フィクションのチカラ(中央大学教授・宇佐美毅のブログ)
テレビドラマ・映画・演劇など、フィクション世界への感想や、その他日々考えたことなどを掲載しています。
 



 北京オリンピックが終わりました。
 もともとスポーツ競技大好きな私にとってはおおいに楽しめた17日間でしたし、終わってしまって寂しい気持ちもあります。
 「オリンピックと政治」「オリンピックとビジネス」など、オリンピックをめぐっては、競技以外の多くのことが多くの場所で語られているので、いまさら繰り返すまでもないかもしれません。ですが、報道について感想を書きたくなりました。少し長くなりそうなので、これは私の公式ホームページの方に書きたいと思います。よろしければそちらを御覧ください。
  → 「北京五輪報道を振り返って」



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 今は大学の授業がない時期ですが、大学の教員も遊んでいられるわけではありません。大学の教員は授業以外にも、研究や教育その他の仕事がたくさんあります。たとえば、論文を書いたり、大学院生の論文指導をしたり、前期試験を採点したりといった仕事を夏休み中にこなさなければいけません。ただ、いつも家に閉じこもっていても気分が変わらないので、しばらく仕事を持って一人で湯河原に行ってきました。
          
 湯河原には温泉があり、古くからの保養地になっています。ですから、文学者でも、夏目漱石、島崎藤村、芥川龍之介、与謝野晶子、谷崎潤一郎といった人々がこの地に逗留しています。夏目漱石は、絶筆『明暗』で湯河原温泉や不動滝を描いています。私も一夏ずっと湯河原にこもって執筆でもできたら幸せですが、そこまで優雅な身分ではないので、数日だけ温泉に入りながら仕事をしてきました。
 写真は奥湯河原へ行くバス道路のすぐ近く。道路から少しだけ入るとこんな静かで美しい渓谷があり、その渓谷沿いに散歩することができます。季節になると、今でも螢を見ることができるそうです。
 家にいるとついDVDを見たり、パソコンからインターネットで遊んだりしてしまいます。今回は湯河原で温泉に入りながら、ゆっくり本を読んだり論文のことを考えたりすることができました。海外旅行もいいけれど、たまには温泉場でゆっくりするのもいいなと思う湯河原滞在でした。
          


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 私の新しい論文が活字になりました。
 『ジェンダーから見る国語教科書』という論文で、月刊誌『国文学』9月号(学燈社)に掲載されました。
 私たち研究者が書く論文の掲載誌は、大きく分けて3種類あります。①学会誌・②紀要類・③商業誌です。「学会誌」は、日本近代文学会とか昭和文学会といった会員の集まる学会が発行している研究誌で、審査の委員が採否を決定します。「紀要類」は、大学や研究所が発行する研究誌で、その大学や研究所の関係者が論文を掲載します。最後の「商業誌」は、今回の『国文学』(学燈社)や『解釈と鑑賞』 (至文堂)などがそうで、研究誌ではありますが、出版社が一応営利も考えて発行しているものです。
 この3種類のどれが価値があるかは一概に言えません。学問的には「学会誌」の価値が高いのですが、「紀要類」は学会誌には掲載できないような分量の多い論文を掲載できるという長所があります。また、「商業誌」は枚数も少なく本格的な論文は載せにくいのですが、その反面、専門家以外の一般読者にも読んでもらえる長所があります。
 今回の私の論文『ジェンダーから見る国語教科書』は、『国文学』編集部から、今年9月号に「教科書徹底研究」という特集を組むにあたって依頼をいただいて書いたものです。私の論文は、主に高校国語教科書に掲載されている小説教材を検討することで、ジェンダー(社会的な男性、女性という考え方)から現在の国語教科書がどのように考えられるかを考察しました。
          
 私は以前に『これからの国語教科書』(『中央大学文学部紀要』2006年3月)という論文を書いており、今回の『ジェンダーから見る国語教科書』はその問題意識に沿って、その後の(つまり現在の)国語教科書のあり方を考えてみたものでした。
 商業誌という雑誌の性格もあり、文学や国語教育を専門にしている方でなくても理解できるように書いたつもりですので、読んでいただければ幸いです。
          


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 先日、銀座にある「歌舞伎座」で歌舞伎を観てきました。
 歌舞伎はこれまでにずいぶん行っていますが、いつも千代田区の「
国立劇場」で見てきたので、実は歌舞伎座の方に行くのは初めてです。今回は授業のない期間で少し時間の余裕がありましたし、外国の大学で日本語を教えている二人の先生を案内するという意味もあって、歌舞伎観劇に出かけました。
 はじめはいつも行っている国立劇場の方を考えたのですが、7月末から8月にかけて思うような演目がありませんでした。一つ「歌舞伎鑑賞教室」という初心者向けの解説付きの演目があって、これは外国人の方をお連れするのに適当かとも思ったのですが、夏休みのせいか人気が高く、私の行ける日にチケットが残っていなくて断念しました。
          
