フィクションのチカラ(中央大学教授・宇佐美毅のブログ)
テレビドラマ・映画・演劇など、フィクション世界への感想や、その他日々考えたことなどを掲載しています。
 



 日本の囲碁文化は危機に瀕しています。
 昨年発行された『レジャー白書2022』によれば、日本の将棋人口は500万人、囲碁人口は150万人だそうです。将棋の3分の1以下ということも懸念材料ですが、将棋は藤井颯汰人気でマスコミ報道も多く、将棋を見るだけ(いわゆる「見る将」)も多数いるのに対して、囲碁の人気は、あらゆる面で圧倒的に将棋人気より劣っています。さらにいえば、1980年前後に囲碁人口が1000万人を越えていたことを考え合わせると、40年あまりで愛好者が激減したことになります。これは既に危機的状況です。
 その状況を顕著にあらわすニュースがありました。囲碁界でもっとも伝統あるタイトル戦「本因坊戦」が、来期から大幅に縮小されることになりました。
 → NHKニュース
これまでの本因坊戦の挑戦手合は、1局2日制の7番勝負で、優勝賞金は2800万円でした。それが来期からは1局1日制の5番勝負に縮小され、優勝賞金額は850万円に大幅減額となります。本因坊戦を主催する毎日新聞の新聞不況のため、囲碁に大きな予算を割く余裕がなくなったことが主たる要因です(長年本因坊戦を開催してきた毎日新聞社には心から感謝しています)。ただ、その縮小の背景には、新聞社の問題だけではなく、囲碁愛好者の減少があります。囲碁の棋譜や観戦記をを掲載することに、大きな予算を割くだけの費用対効果が見込めなくなっているということです。


 私は、囲碁愛好者として、この状況をとても残念に思います。このままでは日本の囲碁文化は途絶えてしまいかねません。ではどうしたらいいのか。たとえば日本棋院がYouTube放送に力を入れたり、棋士が各種SNSなどで情報発信に努めたり、既に多くの努力がなされていることは承知しています。また、以前は囲碁棋士と囲碁ファンの間の垣根が高かったように感じますが、近年は囲碁棋士や囲碁ファン直接交流する機会が増えました。コロナ禍で実施されていなかったタイトル戦の大盤解説会が復活していますし、椿山荘のスイーツ付き大盤解説会なんていうおしゃれなイベントも開催されました。他にも、日本棋院ファン感謝まつり、浴衣囲碁まつり、群遊(囲碁ファンの観戦可能なプロ棋士団体戦)などなど、ファンが囲碁棋士と接することのできるイベントが近年増えているのは素晴らしいことです。
 これはたいへん重要な試みです。その上で、さらに必要なことについて、私なりの考えを書いていきたいと思います。


 囲碁の底辺を縮小させないためには、まず発想の転換が必要だと思います。これまでプロ棋士の対局の根底には「プロ棋士の役割はすぐれた棋譜(対局の記録)を残すこと」「長い時間をかけて考え抜いて打った碁にこそ価値がある」という発想があったと思います。賞金額が大きく、序列の高いタイトル戦ほど、対局の持ち時間が長いことからも、日本の囲碁文化の根底にその発想があることがわかります。その発想にはそれなりの伝統があり、その伝統を尊重したい気持ちは私にもあります。
 しかしながら、どんなにすぐれた棋譜を残しても、新聞の観戦記などを読んで棋譜を鑑賞するという愛好者が減少することは、もはや避けられません。スマホで手軽な娯楽がいくらでも手に入り、テレビドラマですら視聴率が下がっている時代に、囲碁の棋譜を鑑賞することをメインのターゲットにすることはもう不可能です。私は囲碁の高段者で、アマチュアではかなり強い方だと思いますが、それでも棋譜を鑑賞するよりもYouTubeで対局を見る方がはるかに楽しいと感じます。ですから、後からプロ棋士の棋譜を鑑賞することよりも、棋院がYouTube放送に力を入れてきているように、対局をリアルタイムで放送し、エンタテインメントとしてのイベント性を高めることの方が大切だと思います。
 そのためには、まず対局の際の考慮時間を短くしないといけません。囲碁界で権威があり序列の高いタイトル戦の考慮時間は、一人8時間です。二人合わせて16時間プラス秒読みで延長される時間を考えると、よほどの暇人でない限り、対局を見続けることなどできません。だからこそ、「時間をかけて考え抜いた対局ほど権威があり、よい棋譜が残せる」という価値観を転換させ、スポーツ中継のような、見る人を惹きつけるイベント性を重視する必要があると思います。そのためには、持ち時間の短縮が必要ですし、木曜日を中心に平日に実施されている対局日も、土曜や日曜中心に変更すべきでしょう。プロ野球やサッカーJリーグのように、夜の時間に開催することも検討すべきです。
 さらに、解説者の輪番制や公平性よりも、トークがうまく囲碁以外の話題も豊富な、タレント性を持った棋士を解説者として積極的に起用していくことも必要です。極端にいえば、「囲碁を知らない人が見ていても面白い」くらいの囲碁番組にしていかなければいけません。若手の話が上手な棋士と、タイトル経験者で含蓄のある話のできる棋士の組み合わせがベストです。前者ならなめらかな進行ができますが、手(技術面)の解説ばかりになりがちです。タイトル戦で命を削って戦った棋士でないと話せないこともあるので、話し上手な若手と勝負の深い機微を語れる棋士の組み合わせが、もっとも聞きたくなる解説をしてくれるでしょう。


