フィクションのチカラ(中央大学教授・宇佐美毅のブログ)
テレビドラマ・映画・演劇など、フィクション世界への感想や、その他日々考えたことなどを掲載しています。
 



 先日、都内で螢を見てきました。 このことについては、少し詳しく書きたいので、私の公式ホームページの方で書くことにしたいと思います。
 よろしければ、そちらを御覧いただければ幸いです。
         
 「螢(ほたる) 」 (中央大学宇佐美毅研究室
     



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 中央大学文学部の同僚である中村昇さん(哲学専攻)が『ホワイトヘッドの哲学』(講談社選書メチエ、1500円)という本をお出しになりました。
          
 ホワイトヘッドとは、20世紀前半に主に活動した哲学者。しかし、49歳までケンブリッジ大学の数学教授だったのに、その後ロンドン大学に移ってから科学哲学の著作を重ね、さらにハーバード大学に移ってから形而上学の著作を次々に出したという異色の哲学者です。
 などと書きましたが、私は哲学には詳しくありませんし、以前に中村さんがホワイトヘッドの研究をしているというお話を御本人から直接聞いて、ホワイトヘッドという哲学者を初めて知ったのでした。
 中村さんによれば、ホワイトヘッドの哲学は、この宇宙のすべてを解明しつくそうとうする壮大な哲学であるとのこと。哲学史の流れは存在論から人間の認識への移行し、20世紀においては言語論へと展開してきたのに対して、ホワイトヘッドはその哲学の潮流に反して、存在論・形而上学にまっこうから取り組んだ人なのでした。中村さんはそんなホワイトヘッドが今世紀の最大の課題になると考え、以前から「21世紀はホワイトヘッドの世紀になる」と予言し、もしそうならないなら自分で「ホワイトヘッドの世紀にする」意気込みで、手始めにこの書籍を出版されたとのことです。
          
 少しだけ本の中身を紹介すると、ホワイトヘッドはわれわれの世界のすべてを考察の対象としていたようです。この世界のすべてのものはつねに流動し、動いていないものは何ひとつなく、生物も無生物もつねに変化していく。そのような宇宙の実相をとらえるために、ホワイトヘッドは、「活動的存在(actual entity)」という概念を手がかりに説き明かそうとしていました。しかし、それとても、最初から確定した概念ではなく、はじめは「出来事」(event)、次に「抱握」(prehension)、さらには「活動的生起」(actual occasion)、そしてようやく「活動的存在」という概念へとたどりついたのでした。
 この世界を満たすすべての存在が静止した「もの」ではなく、「唯一無二」で「生き生きとしたただひとつの経験」としての「こと」であり、そのあり方こそが「活動的存在」であると考え、この概念を手がかりにホワイトヘッドはこの世界の解明へと向かったということなのです。
 ここからは私の感想ですが、文学研究を専門とする私の場合、現代思想を勉強するといってもロラン・バルト、ミッシェル・フーコー、ジャック・デリダといったあたりがせいぜいでしょうか。私なりの乱暴な言い方をすれば、こうした現代思想は西洋哲学の伝統からははずれ、この世界全体を説明すること・解明することという哲学を指向するよりも、むしろそのような指向性を見直し、時代の「エピステーメー」や確立されたかに見えるものの「ディコンストラクション」へと向かったというふうに理解しています。
 その点から言えば、ホワイトヘッドはまったく異なります。ホワイトヘッドは記号論理学・相対性理論・量子力学といった最新式の武器を身につけた上で、私たちの生きる世界や宇宙そのものの解明に向かったのだと言ってよいようです。まさに中村さんが「21世紀はホワイトヘッドの世紀になる」と予言したのも、そのようなホワイトヘッド哲学の壮大さに理由があるのではないでしょうか。
 というわけで、私も中村さんに感化されたのか、よくわからないながらもすっかりホワイトヘッドに関心を持つ門外漢の一人となってしまいました。ただし、ホワイトヘッドは難解だと中村さんの御本にも何度も出てくるので、自分で読むのはちょっと遠慮して、中村さんの次の著書に期待したいと思います。だって、この本の「あとがき」には、21世紀がホワイトヘッドの世紀になる「気配がなかったら、何冊でもホワイトヘッドについて書くつもりだ。容赦はしない。」をありますので。
 中村さんのホワイトヘッド研究が進展し、21世紀が本当にホワイトヘッドの世紀になることを心から願っています。
          



