フィクションのチカラ(中央大学教授・宇佐美毅のブログ)
テレビドラマ・映画・演劇など、フィクション世界への感想や、その他日々考えたことなどを掲載しています。
 



 今年も終戦記念日が近づきました。そして、その前に原爆投下のあった広島と長崎で平和記念式典がおこなわれました。今もウクライナやパレスチナで戦争が続いている現在、あらためて日本の戦争体験を受け継ぐことは、きわめて重要なことだと思います。ただ、そこにさまざまな立場の人の、さまざまな意見や思想が交錯します。私はかつてから、「日本の終戦記念日は戦争の犠牲になった人たちを追悼することだけに偏っている」ということを書いてきました。(→日本は〈言論の自由〉のある国か」「終戦記念日に)「追悼」であれば誰もそこに異論がないのはわかりますが、なぜそのような犠牲を出すことになってしまったのか、という問いや検証が足りなすぎるのではないでしょうか。私が意識しているのは、「それ以上の犠牲を出さないために原爆投下は必要だった」「核兵器を持つことが今後も戦争への抑止力になる」という主張にどう対抗するか、です。ただ、「核兵器は悲惨だから」だけではその主張は広がらない、という深刻な懸念を持っています。

 関連して思うことを一つ書きます。広島や長崎の平和記念式典では、なぜ子どもたちをみんなの前に出すのでしょうか。長崎では子どもたちが合唱を、広島では子どもたちの代表がスピーチをします。おそらく、未来への平和の誓いという意味で、これからの世代である子どもたちに前面に出てほしいからでしょう。それは理解するのですが、子どもたちの歌の選択もスピーチの内容も、どう考えても大人が考えて子どもたちにやらせているとしか思えません。特に原爆投下の当日、投下の瞬間の悲惨な状況を描写するように述べることは、子どもの発想から出てくるとは到底思えません。それを毎年毎年大人たちが子どもに言わせたいのは、「原爆がいかに悲惨か」を強調したいからでしょう。悲惨であることは事実ですし、強調してもしすぎることはありません。しかし、「いかに悲惨か」を強調することは、なぜそういう事態になったのか、の問いと検証を伴うものでなければなりません。それが平和式典の中にあるでしょうか。
 少し付け加えるならば、こうした式典のスピーチは型通り、紋切り型のものになりがちです。しかし、そんな中で湯崎英彦・広島県知事のスピーチは、少なくとも個人の意見や思いがかなり強くこめられたものでした。こうした式典で語られる言葉は、少なくとも、誰かが誰かに言わせる/語らせるようなものではあってほしくありません。子どもたちは大人の気持ちを代読するためにそこにいるのではないはずです。大人の言葉が本当に自分の思いを乗せているのか、大人の誰の言葉が本当に心に響くのか、それらを試すために、子どもたちはそこにいるべきだと思います。

※このブログはできるだけ週1回(なるべく土曜日)の更新を心がけています。




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