 こういうことを書くのは、本当は残念です。しかし、囲碁強豪国の中国や韓国では、プロの対局持ち時間はほぼ3時間までです。日本独自の囲碁文化として、持ち時間8時間の2日制対局は残してほしい、そういう気持ちを私も強く持っています。しかし、そういう持ち時間の長い対局がプロ棋士の最高の評価基準になるというのは、これからの時代にはそぐわないと思います。日本の囲碁文化を廃れさせないためにも、「プロ棋士の役割はすぐれた棋譜(対局の記録)を残すこと」「長い時間をかけて考え抜いて打った碁の方が価値がある」という価値観からの脱却が必要だと私は思います。

※このブログはできるだけ週1回(なるべく日曜)の更新を心がけています。









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 もう8月後半になってしまいましたが、今クールのテレビドラマでまだ感想を書いていない作品がありました。放送が遅く始まった作品などについて、いわば補遺編として感想を書いていきます。

『何曜日に生まれたの』(テレビ朝日系、日曜22時)

 番組HPでも、番組宣伝でも、「野島伸司脚本」という言葉が踊っています。脚本家が最注目というのは、逆にいうと作品のどこに注目していいのか、よくわからないところがあるのかもしれませんす。初回を見る限り、不思議・不可解な野島ワールド全開のように感じました。
 野島伸司といえば、『101回目のプロポーズ』『ひとつ屋根の下』のようなコメディ色のある作品から、『高校教師』『人間・失格』のような衝撃作まで、多数の有名作品を世に出してきました。私は野島の作品には特に注目していて、私の著書『テレビドラマを学問する』(中央大学出版部)でも、ページを割いて論じています。
 野島の作風については私の著書を見てほしいのですが、別の表現をすれば、極端な「不自然」さを厭わない作風ともいえます。「こんなことあるかしら?」「ちょっと現実離れしているのでは?」と思わせながら、それでも作品の中に視聴者を引き込んでしまう期待感があります。
 とはいえ、野島伸司の作品が次々にヒットしていた時代とは、テレビドラマというものの位置が大きく変わりました。じっくりドラマを見て、次の放送まで1週間待ってくれる視聴者は減ってきました。2回放送されてもまだまだ謎が隠されているようなので、視聴者の期待感がどれほど持続するのかが見ものです。

『ノッキンオン・ロックドドア』(テレビ朝日系、土曜23時)

 2人の若い探偵が主人公。1人は「不可能」担当(松村北斗)で、密室殺人や衆人環視の犯罪など、犯罪の「How」を解き明かします。もう1人は「不可解」担当(西畑大吾)で、犯罪の動機や理由など、犯罪の「Why」を解き明かします。
 番組HPの目立つところには、「堤幸彦×松村北斗・西畑大吾」という監督と主演俳優が大きく打ち出されています。私は、堤作品にも好きな作品、好きでない作品があるので、堤作品だからどうこうとは思いません。ただ、何度も書いたことがあるように、私は犯罪の最大のドラマは、「なぜ自分の人生を棒に振ってしまうかもしれないのに人は犯罪を犯してしまうのか」という不条理にあると思っています。ですから、今回の「Why」の部分にはおおいに期待したのですが、通常よりも動機が重視されているようには思えませんでした。作中人物が大声を出すことが多い演出も耳障りで、今のところあまり好きになれませんでした。余談ですが、私はお笑いの分野でも、大声を出す芸風は好きではありません。いっさい声を張らない(たとえばナイツのような)芸風を好みます。

『やわ男とカタ子』(テレビ東京系、月曜23時台)

