フィクションのチカラ(中央大学教授・宇佐美毅のブログ)
テレビドラマ・映画・演劇など、フィクション世界への感想や、その他日々考えたことなどを掲載しています。
 



 大谷翔平選手の元通訳である水原一平氏の違法賭博問題が、あれこれ報道されています。大谷翔平選手の会見内容(大谷選手自身は賭博にも送金にもまったくかかわっていないという説明)が真実だとすれば、水原元通訳はどうやって大谷選手の口座から巨額の資金を送金できたのか。今はその点で関心が集まっているようです。ただ、今日書いてみたいのは、賭博やお金の話ではなく、通訳のしかたやその表現方法のことです。
 水原元通訳が解雇され、ウィル・アイアトン氏が大谷選手の新通訳となりました。私が興味深いと感じたのが、水原元通訳とアイアトン新通訳の通訳のしかたの違いです。ごく簡単にいえば、水原元通訳は意訳的な通訳のしかた、アイアトン新通訳は直訳的な通訳のしかた、だという評価があることです。私の英語力は、通訳のしかたを云々できるほど高くはないのですが、その私が聞いていても、たしかにそういう違いを感じることがありました。
 さらに面白かったことは、そういう通訳のしかたの違いの報道に対して、意訳的と直訳的の違いは、通訳者による違いではなく場面による違いではないか、といったコメントもあったことです。つまり、通常の試合後のインタビューなら、言いたいことの気持ちが伝わる意訳の方がよい、違法賭博にかかわるセンシティブなインタビューの場合は、特に慎重に大谷選手の言葉を直訳的に通訳するのだ、といった意見が聞かれました。
 そしてさらに興味深いことに、大谷選手の会見内容に対するアイアトン新通訳の通訳発言は直訳的にあったにもかかわらず(手書きのメモをしながらの通訳であるにもかかわらず)、大谷選手の発言で訳されていない部分があったというコメントも出てきました。私も聞いていて、「あれ、大谷選手の発言の長さに比べると通訳発言が短いなあ。省いたところがあるぞ。」と感じる箇所がいくつかありました。その通訳されなかった部分の有り無しで、ニュアンスが変わってくるという意見もありました。
 このように、今回の水原元通訳の行為を通じて、通訳という仕事への注目が高まりました。私自身は通訳の仕事にかかわることは多くありませんでしたが、たとえば、海外の学会や講演会などを引き受ける際に、私の話す内容を通訳してもらう経験は何度かありました。印象的だったのは、台湾の中央研究院というところでおこなわれた日本研究シンポジウム(2007年3月開催)で研究発表をさせてもらった際のことです。事前に発表原稿を台湾人の通訳者にお渡しし、発表前日にもかなり丁寧な打ち合わせをした上で、当日の発表に臨みました。それでも当日の質疑応答などは、事前打ち合わせのできない、その場での通訳仕事なので、現地の言葉のわからない私でも、当日の通訳者の苦労しているようすがよくわかりました。
 今回の水原元通訳の賭博にかかわる行為は到底容認できませんが、結果として通訳という仕事の重要性や方法論に注目されたことは、今回の大切な教訓だったように思います。大谷翔平選手に限らず、今後も通訳という仕事の重要性に注目しながら、スポーツイベントその他を見ていきたいと思います。

