フィクションのチカラ(中央大学教授・宇佐美毅のブログ)
テレビドラマ・映画・演劇など、フィクション世界への感想や、その他日々考えたことなどを掲載しています。
 




(トーマスクック社のヨーロッパ鉄道時刻表1995年版)

 イギリスの大手旅行会社トーマスクック社が倒産したというニュースが、今週ありました。日本の多くの人には関係ないニュースのようで、ローカル局で放送しているBBC(イギリス国営放送)ニュース以外では、ごく小さな扱いしか受けていなかったようです。しかし、私はこのトーマスクック社には思い入れがあります。(私も年をとったのかなぁ。この頃このブログで思い出話が多いんじゃないか?ヤオハン、ラグビー、それにトーマスクック社と、思い出話を書くことが続いています。)

 ヤオハンのときに書いたように、私は1995年に中央大学の在外研究でロンドンに住んでいました。ただ、ロンドンにずっといたわけではなく、イギリス国内やヨーロッパの多くの大学に出かけて、なるべく大学の日本語教育や日本文化研究を見学するようにしていました。そこで必要だったのが列車の時刻表です。
 1995年当時、パーソナルコンピュータやメール、インターネット機能が世の中にあったことはありましたが、それほど普及しているとは言えませんでした。私もその時期はいわゆる「ワープロ」(ワードプロセッサー。つまり単なる文書入力機器)しか使っていませんでした。ロンドンなどの大都会で携帯電話を使っている人を見かけることはありましたが、まだ先端技術で、私もまだ携帯電話を持っていませんでした。
 ですので、その頃の私は、各種情報をアナログ的な方法で手に入れていました。在外研究期間中に、ロンドン以外では、ケンブリッジ大学、シェフィールド大学、カーディフ大学(以上イギリス)、パリ第7大学、コペンハーゲン大学、ライデン大学、ベルリン自由大学、ボフム大学、等々の大学を訪問しました。その時に、ロンドンからそれらの都市を飛行機で毎回往復するのではなく、せっかくなので、ヨーロッパの都市間を列車で移動し、観光や都市見学をしながら、各大学を訪問していました。そこで出てくるのがトーマスクック社の時刻表です。
 トーマスクック社の時刻表は、ヨーロッパの都市間のほとんどの列車時刻が網羅された、たいへん便利な時刻表本でした。私はこの「トーマスクック社時刻表」「地球の歩き方欧州編」の2冊の他は、カメラや身の回りのものなど、ごくわずかな持ち物だけを持って、ヨーロッパの多くの都市や大学を回っていました。ちなみに、まだ通貨はユーロではなく、国境を越えるたびに両替をしないといけないという不便な中で、このトーマスクック社の時刻表だけは国境に関係なく使えるというありがたい情報本で、ロンドンを離れている期間には毎日のように活用していました。


(自分が乗った列車にはラインマーカーの跡が)

 私はもともとものを捨てない(捨てられない)人間で、断捨離はとうていできません。ですので、このトーマスクック社時刻表の1995年版は今でも捨てずに持っています。今回、何十年ぶりかに開いてみたら、自分が乗った列車にはすべて青のラインマーカーでチェックが入っていました。今は校務多忙で、思い出に浸っている余裕はありませんが、いずれこの時刻表のページをめくって、1995年のことを振り返ってみたいと思っています。

※このブログはできるだけ週1回(なるべく土日)の更新を心がけています。




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(ワールドカップ開幕戦の試合開始直前。国家斉唱は平原綾香。)


 ラグビーワールドカップ2019日本大会が開幕しました。
 ラグビーワールドカップは今回が9回目。これまでの8回はヨーロッパ、オセアニア、南アフリカといった、いわゆるラグビーの伝統的強豪国での開催。今回の日本での開催はラグビーの歴史において画期的なことです。
 その開幕戦は日本対ロシアの対戦。幸いなことにその試合のチケットが手に入ったので、その歴史的な試合を試合会場の東京スタジアムで観戦してきました(ですのでこのブログのロシア戦写真は私が撮影したものです)。試合結果は「30対10」で日本の勝利。4トライによるボーナスポイントもとれて、日本にとっては絶好のスタートがきれました。
 とはいえ、内容的にはけっしてよいところばかりではありませんでした。序盤は地元開幕戦のプレッシャーか、選手の動きが極度にかたく、ミスが目立ってそれが失点につながりました。スタンドオフ田村のキックの精度もいつもより格段に低くて、攻撃のリズムが作れない場面が目立ちました。

