フィクションのチカラ(中央大学教授・宇佐美毅のブログ)
テレビドラマ・映画・演劇など、フィクション世界への感想や、その他日々考えたことなどを掲載しています。
 



 本当に今さらですが、ブログのネタが尽きたこともあり、標題のことを書きます。
 話はプロ野球オリックス対ロッテ戦(4月24日)にさかのぼります。この試合の途中で、白井一行球審(44)がマウンド上の佐々木朗希投手(20)につめより、何か大声を出しているように見えました。松川虎生捕手(18)が間に入って白井球審をなだめ、その後白井球審は元に位置に戻っていきました。どうやら、ストライク・ボールの判定に苦笑いした佐々木投手に対して、腹を立てた白井球審がその態度を叱りに行ったもののようでした。この行為について、マスコミでもSNS上でも、大騒ぎになりました。

 ただし、この件について、白井球審も審判部の公式な見解を発表していません。まず問題なのはこの点です。プロスポーツであり、ファンあってプロ野球のはずなのに、これだけ世間を騒がせた出来事に対して公式見解を出さないことについて、私は批判的です。まずは何があって、それについて組織としてどのような姿勢をとるのか、十分な説明をするべきだったでしょう。
 そのように公式見解がないので、状況から見ての意見ですが、私は白井球審に対して批判的です。いかに「令和の怪物」とはいえ、「高卒3年目の若手選手が審判の判定に苦笑いするなどけしからん」という意見もあるでしょうが、私は「権限を持つ者と敬意を持たれる者は違う」という考えから、白井球審の行動に批判的です。そのことを説明します。
 こういうたとえをしてみましょう(たとえ話ですので、完全に状況が同じではないことは承知の上です)。ある学校にものすごく勉強のできる生徒が入学してきたとします。数学オリンピックで優勝したとか、外国暮らしが長くて英語の先生よりも英語が上手だとか、IQが飛び抜けて高いとか、です。その生徒が先生の話について不満そうな顔をしたとします。先生の数学の説明が曖昧だったとか、先生の英語の発音が下手だったとか、です。その生徒の苦笑いを見て、先生が腹を立てて生徒に詰め寄り、「お前、天才かなにか知らないが、ここでの教師は自分だ。ここでは俺に従え!俺が話しているときに苦笑いをするとは何ごとだ!」と大声を出した。そういう連想です。
 これはとても恥ずかしい行為です。生徒は(学生は)、先生に権限があるから敬意を持つのではなく、先生の知識や人徳や、人生経験の豊かさから来る大人としての姿勢に対して敬意を持つのです。ですから、先生がヒラの教師だろうと、校長先生、教頭先生だろうと、同じことです。敬意を持たれない校長先生もいれば、敬意を持たれる非常勤の先生もいます。先生の持っている権限の大きさと集める敬意の量はまったく連動しません。逆に、「自分には権限があるのだから敬意を持て!」と、生徒に対して大声を出すような先生は、その行為だけで周囲の敬意を失うでしょう。
 ですから、私は「権限を持つ者と敬意を持たれる者は違う」と書きました。結論。「敬意を持たれたかったら、敬意を持たれるような言動をしなさい。」ということです。

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 囲碁とAIの関係については、このブログで何度か書いてきました。繰り返しになりますが、ほんの20年ほど前、私はAIが人間を追い越すのはまだまだ先のことだと思っていました。プロや名人クラスはもちろん、アマチュアの私ですら、生きている間にコンピューターに負けるとは思ってもいませんでした。それがコンピューターの急速な進歩により、名人クラスの人間もAIに勝つことができなくなってしまいました。
 「人間がAIに勝てなくても人間の価値は変わらない。人間より自動車が速くても、オリンピック陸上100m優勝者への敬意は変わらない。」ということがよくいわれます。理解できますが、囲碁、将棋、チェスなどの場合は、1手1手はAIと同じ手を指すこともあり、速さや強さとは違うので、自動車の例と囲碁などの例とでは、受ける印象が少し違っています。

