演劇倶楽部「座」の詠み芝居『おたふく』を、シアターVアカサカで見てきました。この「詠み芝居」に行くのは昨年5月に続いて二度目で、その時のことはこの日記にも書きました。
繰り返しになりますが、「詠み芝居」というのは、日本文学の原作をほとんどそのまま生かして演劇化するというものです。簡単に言うと、原作の小説のセリフの部分は役者さんが通常の芝居のように演じます。しかし、通常の芝居と違うのは、舞台に朗読者がいて、原作の「地の文」のところを読みあげながら芝居が進んでいきます。
今回見てみて、前回見た『鶴八鶴次郎』と違う印象を持ったところが二点ありました。ひとつめは、前回の朗読が女性三人の分担だったのに対して、今回は主宰の壤晴彦さんが一人で読み切っていたこと。もう一つは前回よりも長い小説だったので、原作を省略する部分が大きかったことです。
ひとつめの朗読について。これは私の関心事ですが、文学テキストにはジェンダーの問題が多かれ少なかれかかわってきます。今回の『おたふく』の原作は山本周五郎の『おたふく物語』ですが、この小説を読むと地の文に強い男性ジェンダーの視点を感じます。話は「おしず」と「おたか」という二人の姉妹をめぐって展開するのですが、この二人の女性を描く描写などに男性ならではの感性があらわれています。今回、壤晴彦さんが朗読者になったのはそういう理由からではないと思いますが、私が感じるような意味でも、前回の女性朗読者から男性朗読者に代わったことは、この小説を地の文を生かす上で有効に働いていたように感じました。
ふたつめの省略の点について。『おたふく物語』という小説は「妹の縁談」「湯治」「おたふく」の三章から成っており、そのまま一度の芝居ですべてを読みあげるには長すぎる小説です。ですからどうやって「詠み芝居」にするのかなと思って劇場へ出かけたのですが、所々を省略しながら全体のストーリーを生かすようなうまい構成がなされていました。一例をあげると、原作では、おしずが貞二郎への恋心をずっと持ち続けていると早い段階で描かれているのに対して、舞台ではその部分を省き、最後の最後に種明かしのような形で明かされます。原作は作中人物の心の中を読者が知った上で読み進められるのに対して、舞台は観客に想像の余地を多く残して展開しており、その面でも興味深い構成が採られ、うまい短縮の仕方をしていると感心しました。
日本文学を研究対象にしている者として、またこの「詠み芝居」という演劇の試みを見ていきたいと思っています。