フィクションのチカラ(中央大学教授・宇佐美毅のブログ)
テレビドラマ・映画・演劇など、フィクション世界への感想や、その他日々考えたことなどを掲載しています。
 




 中国・武漢雑技団の日本公演「中国英雄列伝」を有楽町の東京国際フォーラムで見てきました。思っていた以上の舞台だったので、この公演のことは少し詳しく書きたくなりました。そこで、詳細は私のホームページに書きましたので、そちらを御覧ください。
  →「
中国・武漢雑技団の技を見る」(中央大学・宇佐美毅研究室

 要点だけ言うならば、、とても楽しめる舞台公演になっていました。私はミュージカルや歌舞伎など、いわゆる舞台演劇はあれこれといろいろなものを見たいと思っていますが、中国雑技というのは初めて見ました。演劇というのは、目の前で人間の声や体が躍動するところに面白さがあります。その意味で言えば、今回の雑技団の公演というのは正に舞台の醍醐味を圧縮していると言えるかもしれません。
 また、タイトルに「中国英雄列伝」とあるように、それぞれの技に意味がこめられているところも今日の見どころでした。
               
 正直言って特に期待して見に行ったわけではなかったのですが、思いもかけず「すごいもの」を見てしまったというのが今日の武漢雑技団公演の一番素直な印象でした。



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 金子達仁・戸塚啓・木崎伸也著『敗因と』 (光文社、1500円)を読みました。
 サッカーファンなら著者の名前からわかると思いますが、2006年ドイツワールドカップにおける日本の敗因を考察したスポーツ・ノンフィクションです。この本の善し悪しにはいろいろ意見があると思いますが、私はワールドカップから半年もすぎてから「今さら」という時期に出版されたこの本を評価したいと思います。
 ワールドカップ便乗企画であれば、もっと早くワールドカップの余韻が残っているうちに出版された方が売れ行きも期待できたでしょう。しかし、読めばわかるとおり、関係者への取材もそうとうにおこなわれており、この本の出版にはこの半年の月日がどうしても必要だったように思います。
 以前にも書いたことがありますが(→「日本代表再出発試合を観戦して」)、私はものごとの徹底した分析と反省なしに進歩・前進はないと思っています。その意味から、ドイツワールドカップの後すぐに、人々とマスコミの関心が新生オシムジャパンにばかり向いていったことに危惧を感じます。本書にも出てきますが、日本サッカー協会がドイツワールドカップを総括したレポートが出たのはかなり後で、しかもその内容はかなり物足りないものでした。本書はそんなワールドカップ総括の不十分さを補ってくれる重要な問題提起の本になっていると思います。
 余談ですが、「過ぎたことは掘り返さない」という風潮は日本人的と言うべきなのでしょうか。たとえば、銀行や企業(場合によっては政党までも)が破綻したときに、欧米であれば徹底的な糾弾と場合によっては刑事罰を受ける状況でも、日本では現在のトップが謝って終わりということが多いように感じます。

 もっと身近な話ですが、私は以前に校正なしの誤植だらけの論文をそのまま刊行されてしまったことがあります。いつまで経っても校正(推敲のことです)原稿が送られてこないと思っていたら、そのままいきなり雑誌になって私の論文が刊行されてしまいました。まだパソコン原稿ではなく活字を一字一字拾うような印刷の時代だったので、原稿から多くの字が抜け落ちていたり、活字が上下ひっくり返っていたりするまま刊行されてしまい、仰天したことがあります。
               
 当然私は不満でしたが、トップに「すまなかった」と謝られただけで、再印刷などの対処はありませんで。私も原因をはっきりさせてほしいと言ったのですが、「みんな一生懸命やった。誰のせいでもないんだ。」という答えしか返ってきませんでした。
 私は、こういうときに原因・責任をはっきりさせることが再発を防止することにつながるし、迷惑をかけた人に対しても最低限の礼儀だと考えます。しかし、責任を明確にしたり追及したりすることよりもトップが頭を下げて謝罪するという方法は、きわめて日本的な対処のしかただと感じました。
 本に話を戻すならば、本書には「敗戦をそのまま通り過ぎてはいけない」という姿勢が一貫しています。スポーツ・ノンフィクションにありがちな、出来事を一定の筋書きに回収しようとする箇所も見えなくはありませんが、「敗戦をそのまま通り過ぎない」というその一点において、本書は十分に読む価値のある本だと感じました。特に私が対ブラジル戦を観戦して感じた「日本チームの一体感の無さ」(→「ジーコジャパンが燃え尽きた夜」)が複数の視点から検証・考察されており、なぜどのように「一体感の無さ」が作られてしまったのかを考える重要な視点を提供してくれていると感じました。