 とはいえ、そういうことを書いても専門家のコメントには及ばないでしょうから、ここではラグビーに関する思い出を書きます。
 私はスポーツ観戦全般が好きですが、特にサッカー、ラグビー、ボクシングなどを好みます。ただ、チームスポーツで世界的に普及しているという点で、サッカーの試合の盛り上がりが一番だと感じます。だからこそ、ワールドカップドイツ大会(2006)や南アフリカ大会(2010)のとき、現地まで観戦に行きました。
 しかし、そういう現状を抜きにして、スポーツ競技自体の面白さを考えたら、私はラグビーほど見ていて面白い競技はないと思います。なぜなら、サッカーの戦術と格闘技のスリルの両方がその中にすべてつまっているのですから。どんな競技にも良さはありますが、オリンピックでもワールドカップでもなくても、見ていて体が熱くなる思いがあるのはラグビーだと思っています。
 そういう気持ちがあって、若い頃にはときどき競技場に行きました。「若い頃」っていつのこと?と言われると、今からもう30年以上前のことになります。その頃観戦した中でもっとも印象深い試合は、新日鉄釜石が日本選手権7連覇を達成した1984年1月15日、同志社大学を31対17で破った国立競技場での試合です(この頃、日本選手権決勝は1月15日成人の日の祝日と決まっていました。さらにいえば、この頃の成人の日は1月15日に固定されていました)。
 この日は、ラグビー界最大のスターだった松尾雄治の引退試合でもあり、国立競技場は超満員でした。私は自由席のチケットしか持っていなくて、たしか通常の座席ではなく通路に座って観戦したように記憶をしています。その座席の記憶は曖昧ですが、新日鉄釜石の最後の攻撃は今でも鮮明に記憶しています。あまりの大歓声に選手同士の声が聞こえなくなり、松尾雄治が手ぶりで大きく空中に数字を書いて、味方に攻撃の指示を出した姿が脳裏に焼きついています。


(1984年1月15日大観衆の歓声で何も聞こえない国立競技場。松尾雄治は手振りで味方に攻撃のサインを送った。)

 今回ワールドカップ開幕戦という記念すべき試合を観戦することができて、1984年の試合同様、一生忘れない試合として記憶することになるでしょう。ワールドカップはまだ始まったばかりですが、今後の日本チームの活躍、そしてアジアで初めての大会の成功を祈りたいと思います。

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(ラインアウト:日本13/14 ロシア8/9)


(スクラム:体格で上回るロシアに対して日本もほぼ互角)


(満員のスタンド:ときどきウェーブが起こっていた)


(余談ですがハイネケンビールの売り子さんが多すぎて、ときどき試合が見えなかったよぉ。)





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  (ゼミ合宿ですからまずは勉強です)


