フィクションのチカラ(中央大学教授・宇佐美毅のブログ)
テレビドラマ・映画・演劇など、フィクション世界への感想や、その他日々考えたことなどを掲載しています。
 




     
 中央大学文学部の同僚の坂田聡さん(日本史学)が、『苗字と名前の歴史』(吉川弘文館、1700円)という本を出されました。この本は、タイトルだけ見ると、日本人のそれぞれの名前のルーツを解説した本のようにも見えますが、実は苗字や名前に着目することによって日本の家族制度や男女のあり方の歴史を考察するという、とてもスケールの大きな本でした。
 まず第一に感じたことは、私たちが通常安直に思っている「思いこみ」のようなものを正してくれる本だということでした。たとえば、私たちは「氏(氏名の氏)」「姓(姓名の姓)」「苗字」などをほとんど同じもののように使っているのですが、それが歴史的にどのような違いがあるかを実にわかりやすく解説してくれています。また、現在の夫婦別姓論議(坂田さんによれば「夫婦別苗字」というべきでしょうけど)で、日本では夫婦同姓が大昔からあったように言われたり、その逆に近代になってからの制度だと言われたりすることの誤りを、ていねいに論証してくれています。
 その上でこの本は、日本の家族制度の歴史的把握というたいへん大きな問題に坂田さんなりの見取り図を提示しています。つまり、苗字や名前という一見些細な現象を歴史学の観点から問題にすることによって、日本の家族制度のあり方を「プレ家社会=プレ伝統社会」「家社会=伝統社会」「ポスト家社会=ポスト伝統社会」という3つの時代に分けて考えられるという説を提示しています。このあたりは、一つの現象の緻密な考察から大きな人間社会の把握へ、という学問の醍醐味を感じさせるところではないでしょうか。
 そこに関連してもう一つ強く感じることは、この本が特に中世・近世期を中心にした歴史的な実証を重んじていながら、それが常に現代を生きる私たちの問題に強く結びついているということです。先の夫婦別姓論議などで、この本に実証されているようなことをふまえずに、姓の歴史を安易にそれが伝統であるように思いこんでいたり、その逆だったりということを批判しており、正しい歴史認識を持った上で現在の家族制度を考えることの重要さを指摘してくれているのが本書だと感じました。
 自分の問題に引きつけていうと、私が(専門は日本文学ですが)学生たちに指導したいと思っていることも、それに関係があります。つまり、授業の中で学生たちに「人前で話す訓練」や「質疑応答の訓練」をさせるように心がけていますが、それは正しい資料やデータに基づいていなければ意味がありません。いい加減なことでも何でも人前でしゃべる学生を育てたいのではなく、信頼できる材料に基づいて自分の考えを述べられる学生を育てていきたいと思っており、その意味で、この本が教えてくれているのは正にそういうこと、「きちんとした資料や考察にもとづいて自分の主張を構成すること」の大切さなのではないかと思いました。その点からも、歴史学を学ぶ人だけでなく、多くの人の読んでいただきたい本だと感じました。
     



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 昨日3月25日(土)は中央大学の卒業式の日でした。中央大学は大きな大学なので全学部一度には式がおこないにくいため、2回に分けておこなわれます。文学部は遅い方の順番だったので、午後2時から式があり、その後に専攻ごとの卒業証書授与式になりました。ちなみに、全体の卒業式の時間が長すぎる、特に来賓挨拶が長すぎる、というのが学生たちの共通した感想でした。中央大学にかぎりませんが、日本の儀式の挨拶というのはなぜみんな長くてつまらないのでしょうか。おそらく式に出席している人と挨拶する人の間に結び付きがないから、自分の思うことをただ長々と一方的にしゃべってしまうのではないでしょうか。その点、専攻の授与式の方は、挨拶する教員が卒業する学生のことを4年間見てきたわけですから、何をどのくらい話したら適切か、よくわかっているように感じました。
 ゼミの学生とのお別れ会はもう済んでいるので(→
「4年生お別れ会&ゼミ同窓会開催」)、式当日は特に行事はしないのですが、それでも私の研究室で何人かの卒業生と乾杯して別れを惜しみました。記念に今年の卒業生の卒業論文題目の一覧を掲載しておきたいと思います(→「2005年度の卒業論文題目」)。
 私の場合、卒業式の当日はそれほど感慨は感じません。もちろん、教え子たちがいなくなってしまうのは寂しいのですが、当時はまだみんな目の前にいるし、華やかな雰囲気にも助けられて、彼らがいなくなってしまうという実感を持つことができません。それよりも、4月になり、新年度の大学キャンパスにやってきたときに、「ああもう彼らはここにはいないんだなあ」と、とても寂しい気持ちになります。以前にそういう気持ちを書いたエッセイがあるので、この機会にこのホームページに掲載しようと思います
(→「桜の季節に思うこと」)。もう14年も前に書いた文章で、今読み返すといささか恥ずかしい気がしますが、毎年春に感じる気持ちを書いているので、そちらも御覧いただければ幸いです。
     