 さて囲碁の話ですが、近年はプロの対局を見ながら、AIの形勢判断を参考にすることが多くなりました。そして、プロの着手の後にAIの数値を見てから、「AIの勝率が上がったからこの手はいい手だった」「この手で数字が下がったから悪手だった」などと思うようになりました。たしかに、AI勝率の高い手を打ち続ければ勝利に近づきます。しかし、待てよ。人間はどうやっても、最初から最後までAI通りには打てないのです。その際に、AIの数値の高い手が必ずしも勝利に近い手とは限らない、というのは今日の私の文章の趣旨です。

 そのことを実戦で見てみたいと思います。今年の囲碁棋聖戦七番勝負最終局の井山裕太棋聖(白番)対一力遼挑戦者(黒番)戦から。「図1」の局面から黒番の一力は左辺を白に囲わせる作戦に出ました。黒白ともに2手ずつ増えて「図2」になりました。

  (図1)(図1)
  (図2)(図2)


 囲碁を知らない方に、この2手ずつの意味を説明するのは難しいのですが、おおむねこういうことです。囲碁は最後に囲った陣地が大きい方が勝ちです。ただ、最初から陣地を囲うことが戦略的に有利とは限りません。たとえていうと、10万円受け取る権利があるとして、その10万円を先に現金で受け取って手元に置くか、何かに投資して増やそうとするか。投資する場合は、10万円より増えることもあれば、減ることもあります。増えると考えて投資するか、先に受け取って確保しておくか、です。
 実戦の黒の作戦は投資作戦です。左辺を白に囲わせるということは、白の井山棋聖に先に現金を与えてしまうことです。となると、黒の一力挑戦者は、他の場所でそれ以上の価値を生み出すことが必要です。そして、AIの形勢判断は、「図1」で黒の勝率44.8%「図2」で黒の勝率32.2%でした。ということは、黒のこの作戦はAIからは評価されなかった、勝利の可能性が減った、よくない作戦だったということになります。
 しかし、私が言いたいのは、この場面におけるAIの勝率と人間の感覚の違いについてです。対局中に対局者はAI判定を見られません。黒の一力挑戦者は、先に相手に地を囲わせる(つまり先に現金を与える)という大胆な作戦を意図的に選択し、その後の展開で主導権を握ることができました。AIの数値は下がっても、人間的には、心理的には、勝利に近づいたといえる面があるのかもしれません。「勝利に近づいた」はいいすぎとしても、少なくとも黒側が精神的に満足して、その後を打ち進められたのではないかと思うのです。

 もうひとつ例を挙げます。「図3」の場面で、井山棋聖の下辺から上辺にかけての17個の白石は、まだ完全に生きているとはいえません。

  図3(図3)

 私のようなアマチュアであれば、この石を攻めたくなります。しかし、そこがタイトル戦の微妙な局面で、攻めたら勝利に近づくのかは紙一重のところです。そのときに一力挑戦者は左辺にすべりました(△のある黒石)。白の大石から離れた地点に打ったわけで、これはプロの予想にもなかった手でした。AIの形成判断でも、この手が特にいい手とされていたわけではありません。
 しかし、私が見るところ、この左辺スベリこそ、一力挑戦者の特長が発揮された手だと思うのです。つまり、下辺から上辺にかけての白の大石に直線的に攻めかかる手は、いいかえれば、意図のわかりやすい、単純な手でもあります(読みとしては難しい手であるとしても)。だからこそ、挑戦者は左辺をスベリ、「中央の白大石と左上の白石、両方弱いんじゃないですか。左上の石も頑張ると、今度こそ本気で中央の白大石に攻めかかりますよ。どうするんですか。」と問いかけているのです。
 AIは迷ったり困ったりしませんが、人間はこう問いかけられると簡単に態度を決められなくなります。その意味でも、左辺すべりは、AIから特に高く評価されなくても、人間的には好手だったと私は考えるのです。

 人間はAIには勝てなくなりました。しかし、人間の勝負には人間にしかない勝敗のかけひきと心理的な機微があります。そのことに敬意を持って、これからも人間の勝負ごとを見ていきたいと思っています。


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 私のインターネット上の発信は、このブログが中心です。しかし、私には、ブログと別に公式ホームページというものがあります。それが下記のページです。

