フィクションのチカラ(中央大学教授・宇佐美毅のブログ)
テレビドラマ・映画・演劇など、フィクション世界への感想や、その他日々考えたことなどを掲載しています。
 



     

 先日(2016年3月)に、囲碁の人工知能(Artificial Intelligence; AI))人工知能「アルファ碁」が、世界最高棋士の一人イ・セドル九段(韓国)と対局し、4勝1敗で、AIが勝ち越しました。これは実に衝撃的な出来事でした。

 近年の人工知能の発達には目覚ましいものがありますが、まだトップ棋士にはかなわないと私は思っていました。それが、イ・セドル九段が5戦して1勝しかできなかったことに、私は大きな衝撃を受けました。

 既に考察があり、報道もされているように、数多くあるゲームの中で、囲碁はコンピュータにとって難しいゲームです。チェスの世界では、既に1996年にコンピュータ「ディープ・ブルー」が当時の世界チャンピオンであるカスパロフ氏(ロシア)から1勝をあげ、翌1997年にはカスパロフ氏に勝ち越しました。しかし、チェスはボードが狭く、取った相手の駒を再使用するルールもないので、比較的選択肢が限られます。チェスよりも将棋の方が複雑になり、さらに囲碁の方がはるかに選択肢が広くなります。さらに、打つ手の価値づけが難しい面が囲碁にはあります。
 そのような理由から、囲碁でコンピュータが人間の上級者に勝利するのはまだはるかに未来のことだろうと多くの人は予測していましたし、私もそう思っていました。チェスで世界チャンピオンが負けてから数年経っても、コンピュータ囲碁の実力はアマチュアの中級者程度。アマチュアとしては強い方に属する私は、その頃(2000年代に入った頃)、「私が生きている間に私がコンピュータに負けることはないだろう」と思っていました。

 ところが、です。コンピュータ囲碁は急激に強くなりました。数年前から、私程度では到底かなわないコンピュータが生まれています。急激に強くなった理由は、コンピュータの新しいプログラム方式が生まれたことです。それまでのコンピュータ囲碁では、コンピュータに打つ手の価値判断を与えておき、より価値の高いと判断される手を選ぶようにプログラムされていました。しかし、どの手がよいのかを人間がプログラムすることは、きわめて困難なことです。
 これに対して新しい方法は、一手ごとの価値判断をするのではなく、膨大な対局の記録を蓄積することによって、勝率のより高い手を選ぶというものです。しかも、過去に打たれた対局を蓄積するだけではなく、AIの中でコンピュータ同士の対局を膨大に繰り返し、その記録を活かして、さらに勝率の高い手を選んでいきます。これはディープ・ラーニング(深層学習)の一種ですが、「アルファ碁」はこの自己対局を3千万回も繰り返しました。その結果に基づいて、より勝率の高い手を選ぶことで、「アルファ碁」は急激に強くなりました。つまり、これを言い換えれば、「コンピュータが自分で学習してさらに強くなっていく」ことを成し遂げたと言えます。




 このことから、最近のある映画を思い出しました。例によってマスコミ試写会で今年1月に見た映画『オートマタ』(ガベ・イバニェス監督、アントニオ・バンデラス主演)です。
 この映画は近未来(2044年)のロボットを中心に描いた作品です。その世界では核戦争の影響で地球環境が悪化し、人類の生存者が極端に減ってしまっています。そこで人類は、ロボットに多くのことを依存するようになります。
 その際にロボットには二つの規則が与えられています。それは、「生命体に危害を加えてはいけない」「ロボット自身で修理・改造をしてはいけない」。この二つは絶対に守らなければならない鉄則なのですが、その世界の中で、ある理由によって、第二の規則を破るロボットが出てきます。そのために、ロボットが人間にとって危険な存在になっていく、というのが映画の設定です。

 言われてみれば当然のことかもしれないのですが、二つの鉄則のうちの二つ目の方は、私はそれまでまったく気づきませんでした。コンピュータは計算能力、情報処理能力は高いが、創造的な仕事はできないと思いこんでいました。しかし、コンピュータ自身がコンピュータを改造できるなら、その限りではありません。今回のコンピュータ囲碁の対局を知って、AIは自身で対局を繰り返して強くなっていくのだから、これは一種の成長、あるいは改造とも言えるのではないかと思いました。
 囲碁に強くなることで人間に具体的な(身体的な)危害が加えられるわけではありません。しかし、どんな改造でも許されるのであれば、その心配も生じてきます。だからこそ、映画『オートマタ』に描かれている世界では、コンピュータがコンピュータを改造することを禁じていたのです。

 私が15年前に予測していたこと、「私が生きている間に私がコンピュータに囲碁で負けることはないだろう」という予測は、完全に外れました。なぜ予測が外れたかというと、それは、コンピュータ自身が自分で強くなることを考えていなかったからです。
 コンピュータがこれからの世界に必要であることは疑う余地がありませんが、コンピュータはいかに安全に活用されていくべきか。今回のアルファ碁とイ・セドル九段との対局から、単に囲碁の世界にとどまらない大きな課題を強く考えさせられました。



