フィクションのチカラ(中央大学教授・宇佐美毅のブログ)
テレビドラマ・映画・演劇など、フィクション世界への感想や、その他日々考えたことなどを掲載しています。
 



 先日、「大学のHIV教育」をテーマとした座談会に出てきました。
 これは、中央大学出版部で発行している雑誌『中央評論』の企画としておこなわれたものです。私は専門が日本文学ですし、特にこのテーマについて詳しいというわけではないのですが、中央大学文学部の新カリキュラムで実施された初年度教育の委員を何年かしていました。また、以前にこのブログで紹介した本田美和子さんという医師(HIV感染者の治療にあたっている医師)の講演会に参加したこともあって(→「HIVの現在」)、この座談会に参加を求められたという経緯なのでした。
          
 司会が大田美和先生(英文学)、参加者が森正明先生(体育)と私でした。3人の基本的な立場は、大学生に正しい性感染症に関する知識を持ってもらいたいという点ですし、性の問題をタブー視するのではなく、大人としての責任感を持ってよりよい人間関係を築くためのステップにしてもらいたい、という考えでも共通していると思います。
 性教育に関しては、「性行為を奨励している」「10代の性行為を前提にしている」という批判があることも十分承知しています。私は、大学生、ましてや未成年の性行為を奨励するつもりは毛頭ありませんが、その一方で、正しい性に関する知識や、知識だけではないさまざまな事例を多くの人が知っておくべきだと考えています。
 大学生に性感染症の問題を尋ねると、高校まで教わってはいるけれど概説的なことだけだった、という答えが返ってくることが多いように思います。私は、講演してくださった本田美和子医師や文学部で毎年特別講義をしてくださる村瀬幸浩先生のような、その道の専門家の話を学生が直接聞くことに意味があると思っています。講演会に行かないかと誘ってもほとんどの大学生は足を運びませんが、実際に専門家の話を聞くと自分たちの知識の無さや自覚の足りなさに驚くようです。そのような意味で、性の問題に限らず、大学が学生たちに学んでほしいことや自覚してほしいことは、まだまだたくさんあるように思います。
 ちなみに、この座談会の内容は、近いうちに『中央評論』紙上に掲載されますので、よろしければ御覧ください。
         


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 昨日7月18日(水)、学部ゼミの最終日だったので、夕方から前期打ち上げ懇親会がおこなわれました。
          
 これまでは大学近辺の居酒屋さんとかお寿司やさんでおこなうことが多く、5月の歓迎懇親会は高幡不動の大浜寿司でおこないました(→
新歓懇親会のようす)。
 今回は、ちょっと趣向を変えて、学内の教職員食堂で立食パーティー形式でおこないました。2ヶ月ほど前にしたばかりだったので、今回は場所を変えてみたというわけです。
 私は、大学の専任教員になって18年目になりますが、それ以前は立食パーティー形式にあまり慣れておらず、たまにそういうことがあると、うまく人と話せないこともありました。
          
 しかし、教員になってからはこの形式が多くなり、自然と慣れてきました。立食パーティー形式は座敷に比べて落ち着かないし、疲れる面もありますが、その反面、多くの人と少しずつ話ができるのがよいところです。特にゼミの学生たちと教員という立場だと、特定の数人とばかり話しているわけにはいかないので、座敷の懇親会だとときどき席を立っては違う学生たちと話すということになります。
 立食パーティー形式だと、比較的おおぜいの学生と少しずつ話すことができるので、その点では私にとって良い懇親会でした。          
 さて、大学の仕事はまだ残っているのですが、これでゼミの方はしばらくお休みです。学生諸君が楽しい夏休みを過ごしてくれることを願っています。



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 現在、サッカーのアジアカップがベトナム・タイ・マレーシア・インドネシアの4カ国共催で、U-20ワールドカップがカナダでおこなわれています。アジアカップはアジアの国別公式戦で、優勝国にはフェデレーションカップへの出場権も与えられますから、ワールドカップやオリンピック予選に次いで、重要な大会と言えるでしょう。
 フル代表の方はまだ2試合を終わったところですが、第1戦のカタール戦では、勝てる試合を引き分けに持ち込まれてしまいました。また、U-20日本代表の方は、グループリーグを2勝1分の1位で突破しながら、R16(準々決勝)でPK戦の末に敗退してしまいました。
 試合内容はいずれも日本代表が上回っているように思えました。しかし、内容がいいから勝つとは限らないのが勝負ごと。特にサッカーはそういうことが多いように思います。
          
