世の多くの方たちと同じように、私もネットニュースを見ることがあります。私は電車等の移動中になるべくスマホを手にとらないようにしているので、スマホ中毒のようなことはまったくありませんが、それでも仕事の合間や空き時間に、軽い気分転換のつもりで、パソコンやスマホでネットニュースを見てしまうことがあります。
そのネットニュースでこのところ取り上げられることが多かったのが、タイトルにした広末涼子・福原愛・日大大麻事件でした。どれも多くの人たちの反発を招き、私もどちらかといえば、読んで不快な気持ちになってしまったニュースでした。
広末涼子さんの場合は、有名シェフの鳥羽周作さんと不倫関係になり、結局夫のキャンドル・ジュンさんと離婚に至ったこと。福原愛さんの場合は、2人いる子どものうちの長男の養育について、元夫の江宏傑さんと争いになっていること。そして、日大ではアメリカンフットボール部員が大麻所持していたことについて、理事長らが記者会見をおこなったこと。こうしたニュースに流されると、情報の受容者たちから多くの否定的な反応・反発が起こりました。
これらのニュースが反発を招いたことには、いくつかの共通性があります。もっとも見やすい共通点は、ニュースを受け取る側への想像力の欠如でしょう。たとえば、福原愛さんの代理人弁護士は、江さん側の主張(長男を江さんに引き渡すようにという裁判所の保全命令に従ってほしい)に対して反論しました(日本の司法判断はまだ確定していない、記者会見を開いて主張するのは福原さんのような社会的弱者を追いつめるもので、子どもへの暴力にもあたる、などの反論)。しかし、これにはネット民から激しい反発をくらいました。「地方裁判所の判断なら従わなくていいの?」「福原さんが社会的弱者?」「福原さん本人は中国のSNSにコメントしているのに、なぜ日本では代理人任せなの?」等々。そういう反応は、ある感覚(常識、良識、コモンセンス)を持っていれば、当然予想できることでしょう。福原さん代理人弁護士は、受容者の激しい反発を事前に計算していたのでしょうか。こうした激しい反発を招けば福原さんの社会活動が今後しにくくなることは明らかですから、弁護士の発表内容は、依頼人(福原愛さん)の利益のために有効な反論になっているとはとうてい思えませんでした。
日大の記者会見も同様です。「警察からこう言われたので、それに従って…」という言い訳を何度も繰り返しましたが、すぐに警視庁から事実関係を否定され、ネット民から総ツッコミを入れられています。「警察を言い訳にして自分たちの保身ばかり」「大麻らしきものを見つけても副学長が保管していたって、隠蔽じゃね?」「林真理子理事長はお飾りか?」等々。警察のせいにすればそこまでの大学の対応が正しかったことにできる、と思ったのかもしれませんが、これも自分たちが発表した内容を誰がどのように受け取るか、どのように反応するか、そのことに対する想像力を欠いていました。ネット民の反発はごく当然のように思えます。
こうした問題を引き起こす共通の特徴はもう一つあり、それは事実の切り取り方です。人間が語れることはごくわずかしかありません。しかし、その人間や所属する組織には無限の事実が積み重なっています。どこかを都合のよいように切り取っても、他の事実が明らかになれば、自ら語った事実の意味ががらりと変わってしまいます。広末さんの最初の弁明は、週刊誌の続報で簡単に覆されてしまいました。キャンドル・ジュンさんは長時間にわたって会見で夫婦のあり方を語り続け、いったんは受容者の共感を得たように思えましたが、その後ジュンさんを告発するニュースが出回ると、ジュンさんの評価が一気に下がってしまいました。
私は文学やテレビドラマなどのフィクション研究者なので、こうした危機管理には素人です。しかし、不思議に見えるかもしれませんが、そこに共通するものがないわけでもありません。たとえば、小説とは、ある人物を語ったり描いたりするものですが、どんなに多くの文章を連ねても、ある人物のすべてを描ききることなどできません。その人物のどこをどのように切り取って描くかによって、その人物の印象は大きく変わります。
例をあげましょう。夏目漱石『坊っちゃん』の主人公「俺」は、自分のことを、「親譲りの無鉄砲で子どもの時から損ばかりしている」と書き出しています。いかに無鉄砲かのエピソードも書かれているので、ほとんどの読者はそれを信じます。しかし、その後「俺」は兄から渡された金銭を分割して毎年の授業料にあて、物理学校を卒業して教師になります。「六百円を三に割って一年に二百円ずつ使えば三年間は勉強が出来る。三年間一生懸命にやれば何か出来る。」というのが「俺」の考えです。これが「無鉄砲」な人間のすることでしょうか。読者は「親譲りの無鉄砲で子どもの時から損ばかりしている」という「俺」の自己規定を信じてしまいますが、「俺」の行動はその自己規定を裏切っていきます。
「私って○○な人だから~」ということを人はよく言いますが、文学研究者は、そういう自己規定が疑わしいことをよく知っています。言葉を発するというのは、他者に検証される材料を与えていることで、一面で実におそろしいことでもあります。
※このブログは週1回(なるべく日曜日)の更新を心がけていますが、今回はタイムリーな話題ということで、金曜日の更新となりました。