 中央大学宇佐美毅研究室(旧)

 このページは、私が勤める中央大学のページを使っていますが、大学からページの移行の連絡がありました。実はかなり以前に連絡をもらっていたのですが、私がなかなか移行作業をすることができず、今に至ってしまいました。また試行段階ですが、googleサイトを使った新しい公式ホームページが下記のものになります。

 中央大学宇佐美毅研究室(新)

 新しいシステムが導入されるにはそれだけの理由がありますし、それで改善・向上することも多々あります。とはいえ、私個人はICT弱者なので、新しいコンピューターに移行したり、OSシステムが新しくなったりするたびに、対応にとても苦労します。「もう何も新しくなるな!」「新しい製品を作った奴を呪ってやりたい!」と、システムに八つ当たりしたくなるほどです。
 今回も苦労しているのですが、考えてみると旧ホームページを開設したのが2005年のこと。書き足してきた総量への愛着もある一方で、メンテナンスしていなかったツケが回ってきている面もあります。その意味では、この強制的に移行させられる機会に、自分の公式ホームページを見直さなければいけないと感じました。

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 4~6月ドラマの感想を書いてきました。このへんで気分を変えて、プロ野球佐々木朗希投手に詰め寄った白井球審のことを書こうと思ったのですが、そう思っているうちに騒動がおさまってきてしまったので、やはりドラマのことを書くことにしました。これまでの重複するとこともありますが、NHKドラマについて感想を書くことにします。

ちむどんどん(NHK、月曜~金曜朝8時) 

 この作品については、このブログで一度書きました。そのときは、「今のところ見るのがつらい、or見る気力がわかない」「脚本にツッコミたいことだらけ」「主人公たちが成人になる今週からに期待」ということを書きました。約1か月見続けましたが、残念ながら印象は好転しません。脚本によくわからないところが多すぎます。他のネットサイトでもかなり書かれていますが、主人公家の生活していけないほどの貧乏はどうなったんだ(みんな高校へ行って、長女は短大行って教員になっています)! 生活できないから一人親戚にもらわれているという話はどうなったんだ(バスが止まって家族のところへ帰ってきます)! この2点が多くの人に指摘されている代表的な疑問点ですが、仲間由紀恵演じる母親が悲惨なほどの苦労をしているはずなのに、きれいごとばかり言っているのが嘘っぽい。長女(川口春奈)が洋服を買いたいために家へ入れる生活費を減らし、最初は「本を買ったから」と嘘をついたけど、それを悔やんで母親に正直に打ち明け、母親が「楽しかったならそれでいいんだよ」と言って二人めでたしめでたし…というのも嘘っぽい。絵に描いたようなバカぼん(おバカなおぼっちゃま)やら、絵に描いたような嫌みな(長女の)女友だちやら、絵に描いたような理解のない会社やら、絵に描いたようなおバカな長男と詐欺師やら。これはもう、話をどうこう持っていきたいがために、作中人物を無理に設定したり登場させたりしているとしか思えません。作中人物がいくら「ちむどんどん」しても、見ているこちらがぜんぜん「ちむどんどん」してきません。
 私は研究者ながら、テレビドラマには点が甘いことが多く、どちらかといえば「ホメ屋」の部類に入るかもしれません。その私がこれだけ不満を書くことは滅多にないことです。唯一の希望は主役を演じる黒島結菜でしょうか。黒島が『ごめんね青春!』(2014年)で生徒会長役を演じたときから私は注目しているので、『ちむどんどん』が黒島の黒歴史にならないことを願っています。


しずかちゃんとパパ (NHKBSプレミアム 日曜22時) 