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 ミュージカル『クレージー・フォー・ユー』を浜松町の四季劇場(秋)で見てきました。
 実は、このミュージカルは、私が外国で最初に見たミュージカルです。今から11年前にロンドンに半年間滞在する機会を持てたので、最初はシェークスピアなどの演劇をナショナル・シアターに見に行っていました。しかし、英語も難しいし、少し楽しいものを見てみたいと思って最初に見たミュージカルが、この『クレージー・フォー・ユー』でした。その頃はガーシュウィン(1930年代に人気を集めたアメリカの作詞家・作曲家兄弟)のことも知らなかったし、古き良きアメリカを懐古的に描いた1990年代のミュージカルだということも知りませんでした。ただ面白そうだなと思って何も知らずにふらりと入ったのですが、その楽しさから、その後しばらくミュージカル通いをするようになりました。ですから、今回久しぶりにこのミュージカルを見て、とてもなつかしい思いがしました。
   
 その一方で、多少の違和感もありました。いつも欧米のミュージカルを日本人がヅラを付けて演じているのを見て、なんか似合わないなあという感じを持つことがあるのですが、ロンドンでの舞台と演出や装置などが大きく変わっていないのに、何か異なる印象を持ちました。その理由はよくわかりません。
 ただ、ロンドンで見た時の舞台の印象はもっと底抜けに楽しいものだったような気がします。今回演じているキャストの皆さんは皆一生懸命で素晴らしい舞台を見せてくれていたと思うのですが、何か私の「笑い」の感覚とずれがあったような気がします。もしかしたら、私の感覚がおかしいのかもしれないし、11年前に最初に見たミュージカルを思い出の中で美化してしまっているのかもしれません。ただ、ロンドンではもっと観客の大きな笑いを誘っていたように思うのですが、今回は「くすくす」といった「ややうけ」の観客の反応が多くて、それがそういう印象につながったのかもしれません。
 しかし、考えてみると「笑い」というのはとても多くの要素の影響を受けるものです。たとえば、「普遍的なラブ・ストーリー」(『ロミオとジュリエット』とか)や「普遍的な英雄物語」(正義の味方ものなど)なら想定しやすいかもしれませんが、「普遍的なコメディ」というものはそれに比べたらはるかに想定しにくいように思います。その意味で、「違う時代」「違う文化」の中で育てられた「笑い」を、この生きた舞台で受け取ることの面白さと難しさを感じさせてくれたように思いました。
   