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 立教大学教授・藤井淑禎さんから『清張 闘う作家 「文学」を超えて』(ミネルヴァ書房、3000円)という本をいただきました。藤井さんはこれまでにも、『不如帰の時代』『小説の考古学へ』などの本をお出しになっている他、松本清張に関しても既に『清張ミステリーと昭和三十年代』という本を書かれており、それに続いて2冊目の松本清張研究書ということになります。
          
 この本に一貫しているのは、松本清張という作家再評価の指向であり、同時に清張を大衆文学・ミステリー作家という区分で純文学から排除しようとする姿勢に対する見直しです。それは、純文学と大衆文学という区分そのものを考え直そうとする試みと言ってもよいでしょう。この本の副題になっている「文学を超えて」には、そのような意味が込められているようです。
 たとえば、冒頭第Ⅰ部の二つの論文では特にその方向付けが論じられており、清張の文学が日本文学の系譜の中で考察されています。特に2本目の論文「本流としての清張文学」で、夏目漱石から松本清張への系譜が論じられているところに、私は興味をひかれました。
 漱石から清張という系譜というのはやや意外にも思えますが、藤井さんによれば、作中の視点をめぐる技法の問題として小説をとらえたときに、漱石の小説技法が菊池寛や芥川龍之介へのつながり、そしてその2人の影響を受けたのが清張であると論じられています。近代の日本文学の最大の作家とされる漱石と清張を結びつけるこのような考察からも、清張を再評価し、純文学と大衆文学の垣根を超えようとする藤井さんの姿勢がよく伺われるように思います。
 さらにこの本には清張の諸作品が具体的に論じられていくのですが、中でも私が感心を持ったのは、清張作品の中でもあまり有名でない『氷雨』を論じた第7章でした。
 『氷雨』は、客の少ない料亭「ささ雪」のベテラン女中・加代の視点で描かれた作品です。加代と客の川崎をめぐる話なのですが、川崎が加代に言い寄っていたものの、若い女中の初枝にも関心をひかれ始めているらしいと加代が疑うことになり、結局加代は川崎と関係を持つことになります。
 藤井さんはこの作品を論じるのに、加代の視点から描いた小説技法を重視し、彼女の視点に限定されていることから作品にミステリーの要素が生まれていること、謎が解き明かされるという読者の期待に肩すかしをくわせるような展開をとっていくこと、そして、この作品の背景にの売春防止法施行(昭和33年)前後の社会状況がありそれが作品に影響を与えていること、などを重ね合わせるように論じていきます。「視点」「技法」「ミステリー」「時代背景」といった、藤井さんの清張を論じる方法がすべてここに集約されており、清張の魅力を十二分に引き出す論文になっています。
 松本清張研究にに関心を持つ方にとってだけでなく、純文学・大衆文学といった区分のありかたを考える上での重要な問題提起の本になっていると感じました。
          



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 突然ですが、私の母校・仙台市立愛宕中学校のことを書きます。
          
 実は同じ中央大学文学部に勤めるK先生が、なんと私と同じ仙台市立愛宕中学校の卒業生だということを先日知りました。K先生は関西の方だとばかり思っていたのですが、2年間だけ仙台にお住まいになっていたことがあり、中学2年生と3年生の2年間を仙台で過ごしたのだそうです。したがって、K先生は私の中学の先輩なのでした。
 ちなみに、卒業して30年以上経つこの母校のことに関して、その当時の同級生と連絡をとりあうことが最近何度かありました。それは、この愛宕中学校が統廃合によって、無くなってしまいそうだからです。このことをきっかけにして、私が自分の中学時代を過ごした学校のことをどれほど愛おしく思っているか、その気持ちを再確認することになりました。
 愛宕中学校は
近接の中学校に比べて生徒数が少なくなっており、そのためにこの学校を廃止して、他校の学区域に組み込む計画が進んでいるのだそうです。学校の統廃合に関しては、行政の立場と学区域の住民あるいは卒業生の立場とでは、当然見方が違ってきます。したがって、どちらかだけの意見を一方的に良いとか悪いとか決めつけることは避けなければならないと思っています。
 ただ、「一般論」とことわった上での私の意見ですが、学校数が減るということに関しては、十分すぎるくらいにも十分に慎重であってほしいと思います。いったん無くなった学校が復活することはまずあり得ませんから、将来に向けて本当にその学校を廃止してよいのかどうか、慎重な見きわめが必要でしょう。
 もちろん、生徒数の少ない学校というのが予算的に見て効率が悪いことも明らかですし、教員数が絞られることや部活数も制限しなければならないことなど、小規模校であることのデメリットも多くあります。しかし、その一方で、学校の統廃合によって遠くの学校まで通わなければならなくなる生徒の不便さも考えなければいけません。また、小規模校だからこそできる人間関係や学校のありかたというものも当然あるでしょう。さらに言えば、現代の義務教育制度には学校選択制というものが一部取り入れられてきていますが、選択によって小規模校となった学校を統廃合していったら、選択の余地自体がなくなっていくという矛盾も抱え込むことになります。
 こうしたことも考慮に入れながら、地域の住む人たちの意見も十分に聞いた上で、多くの人が納得のできる方策を講じていただきたいと思っています。
          