 野々村静(吉岡里帆)は写真館を営む父の純介(笑福亭鶴瓶)と二人暮らし。純介は聴覚障害者で、静香は父親の手話通訳を長年務めてきた…という設定です。このドラマの企画とキャスティングには驚きました。聴覚障害を描いたドラマは以前から多々あります。1990年代の『愛していると言ってくれ』『星の金貨』、2000年代の『オレンジデイズ』、もっとさかのぼれば何度も映像化された『名もなく貧しく美しく』などなど。しかし、笑福亭鶴瓶といえば、今や希有な才能を持つ俳優ではあるものの、あの独特の関西弁を抜きにしては考えられない存在です。その鶴瓶を聴覚障害者として、発話なしの役で起用することに驚かされました。
 作中人物の特徴としても、まずは聴覚障害が目立ちますが、それに加えて、吉岡里帆演じる静は、周囲から誤解されたり疎まれたりする性格の女性。さらに、写真館のある商店街を再開発する会社員の道永圭一(中島裕翔)は、明らかに発達障害的特徴を多く持った人物として設定されています。つまり、さまざまな特性を持った人たちがどのような関係を築いていくかを描くという意味で、単独の障害を描くのとは異なる、きわめて意欲的なドラマ作品になっていると思いました。
 そのような意味で、私はこの作品を評価しているのですが、ただ一点だけ不満を書きます。商店街の再開発に住民たちは当然反発します。しかし、圭一の説得で納得して再開発を受け入れますが、その納得が安易すぎます。圭一の人柄を認めたがゆえということはよくわかりますが、それにしても、「商店街はなくなりますが未来への種になります」って、そんな言葉で住民が自分たちの街がなくなることを受け入れるでしょうか。その部分の描き方の安易さに、私はどうしても納得いきませんでした。


鎌倉殿の13人 (NHK、日曜20時)

 この作品については、まだ放送回数の少ない今年1月に感想を書きました。そのときの期待通り、あるいは期待以上に進んでいると思います。私は三谷幸喜脚本の3作の大河ドラマ『新撰組!』『真田丸』『鎌倉殿の13人』のうち、この『鎌倉殿の13人』をもっとも評価しています。この作品についてはいずれあらためて書いてみたいと思っています。


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 4~6月ドラマ感想を書き続けています。今回は深夜放送編ですが、あいかわらず書く時間が十分とれないので、短いコメントでご容赦ください。


吉祥寺ルーザーズ 
(テレビ東京系 月曜23時) 

 深夜というほど遅い時間ではありませんが、23時台の作品。秋元康企画の作品は、これまでどの作品を見ても、「さすがの着眼」と思ってきました。しかし、私の場合だけかもしれませんが、今回はあまり興味が持てません。田中みな実演じる女性が鬱陶しすぎて見てて嫌だな、と初回を思ってしまったためかもしれません。とはいえ、見続けていると、その鬱陶しいのが癖になってくる気がしないでもありません。


明日、私は誰かのカノジョ (TBS系、火曜深夜)

 原作はをのひなおの同名漫画で、「レンタル彼女」や「パパ活」をする若い女性たちの話。この手の作品は、男性側からの興味本位な目線で制作されていることもありますが、この作品は終始女性側から描かれていると感じました。そう思ってスタッフを見たら、脚本・監督とも女性が多いようでした。女性スタッフだから女性目線で制作されている、のような決めつけもまたよくありませんが、少なくとも、登場する女性たちの心情はよく描かれていると感じました。

村井の恋(TBS系、火曜深夜)

 原作は島順太の同名漫画。ゲームのキャラクターに恋してしまっている若井女性教師・田中綾乃(髙橋ひかる)。田中に恋する高校生(宮世琉弥)がイメチェンすると、そのキャラクターにそっくりに……という話。2次元キャラクターに恋する話も近年多くあるので、やや既視感があります。髙橋ひかるは『春の呪い』でせつないラブストーリーのヒロインを演じ、今回はコメディ調作品。もっと前なら『高嶺の花』でコスプレ少女を演じていました。せっかくの正統派美少女・髙橋ひかるに本当に合う役柄は何なのか。なにか当たり役がほしいところです。


メンタル強め美女白川さん(テレビ東京系、水曜深夜) 

 原作は獅子の同名漫画。ストレスフルな生活を送る会社の女性社員たちの中で、安定したメンタルで過ごせる白川桃乃(井桁弘恵)が主人公。メンタル「強め」というよりは「しなやか」とでもいうのでしょうか。見方によっては「ぶりっこ」「八方美人」ともいえますが、次第に周囲の人に理解されていきます。すぐに「傷ついた」とか言って自分を守ろうとする人が私は嫌いですが、それでも、ここで描かれていることは多くの人びとにとって切実な問題で、白川さんがひとつの処方箋になっているということは、よく理解できるような気がします。