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 中央大学文学部の同僚の野口薫さん(ドイツ文学)が、沢辺ゆりさん・長谷川弘子さんとの共訳で『ベルリン・サロン ヘンリエッテ・ヘルツ回想録』(中央大学出版部、1900円)という本を出されました。この本は、18世紀末から19世紀初頭にかけてベルリンで最初の文学サロンを開いた、ユダヤ人女性の回想録を翻訳されたものです。この本を読むと、フンボルト、レッシング、シラー、ゲーテといった著名人の名前があちこちに出てきます。
 この本を読んで感じた最初のことは、人と人が直接顔をあわせて語り合うことの大切さと面白さでした。まだ大学という制度もなかったこの時代に、サロンが人々の教養や発想を豊かにするのに大きな役割を果たしたことがよくわかりました。
 日本文学でも、夏目漱石の自宅に多くの若い教養人が集まった漱石「木曜会」が有名です。あるいは、ヘンリエッテに比べればはるかに貧しい女性作家・樋口一葉の狭い間借り部屋に、川上眉山、斎藤緑雨や『文学界』の若い同人たちが集まってきたことも思い出されます。やはり、教養のある人・才能のある人・魅力のある人のところへ、自然と人が集まってくるのではないでしょうか。その意味では、ヘンリエッテのサロンが、「ジャンダルメン広場とヘルツを見なくてはベルリンを見たと言えない」と言われた名所になったこともうなづけるように思います。
 ちなみに、私たちのように研究を仕事にする者にとっても、このような人と人の交わりはとても大切なものです。私自身も学生時代から学校の壁を越えた研究会や勉強会に多く参加し、そこで先輩や同年代の研究者からさまざまな影響や刺激を受けてきました。私のこれまでの研究の中では、明治初期の翻訳文学にかかわる論文などは共同研究が基盤になっていましたし、広津柳浪『今戸心中』の空間と語りを考察した論文などは、文学理論を読む読書会の中で発想が湧いてきたものでした。
 もうひとつこの本から感じたことは「朗読」、つまり声に出して本を読むことの重要性でした。日記の中には、ヘンリエッテが夫から朗読のしかたを教わって上達したことが書かれています。私たちは本を「黙読」するという読書習慣の中で生きていますが、「声」に出すことがものごとの理解に重要な役割を果たすと感じることが多々あります。また、メールなどの通信手段の発達した今でも、直接会ってお互いに声を聞いて話をすることの重要性は変わりません。そういうことも、ベルリン初のサロンを開いた女性の回想録から感じることができました。

    



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 中央大学文学部と読売新聞が共催でおこなっている連続講演会、統一テーマは「恋愛・家族・未来」で、毎回多くの方々に御参加いただいています。このHPでも2度取り上げていますが、3月18日(土)の最終回をもって好評のうちに終了いたしました。
 最終回の講演は、古賀正義さん(教育社会学)の「自分探しをする若者たち 青少年問題のいま」。旧世代(私も含めて)から見る若者たちは、なんだかだらしがないとか働く意欲が薄いとか見えることがあるけれども、彼らには旧世代とは異なる世界観があり、彼らなりの困難さの中を生きているというお話だったと思います。
 印象に残ったことの一つは、講演後の質問時間。出席者のお一人から、「今の若者にもっと厳しく、それじゃダメなんだと、言うことははっきり言った方がいいのではないか」という御意見に対して、古賀さんは「いやぁ、それでは伝わらないんじゃないでしょうか」という御回答がありました。そこで私はテレビドラマのある象徴的な場面を思い出しました。それは、明石やさんまさんと広末涼子さんが親子役で主演した『世界で一番パパが好き』(1998年)というドラマです。その中で、さんまさん演じる中年男性が、娘の友人の若い男性を怒鳴りつける。そうすると怒鳴られた彼は友達を呼びに行って、「ねえ中町、来てみなよ。すごいよ。大人が本気で怒ってるよ。」と言うんです。動物園のレッサーパンダが立つのを見るように、物珍しそうに眺めるんですね。当時、大学教員になってまだ10年も経っていなかった私は、この場面をひどく鮮明に覚えています。それは、自分より若い世代とのつきあい方を考えるのにきめめて象徴的な場面だと感じたからだと思います。
 以前であれば、年長者が怒鳴ったらそれだけで効きめがあったかもしれない。しかし、もうそういうものは通じないんだと。言い換えれば、「理解」や「共感」が不在の批判や叱咤には何の効果もなく、まず自分と違う考えの人を尊重する気持ちがなければ、自分の言葉も届かないのではないかと考えるようになりました。古賀さんの講演を聞いて、自分より若い世代と常にかかわりを持つ仕事をしている者として、もう一度そのことを考え直してみないといけないのではないかと感じました。
     *
 さて、この講演会も今回で無事に終了いたしました。私たち大学の教員というのは研究者とか学者とも呼ばれるので、研究で評価されるのは当然のことと言えます。それぞれの研究分野の学会や研究者の中で高い評価を受けなければいけません。しかし、その一方で大学の教員として「教授」「助教授」といった肩書きを名乗っているのですから、学問の面白さやすばらしさを教えたり授けたりすることも重要な役割なのだと考えています。その意味で、通常接している大学生たちだけではなく、学外の多くの方々に直接自分たちの研究にかかわるお話をすることができたこの連続講演会は、私たちにとってもきわめて大きな意義があったと感じています。このような機会を与えてくださった読売新聞立川支局さんには、心から感謝申し上げたいと思います。
   



