間に観劇に行ってきました。
          
 
シアター・キューブリックという劇団の「ベイクド・マンション」という芝居を見るために、新宿のシアター・サンモールへ行ってきました。このシアター・キューブリックという劇団は2000年に結成されたそうで、今回は、再演を含めて17回目の公演になるようです。
 私はその第1回公演は見ていないのですが、2作目「フェイス・ザ・ラビリンス」、3作目「オシャマンベ」、4作目「おとうさんのいちばん長いクリスマス」と見に行きました。その後は予定が合わず、しばらく行っていませんでしたが、私はこの劇団の作者・緑川憲仁さんの書く脚本がわりと好きで、久しぶりにこの劇団の芝居を見ることができました。
          
 今回の芝居の主人公は女性絵本作家。絵本が売れてはいるものの、自分が書きたい作品を書いていないという不満を持っている、という設定です。ある日、この絵本作家が不思議な空間(ベイクドマンション)にまぎれこんで、そこで自分の幼い頃の姿や自分の創作したキャラクターに出会って……という展開になります。
 このような「創作する人物が作品の中に登場して創作について考える(悩む)」という物語は、私が専門とする日本の近現代文学の中にも多く見られます。古くは明治初期の政治小説や坪内逍遙の作品にもそれに近いものがありますが、特に大正期から昭和初期にかけていわゆる私小説が盛んになると、さらにひんぱんに小説の中に登場してくるようになります。ただ、この問題は専門的になるので、ここでは置いておきましょう。
 今回シアター・キューブリックのチラシには「癒し系エンターテイメント」とキャッチフレーズがあったように、この劇団の芝居は、今回のようにホラーやミステリーの雰囲気を持っていたとしても、基本的にはほのぼのさせる性格を持っているようです。
 初期の頃は「癒し系」というキャッチフレーズは付いていなかったように記憶しているのですが、その頃の作品も、同じように気持ちをほのぼのさせる雰囲気がありました。テレビドラマの脚本家で言うなら岡田惠和さんの描く世界と共通点があります。
 ただ、岡田惠和さんとシアター・キューブリック(緑川憲仁さん)の脚本の違いは、キューブリックの方に必ずと言ってよいほど、「現実」「日常」とは異なる世界が登場すること、またホラーとか時代劇とかの味付けを加えていることなどでしょうか。今回も「ベイクド・マンション」という非現実的な世界に主人公が迷い込みます。
          
 以前に見た芝居でも、たとえば「フェイス・ザ・ラビリンス」は天上界の話、「おとうさんのいちばん長いクリスマス」はおとうさんがクリスマスごっこの世界に入り込む話、といった具合で、「現実とは異なる世界に入り込むことで何か大切なことに気づく」という基本線をこの劇団の芝居は持っているように感じます。「癒し系」というキャッチフレーズを付けるのであれば、おそらく「おとうさんのいちばん長いクリスマス」が一番ファンタジー的要素が強くて、「癒し系」度が強かったように思います。
 私は、テレビドラマと言えば野島伸司のような毒の強い作品にも興味をひかれますが、一方で岡田惠和のような「出てくる人がみんないい人」のほのぼのした作品も好きです。ただ、岡田惠和作品がいっときほど視聴者に受け入れられておらず、『銭ゲバ』とか『夜光の階段』のような「のしあがる」人物を描いた過去の作品(マンガや小説)がテレビドラマ化されているところを見ると、今はほのぼのとした作品の受け入れられにくい時期なのかもしれません。
 とは言え、こうした世界を支持してくれる観客・視聴者も必ずいるわけで、その意味ではシアター・キューブリックにもこうした作品を上演し続けてほしいと思っています。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




(写真は劇場前で『ヘアー』開演を待つ人たち)