 
 



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 メジャーリーグの野球チームであるニューヨーク・ヤンキースと契約した井川慶投手が、英語で入団挨拶をしました。そのスピーチの英語がカタカナで書かれたカンペの棒読みで、かなりひどいんじゃないかということがマスコミで取りあげられたりしています。しかし、私は、「よくやった。あれでいいじゃないか。」と思います。
 考えてほしいのですが、日本にやってきた誰かが挨拶をするときに、それが日本語であればそれだけでその人に親近感を持つものです。日本語ができないといけない仕事の人ならともかく、そうでなければ日本語が上手である必要などなくて、むしろ下手なのに日本語で挨拶しようとしているところに好感を持つものです(デーブ・スペクターみたいに上手すぎるとかえって嫌われるかもしれないし)。
 ボストン・レッドソックスに入団する松坂大輔は、対照的にまったく英語を使いませんでした。しかし、松坂はまだ入団するところですから、それはそれでいいでしょう。しかし、メジャーリーグにもう何年もいるのにまったく英語のインタビューを受けない選手もいて、それは私はどうかと思います。
 ちなみに私は専門が日本文学なので、英語はたいして上手ではありません。しかし、外国に行く機会も滞在する機会も多いので、そこそこ英語は使います。その場合、さすがに井川慶投手と違ってカンペではなく自分で考えて喋りますが、まるでカタカナを読んでる
ような英語であることは井川投手とそれほど変わりありません。しかし、そういう英語を喋っていることで不自由を感じたことは一度もありません。つまり、語学力がそもそも不足していることでの不便はあっても、たどたどしいことで不便を感じたことはないということです。むしろ、なまじ上手なふりをして喋ろうとしたときの方が、何度も聞き返されたりして不愉快な思いをことすることがあります。
               
 英語を専門にする人の場合は違うでしょうけれど、そうでない人の英語は流暢である必要などまったくないと思います。なまじ上手に喋ると、かえって向こうにも早口で喋られてしまって、聞き取れないことなども出てきます。むしろ、見栄をはらずに、「下手だけど頑張って喋ってるぞ」という感じで話す方が、うまくコミュニケーションがとれるというのが私の経験が言えることです。
 「外国語は上手な方がよい。しかし、上手なふりをするのは一番いけない。」
 これが私の結論です。



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 高校サッカー決勝戦、盛岡商対作陽の試合をテレビで見ました。都合で後半しか見られなかったのですが、両チームが持ち味を出したいい試合でした。
 後半から出場させた作陽のエースストライカー(怪我が完治していない)が得点に絡むシュートを放って先制する。逆に後半途中から投入した盛岡商の選手がアシストをして、PKを外してしまった選手がゴールを決める。そういう、筋書きを誰かが書いたかのようなドラマチックな試合でした。
 これまで何度も書いたように、私は真剣勝負、選手が必死になってプレーするところが見たいのであって、高校サッカーはその代表的なものです。負ければこの大会が、あるいは自分の高校サッカーが終わってしまうという状況の中で、必死にプレーする選手たちを見ることができました。
 甲子園でおこなわれる高校野球もそれと同じで、選手たちのプレーには拍手を送りたいと思います。しかし、ある時期から高校野球の「建前主義」のようなものに嫌気がさしてきて、次第に見なくなってしまいました。高校野球連盟の、ある種のおしつけがましい教育主義のようなものが鼻について嫌になってしまったからです。
 その点で言えば、高校サッカーにも危険がしのびよっています。NHKで放送される高校野球の教育主義に対して、民放で放送される高校サッカーの「盛り上げ主義」「演出過剰」のようなものが高校サッカーにどんな影響を与えているのか、心配になります(ガッキーが応援マネジャーをしてるのは実に良いのですが)。
 その点で特に感じるのは二つのこと。一つは、テレビ局の「不幸さがし」。選手や監督の不幸なネタをさがしてはそれを繰り返し放送し、視聴者を引き付けようとする姿勢。「不幸を克服して頑張る」という物語にすべてを回収しようとする姿勢には、おおいに疑問を感じます。
 もう一つは、それに似ていますが、試合後のロッカールームにテレビカメラを入れること。夜のダイジェスト番組では、敗退して号泣する選手たちを一つの売りもののようにして放送していることです。たしかに選手たちの涙はどんな演出よりもドラマチックですが、それが次第にショーになってきている面は否定できません。特に監督がそこで選手に何を語るか、監督さんはカメラに写っていることを意識するようになってきていて、何か「名言」を語ろうと頑張っているようにも思います。
 その意味で、選手の涙をカメラを通して見ることが本当によいことなのかどうか。たしかに選手たちの涙は感動的だけれども、感動できれば私たちはどこまでも入り込んでよいのでしょうか。サッカーファンの一人として、私はそんな疑問を感じてしまいました。
                