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 近畿大学教授の佐藤秀明さんから、『
日本の作家100人 三島由紀夫――人と文学』(
勉誠出版、2000円)という本をいただきました。佐藤さんは、現在の三島由紀夫研究の第一人者とも言える研究者です。佐藤さんと私とは、同じ大学の先輩・後輩というわけではないのですが、大学院生時代に同じ研究会で勉強していたこともあり、私が尊敬する先輩研究者の1人です。
 研究者の世界というのは意外に狭いもので、佐藤さんは昭和文学、私は明治文学の研究から出発していますし、出身大学も違うのですが、研究会などのおかげで以前から佐藤さんの論文は読んでいました。大学院生というのは、研究者の卵というか研究者予備軍ですので、大学の枠を越えて一緒に勉強する機会というのがあり、そういうところで知り合った研究者仲間もおおぜいいるわけです。これは、先生についても同様で、私にとっても大学と大学院で指導していただいた先生がいるのですが、そういう方にだけ指導されたというわけではありません。自分の所属する大学や大学院の教授でなくても、研究会や学会でアドバイスをいただいたり、論文にコメントをいただいたりした方が何人もいます。その意味では、研究というのは学校という枠の中でだけするものではないということです。
 さて、話は佐藤さんの著書に戻りますが、あとがきで佐藤さんは3つの課題を挙げています。それは、
「新資料について触れ、評伝に三島の新たな一面を組み込もうとしたこと」「できるだけスタンダードな評伝を書こうとしたこと」
「三島由紀夫の才能のすごみをどう捉えるかということ」の3点です。
 しかし、実はこれはたいへんなことです。つまり、一方でスタンダードを志向しながら一方で新しさを追究することを目指しているわけですから、これは難しい課題です。確かに研究というのは自分のオリジナリティ(独自性)というものが求められますから、ある意味重箱の隅をつつくような些細な話や、そうでなければ無理な解釈をかじつけるような論文が生まれがちです。それに対して「スタンダードな評伝」でありながら「新しさ」や「すごみ」を盛り込んでいこうとするところに、この本の特質があると感じました。三島由紀夫についてレポートを書いたり卒論の対象にしたりする学生にとっては、必読の本であることは間違いありません。ちなみに私も、次に出す本はそういう(スタンダードでなおかつ新しさのある)本にしてみたいと思いました。
   




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 中央大学文学部の同僚の都筑学さんが『あたたかな気持ちのあるところ』(PHPエディターズ、1500円)という本を出されました。都筑さんは心理学が専門で、『大学生の時間的展望』(中央大学出版部)という専門書や、やや一般向けの『希望の心理学』(ミネルヴァ書房)といった本を出版されていますが、今度の本は
ベルギーに滞在する博おじさんと日本にいる少年健太くんの手紙のやりとりという形式で書かれたとても読みやすい本です。タイトル通りに「あたたかな気持ち」になれる本でした。
 私はこの本を読んで、「違いを通して人間が成長する」ということを感じました。違いというのはいろいろあって、博おじさんと健太くんの年齢の違いもありますし、二人の個性の違いもあります。それから、博が日本とベルギーの違いを感じてそれを健太に伝えていますし、健太の方も旅に出て日常との違いを次第に経験していっています。そうやって、いろいろな違いの中で健太が成長し、二人が心を通わせる。そういう関係が描かれていて、読んでいてとても「あたたかな気持ち」になりました。
 もう一つ言えば、私は夏目漱石の「こころ」を思い出しました。 「こころ」は高校教科書定番の国民的小説ですが、年齢の違う二人の やりとりの中で若い方の青年が成長していくところを思い起こしました。都筑さんの本の「あたたかさ」とは全然違って悲劇的な小説ですが、 「違いを通して成長する」というところにある共通するものを感じました。 もしかすると、そのうちこの本の一節が教科書(私なら小学生に読ませたいなあ…)に載る日が来るかもしれません。
 そんないろいろなことを考えさせてくれる本で、心理学に関心のある方や大学生に限らず、広くどなたにも読んでいただきたい本だと感じました。
   



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