※このブログはできるだけ週1回(なるべく日曜)の更新を心がけています。





コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




 メジャーリーグ大谷翔平選手の専属通訳として有名かつ人気だった水原一平氏が、違法スポーツ賭博にかかわっていたという疑惑が報じられました。これについてはまだ詳細が明らかになっていないので、現時点でことの良し悪しを判断するのは厳に慎むべきと思います。
 そんな中で興味深かったことは、水原元通訳の負債を大谷選手が補填していたとしたら、その行為をどう評価するかの文化差でした。「水原元通訳の負債を大谷選手が補填していたとしたら」というのがそもそも仮定の話ですから、それへの私のコメントは保留しますが、もしそうだった場合、「日本では美談だが米国では愚かな行為として評価される」という報道があったことです。つまり、日本では、自分にとって大切な人物を救うために自分の資産を無償で提供する行為として肯定的に評価されるものの、米国では、違法な賭博業者に資金を流す(儲けさせる)といういけない行為だというのです。
 たしかに日本では「犠牲的行為」を賞賛する傾向が強いように思います。そこからいくつかの連想が働きますが、たとえばスポーツの世界では、日本人選手は「他選手のサポートの役割」を進んで引き受けようとする傾向があります。サッカーの分野でいえば、「オレがオレが」の自己主張の強い選手が世界的には多い中で、日本選手が目立ちにくい地味な役割を果たすことが多くあります。かつて日本代表監督を務めたイビチャ・オシムはそれを「チームの中で水を運ぶ選手」と呼んで、たとえば鈴木啓太選手らを尊重し、優先的に起用しました。ただし、欧州移籍をした日本選手の自己主張が足りないために、チームの中で存在感が持てないという場合も少なくありません。ですから、「犠牲的行為」の良し悪しは時と場合によります。
 さらに昔の話ですが、今ではバレーボールの世界で当たり前になっている時間差攻撃というのは、日本で考えられた攻撃方法でした。一人の選手がクイックのタイミングでジャンプし、それをおとりとしてもう一人の選手が後からアタックを決めるという攻撃です。これはかつて松平康隆日本代表監督が考案した攻撃方法ですが、他の選手のおとりになる犠牲的役割の選手がいて、初めて成り立つ攻撃方法でした。こうした攻撃方法は日本的な発想から生まれて、やがて世界に広がっていきました。
 ですので、「日本的美談」「犠牲的精神」はよい方向に作用することもありますが、一方で世界的に通用しないこともあります。今回のことはまだ事実関係が明らかになっていませんが、「世界的に通用しない愚かな日本的行為」だった、という残念な結末にならないことを願っています。

※このブログはできるだけ週1回(なるべく日曜)の更新を心がけています。

(3月26日07時57分追記)
大谷翔平選手が会見をおこない、水原元通訳の最初の発言を前面否定しました。つまり、「水原元通訳の負債を大谷選手が補填していた」という話は水原元通訳の嘘だったと、大谷選手は話しました。大谷選手は水原元通訳の返済にまったく同意も関与もしていない、水原元通訳の窃盗と詐欺だったとのことです。もし大谷選手の話が事実とすれば、このブログに書いた話は事実に基づかない仮定の話で、成り立たないことのようです。「仮定の話」と書いてはおいたものの、なんだかかっこわるいブログになってしまいました。





コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




 先日カラオケの映像について書きました。
 →「カラオケの映像と曲の世界」(2024年2月25日)
 その関連でもう一つ書きたいことがありました。私は中島みゆきファンですが、通常はその曲を聴いたり歌ったりすることを封印しています。聴いたり歌ったりすると、その世界にどっぷりと浸かってしまい、抜け出しにくくなるからです。私は、日常においてはできるだけ実務的な人間であろうとしているので、その自分と中島みゆきに浸る自分が通常は相容れないのです。
 ですが、長時間列車や飛行機に乗るときなどは、その封印を解きます。「今この乗っている間だけは、自分は中島みゆきの世界に浸っていい」…そう自分に許します。それが近年は少しゆるくなって、ときには一定時間「一人カラオケ」をして、中島みゆき封印を解くことがあるようになりました。「人生も残りそう長くないのであれば、ときには思う存分中島みゆきに浸るのもわるくない」…そう思うようになりました。

 話はここで終わればいいのですが、余談を一つ。DAMで中島みゆきを歌っていると、特に暗めの曲ではだいたい同じ女性が映像に出てきます。この女性を見ながら歌いすぎて、もうこのお姉さんがなんだか他人のような気がしなくなってきてしまいました。私の中では、「中島みゆきの歌詞の中の世界=この映像の女性」というイメージになってしまいそうです。いいのかわるいのか、よくわかりませんが。