 先日のニューヨーク・ワシントン滞在の報告最終回です。前に報告した 『ビリー・エリオット』 (→ 「ブロードウェイで『ビリー・エリオット』を見る」 とともに、もう一作品ミュージカルを見てきました。それが 『ヘアー』 です。
 しかし、『ビリー・エリオット』と『ヘアー」は作品としての性格がまったく異なります。『ビリー・エリオット』が2000年のイギリス映画をもとに舞台化した現代の作品であるのに対して、『ヘアー』は1967年初演(最初はオフブロードウェイでの上演)の古いミュージカルをリバイバルさせた作品です。
 1967年がアメリカにとってどのような年か、今の若い皆さんにはよくわからないと思いますが、このミュージカルの背景はベトナム戦争です。『ヘアー』が最初に上演された67年は約15年間続いたベトナム戦争の中間頃であり、当初は予想もしなかった苦戦にアメリカが陥っていた時期でした。小学生だった私でも、ベトナム戦争がアメリカだけでなく世界にもたらしていた重苦しい閉塞感を、なんとなく記憶しています。
 そんな中で開演したこの『ヘアー』というミュージカルは、軍隊に入隊することになったクロードという青年が主人公。クロードは入隊の前にニューヨークのヒッピーたち(規制の価値観や道徳にとらわれない生き方をしようとした人たち)と時間を過ごす、という基本のストーリーです。ちなみに、タイトルの「ヘアー」は、当時は珍しかったヒッピーたちの長髪からつけられたようです。また、全編に「ベトナム戦争」「フリーセックス」「麻薬」といった、当時のキーワードがちりばめられている作品としても有名でした。
 その作品がリバイバルしているということで、これはぜひ見てみたいと思って、今回ニューヨーク・ブロードウェイのアルハーシュフェルド劇場で見てきました。
          
 ただし、今回見た『ヘアー』は、私の今まで持っていたイメージとはかなり違っていました。私はどちらかというと、「反戦」「反既成道徳」を前面に打ち出した作品というイメージを持っていました。アフガニスタン戦争やイラク戦争を体験したアメリカが、ベトナム戦争を背景としたこのミュージカルをどのように再生させるのか、その点を注目していました。
 しかし、今回見た作品はコメディ色が強く、観客も開演前からノリノリといった感じでした。そして、「アクエリアス」「レット・ザ・サイシャイン・イン」などのヒット曲を一緒に楽しんでいるという印象でした。
 年配客は「懐かしのヒット曲コンサート」を、若い客は過去の曲をけっこうイケてる音楽として、それぞれの楽しみ方をしているように見えたのです。そして、最後には、観客を舞台の上に登らせて一緒に歌い踊ってフィナーレになるという構成で、私のイメージは完全に覆されました。
          
 それはけっして、つまらなかったとかがっかりしたという意味ではありません。むしろ、ベトナム戦争を扱った過去のミュージカルを再生させるということはこういうことなのか、という感慨も持ちました。この作品は上演の度に内容を少しずつ変えているようなので、今回もその一つのヴァージョンなのかもしれません。ただ、私は過去の作品を見ていないので、もう少し過去の上演時の内容を調べ、それを比較してみたいと思っています。
          



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




(写真は劇場のネオンが輝く夜のブロードウェイ)

 しばらくブログを更新していませんでしたが、さぼっていたわけではなく、実はワシントンとニューヨークへ出かけていました。それに関するメモの第一弾が今回のミュージカル 『ビリー・エリオット』 です。
 文学研究者として、小説だけでなく物語全般に興味を持ってはいましたが、ミュージカル好きになったのは、1995年に在外研究でロンドンに半年滞在したことがきっかけでした。このときにロンドンの劇場街(ウエストエンド)で多くの作品を見、それ以来ミュージカルにはときどき出かけています。
 ただし、ロンドンにはその後も何度も出かけてはいるものの、ニューヨークの劇場街ブロードウェイへはまだ行っていませんでした。今回はそのブロードウェイへ行くことができたので、この機会に2本のミュージカルを見てきました。そのうちの1本がこの『ビリー・エリオット』(Billy Elliot)です。
          
