フィクションのチカラ(中央大学教授・宇佐美毅のブログ)
テレビドラマ・映画・演劇など、フィクション世界への感想や、その他日々考えたことなどを掲載しています。
 



 先週は『不適切にもほどがある』から、昔の歌謡曲の歌詞、そしてカラオケのことを書きました。長年続けているこのブログで(開始2005年2月以来)カラオケについて書いたのは、おそらく先週が初めてのことだと思います。
 私が子どもの頃には、カラオケというものはありませんでした。普及していったのは私の大学生頃(1970年代後半)ですが、それもカラオケボックスではなく、スナックなどのお店にようやく機械が置かれ始めたのでした。つまり、知らないお客さんに自分の歌を聞かれ、知らないお客さんの歌を聞かされるのが、カラオケというものでした。
 その頃から、カラオケの映像には興味を持ってきました。テレビドラマ研究者となった今ではなおさらです。どの曲にどのような映像を組み合わせるのか、これはなかなか面白い課題です。制作費が潤沢とは思えませんので、あまり無理な注文をつけるつもりはありませんが、正直いってよくわからない映像も多いような気がします。

 具体的に書きますと、私はDAMの機械で中島みゆきの曲をかけることが多くあります。映像の意図のわかりにくい作品がよくありますが、その中でも『狼になりたい』の映像の意味がずっと理解できないままでした。複数の男女が映像に登場するのですが、映像内のどの人が歌詞の世界のどこに対応するのか、毎回私は疑問に思ってきました。ところが、ところが…。先日初めて、中島みゆきの『永遠の嘘をついてくれ』を歌ってみたところ、『狼になりたい』とまったく(完全に?ほぼ?だいたい?そこまで丁寧に確認はしませんでしたが)同じ映像だったのです。が~ん!
 『狼になりたい』と『永遠の嘘をついてくれ』では、歌詞の表現する世界がぜんぜん違います。それなのにほぼ同じ映像だなんて、歌詞の世界と合致しているはずがありません。な~んだ。映像制作者の意図を理解しようと努めて、これまで悩んできた私の苦労は何だったんでしょうか。カラオケの映像に歌詞の世界とのそこまでの密接な関係を求める方が、間違っていたのかもしれません。多くの曲に同じ俳優さん、同じ背景映像が使われているので、けっこう映像を使い回しでいるんだろうなあとは思っていましたが、それにしても、これほど世界観の違う作品の映像が同じだったとは驚きました。テレビドラマ研究者として、映像制作の意図を過剰に考えすぎてしまったのかもしれません。
 今後は考えを変えます。もうこれからは歌うことに集中してやるんだ!


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 今クール(1~3月期)のテレビドラマで楽しみにしているのは『アイのない恋人たち』だと、先週のこのブログで書きました。それは確かなのですが、加えて今SNSなどで話題の『不適切にもほどがある!』は、今クール作品の中で抜群に面白いです。この作品についてはいずれ書きたい気持ちがありますが、今週の放送で目についたのは歌詞の時代差です。
 今週放送の第4回では、主人公が生きていた1980年代の歌謡曲の歌詞が2020年代になって取り上げられます。たとえば、島津ゆたか『ホテル』の「手紙を書いたら叱られる 電話もかけてもいけない」という歌詞は、2020年代では、「モラハラ男とストーカー女の不倫ソングじゃん」と全否定されます。また、沢田研二の『カサブランカ・ダンディ』の「ききわけのない女の頬を 一つ二つはりたおして」という歌詞は、「はいダメー! もうこれパワハラっていうかDVじゃん」と歌の途中で止められてしまいます。私はテレビドラマ研究者ですので、テレビドラマにおいても、過去の作品のシーンで現代では放送できなくなっている箇所など、この手の時代差を痛感することがたびたびあります。
 今日はテレビドラマではなく、歌謡曲の歌詞についてなので、その方向で書くと、過去の歌詞を現代から見ると「う~ん?」と悩んでしまうことが少なくありません。私の好きな中島みゆきの歌詞にも、以前は「男は~、女は~」というフレーズがしばしば登場していました。そういう表現を一概にいけないとは思わないのですが、現代では通用しにくくなっていることは確かです。この中島みゆきの歌詞についても、いずれ研究対象にしてみたいというのが私の野望です。
 それ以外で一つ思い浮かんだ曲は、中西保志『最後の雨』(1992年、作詞:夏目純 作曲:都志見隆 ※現在放送中の『離婚しない男―サレ夫と悪嫁の騙し愛―』のエンディング曲))です。これは私のカラオケ得意曲の一つなので、世の中で歌唱禁止になったりすると困るのですが、現代から見ると歌詞にかなり気になる箇所があります。内容としては、去っていこうとする女性とその女性を想い続ける男性とが描かれている歌詞で、その中に次のような表現があります。