 学部ゼミの合宿に行ってきました。私が勤務する中央大学文学部国文学専攻では、3年次と4年次連続のゼミが必修科目になっています。2年間同じメンバーで学ぶということと、合宿や懇親会(要するに飲み会)、報告集の作成などの行事があることから、他の単独科目とは異なり、部活やサークルのような一体感や人間関係が生まれてくるように感じます。
 今年も例年通り、都内某所で2泊3日のゼミ合宿をおこなってきました。私のゼミが合宿をおこなうのは、一つはゼミ履修者の人数が多いためで、研究発表や卒業論文指導のための時間を確保する意味からです。今年度宇佐美ゼミの4年生は22名、3年生は18名。40名のゼミといえば、中学や高校の約1クラス分で、ゼミというにはいささか人数が多いといえます。
 大学では通常「S/T比」といって、学生数と教員数の割合が問題にされることがしばしばあります。もちろん、1教員あたりの学生数が少ない方がよいとされています。それはその通りです。しかし、ことはそう一面的ではありません。
 たとえば、1ゼミの1学年学生数が5名の場合と20名の場合を比べます。教員の費やせる時間と労力が同じとすれば、5名の学生でそれを分けるのと20名の学生でそれを分けるのでは、前者の方が先生から4倍の時間と労力をかけてもらえます。だから20名より5名の方がよい…となるのは当然です。
 たしかにそうですが、一方でこういうこともあります。1学年5名のゼミ生たちは、自分以外の同級生が4名しかいません。1学年20名のゼミ生には同級生が19名います。私のゼミでは各履修者が自分の研究課題をみんなの前で発表し、お互いに質疑応答や意見交換をおこないます。となると、前者は4名の同級生の研究課題しか知ることができませんが、後者は19名の同級生の研究課題を知ることができます。後者は、19名の同級生のそれぞれの研究課題を自分のことのように一緒に考え、そして、その課題を自分が引き受けたとしたら、どのようにその先の研究を進めるかを考え、そのことによって視野を広げたり、多様な研究方法を学んだりすることになります。つまり、学生が先生からしか学べないのなら学生の人数が多いのは不幸なことですが、学生同士で学ぶことがあるとすれば、同級生が多いことは貴重な財産でもあります。
 「S/T比」が大きくてもいいと開き直っているわけではありません。「S/T比」は小さいに越したことはありません。しかし、現実に多くの学生がゼミに来てくれているのなら、それをマイナスとだけとらえたくはありません。どうせなら、せっかく多くの学生が来てくれたことを強みにするようなゼミにしたいのです。
  このブログでも何回か取り上げているように、私のゼミ学生の卒業論文テーマは、通常の文学作品に限らず、演劇、映画、ドラマ、漫画、アニメなど多彩です。私のゼミでは、4年生が年間3回それぞれの卒業論文に関する発表をゼミでおこなうので、ゼミ学生全員がそれらの課題を共有します。1回の発表時間は短いものですが、それぞれの学生の卒業論文が最初の構想段階からどのように完成していったかを、全員で共有することが、すべての履修者の成長につながると考えています。

 今年のゼミ合宿も、楽しくて充実したものになりました。ゼミ学生、指導に来てくれた院生の皆さん、おつかれさまでした。


(レク①ディベート大会)


(食事の時間)


(レク②バレーボール大会)



(指導に来てくれた大学院生)


(皆さんおつかれさまでした)


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 半年間放送されたテレビドラマ『あなたの番です』が最終回を迎え、放送が終了しました。
 日本では3か月を1クールとし、1作品10回程度の放送回数が通常なのに対して、『あなたの番です』は半年間20回放送という珍しいドラマでした。視聴率はドラマの評価そのものではないとしても、この作品の最終回前までの19回の平均視聴率は「8.7%」と、それ自体は平凡なものでした。しかし、前半10回平均が7.0%、後半9回平均が10.6%と、これだけ後半に上がるというのは、あまりないことです。さらに、最終回視聴率が高いことが予想されますので、終盤の視聴率上昇は十分に注目に値します。
 ちなみにこの結果を私の予想していませんでした。半年近く前に私はこのブログで、次のように書きました。

近年のテレビドラマでは、一話完結でわかりやくすくてテンポが速いものが好まれています。それに逆行するような作りになっているところが、面白いところでもあり、心配なところでもあります。

 この作品の意欲的なところはわかっていたものの、半年間謎をひっぱる描き方二対して、後半に至ってここまで話題になり、支持されるとは思っていませんでした。この点の分析はいずれゆっくりおこなってみたいものの、この作品を見て、単純な「一話完結もの」と「続きもの」という二分法では考えられないことを感じました。
 この『あなたの番です』は、「一話完結もの」でないことは明らかです。ただし、単なる「続きもの」であったなら、このような後半への盛り上がりはなかったことでしょう。視聴者の予想を毎回のように裏切り、意外な展開の連続をさせたこと。それは、解決までの過程をただひっぱるのではなく、毎回の読者を幻惑するという役割を果たし続け、毎回が一話ごとのエンターテイメントとして十分に機能していたということなのでしょう。その意味では、一話ごとに視聴者を十分満足をさせ、楽しませていたということになります。
 最後まで見てみて、毎回の楽しみが消費されて終わってしまうものなのか、後に名何らかの豊かさを残すものなのか、その点は多くの視聴者の評価をもう少し聞いてみたいと思いますが、この作品が「一話完結もの」と「続きもの」という単純な二分法にとどまらない楽しみ方を提起したものとして、考察に値する作品だったという印象を持ちました。