 この作品は同名の映画を舞台化したもので、映画の日本名は『リトル・ダンサー』でした。前回のブログ記事 「映画『リトル・ダンサー』を見る」 は、ブロードウェイで『ビリー・エリオット』を見るための準備でもあったというわけです。
 ブロードウェイのインペリアル劇場で見たこの作品は、平日午後の舞台にもかかわらず観客は満員。反応も上々のようでした。一応は物語研究者でもある私の主な関心は、映画原作の作品をどのように舞台化するかという点でしたが、この点でも多くの興味深い作りがあって、私も満足できた舞台でした。
 たとえば、ミュージカルの傑作『オペラ座の怪人』などは、ミュージカルが先にあってそれが映画化されましたが、今回のように映画が先で後からミュージカルになるという場合もあります。その際には、「原作映画のイメージを壊してほしくない」「原作をそのままなぞっていたらつまらない」という相反する願望の葛藤を経験することになります。
 この点で考えてみると、この『ビリー・エリオット』というミュージカルはその両方の願望をうまくすくい上げているという印象がありました。
 まずストーリー展開の面では、ミュージカルは映画のストーリーをほぼ忠実にたどっています。この点は、私の前回のブログを参照してください。
 その一方で、「舞台ならでは」「ミュージカルならでは」の工夫もあちこちに見られました。たとえば、炭坑で働く人々のストライキや抗議活動とそれを取り締まる警官隊とのやりとり。これに関しては、舞台は映画のリアリティに到底かないません。その代わりに舞台では、炭鉱労働者たちと警官隊に合唱させながら踊らせるという演出をとっています。炭坑労働者たちと警官隊が合唱するなんておかしなことなのですが、そこに「Solidarity!Solidarity!Solidarity, forever!」(団結だ!永遠に団結だ!)と大合唱することによって、炭鉱労働者も結束して抗議活動をおこない、警官隊もまた一致してそれを取り締まるという不思議な結束感とハーモニーを形成するという仕掛けがなされているのでした。
 また、映画ではビリーの家族だけの寂しいクリスマスだったのが、舞台ではビリーの父親が周囲に促されて自分の人生を振り返るような歌を歌います。ほかにも、映画には具体的に登場しない(実は背景として重要な)サッチャー首相が人形になって出てきたり、やはり映画には登場しないビリーの死んだ母親が思い出となってビリーの前に姿をあらわしてビリーと一緒に歌ったりと、ミュージカルならではの場面がちりばめられています。そんなところに、映画にはない工夫が見られ、「映画通り」「映画と違う」の両方を期待する矛盾した願望にうまく応えてくれていたように思いました。
 さらにもう一つ言うと、中心を演じるビリーとその友人マイケルを演じる役者の巧みさにも驚かされました。子どもが主役のミュージカルと言えば、過去にロンドンで『オリバー』などを見たことがありますが、『ビリー・エリオット』はダンスシーンなどが多くて、『オリバー』以上に子役の負担が大きいミュージカルです。
 ビリーとマイケルにはそれぞれ3人の役者がいて交代に演じていて、私が見たときにはビリーをTrent Kowalikが、マイケルをDavid Bolognaが演じていました。他の役者を見ていないので比較はできませんが、2人とも素晴らしい演技で観客をおおいに沸かせていました。
          
 私は、映画のラストシーンがとても好きなので、ミュージカル版では終わり方が変わっているのは少し残念ではありましたが、これはまあ好みの問題というべきでしょう。それに、舞台は舞台で華やかな終わり方になっていて、それもまたミュージカルならではの楽しい場面ということができます。
 というわけで、ミュージカル観劇をおおいに楽しむことができたブロードウェイ・インペリアル劇場でした。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




 先日、銀座にある「歌舞伎座」で歌舞伎を観てきました。
 歌舞伎はこれまでにずいぶん行っていますが、いつも千代田区の「
国立劇場」で見てきたので、実は歌舞伎座の方に行くのは初めてです。今回は授業のない期間で少し時間の余裕がありましたし、外国の大学で日本語を教えている二人の先生を案内するという意味もあって、歌舞伎観劇に出かけました。
 はじめはいつも行っている国立劇場の方を考えたのですが、7月末から8月にかけて思うような演目がありませんでした。一つ「歌舞伎鑑賞教室」という初心者向けの解説付きの演目があって、これは外国人の方をお連れするのに適当かとも思ったのですが、夏休みのせいか人気が高く、私の行ける日にチケットが残っていなくて断念しました。
          