 本気で忘れるくらいなら
 泣けるほど愛したりしない
 誰かに盗られるくらいなら
 強く抱いて 君を壊したい

 さよならを言った唇も
 僕のものさ 君を忘れない

 1990年代には情熱的な愛の歌だったのだと思いますが、現代から見ると「誰かに盗られるくらいなら強く抱いて 君を壊したい」にはDVの要素や、(ストーカー行為やリベンジポルノを引き起こしかねない)別れた後の強い執着が連想されてしまいます。また、「さよならを言った唇も僕のものさ」というあたりには、女性の身体をモノ化して所有したいという願望が見えてしまいます。この歌を検索すると、歌詞に込められた情熱を賞賛するコメントがある一方で、「歌詞が怖い」といった意見も出てきます。その意味でも、今日のテーマの時代差が強く感じられる歌詞の一例です。
 とはいえ、先に書いたように、この曲は私のカラオケ得意曲の一つなので、もし私が歌っても、歌詞の時代差に関しては大目に見ていただけるとありがたいです。

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 まずは『セクシー田中さん』問題。先週私は「日本テレビ(と小学館)」にさらなる対応が必要だと書きました。小学館は編集部のコメントを発表しましたが、日本テレビはその後なんの対応もしていません。たいへん残念ですが、そういう状況ですので、今回は別のことを書きます。
 今クールのテレビドラマでまだ感想を書いていない作品も多くありますが、すべて出揃った現時点で、私がもっとも楽しみにしている作品は『アイのない恋人たち』です。この作品については既に感想を書きましたが、今回は脚本家の面から追加のコメントを書こうと思います。
 『アイのない恋人たち』の脚本を担当しているのは遊川和彦です。古くは『GTO』や『家政婦のミタ』など、近年も『となりのチカラ』や『家庭教師のトラコ』などを書いています。私は自分の勤める大学の授業の中で、毎回脚本家を一人ずつ考察していく授業をしたことがあります。そのときに半期10数回の授業の1回に遊川和彦を取り上げました。学生にドラマを見せながら毎回1人の脚本家を講義するので、もちろん脚本家の全作品・全体像を十分に追究することはできません。ただ、遊川和彦脚本の特徴は「愛の自明性を問い直す」ところにあると考えてきました。恋愛、親子愛、家族愛、師弟愛などなど…。そういった愛を一度疑い、当たり前のものではないことを問い直すような設定と展開をするところに、脚本家としての特徴があると思っています。
 どの作品でどのような問い直しをしているかは別の機会に譲りますが、この『アイのない恋人たち』でも、そのような遊川和彦脚本の特徴はいかんなく発揮されているというのが私の印象です。表面にあらわれているのは男女7人の「恋愛感情」「異性愛」ですが、そこに「親子愛」や「友情」の要素もかなり色濃く描き出されています。そのような視点から見てみると、この作品にさらに興味がわいてきますし、今後の「愛の問い直し」がどのように展開するか、より注目して作品を見ていきたいと思います。

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 『セクシー田中さん』の作者・芦原妃名子さんが亡くなったこと、そして、原作漫画とテレビドラマ版の間でいくつかの葛藤があったことが報道されています。私はテレビドラマ研究者として、この問題に無関心ではいられません。とはいえ、報道は断片的で、この間の経緯を詳細に把握できるような情報にはまだなっていません。その段階での意見ですので、そこは慎重にコメントしたいと思っています。まずは今回の経緯を整理します。

★12月24日 脚本家のInstagram

『セクシー田中さん』今夜最終話放送です。
最後は脚本も書きたいという原作者たっての要望があり、過去に経験したことのない事態で困惑しましたが、残念ながら急きょ協力という形で携わることとなりました。

★12月28日 脚本家のInstagram

『セクシー田中さん』最終回についてコメントやDMをたくさんいただきました。まず繰り返しになりますが、私が脚本を書いたのは1~8話で、最終的に9・10話を書いたのは原作者です。誤解なきようお願いします。
ひとりひとりにお返事できず恐縮ですが、今回の出来事はドラマ制作の在り方、脚本家の存在意義について深く考えさせられるものでした。この苦い経験を次へ生かし、これからもがんばっていかねばと自分に言い聞かせています。どうか、今後同じことが二度と繰り返されませんように。