 ところで、この統廃合問題をきっかけして、多くの卒業生たちが連絡をとりあったり、会合を開いたりしています。そこで、まだ作業中ではあるものの、同期会のホームページも立ち上げたそうですし(→愛宕中学校昭和四十八年卒同期会)、秋には10数年ぶりの同窓会も企画しているのだそうです。
 私は東京にいて何も協力できないのですが、こうした無償の努力を重ねている同窓生たちを頼もしく思っていますし、このことが、多くの同窓生同士が再会するよい機会となることを心から願っています。
 



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 3ヶ月ごとにおこなっているテレビドラマへの感想を、今回も書いてみたいと思います。
 以下、簡単な私の感想です。きわめて個人的なものなので、それぞれのファンの方、怒らないでください。

「プロポーズ大作戦」(月曜)
見る気がしなかった。山ピーとまさみちゃんファンのためのドラマ?
「花嫁とパパ」(火曜)
硬派な役の多い時任三郎の親バカぶりが見所か?
「セクシーボイスアンドロボ」(火曜)
期待してなかったわりに面白かった。予想外の人情話。「すいか」「野ブタをプロデュース。」の木皿泉らしい脚本。ちなみに木皿泉は男女二人組脚本家のペンネーム。
「鬼嫁日記」(火曜)
見る気がしなかった。ウチに本物がいるからテレビで見なくていい。(ウソです)
「バンビーノ」(水曜)
意外に面白かった。舞台はレストランだが、基本的には成長もの。新米刑事とか新米○○が成長していくのを描くドラマ。
「ホテリアー」(木曜)
おもいっきり安っぽい作りが楽しめるので、けっこう好き。原作(韓国ドラマ)のパロディだと思って見るとなかなか面白い。ヨン様は「冬のソナタ」より原作「ホテリアー」の方がかっこよかった。
「わた
したちの教科書」(木曜)
近頃のドラマにないくらい暗い!重い!見るのがちょっとつらい。たいてのドラマは1、2回見れば出来がわかるが、
このドラマは 最後まで見ないと何とも言えない。すごくよく出来てるのか、それとも気を持たせただけか。
「孤独の賭け」(木曜)
伊藤英明と長谷川京子が「野望を持った孤独な人」に見えない。二人ともわりといい人そう。ちなみに、伊藤英明とガンバ大阪の西野監督って似てないか?
「生徒諸君」(金曜)
1回見てやめた。原作が漫画だからってこれはちょっと…。
「特急田中3号」(金曜)
オタク系のドラマはけっこう好きだ。ただし、主人公の造形などには興味が持てなかった。いっそ思いっきりオタク系に徹してほしかった。
「帰ってきた時効警察」(金曜)
時効事件を解決する推理ものとして見てはいけない。不思議な感覚のドラマ仕立てコントとして見るとはまる。美少女系女優・麻生久美子(三日月しずか)のコメディエンヌぶり(特に6月1日放送分)はおおいに笑える。保存版にしようっと。

「喰いタン2」
(土曜)
視聴率がいいのは知ってるが、どうしても見る気になれない。
「ライアーゲーム」(土曜)
ドラマというよりは数学ゲーム・心理ゲームとして実に面白い。戸田恵里香には「めぞん一刻」の管理人さん役をやってほしい。今はまだ若すぎるが、イメージ的には似合っていると思う。
「冗談じゃない!」(日曜)
ホントに冗談じゃない。これを毎回見るほど私は暇じゃない。




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