 そこで今回は歌舞伎座へ。しかし、国立劇場よりもある意味では親しみやすく、かえってよかった面もありました。
 八月興業は三部立てで、私たちは第一部を観ました。第一部の演目は「女暫(おんなしばらく)」「三人連獅子」「らくだ」の3本。第二部、第三部の演目と比べて、外国人の方をお連れするのにこれが一番よいのではないかと思って選びました。
 「暫(しばらく)」は「歌舞伎十八番」の一つでたいへん有名な演目です。北野天満宮へ詣でた蒲冠者範頼(彌十郎)が居合わせた清水冠者義高(高麗蔵)たちにたしなめられ、範頼たちが激高する。その時に巴御前(福助)が「しばらく」とよびとめて意見したため、巴御前は範頼の仕丁たちに取り囲まれるが、巴御前は大太刀でその首を刎ねて巴御前はその場を後にし、舞台番(勘三郎)に六方(ろっぽう…花道を引っ込むときの所作のこと)
を習って引き上げていく……という作りになっています
 続いての「三人連獅子」は舞踊で、
親獅子(橋之助)が子獅子(国生)を谷に突き落とし、試練に応えた子獅子と母獅子の三人で舞い踊るというストーリーが背景にありました。
 最後の「駱駝(らくだ)」は落語の話。
遊び人の半次(三津五郎)が、らくだと仇名される悪友の馬太郎(亀蔵)のもとへやって来るが、らくだは河豚の毒にあたって死んでいる。そこで半次は、通りかかった久六(勘三郎)に馬太郎の死体を担がせて、家主の佐兵衛(市蔵)とその女房のおいく(彌十郎)を脅して葬式用の酒を出させ、半次と久六は酒盛りを始める……という話です。場内大爆笑でした。
 歌舞伎十八番の有名な話、華やかな舞踊、落語種の爆笑話、と3つ楽しめるということで、今回はこの演目にお連れしました。今回の「暫」はダイジェスト版というべき見せ場だけの作りでしたし、せりふが難しくて外国の方にはわかりにくい面もありました。それでも、「暫」で歌舞伎の雰囲気を知っていただき、舞踊も味わい、さらに文句なく面白い落語話を観ていただいたことで、日本の伝統的な観劇の面白さの一端を知っていただけたのではないかと思います。私自身も久しぶりの歌舞伎見物を楽しむことができました。
          



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





 先日、東京・青山劇場で『ウーマン・イン・ホワイト』というミュージカルを見てきました。このミュージカルは、昨年1月にロンドンでオリジナルの舞台を見ているので、それに続いて2度目の鑑賞です。ロンドン版の感想はこちらを御覧ください(→ 「『ウーマン・イン・ホワイト』in London」 )。ロンドンのオリジナル版との違いはなかなか興味深いものでした。
 その違いの前に、再度このミュージカルを見て、脚本がよくできているとあらためて感じました。原作は、ウィルキー・コリンズが書いた19世紀英国の長編小説で、岩波文庫から3冊本で出ています(昨年は品切れで在庫も全然なかったのですが、最近増刷したのは舞台があるからでしょうか)。
 この原作は長編である上にストーリーも複雑。さらには語り手が章によって変わるという特徴のある構成をとっています(英国ゴシック小説から探偵小説への流れの上に位置する)。これをミステリー仕立ての統一感のある舞台にしたシャーロット・ジョーンズの脚本の見事さをまず最初に再認識しました。
          
 話をロンドン版と日本版の違いに戻すと、その
違いは大きく分けて2つ。演出と配役です。
 まず演出面では、ロンドン版で用いられた映画的手法が日本版ではいっさい省かれてしまっていました。舞台の背後に白い布を置いてスクリーンにし、そこに背景(たとえば英国の地方の風景など)を映写するというロンドン版の試みが日本の舞台ではありません。ネタバレになるので詳しくは言いませんが、ロンドン版では、この映写技法が単なる背景のためではなく、クライマックスのところで「あっと驚かせる」演出につながっていたのでした。
 それが日本版で省かれているのを見ると、やはり残念に思いました。ただ、あらためて考えてみて、「ではあの演出は不可欠か」と問えば、必ずしもそうではないように思えてきます。たしかにロンドン版の演出には驚かされましたが、この作品のミステリー性と人間ドラマとしての性格を考えれば、そんな驚かしをしなくても十分見応えのある舞台になっていると言えるでしょう。
          