 イケメンで弁護士というハイスペックな男(三浦翔平)は、実はズバッと物申すオネエでした。そのオネエ弁護士が、もてない、自信ないの自己肯定感ゼロの迷える喪女(松井玲奈)に助言をしていきます。いかにも漫画的ですが、実写で見ても悪くありません。三浦翔平のイケメンぶりはもう見飽きてきた感があるので、ここらでオネエ演技を見るのも新鮮です。松井玲奈はすっかり女優として、真面目で好感度の高い役(たとえば『エール』)から悪女役(たとえば『プロミスシンデレラ』)まで、幅広い役をこなしています。
 ところで、私、松井玲奈がけっこう好きかもしれません。どこがいいのか考えてみると、どうも私は「ひらべったい顔」女優が好きなような気がしてきました。その逆は西洋人ぽい凹凸の強い顔の女優さんで、そういう顔はあまり好みではありません。「ひらべったい顔」女優の代表は、なんといっても深津絵里さんでしょう。私の深津絵里好みは、このブログにも何度か書いたことがあります。さらにさかのぼると、私は若い頃、佐藤オリエという女優がけっこう好きでした。『男はつらいよ』第二作のヒロインに起用された昔の劇団俳優座出身女優で、この人も「ひらべったい顔」女優だろうと思います。「ひらべったい顔」女優万歳! 話がすっかりそれましたが、この作品にも期待しています。

 余談ですが、映画『男はつらいよ』シリーズは初期作品は、ヒットするとはまったく周囲から思われていませんでした。そのため、有名映画女優には出演してもらえず、ヒロインは舞台女優や劇団女優でした。それが大ヒットして、有名女優が次々に出演してくれるようになったのでした。ちょっとした蘊蓄です。

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 世の多くの方たちと同じように、私もネットニュースを見ることがあります。私は電車等の移動中になるべくスマホを手にとらないようにしているので、スマホ中毒のようなことはまったくありませんが、それでも仕事の合間や空き時間に、軽い気分転換のつもりで、パソコンやスマホでネットニュースを見てしまうことがあります。
 そのネットニュースでこのところ取り上げられることが多かったのが、タイトルにした広末涼子・福原愛・日大大麻事件でした。どれも多くの人たちの反発を招き、私もどちらかといえば、読んで不快な気持ちになってしまったニュースでした。
 広末涼子さんの場合は、有名シェフの鳥羽周作さんと不倫関係になり、結局夫のキャンドル・ジュンさんと離婚に至ったこと。福原愛さんの場合は、2人いる子どものうちの長男の養育について、元夫の江宏傑さんと争いになっていること。そして、日大ではアメリカンフットボール部員が大麻所持していたことについて、理事長らが記者会見をおこなったこと。こうしたニュースに流されると、情報の受容者たちから多くの否定的な反応・反発が起こりました。
 これらのニュースが反発を招いたことには、いくつかの共通性があります。もっとも見やすい共通点は、ニュースを受け取る側への想像力の欠如でしょう。たとえば、福原愛さんの代理人弁護士は、江さん側の主張(長男を江さんに引き渡すようにという裁判所の保全命令に従ってほしい)に対して反論しました(日本の司法判断はまだ確定していない、記者会見を開いて主張するのは福原さんのような社会的弱者を追いつめるもので、子どもへの暴力にもあたる、などの反論)。しかし、これにはネット民から激しい反発をくらいました。「地方裁判所の判断なら従わなくていいの?」「福原さんが社会的弱者?」「福原さん本人は中国のSNSにコメントしているのに、なぜ日本では代理人任せなの?」等々。そういう反応は、ある感覚(常識、良識、コモンセンス)を持っていれば、当然予想できることでしょう。福原さん代理人弁護士は、受容者の激しい反発を事前に計算していたのでしょうか。こうした激しい反発を招けば福原さんの社会活動が今後しにくくなることは明らかですから、弁護士の発表内容は、依頼人(福原愛さん)の利益のために有効な反論になっているとはとうてい思えませんでした。
 日大の記者会見も同様です。「警察からこう言われたので、それに従って…」という言い訳を何度も繰り返しましたが、すぐに警視庁から事実関係を否定され、ネット民から総ツッコミを入れられています。「警察を言い訳にして自分たちの保身ばかり」「大麻らしきものを見つけても副学長が保管していたって、隠蔽じゃね?」「林真理子理事長はお飾りか?」等々。警察のせいにすればそこまでの大学の対応が正しかったことにできる、と思ったのかもしれませんが、これも自分たちが発表した内容を誰がどのように受け取るか、どのように反応するか、そのことに対する想像力を欠いていました。ネット民の反発はごく当然のように思えます。