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 中央大学大学院が博士学位を授与する式がおこなわれました。今回は、法学・経済学・商学・文学・総合政策学の5研究科において、2015年度後半に博士号を取得した方たちへの授与式でした。

 博士学位は、大学が授与できる最高の学位です。以前は、日本の文系だけ他国に比べて極端に博士学位を高いレベルに設定し、学位を受ける人を制限していましたが、近年は他国並みに学位を授与するようになりました。
 それによって、博士学位が長い研究の積み重ねの後、研究キャリアの最後の段階になって得られるものという意味から、研究者として出発する資格を得るという意味へと変化してきました。そのような変化があるとはいえ、博士学位の重要性が変わったわけではありません。

 この日も、私が所属する文学研究科から、国文学・日本史学・哲学・社会情報学の分野で7人の大学院生や研究者が博士学位を授与されました。中央大学が最高の学位を授与したという名誉を持って、これからの研究生活に向かってほしいと思っています。

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 東日本大震災から5年が経ちました。

 この5年間のことは多くの人が多くの形で語っています。メディアでも取り上げられています。ですので、そのことは繰り返さず、私はテレビドラマ研究者として語ろうと思います。

 東日本大震災はあれほどの大災害ですから、簡単にテレビドラマに描くことはできません。震災の直後の時期にはなおさらでした。それが年月の経過とともに、少しずつ描く作品があらわれてきました。多くの人の印象にあるのは、朝ドラの『あまちゃん』(2013年、NHK)でしょうか。震災後の岩手県北三陸市(架空の市)を舞台にしたこの作品は、過去から次第に現代に戻ってくる時間経過をたどっていました。その舞台が岩手県の海外沿いであることから、登場人物たちがいずれ大震災に遭遇することは視聴者がみなわかっていて、その描き方が注目されました。
 実際の描き方はそれほど詳しいものではなく、主要な登場人物が誰も亡くならないという展開も、やや楽天的すぎると見えたかもしれません。しかし、大震災から2年の段階で、安易に描けば「不謹慎」という印象や批判を生んだかもしれません。その意味で、この時期に描けるのは、これが精一杯だったとも言えるのかもしれません。

 東日本大震災を、テレビドラマのような大衆的なメディアが描くことには、このような困難がともないます。その中で、大震災そのものはわずかに使われるだけでも、その小さな描写が重要な意味を持つ、そういうテレビドラマ作品がいくつか見られました。たとえば、坂元裕二脚本の二つの作品、『最高の離婚』(2013年)と『いつかこの恋を思い出して、きっと泣いてしまう』(2016年、現在放送中)がそうです。

 『最高の離婚』では、主要な人物4人のうちの2人、濱崎光生(瑛太)と濱崎結夏(尾野真千子)夫婦の出会いのきっかけが東日本大震災となっています。まったく性格が異なる、というよりも性格が正反対の2人が、大震災の夜に歩いて帰宅するときに偶然一緒に歩くことになり、そこでお互いに好意を持つという設定になっています。日ごろであれば性格の違いが強調されるはずの2人なのに、震災後の不安から2人の対照的な性格が、かえってお互いにとって安堵する気持ちを生み出すように描かれていました。このような感情の機微を描いているところに、坂元裕二脚本の見事さがあります。

 『いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう』では、作品のちょうど中盤に東日本大震災が起こります。主要な人物である曽田練(高良健吾)が福島県の実家で震災に巻き込まれ、そのまま東京に戻らなくなります。それによって、練と杉原音(有村架純)ら他の人物たちとの関係が、5年間にもわたって断たれてしまうことになります。さらに練は、震災時に幼なじみの市村小夏(森川葵)に不安な思いをさせてしまったために、それを負い目に感じ、その後は小夏に償う生き方を選びます。
 『最高の離婚』と『いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう』という、同じ脚本家によって描かれたこの二つの作品は、東日本大震災によって出会って結婚する2人と、そこから別れることになる2人を描いています。言わば震災の光と影を坂元裕二が描いていると言えるでしょう。

 このような中で、東日本大震災を真正面から描いている数少ないテレビドラマに、山田太一脚本の『時は立ちどまらない』(2014年)がありました。この作品は単発ドラマで、他の作品のような連続ドラマではありません。しかし、ストーリーの重要な部分に大震災が出てくるだけではなく、作品全体が震災とその後の人びとの関連を描いています。浜口修一(渡辺大)と西郷千明(黒木メイサ)は結婚を予定していました。しかし、海に近いところに住む浜口家の家族に大震災の被害は大きく、修一と祖母と家そのものを失います。しかし、高台に住む西郷家には被害があまりありませんでした。大切な家族と建物と家業すら失った浜口家と、被害を免れた西郷家。立場は違いますが、それぞれに苦悩を抱え、違った意味での大震災の受け止めを迫られるというのが、この作品の提示している課題です。こうした心の問題は、多くの震災報道では十分に示されてこなかったものなのではないでしょうか。
 大震災が3年が経ち、このような作品が出てきたことによって、フィクション作品でなければ描けないものがあることを示したと言えるでしょう。

 東日本大震災とフィクション世界。これは難しい課題ではありませすが、これからもその視点を心のどこかに持って、テレビドラマを見続けていきたいと思っています。



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