 たとえば、最近ウィンブルドン・テニスが開催されていましたが、そこでスイスのロジャー・フェデラーが5連覇を達成しました。確かにフェデラーの実力がすぐれているとは言っても、同じ選手が5年間も同じトーナメントで無敗でいられるのは、実力通りに結果が出ることが多いというテニスの特性があります。特に4大大会は5セットマッチでおこなわれますから、番狂わせが起こりにくいのがテニスという競技です。
          
 それに比較して、得点の入りにくく、得点に偶然の要素の大きいサッカーという競技は、実力通りに結果が出るとは限らないというところに特徴があります。だからこそ、サッカーには実力以外の要素、たとえばマリーシアと呼ばれるずるがしこさや知恵がどうしても必要になります。
 ちなみに、深夜のサッカー番組で「日本代表がアジアカップで優勝する確率」を討論しており、評論家たちが50%だとか60%だとか言っていましたが、サッカーという競技で、しかも32チームも出場する大会で、そんな確率で優勝できるチームなど絶対にあり得ません。かりに日本が他の強豪チームよりも強いと仮定しても、それぞれの試合に勝てる確率はせいぜい60%くらいなものでしょう。だとすれば、日本の優勝確率など20%もあったら立派なものであるはずです。
 ちょっとここで確率計算をしてみましょう。日本に甘めに考えて、日本のグループリーグ突破(4チーム中2位以内)確率を95%、準々決勝に勝つ確率を65%、準決勝に勝つ確率を60%、決勝に勝つ確率を55%と仮定してみましょう。これで優勝確率を計算するとほぼ20%。つまり、アジアで日本が最強だとしても、そのくらいがせいぜいの可能性だと考えられます。もし、グループ突破確率を90%、準々決勝勝利を60%、準決勝勝利を55%、決勝勝利を50%と仮定すれば、優勝確率は約15%となります。たとえ、世界トップ10に入るような強豪国をアジアカップに連れてきたとしても、優勝確実とまでは言えない。それがサッカーという競技であり、特にトーナメント方式でおこなわれる場合は、延長→PK戦となりますから、その傾向が強いように思います。
          
 話を戻しますが、そういう競技だからこそ、ある種のずるがしこさのようなものが必要になるように思います。そのあたりは、日本人のやや苦手なところではないでしょうか。
 たとえば、囲碁の話なのですが、日本の棋士はよく「死んでも打てない手」とか「そこに打つなら負けた方がまし」という表現をします。それは、形の美しさを重視する発想からきており、「棋道」という「道」の思想にもつながっています。しかし、それが日本の囲碁を国際棋戦で勝てなくしている理由にもなっているように感じます。つまり、韓国や中国に追い越され、世界のトップから滑り落ちた日本の囲碁の問題は、「勝敗よりも大切なものがある」という理想主義にあると私は思います。
 これは、柔道にも似たことが言えました。以前に柔道が国際化された時、日本は柔道の「道」にこだわり、勝敗だけを徹底して考える発想をとらなかったために、国際試合で敗退することが多くなっていきました。しかし、現在は国際試合で勝つためのJUDOという考え方をとらざると得なくなり、その結果再び国際試合の結果に結びついてきたように思います。
 サッカーの場合、過去にさまざまな伝説があります。ヘディングと思われたシュートが実は手によるものだったり、というのはまだ可愛い方で、水分補給の水に睡眠薬を入れて、親切なふりをして相手に手渡していたなどという話もあるくらいです。まあ、そこまでいったら犯罪ですので、それは極端な話としても、汚い駆け引きは日常茶飯事のようにおこなわれています。
 先日のアジアカップ「日本対カタール」戦。カタールはフリーキック以外にほとんどシュートを打てない状況。そこで終了間際に、一か八かシミュレーション(反則をもらおうとわざと転ぶことで、審判にとられると警告を受ける。警告を2回受けると退場になってしまう。)覚悟でフリーキックをもらいにくるのはわかっていました。そこへ罠にかかるようにディフェンス阿部選手が反則をとられてしまい、フリーキックで同点に追いつかれてしまいました。
 また、U-20のR16になるチェコ戦。ここでの主審の笛はかなり基準がばらついているように見えました。そこで、2点負けていて、そのままでは敗退が決まるチェコは捨て身でPKをもらうために突っかけてきます。そこで、まず1回は、ねらい通りにPKをチェコが獲得する。これで1点差。次にまた突っかけて来たときには主審がチェコのシミュレーションをとる。問題はここからです。
 主審がシミュレーションをとって警告をチェコに与えたことで、日本は、チェコ選手がもう同じプレーができないだろうと考えたように思えました。しかし、そこが甘いところです。2点差だろうと1点差だろうと敗退にかわりないチェコ選手は、そこからさらにPKをもらいに突っかけてくるのです。そこへおあつらえ向きにと言うか、ペナルティエリアで日本のディフェンス選手が相手のボールに飛び込むと、チェコ選手はおおげさに転んで目論見通りにPKを獲得したのでした。
 一度シミュレーションをとられたのでもう転びにくいと見た日本選手と、どうせ敗退するなら最後まで何でもしようとしたチェコ選手の間には、「勝敗がすべて」という意識において差があったのではないでしょうか。
 アジアカップの方は、日本が第2戦に勝ってグループ首位になりました。初戦のカタール戦の引き分けやU-22の敗退を教訓として、今後の試合が、ぜひとも「内容で勝っても勝負に負けた」という試合にならないことを願っています。
          