 もう一つの違いは配役。今回の主役マリアンには笹本玲奈、妹ローラに沙也加、相手役ハートライトに別所哲也、という配役でした。これは日本人が演じるのですから当然の違いです。
 ロンドンなどのミュージカルに出ているのは、ほとんどがミュージカル専門に訓練した舞台俳優さんたちですが、日本の場合はテレビなどに出て知名度の高い人が優先されます(四季系は違いますがこちらは演出家が絶対の中心で、やはりロンドンなどの舞台のありかたとは少し違っています)。今回はホリプロの制作ですから所属のタレント中心の配役になりますし、主役の笹本玲奈は別として、別所哲也や沙也加は「テレビの人」という印象の方が強いことでしょう。
 それでも別所哲也はミュージカルもかなり多く演じています。それに対して沙也加(松田聖子の娘)を起用するのはちょっとどうかな?と疑問に思って行ったのですが、そんなに悪くはありませんでした。高音が出ないところがあったり、やはりミュージカル専門に訓練した女優さんではないというのが明らかでしたが、よくある「人気・知名度だけの起用」というほどの違和感はありませんでした。
 一方、主役の笹本玲奈は13歳から何年も「ピーターパン」で主演をしていた経験があり、実力は申し分ありません。その後も「レ・ミゼラブル」や「ミス・サイゴン」などで重要な役を演じており、私もそれらの舞台で彼女の演技を見ています。経験・実力いずれをとっても、今回の作品で主役を演じるのが彼女だというのはうなずけるところでした。
 ひとつだけ難点を言えば、笹本玲奈はまだ22歳。『ウーマン・イン・ホワイト』のマリアンを演じるには若すぎるくらいです(19世紀に戻せば22歳でもいいのかもしれませんが今の感覚から言うと若すぎるという意味です)。もしマリアンを演じられる女優さんが他にいるなら、笹本玲奈がマリアンの妹ローラを演じてもいいし、若さだけでなく容姿やイメージもローラに十分適していると思いました。しかし、笹本玲奈を上回るミュージカル女優さんでしかも適当な年齢の人となると簡単ではないでしょうから、その意味では、笹本玲奈の主役は当然と言えば当然の配役なのかもしれません。

 ロンドンでこの作品を見たときには、あらかじめ原作を読んで頭に入れてから見ました。しかし、私の英語力では聞き取れなかったところなどもあったので、その点でも再度この舞台を日本版で見ることができたのは幸いでした。また、ロンドン版と日本版で変わっているところ、そして変わらないところを考えながら見ることを楽しむことができました。今回の公演はちょうど今日で終了ですが、日本版だけ見ても十分楽しめるオススメのミュージカルでした。
          



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





 中国・武漢雑技団の日本公演「中国英雄列伝」を有楽町の東京国際フォーラムで見てきました。思っていた以上の舞台だったので、この公演のことは少し詳しく書きたくなりました。そこで、詳細は私のホームページに書きましたので、そちらを御覧ください。
  →「
中国・武漢雑技団の技を見る」(中央大学・宇佐美毅研究室

 要点だけ言うならば、、とても楽しめる舞台公演になっていました。私はミュージカルや歌舞伎など、いわゆる舞台演劇はあれこれといろいろなものを見たいと思っていますが、中国雑技というのは初めて見ました。演劇というのは、目の前で人間の声や体が躍動するところに面白さがあります。その意味で言えば、今回の雑技団の公演というのは正に舞台の醍醐味を圧縮していると言えるかもしれません。
 また、タイトルに「中国英雄列伝」とあるように、それぞれの技に意味がこめられているところも今日の見どころでした。
               
 正直言って特に期待して見に行ったわけではなかったのですが、思いもかけず「すごいもの」を見てしまったというのが今日の武漢雑技団公演の一番素直な印象でした。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




    (「エビータ」上演当日のキャスト一覧)
 