★1月26日 原作者・芦原妃名子さんのブログ

(前略)
「セクシー田中さん」は連載途中の未完の作品であり、また、漫画の結末を定めていない作品であることと、当初の数話のプロットや脚本をチェックさせていただいた結果として、僭越ではありましたが、ドラマ化にあたって、
・ドラマ化するなら、「必ず漫画に忠実に」。漫画に忠実でない場合はしっかりと加筆修正させていただく。
・漫画が完結していない以上、ドラマなりの結末を設定しなければならないドラマオリジナルの終盤も、まだまだ未完の漫画のこれからに影響を及ぼさない様「原作者があらすじからセリフまで」用意する。
原作者が用意したものは原則変更しないでいただきたいので、ドラマオリジナル部分については、原作者が用意したものを、そのまま脚本化していただける方を想定していただく必要や、場合によっては、原作者が脚本を執筆する可能性もある。
これらを条件とさせていただき、小学館から日本テレビさんに伝えていただきました。
また、これらの条件は脚本家さんや監督さんなどドラマの制作スタッフの皆様に対して大変失礼な条件だということは理解していましたので、「この条件で本当に良いか」ということを小学館を通じて日本テレビさんに何度も確認させていただいた後で、スタートしたのが今回のドラマ化です。
ところが、毎回、漫画を大きく改変したプロットや脚本が提出されました。
(中略)
9話、10話に関する小学館と日本テレビさんのやりとりを伺い、時間的にも限界を感じましたので、小学館を通じて9話、10話については、当初の条件としてお伝えしていた通り、「原作者が用意したものをそのまま脚本化していただける方」に交代していただきたいと、正式に小学館を通じてお願いしました。
結果として、日本テレビさんから8話までの脚本を執筆された方は9話、10話の脚本には関わらないと伺ったうえで、9話、10話の脚本は、プロデューサーの方々のご要望を取り入れつつ、私が書かせていただき、脚本として成立するよう日本テレビさんと専門家の方とで内容を整えていただく、という解決策となりました。
何とか皆さんにご満足いただける9話、10話の脚本にしたかったのですが…。素人の私が見よう見まねで書かせて頂いたので、私の力不足を露呈する形となり反省しきりです。
(後略)

★この間、SNS上などで漫画読者やドラマ視聴者からの意見が相次ぐ。

★1月28日 原作者・芦原妃名子さんのX

攻撃したかったわけじゃなくて。
ごめんなさい。

★1月29日 原作者・芦原妃名子さんが遺体で発見される。

★1月29日 日本テレビ『セクシー田中さん』公式サイト

芦原妃名子さんの訃報に接し、哀悼の意を表するとともに、謹んでお悔やみ申し上げます。2023年10月期の日曜ドラマ『セクシー田中さん』につきまして 日本テレビは映像化の提案に際し、原作代理人である小学館を通じて原作者である芦原さんのご意見をいただきながら 脚本制作作業の話し合いを重ね、最終的に許諾をいただけた脚本を決定原稿とし、放送しております。本作品の制作にご尽力いただいた芦原さんには感謝しております。

★1月30日 日本テレビ公式サイト

芦原妃名子さんの訃報に接し、哀悼の意を表するとともに、謹んでお悔やみ申し上げます。日本テレビとして、大変重く受け止めております。ドラマ『セクシー田中さん』は、日本テレビの責任において制作および放送を行ったもので、関係者個人へのSNS等での誹謗中傷などはやめていただくよう、切にお願い申し上げます。

以上が、ごく簡略にまとめた経緯です。
それに関する私の考え(今回は要点のみ)です。

1.
映像作品(テレビドラマ・映画)と原作(漫画・小説など)はしばしば大きな相違を生じます。異なる媒体であり、映像には時間的制約もあることから、完全に忠実に映像化することはできません。また、受容する読者、視聴者の層や幅にも違いが生じます。原作を尊重しての上ではあるが、映像化にあたっての一定の変更はやむを得ない面があります。
2.
映像制作者の、よい作品を制作したいという意欲を私は評価しています。よい作品を作ろうとするほど、テレビドラマ視聴者に喜んでもらおうとすればするほど、原作通りにはいかない場合も生じます。一方で映像制作者の独断に陥りやすい環境もあります。他局や他番組を含め、テレビ界には編集権の濫用と思えるような現象がときに見られます。それを問題としない風潮に、私は疑問を持っています。
3.
テレビドラマ『セクシー田中さん』脚本家へのバッシングはけっして容認できません。脚本家も今回の騒動の犠牲になった可能性があります。ただし、脚本家のSNS発信は軽率だった面があります。ことの全体像を書かずに(あるいは、全体像を知らずに)、自分の不満だけを一方的に公開してしまったように見える点で、軽率な発信だった面があります。
4.
日本テレビの公式コメントが出ていますが、きわめて不十分です。初動対応が間違っているといわざると得ません。最初の発信が「最終的に許諾をいただけた脚本を決定原稿とし、放送しております」とありますが、そこに至る経緯で原作者も脚本家も苦しんでいたことを公表しています。その部分への言及・配慮がない点がまず大きな問題です。さらに次のコメントでは「日本テレビの責任において制作および放送を行ったもので、関係者個人へのSNS等での誹謗中傷などはやめていただくよう」とありますが、そこに書かれた自らの「責任」の中身が、何も示されていません。

 さらに詳しく書くべきですが、今回はここまでとさせてください。ただ、今後は日本テレビ(と小学館)の対応を特に注視したいと思います。日本テレビは、「これから詳しい調査をして、番組を見てくださった視聴者の皆様に、誠意を持ってご説明します」くらいのことを、最初から書けなかったのでしょうか。たとえばですが、吉本興業は、松本人志問題の最初の公式コメントを、社内ガバナンス委員会の意見を受けて、後から修正することになりました。初動対応がいかに重要かを示しています。日本テレビの「責任」ある対応が求められています。

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