今年最後のブログのタイトルに「あらためて学術会議問題」と書きましたが、それほどかたい話ではありません。
私個人としては、学術会議からの推薦者を全員任命しなかった菅首相に賛同できません。これは、学術会議が現状のままでよいかどうかは別問題で、改革すべきところはすべきですが、それなら先に改革を進めておくべきことだと考えています。ですので、任命しなかった首相の姿勢には大きな問題があると考えています。
とはいえ、これは「学問の自由」対「学問の自由を脅かすもの」といった単純な構図ではないように思います。そういう構図にするためには、学術会議が「学問の自由」のために活動しているという証明が必要です。それはそれで検証が必要な課題のように思います。
これが今年最後の書き込みですが、今年も1年を振り返ると、勤務先の大学で学部長・理事の仕事をしたことしか頭に浮かんできません。1日平均10時間はその関係の仕事をしていたと思いますので、年間3千時間以上は学部長・理事として働いていたことは間違いありません。
その経験から思うのですが、学部長や理事といった職になくても、大学教員一人一人の権限というものはたいへん大きなものがあります。簡単にいえば、学部長と教授の関係は企業の上司と部下の関係とはまったく異なり、喩えていえば、企業の役員と株主の関係のようなものだと私は思っています。教授たちは学部長を選挙で選び、選ばれた学部長は教授会員の意向を大学運営(企業でいえば経営)に反映させる義務を一定程度持ちます。とすれば、毎月開催される教授会は企業の株主総会のようなもの。株主総会は1年に1度かもしれませんが、教授会はほぼ毎月ですので、学部長にとっては毎月株主(教授会員)に経営(大学と学部の運営)状況を説明して理解を得ないといけないので、その点ではかなりしんどいというのが正直なところです。
この喩えはなかなかよく出来ていると自分で思うのですが、喩えとしては少し当てはまらないところもあります。というのは、株主は自分の資産を投資しているからこそ、経営を任せている役員たちに物申す権限があるわけです。それに対して大学の教授たちは自分たちの何を託しているから強い発言権を持っているのでしょうか。そこがよくわかりません。
ここで話が学術会議に戻ります。研究者や大学教授の強い権限は何のために発揮するべきか、発揮しなければならないか。それはもちろん「学問の自由」「科学の発展」のためであり、大学であれば「学生たちの学びと成長」のためでなければいけません。研究者や大学教授の強い権限が、企業の株主のように、自分たちの利益のために発揮されてはならないのであって、だからこそ自分の資産を投資する株主と、個人の持つ何かを投資するわけではない研究者や大学教授とは性格が異なるのだと思います。
私も学部長の任期が終われば、また大学の一人の教授に戻ります。そのときに、自分の与えられた権限を何のために行使するのか。そのことの責任と意義をしっかりと自覚したいと思っています。
今年もこのブログを読んでいただき、ありがとうございました。あいかわらずの校務多忙で写真すら載せる余裕がなくなってきています。それでも、来年もできるだけ週1回更新していきたいと思っていますので、どうぞよろしくお願いいたします。
※このブログはできるだけ週1回(なるべき土日)の更新を心がけています。