 



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 城西国際大学教授の北田幸恵さんから、『書く女たち 江戸から明治のメディア・文学・ジェンダーを読む』(学芸書林、3000円)という本をいただきました。
          
 北田さんのお書きになっている論文は、これまでにも何本か読んでいますが、1冊の本になったところを拝見して、とても立派なお仕事をされているとあらためて敬服いたしました。
 本の構成を簡単に紹介すると、Ⅰ章が中島湘煙、Ⅱ章が清水紫琴、Ⅲ章が樋口一葉を論じる章になっており、さらにⅣ章で少女性と表現、Ⅴ章で日記と女性表現を論じるという構成になっています。それぞれの章で既発表の論文に書き下ろしを組み合わせており、北田さんの問題意識が明確に出された章立てになっていると感じました。
 けっして派手さや華麗さはないものの、きわめて丁寧かつ具体的に論じられた論文が並んでおり、どの章の論文からも教えられることが多くありました。その中でも私は、日記と女性表現の問題を論じた第Ⅴ章に強く関心をひかれました。
 この本は、題名に「書く女たち」とあるように、フェミニズム・ジェンダー批評を前面に押し出した研究書です。ただ、そのようなフェミニズム・ジェンダー批評に基づいた研究書としてすぐれているだけではなく、そこを手がかりにしてさまざまな「二分法的思考」や「権力関係」を問い直した研究としてすぐれている、そのように私は感じました。
 たとえば、先にあげた第Ⅴ章。ここでは、江戸時代から明治にかけての女性が書いたいくつかの日記、具体的には、井上通女『東海紀行』『江戸日記』『婦家日記』、荒木田麗女『初午の日記』『後午の日記』、白拍子武女『庚子道の記』、川合小梅『小梅日記』、中島湘煙『獄ノ奇談』、樋口一葉日記などが検討されています。そして、そこから浮かび上がってくるものは、単に「男性」対「女性」という問題だけではありません。「近代」と「前近代」、「公」と「私」、「フィクション」と「ノンフィクション」、「日常」と「非日常」、「仕事」と「家庭(家政)」、「学問」と「遊芸」、「富む者」と「貧しい者」、といったさまざまな二項対立、そして権力関係が、女性たちの日記の考察から出発して、おおいに読者が考えさせられることになります。
 思えば、すぐれた研究というものは具体的な現象にかかわる考察から出発して、大きな問題へと発展させ、読む者にそれを考えさせるきっかけとなるものでしょう。その意味で、この本はきわめて具体的な「女性表現」というものを通して、それにかかわるあらゆる対立関係、権力関係に問題を広げていけることを指し示した、すぐれた研究の具体的実践ということができるでしょう。
 私の専門分野と近いこともあり、おおいに勉強させられた一冊でした。
      