 そこで今回は歌舞伎座へ。しかし、国立劇場よりもある意味では親しみやすく、かえってよかった面もありました。
 八月興業は三部立てで、私たちは第一部を観ました。第一部の演目は「女暫(おんなしばらく)」「三人連獅子」「らくだ」の3本。第二部、第三部の演目と比べて、外国人の方をお連れするのにこれが一番よいのではないかと思って選びました。
 「暫(しばらく)」は「歌舞伎十八番」の一つでたいへん有名な演目です。北野天満宮へ詣でた蒲冠者範頼(彌十郎)が居合わせた清水冠者義高(高麗蔵)たちにたしなめられ、範頼たちが激高する。その時に巴御前(福助)が「しばらく」とよびとめて意見したため、巴御前は範頼の仕丁たちに取り囲まれるが、巴御前は大太刀でその首を刎ねて巴御前はその場を後にし、舞台番(勘三郎)に六方(ろっぽう…花道を引っ込むときの所作のこと)
を習って引き上げていく……という作りになっています
 続いての「三人連獅子」は舞踊で、
親獅子(橋之助)が子獅子(国生)を谷に突き落とし、試練に応えた子獅子と母獅子の三人で舞い踊るというストーリーが背景にありました。
 最後の「駱駝(らくだ)」は落語の話。
遊び人の半次(三津五郎)が、らくだと仇名される悪友の馬太郎(亀蔵)のもとへやって来るが、らくだは河豚の毒にあたって死んでいる。そこで半次は、通りかかった久六(勘三郎)に馬太郎の死体を担がせて、家主の佐兵衛(市蔵)とその女房のおいく(彌十郎)を脅して葬式用の酒を出させ、半次と久六は酒盛りを始める……という話です。場内大爆笑でした。
 歌舞伎十八番の有名な話、華やかな舞踊、落語種の爆笑話、と3つ楽しめるということで、今回はこの演目にお連れしました。今回の「暫」はダイジェスト版というべき見せ場だけの作りでしたし、せりふが難しくて外国の方にはわかりにくい面もありました。それでも、「暫」で歌舞伎の雰囲気を知っていただき、舞踊も味わい、さらに文句なく面白い落語話を観ていただいたことで、日本の伝統的な観劇の面白さの一端を知っていただけたのではないかと思います。私自身も久しぶりの歌舞伎見物を楽しむことができました。
          



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 23年使い続けた冷蔵庫(写真の冷蔵庫)がついに使えなくなりました。
 つい先日、地域の知人たちと冷蔵庫の話をしたばかりでした。周囲の人から、「冷蔵庫って夏にこわれるんだよ」とか「最初に冷凍庫の氷が溶けてくるんだよ」といったことを言われ、そんなもんなのかなあと思っていました。
 そうしたら、その話をした数日後に、23年使い続けた冷蔵庫の冷凍室のものが溶け始め、すぐに冷蔵室も温度が下がらなくなってしまったのでした。
          

 夏のこの暑い時期に冷蔵庫が使えなくてはたまったものではありません。しかし、冷蔵庫を購入するといってもすぐに届くわけでもありません。それでどうするか……。まずは冷蔵庫にドライアイスを入れて、それでしばらく食べ物を保たせようと考えました。
 ところが、どこでドライアイスを手に入れるのか。まずはいつも買い物をしているスーパーに電話をして、「ドライアイス売ってませんか?」「売ってないなら譲ってくれませんか?」と頼んでみたがダメでした。それで、次にドライアイスを売っている店をネットで探してみたのですが、少し遠くにならあるものの、家の近所にはありませんでした。その他いくつか考えてみたのですがよい方法がよく、困ってしまい、最後に思いついたのが宅配を頼んでいる生協。いつも宅配で運んでもらっている食材には保冷剤やドライアイスがたくさん付いているのでどうだろうかと思い、ダメもとで電話で頼んでみたところ、幸いにも譲ってくれるということでした。
          
 というわけで、近所の生協の配送所に自転車で取りに行って、ドライアイスを譲ってもらい急場をしのぐことになりました。

 翌日、冷蔵庫を買いに行き、なんとか冷蔵庫の買い換えが終了しました。あわただしい夏の一日、長年お世話になった冷蔵庫とお別れした一日でした。



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 お茶の水大学教授の菅聡子さんが編者として、『〈少女小説〉ワンダーランド』(明治書院、1500円)という本を出版されました。
          
 「少女小説の歴史をふりかえる」「少女小説をめぐる文化」「少女小説名作ガイド」「少女文化のキーワード」の4章を柱にしながら、それにコラムを挟みながら構成した本です。
 最初の章には「少女小説の歴史」が明治期からたどられており、「少女小説」が成立するためには、大人になるための猶予期間としての「少女期」の制度的成立が必要だったことや、「少女小説」を可能にする読書能力の獲得があるということなどが、わかりやすく解説されています。
 そうしたわかりやすい解説の一方で、個々の文章の考察はかなり本格的で、編者の菅さんの書いた氷室冴子論はなかなか考えさせる論文です。
 氷室冴子が一躍有名になった1980年を中心に、その前史と後史が鋭く指摘されています。すなわち、前史としての吉屋信から1970年代を中心とした「ジュニア小説」の時代までがあり、そこからなぜ氷室冴子の世界が必要とされたかを論じています。さらに、氷室冴子の小説世界が今野緒雪・雪乃紗衣・谷瑞恵らに引き継がれていることを指摘しています。菅さんの論文を読むことで、氷室冴子の前史と後史という形で、いかに彼女の小説が「少女小説」史において重要な位置を占めているかがわかりました。
 また、執筆者から見る限り、菅さんの勤務するお茶の水女子大学の卒業生がここに集まっている印象があり、名門女子大学の伝統の力を感じさせます。
 私自身はこうした「少女小説」というジャンルに特別な研究意識を持ったことはないのですが、この本を読んでさまざまな興味が湧いてきました。そういう興味を持ったのも、わかりやすく、かつ本格的な考察や問題提起にあふれた本になっていたからだろうと思います。
 そういう意味で、文学研究者や文学専攻の学生に限らず、多くの方が楽しく読めるだろうと思う本でした。

          



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