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 年末年始に空いた時間に、以前のテレビドラマ「成田離婚」(1997年放送、草なぎ剛・瀬戸朝香主演)を見ました。この作品は、同じ吉田紀子脚本、杉尾敦弘プロデュースということで、「お見合い結婚」(2000年、ユースケ・サンタマリア・松たか子主演)、「できちゃった結婚」(2001年、竹之内豊・広末涼子主演)とあわせて結婚三部作と言われている作品の一つです。
               
 脚本の吉田紀子さんは、最近では「Drコトー診療所」や映画「涙そうそう」などの脚本も担当しているのですが、私はコメディー色の強い結婚三部作が好きです。
 コメディー色と書いたようになかなかうまく笑わせてくれるのですが、その一方で登場人物の細かい気持ちの動きややりとりが巧みに描かれているところが、私の好きな理由です。
 たとえば「成田離婚」は、人はいいけどちょっと頼りない商社マンの星野一郎(草なぎ剛)と気が強くて短気だけど情の深い田中夕子(瀬戸朝香)のスピード離婚がテーマになっています。愛しあっていたはずの二人が、ローマへの新婚旅行で急に冷めてしまうところ。ちょっと不自然になりやすい設定ですが、一郎に頼りがいのある男性像を期待した夕子と、夕子に心やさしい妻の姿を期待した一郎のすれちがいがうまく描かれています。
      (新婚旅行から帰って成田で喧嘩だ~)
 そこで、効果的に使われているのが今日のタイトルになっている「パンツを洗う」話です。一郎は旅行中に毎日、それも夕子の分まで下着を風呂で洗う。しかし夕子はそんな「ちまちま」したことをしてほしいとは思っておらず、それより観光ガイドをしたり食事でエスコートしたりしてほしい。そういう気持ちのすれ違いが「パンツを洗う」という行為からうまく描き出されています。つまり、「パンツを洗う」行為は一郎の細かさと心のやさしさの象徴であり、そこに夕子の期待と食い違う男性像が形になってあらわれているというわけです。
 話はそれますが、私は旅行中毎日「パンツを洗う」派です。自分の脱いだパンツや靴下が洗われずにカバンの中に入っているなんて我慢できません。ですから、旅行中毎日下着は手洗いしますし、早く乾かす方法もありますから、そのせいで枚数はごくわずかしか持っていきません。そんなわけで、私は下着を洗う一郎に共感します。
 ただ、その一方で、旅行中に同行者に「いいかっこして見せたい」という気持ちもおおいにあります。外国に個人旅行で行く場合は下調べが何より重要ですから、観光地からレストランからそうとう念入りに調べていきます。その点では、ぜんぜん役に立たない一郎にいらいらする夕子の気持ちもよくわかります。
 そんな海外旅行体験によって、一郎と夕子がお互いの今までと違う面を見て幻滅していく様子が巧みに描かれている。しかし、二人のお互いを思いやるあたたかい気持ちも同時に描かれている。そういう意味で、「成田離婚」は私の好きなドラマの一つになっています。



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 あけましておめでとうございます。
 2007年が皆様にとって幸せな1年になりますように、心からお祈り申し上げます。
     
          宇佐美毅 


     



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