今年も残すところあと僅かとなりました。
 先日、今年見たテレビドラマのことを振り返りましたが、他にもいろいろな小説・演劇・映画などを味わうことができました。その中で、このブログに書いていなかったことを少しだけ補足しようと思います。
 演劇関係で書いていなかったのは、11月にロンドンで見たミュージカル「エビータ」に関してです。なぜ書かなかったのかと言うと、このミュージカルの初演は1978年で、かなり古い作品を今になって見たので、ちょっと感想も書きにくかったというのがありました。
 ちなみに、この「エビータ」の音楽担当は、
「オペラ座の怪人」などで知られるアンドリュー・ロイド・ウェバー。初演時の主演はエレイン・ペイジでした。ペイジは「キャッツ」などでも主演を務めており、世界で最も有名なミュージカル女優の一人だったと言ってよいでしょう。ちなみに私は、1995年の「サンセット大通り」で主演のエレイン・ペイジを生で見ています(ちょっと自慢)。たいへんな熱演で、これまで私が見た演劇の中で、観客がもっとも興奮して全員がスタンディング・オベイションをしていたのがこの時の「サンセット大通り」でした(その時の劇場も今回と同じロンドン・アデルフィ劇場でした)。
 話を「エビータ」に戻すと、初演
からすでに28年がたち、マドンナ主演で映画化もされて、すっかり多くの方に知られたミュージカル作品となっています。
 しかし、私がロンドンで演劇鑑賞をし始めたのが1995年ですから、その頃もうすでにこの作品は公演されていませんでした。それで日本で四季版で見たり、映画で見たりしたのですが、やはりオリジナル版に近いものを見たくて今回再演されているのを機会に見てみることにしました。
 客の入りもよかったし、今回の主演のエレナ・ロジャー(アルゼンチン出身の女優さん)の演技もすばらしいものでした。とても小柄な女性で、最初はたいして目立たない地味な印象の女性なのですが、ペロンと共に上りつめていくにしたがって、カリスマ的な雰囲気を発していく様子がなかなかの見所でした。お客さんの層としては比較的高年齢の方たちが多いように思いましたが、皆さんおおいに楽しんでいたようでした。
 とすると、「今さらかな?」と少し思いながら出かけた私の気持ちは、間違っていたのかもしれません。初演から28年がたち、映画にもなり、すでにストーリーも曲もすっかり知られた作品ですが、だから「見に行く価値がない」わけではない。むしろそれだけ知られた作品だからこそ、一度オリジナルに近い舞台をみておきたい、あるいは何度でも見てみたいという気持ちが多くの人にはたらくのかもしれません。多くの人に受け入れられる作品には長い命がある、ということをあらためて感じた「エビータ」でした。



コメント ( 5 ) | Trackback ( 0 )




 演劇倶楽部「座」の詠み芝居『山椒大夫』を、両国のベニサン・ピットで見てきました。この「詠み芝居」に行くのは昨年5月と今年2月に続いて3度目で、その時のことはこの日記にも書きました。
 繰り返しになりますが、「詠み芝居」というのは、日本文学の原作をほとんどそのまま生かして演劇化するというものです。簡単に言うと、原作の小説のセリフの部分は役者さんが通常の芝居のように演じます。しかし、通常の芝居と違うのは、舞台に朗読者がいて、原作の「地の文」のところを読みあげながら芝居が進んでいきます。
 今回の特徴は舞台の置き方。通常、演劇というのは空間の一方に舞台があり、それに対面するように観客席があります。しかし、今回の場合は室内空間の対角線1本が舞台でした。と言うとわかりにくいかもしれませんが、だいたい正方形に近い室内空間に斜めに1本対角線を引き、そこに花道のような細い舞台があって、その両側に残った2つの三角形空間に観客が座っている、というイメージで頭に思い浮かべてみてください。
 明らかなことは、役者がほぼ360度周囲を囲まれるように観客の視線を受けていることになり、通常のように正面と背面の差異はこの舞台には生じないことです。役者さんの緊張感は通常の舞台の比較にならないことでしょう。前に日記にも書きましたが、「詠み芝居」というのは、通常の芝居では声に出して読まれない「ト書き」にあたる部分を朗読されてしまうのですから、それと演技とが齟齬をきたすわけにはいきません。その意味での緊張感もすごいと思うのですが、今回の舞台は空間的にも緊張感を強くもたらします。聴覚と視覚の二つの緊張感の中で演じられるところに、今回の芝居の大きな特徴があったと感じました。
 もう一つ感じたことは、森鴎外原作の作品の特徴です。これまでに見た二つの芝居『鶴八鶴次郎』と『おたふく』に比べると、『山椒大夫』は書かれた時代がかなり古くなり(1915年発表)、また物語の設定された時代はさらに古い平安時代までさかのぼります。たとえば、「その年の秋の除目(じもく)に正道は丹後の国守にせられた。これは遙授の官で、任国には自分で行かずに掾をおいて治めさせるのである。~正道は任国のためにこれだけのことをしておいて、特に仮寧(けにょう)を申し請うて、微行して佐渡へ渡った。」などという地の文が、文字を見ていない観客に朗読だけで入っていくかどうか、芝居を見る前にその点が気になっていました。
 しかし、鴎外の簡潔で明晰な文体の力と、読書にはない演劇空間という視覚的な助けがあることから、その心配は無用のものだったようです。個々の単語の意味というよりも物語の展開の中で理解することができるため、語彙の古さが芝居全体の流れに影響するようなことはなかったと思いました。文体の力と演劇空間の力というものをあらためて感じた観劇の時間でした。
   



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


« 前ページ