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(右上から時計回りに、ロンドンヤオハンプラザ外観・お弁当売り場・ケーキ売場・フードコート=いずれも1995年当時の写真)

 元ヤオハングループ和田一夫代表が亡くなったというニュースがありました。実際に亡くなったのは8月19日だったそうです。

 ヤオハングループは1990年代半ばまで世界中に店舗を持った、巨大小売業会社でしたが、今ではこのニュースに強い反応をした人は、それほど多くなかったのではないでしょうか。しかし、私は個人的なある思いとともに、このニュースを受け止めました。というのは、私はある時期、ヤオハンの店舗に頻繁に通っていたからです。
 それは1995年のことでした。私は勤務先の中央大学から在外研究期間をいただき、ロンドン大学SOAS校に所属していました。海外には旅行でしか行ったことがなく、留学したこともアパートを借りて住んだこともなかった私には、初めての経験でした。住まい探しに自信のなかった私は、中央大学の同僚から紹介してもらったアパートを渡欧前に決めておいて、1995年4月1日に、ヒースロー空港からそのアパートに直行したのです。
 そのアパートは、ロンドン北部の Golders Green という場所にありました。その場所は、JJタウンと呼ばれ、日本人(Japanese)とユダヤ人(Jewish)の多く住んでいる地域でした。単身で外国住まいをした私は、自炊をするのも面倒で、食事は外食と中食(買って帰って家で食べる)がほとんどでした。そこでヤオハンが出てくるのですが、Golders Green の3駅先にある Colindale という駅にヤオハンスーパーマーケットを含む大きなショッピングモールがあり、そこに頻繁に通っていたのでした。だってそこには、スーパーマーケットの他にフードコート、お弁当屋、ケーキ屋、日本系書店、さらには不動産屋、写真店(その頃はまだデジカメは普及していませんでした)まであったのですから。
 ちなみにロンドンの定期券制度では、日本のような「〇〇駅から〇〇駅まで」という販売方法になっていません。ロンドンの中心部をZone1として、そこから同心円状にZone2,3、4と広がっていきます。そのZoneごとに定期券が発行されています。Golders GreenとColindale は同じZoneに属しているので、その間の地下鉄料金は、定期券を持っていれば不要だったのです。ちなみに、ロンドンの地下鉄定期券はバスの定期券も兼ねているので、途中からは、アパートとヤオハン間の移動にバスを利用することも多くなりました(そういえば、ロンドンでは2階建てバスにもよく乗ったなあ。ヤオハンへ行くバスの中からは花をいっぱい飾ったパブがいつも見えたっけ。)。
 当時、ヤオハンにはとてもお世話になりました。SOASに行かない休日などは、お昼頃にヤオハンに行き、フードコートでゆっくり食事をし、日本食のお弁当や、たまには1£ケーキを買って帰り、夕飯にそれを食べることがよくありました。私は日本食にこだわりがあるわけではありませんが、それでも日々の多くの食事を一人でするとなると飽きもきますし、海外で安価な日本食の昼食やお弁当がすぐ近くにあることは、ありがたいことでした。
 後から思うと、1995年当時はヤオハンの最後の輝きの時期でした。熱海の青果商から出発し、世界中に店舗を構える巨大小売業にまで拡大したヤオハンでしたが、1997年に経営破綻してイオングループに吸収されました。ロンドン Colindale にあったヤオハンショッピングモールも、その後行ったときは Oriental Land と名前が変わっていました。
 ヤオハンという企業の経営姿勢や、和田一夫元代表という人の考え方は、私にはよくわかりません。企業や経営者としての評価はさまざまあるようですが、海外生活に慣れていなかった私にとって、一時期とても大切な場所でした。その場所を提供してくれた企業には感謝の気持ちを持ち続けています。
 和田一夫元代表の訃報を聞いて、初めて海外に住んだときのことが思い出され、懐かしさがこみあげてきました。

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