    



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(学内でおこなわれた研究発表会のようす)

 昨日(7月7日)、私の勤める中央大学文学部国文学専攻で、研究発表会がおこなわれました。国文学専攻には、所属の教員・学生・院生・卒業生などで作る、中央大学国文学会というものがあり、そこが主催する行事の一つとして、毎年この研究発表会がおこなわれています。
 研究発表は誰でもおこなえるのですが、数年前からは、今年度大学院で修士論文を書く人たちが必ずここで発表をするように申し合わせたため、今年度は修士論文提出予定者8名(古典文学4名、近現代文学4名)が研究発表をしました。
 修士論文提出予定者以外の発表がなくてよいのか、という点は今後の課題になりますが、それでも午前から午後遅くまでかけて8名の研究発表がおこなわれ、それぞれに質疑応答がおこなわれたことには重要な意義があったと思います。
 発表した修士論文提出予定者は、ここで自分の取り組んでいる研究課題について発表し、聞いている教員や院生から意見を言ってもらえたので、それをもとにして、今後の論文作成を考えていくことができるでしょう。また、発表者以外の人たちも、大学院生がどのような研究課題に取り組んでいて、それが周囲からどのような評価や意見を受けているのかを知ることができます。それによって、自分自身の研究への参考にできることも多いでしょう。
 終了後には学内の教職員食堂で懇親会もおこなわれ、私も普段は授業でしか話す機会のない大学院生たちといろいろ話すことができました。
 というわけで、午前から8人の研究発表を聞き、懇親会までつきあってけっこう疲れましたが、それだけの労力をかけるに足る有意義な一日だったと思いました。


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 今日は7月1日。2007年ももう半分終わり、今年も残すところあと6ヶ月となりました。といっても、私は学校関係者で、4月から1年間を意識しますので、前期があと残り1ヶ月までこぎつけた、というのが今の気持ちです。ああ夏休みが待ち遠しい……。
 さて、テレビドラマのクールも4~6月期が終わり、これから新しいドラマが始まります。ただ、前回に書いた「
4~6月期の感想に少しだけ補足をしておこうと思います。
 その理由は、「私たちの教科書」を最終回まで見終わったことです。前回は「たいていのドラマは1、2回見れば出来がわかるが、
このドラマは最後まで見ないと何とも言えない。すごくよく出来てるのか、それとも気を持たせただけか。」と書きました。ですが、最終回まで見終わった今でも、このドラマをなんと評価してよいか迷うところがあります。
 欠点をあげることは簡単です。無理な展開や興味をひくための余計な場面が多すぎます。雨木(風吹ジュン)副校長を最初は悪役にしておいて後から急に人間味を持たせる展開や、加地(伊藤淳史)を熱血純情教師やら雨木の手先やらに急転換させる描き方など、展開に意外性を出すためもあって、無理な箇所は多々ありました。
 その一方で、他のドラマにないものもあったように思います。第1回の生徒の死を残った者たちが考え続けたこと。一人の生徒の死をどのように受けとめるかを残り11回かけて、教師が、生徒が、弁護士が、もがき続けたことを描いていること。このことは他のドラマにないていねいさであり、評価すべき点だったように思います。
   (死んだ女生徒のノートに書かれていたことは……)
 物語の出だしは、一人の新人教師(臨時教員)加地の熱意が描かれ、彼の視点からすべてが描かれるかのように始まりました。よくあるドラマの作り、「熱心で誠実な新人教師」(善人側)と「学校という組織の利害に毒された古い教師たち」(悪人側)という構図で作られた、お決まりのドラマ化と思われました。
 
ところが、善人側と思われた加地が雨木にとりこまれたり、被害者と思われていた生徒がいじめる側の人間だったり、と先の読めない展開になりました。そのことを批判することもできますが、一人の生徒の死をきっかけにして、多くの人々の学校や生徒に対する姿勢が問い直されることになります。その点では、近年の多くのドラマのように、学校や教育の問題を取り上げているように見えながら、ごくごく表面的な問題を描いて安易に解決するという作品にはなっていなかった。そのことは評価してよいように思います。



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