俺の可愛いはもうすぐ消費期限(テレビ朝日系、土曜23時半)

 「可愛い」を武器に生きてきた「あざとかわいい」男子(山田涼介)が主人公。その「可愛い」が通用しなくなってきたときの戸惑いをコミカルに描きます。主人公のキャラクターがその役を演じる山田涼介に重なって、私はかなり興味をひかれました。私も、山田は「顔だけの俳優」という印象(先入観)を持っていましたが、同じテレビ朝日系の前作「セミオトコ」から印象が変わりました。過去にも、阿部寛や竹野内豊など、「顔だけ」に見える俳優がコメディも演じられる幅広い俳優に脱皮する例が多々ありました。山田がそれに続けるのか、注目しています。

しろめし修行僧 (テレビ東京系 金曜深夜) 

 ここから3作連続で、テレビ東京系得意の「深夜食べものドラマ」、いわゆる「飯テロ」作品の感想です。
 ほぼニートの修行僧が、托鉢の修行のために各地を回りますが、ご飯茶碗に乗せられる大きさのものしか食べてはいけないというのが修行ルール。ハナコ岡部大が修行僧を演じます。各地で人に出会い、人情に触れ、飯の友をふるまわれていく話。各地で恋してふられることを含めて、いってみれば『男はつらいよ』の寅さん(車寅次郞)のお坊さん版ですね。そういえば『男はつらいよ』をずっと放送しているのもテレビ東京でした。ちなみに、寅さんを演じてほしい俳優の第1位は大泉洋、第2位は濱田岳だとか。今後は岡部大がダークホースになるかもしれません。


先生のおとりよせ (テレビ東京系、金曜深夜)

 テレビ東京系得意の「飯テロ」作品もネタ切れかと思いきや、今度は「お取り寄せ」がテーマ。中村明日美子と榎田ユウキの同名漫画が原作。無愛想な官能小説家(向井理)とフェミニンな漫画家(北村有起哉)がお取り寄せ食品をめぐって語り合います。能書きいわずにガッツリいく系の「飯テロ」作品もありますが、こちらは蘊蓄全開の「飯テロ」作品です。私は能書き言わない方が好みですが、蘊蓄は蘊蓄でわるくないと思いました。


今夜はコの字で(テレビ東京系、土曜深夜) 

 3つめの「飯テロ」作品は居酒屋が舞台。しかも、実在の、「コ」の字型のカウンターがある居酒屋が舞台です。原作は加藤ジャンプ・土山しげるの同名漫画。タッチパネルのあるお店にしか行かない30代サラリーマン(浅香航大)が、先輩(中村ゆり)の勧めで「コの字型居酒屋」で他人とのコミュニケーションを少しずつ体験していく話。私はそんなにお酒飲みではありませんし、ひとりで外飲みすることはないので、そういう居酒屋には縁がありません。イギリスに外在研究で行っていたときには、一人でよくパブで食事しましたが、他の客と会話することはあまりありませんでした。ただ、知らない人と会話するということで思い出したことがあります。
 まだ20代の頃の話ですが、私はときどき「碁会所」というところに行きました。囲碁を趣味をする人が入場料を払って行って、そこに来ている知らない人と対局する場所です(常連同士で顔見知りという場合もありますが、私は常連ではないのでそういう体験はありません)。日本棋院という囲碁の総本山のような場所でも、月に1回無料開放日があって、それにも何度か行ったことがあります。そういう場所では、簡単な挨拶だけのこともありますし、対局を振り返った感想を交わすこともあります。マナーのよい人もいれば、ひどくマナーの悪い人もいました(日本棋院にはいません)。そういうことも含めて他人とかかわるのが碁会所という場所でした。「コの字型居酒屋」も似たようなところがあるのかもしれません。私が忙しくなったことやインターネット対局が普及したことで、私が最後に「碁会所」に行ったのはもう40年近く前のことですが、「コの字型居酒屋」からそんな昔のことを思い出しました。


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