 こうした問題を引き起こす共通の特徴はもう一つあり、それは事実の切り取り方です。人間が語れることはごくわずかしかありません。しかし、その人間や所属する組織には無限の事実が積み重なっています。どこかを都合のよいように切り取っても、他の事実が明らかになれば、自ら語った事実の意味ががらりと変わってしまいます。広末さんの最初の弁明は、週刊誌の続報で簡単に覆されてしまいました。キャンドル・ジュンさんは長時間にわたって会見で夫婦のあり方を語り続け、いったんは受容者の共感を得たように思えましたが、その後ジュンさんを告発するニュースが出回ると、ジュンさんの評価が一気に下がってしまいました。

 私は文学やテレビドラマなどのフィクション研究者なので、こうした危機管理には素人です。しかし、不思議に見えるかもしれませんが、そこに共通するものがないわけでもありません。たとえば、小説とは、ある人物を語ったり描いたりするものですが、どんなに多くの文章を連ねても、ある人物のすべてを描ききることなどできません。その人物のどこをどのように切り取って描くかによって、その人物の印象は大きく変わります。
 例をあげましょう。夏目漱石『坊っちゃん』の主人公「俺」は、自分のことを、「親譲りの無鉄砲で子どもの時から損ばかりしている」と書き出しています。いかに無鉄砲かのエピソードも書かれているので、ほとんどの読者はそれを信じます。しかし、その後「俺」は兄から渡された金銭を分割して毎年の授業料にあて、物理学校を卒業して教師になります。「六百円を三に割って一年に二百円ずつ使えば三年間は勉強が出来る。三年間一生懸命にやれば何か出来る。」というのが「俺」の考えです。これが「無鉄砲」な人間のすることでしょうか。読者は「親譲りの無鉄砲で子どもの時から損ばかりしている」という「俺」の自己規定を信じてしまいますが、「俺」の行動はその自己規定を裏切っていきます。

 「私って○○な人だから~」ということを人はよく言いますが、文学研究者は、そういう自己規定が疑わしいことをよく知っています。言葉を発するというのは、他者に検証される材料を与えていることで、一面で実におそろしいことでもあります。

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 「外食すると栄養が偏る」「外食は野菜不足になりがち」といわれます。しかし、中央大学学食にはサラダバーがありますので、その心配がありません(サラダバーは授業期間中の営業のため、7月下旬~9月中旬はやっていません)。

中央大学学食のサラダバー
(中央大学学食のサラダバー)

 中央大学といえば、各種資格試験に強いことと学食が充実していることで、かつては有名な大学でした。それが新型コロナウイルスの影響もあり、一時は学食の営業ができない状態になっていました。再開してから後も、コロナ以前と同じ営業形態には戻らないままでした。コロナ以前の中大学食で特に好きだったのが、ブッフェ形式の営業でした。取り放題ではなく、グラム1.4円という料金体系で、私はほぼ毎日のようにこのブッフェを利用していました。

 →過去の私のブログ記事 「学食のランチブッフェ」(2017年11月12日)

 大学の授業も生活もほぼコロナ前に戻り、食事についてもかなり以前に近いところまで戻ってきました。学食のランチブッフェは再開してはいませんが、今年4月からサラダバーという形で復活しました。これはありがたい! 小さめのサラダボウルなら150円、大きめのサラダ皿なら300円というお手頃価格です。サラダバーは昼しか営業していませんが、私はサラダボウルの方に山盛りサラダを乗せて、できるだけ野菜の多い食事をするようにしています。
 器に乗せられるだけ乗せていいらしいのですが、どのくらいでも山盛りにしてもいいのか、はじめは迷いがありました。大学の教員ともあろう者が器からこぼれるくらい乗せているのも恥ずかしいかと、はじめは遠慮していました。しかし、ある日一人の女子学生を見かけると、サラダボウルにびっくりするくらい「てんこ盛り」にして、堂々と歩いていきました。それを見て私も勇気をもらって、その後はかなりの「てんこ盛り」を日常としています。

 ちなみに、私のサラダボウルへの乗せ方は、まずは小さく刻まれた野菜やコーンや豆類から乗せていきます。そして、上半分にはトマト、オクラ、ブロッコリーなどの大きめの野菜を乗せます。逆だと崩れやすく、こぼれやすいからです。

  

 たった150円でこんなに野菜をたくさん乗せて、どうもすみません(ここの口調は林家三平ふう)。サラダバーを運営する中大生協の皆さん、今後もサラダバー営業をぜひ続けてください。どうぞよろしくお願いします。

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