※このブログはできるだけ週1回(なるべく日曜)の更新を心がけています。





コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




 囲碁の一力遼3冠(棋聖・本因坊・天元)が、棋聖位を3連覇しました。

 囲碁の最高位「棋聖戦」一力棋聖がタイトル防衛
 囲碁・一力遼棋聖 最終第7局で3連覇達成

 囲碁には多くのタイトルがありますが、そのうち7つを7大タイトルと呼び、それに序列(順位)がついています。本因坊や名人の方が伝統がありますが、現在は棋聖が序列・賞金額ともに囲碁界最高となっています。
 私は2年前にこのブログで、「一力遼・囲碁新棋聖誕生を祝う」という文章を書きました。  私が一力遼推しであることの所以はそこに書いてありますので、よろしければそちらをご覧ください。
 今回の棋聖戦7番勝負は実に見ごたえがありました。挑戦者は井山裕太2冠(王座・碁聖)。井山は、一力に棋聖位を奪われるまで棋聖9連覇を成し遂げた囲碁界のレジェンドです。私は一力推しですが、井山の闘いぶりも感動的でした。一力は26歳、井山は34歳。世界の囲碁界で、30代で第一線で活躍している棋士はほとんどいません。その井山が囲碁界の最高権威の奪還に向けて、3勝3敗で第7局に突入するという展開は、囲碁ファンにとってはこの上ない最高の対戦となりました。
 かつて一力は何度も井山のタイトルに挑戦しては、その高い壁にはね返されてきました。その当時、一力はまったく井山に勝てませんでした。趙治勲名誉名人は、一力と井山について、「井山の才能や努力が99だとしたら、一力の才能は80くらいかもしれない。それを一力はおそるべき努力ではね返してきた」と評したことがあります。その通り、近年になって一力は、井山から棋聖位と本因坊位を奪取しました。その間の道のりを考えると胸が熱くなる思いがします。
 しかし、井山は依然として高い壁であり続けています。いまだ王座と碁聖の2冠を保持し、昨年の碁聖戦ではその一力の挑戦を3対0のストレートで退けました。今の碁界は、一力・井山に芝野虎丸2冠(名人・十段、24歳)を加えた3つどもえの勢力図になっています。ちなみに、昨年の7大タイトル挑戦手合に出場した棋士のべ14人の内訳を見ると、一力4回、井山4回、芝野3回、許家元1回、関航太郎1回、余正麒1回となっています。一力・井山・芝野以外の棋士はほとんどタイトル戦に出られないのですから、いかに3人の実力が図抜けているかわかります。
 しばらくは3人のタイトル争いが続くでしょう。ただし、日本の碁界のためにはさらに新しい世代にも活躍してもらわなければなりません。一力遼棋聖がより第一人者としての地位を固めていくのかどうか、それも含めて、碁界の今後に注目していきたいと思っています。

※このブログはできるだけ週1回(なるべく日曜)の更新を心がけています。




コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




 『不適切にもほどがある!』があちらこちらで話題になっています。今回はそのうちの一つに関連して書きたいと思います。
 そのうちの一つとは『朝日新聞』(2024年2月28日朝刊)掲載の神里達博(千葉大学教授)の記事です。そこでは『不適切にもほどがある!』に言及し、「かなり多くの視聴者が、このドラマの『PC批判』的な方向性に共感している」と分析し、「そもそも令和の日本社会が、『正しさの行き過ぎ』を娯楽として消費できるほどに、差別や人権について十全な対応ができているのだろうか」と疑問を投げかけました(注記。「PC」は「ポリティカル・コレクトネス」のことです)。その考え自体はまっとうなものだと思います。ただし、テレビドラマ研究とは土俵が違っているな、と思いました。それはこういうことです。
 社会にとってあるテレビドラマ作品がどのように作用しているかという観点、もっといえば、社会をより良くしているのかどうかという観点からすれば、上記の意見はその通りだろうと思います。しかしながら、テレビドラマ作品は社会をより良くするために存在するわけではありません。むしろ、社会の問題を浮き彫りにしたり、そこに生きる人びとの心の中にある毒を表面化させたりする作用も持っています。だとすれば、私は『朝日新聞』掲載の意見に逆に問いたいと思います。「社会が十全に対応できるまで、『正しさの行き過ぎ』を娯楽にしてはいけないのでしょうか」と。(神里教授はけっして「いけない」と言っているわけではないと思うのですが、論じる土俵が違うということをここでは言いたいという趣旨です。)
 朝日新聞掲載の意見はまっとうではあるものの、テレビドラマの本質には沿っていないと私は感じます。また、テレビドラマ制作者にもそれ相当の覚悟があるはずです。『不適切にもほどがある!』の脚本家・宮藤官九郎は、さまざまな人間の姿を、笑いを通じて描き出してきました。そのことは、『学びの扉をひらく』(中央大学出版部)に収録された私の文章でも書いたことがあります。人の死(『木更津キャッツアイ』)も東日本大震災(『あまちゃん』)も、深刻になりすぎず、究極的には笑いの要素を捨てずに描き出してきました。今回もそうです。この作品が社会をより良くすることにはつながっていないのかもしれませんが、それでもそれを笑いにして、人びとの気持ちを浮き彫りにしてしまうところにこそ、脚本家としての宮藤の覚悟があると私は考えます。
 「娯楽」には「娯楽」の覚悟がある。「娯楽」に人生や命をかけている制作者たちがいる。私はそう考えてテレビドラマ研究をしています。

※このブログはできるだけ週1回(なるべく日曜)の更新を心がけています。ただし、今回は珍しく土曜の更新でした。




コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )