フィクションのチカラ(中央大学教授・宇佐美毅のブログ)
テレビドラマ・映画・演劇など、フィクション世界への感想や、その他日々考えたことなどを掲載しています。
 



 今クール(2023年4~6月期)のテレビドラマの感想は、4月にだいたい書きました。ただし、その時点では、各作品1~2回放送時点で感想を書いているので、その後見続けて、印象や感想がかなり変わっていった作品もあります。その中から、今回は『あなたがしてくれなくても』について書きます。
 主に描かれているのは2組の夫婦。吉野みち(奈緒)と吉野陽一(永山瑛太)、新名誠(岩田剛典)と新名楓(田中みな実)。それぞれがセックスレスに悩む中で、同じ会社に勤めるみちと誠が親しくなり、互いに好意を持つようになり、それぞれの夫婦の間に亀裂が入っていく…というストーリーです。原作はハルノ晴の漫画作品です。
 この作品が描いているのは、タイトルの通り「夫婦の性生活」「夫婦のセックスレス」です。扱いにくいテーマですが、それを正面から描いていることがまずは大きな特徴です。それだけに、さまざまな感想がネット上にも書き込まれてきました。今週の最終回放送を見て、さらに賛否両論を含めた大きな盛り上がりを見せているようです。
 今回書いてみたいのは、この作品の主人公に設定されている吉野みち(奈緒)の人物像についてです。通常のみちは、いたって「普通」の女性です。その夫の陽一はぶっきらぼうで多くを語らない性格、新名誠は完璧主義のエリートサラリーマン、新名楓は仕事に精力の大半を傾けるキャリアウーマン、とそれぞれに強い特徴と個性を持っています。それに比べて、みちは真面目な性格ですが、それ以上に何があるかというと特に大きな特徴はありません。その「普通」さが視聴者の誰もが自分を投影できる万能の人物になっているともいえますし、その「普通」さゆえに「どうしてこの娘が夫の陽一にもエリートの誠にもそんなに愛されるの?」と反感を買うことにもなりかねません。ここがこのドラマの肝心なところです。本来「普通」の人間などどこにもいないはずで、それはフィクション作品の設定に過ぎません。もともと、自分から陽一の勤めるカフェに通って陽一にアプローチしていくなど、かなり大胆な側面も持った女性ですが、通常はそういう面を出さず、ごくごく「普通」の女性をふるまっているだけなのかもしれません。
 そのみちが、ドラマ終盤になると、急に夫に「離婚してほしい」と自分からはっきり告げたり、誠からの求愛に「誰にも頼らずに一人で生きていきたい」ときっぱりと拒否したりします。この変化についていけるかどうか、それによって視聴者の反応は大きく分かれることでしょう。夫の陽一とのすれ違いや誠との新たな関係によってみちが成長し、自分の意見を持つようになったと受け取れる視聴者は、この展開を肯定的に見られるでしょう。一方で、それまでただ「普通」の女性だったみちが、急に夫も誠も拒絶するようになったことを受け入れられない視聴者は、ドラマ終盤の展開自体に不信感を抱くこともあり得ます。後者の場合、「この女、いったい何がしたいんだ?」と、みちの人物像に戸惑うことになるかもしれません。

 「夫婦のセックスレス」というテーマを取り上げたこの作品は、そのテーマだけではなく、その描き方の面でも多くの功績があると考えています。しかし、まだ原作漫画連載が続いている中でのドラマ化ですから、結末のつけ方には苦労したことでしょう。その苦労の部分はよく理解できるのですが、それでも、最終回を含む終盤2回分の内容は、やや強引に見える部分がありました。セックスレスの問題や、子供を持ちたいかどうかをめぐる夫婦の人生観の違いといった問題は、最終的にどこにいってしまったんだ?という疑問もぬぐえません。
 主要な登場人物たちがどのような生き方を選ぶか、それ自体は唯一の正解があるわけではありませんし、視聴者の好みや、ましてや「岩ちゃん推し」といった俳優の好みをもとに作品を批判することはできないでしょう。しかし、ドラマは10数回の放送を継続していくわけですので、やはりそこまで見てきた視聴者の理解を簡単に裏切っていいわけではありません。最終回の後に、来週は「特別編」なる回が放送されるそうですので、そこでなんらかの必然性が説明・描写されるのかもしれませんが、少なくとも今週の最終回までの放送では、最後の2回分がそれまでの作品の内容をうまく受け継いでいないように思えました。


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 今日は古いテレビドラマ『世界で一番パパが好き』(1998年放送)について書きます。
 設定はこうです。口のうまさで仕事をする弁護士・岡田善三(明石家さんま)には、別れた妻と娘がいます。その元妻が亡くなり、娘・仲町たみ(広末涼子)と13年ぶりに対面し、善三とたみは一緒に暮らすようになります。しかし、13年会っておらず、既に予備校生になっているたみは、両親の離婚の本当の理由を知らずに、善三をずっと恨んでいる…という話です。

 私はこのドラマを、放送当時リアルタイムで見ていました。その頃はまだテレビドラマ研究者を名乗っていなかったので、ただぼんやり見ていただけでしたが、たいへん好印象を持ったことを記憶しています。その後、この作品のことを少し調べてみると、プロデューサーが高井一郎、脚本が君塚良一であることを知りました。『踊る大捜査線』などでコンビを組んだ二人です。そりゃあ面白かったはずだ、と思いました。しかも、『踊る大捜査線』が1997年から2012年まで続いた中で、その最初の頃にこの『世界で一番パパが好き』が制作・放送されたというわけです。
 とはいっても、『世界で一番パパが好き』と『踊る大捜査線』の雰囲気はかなり違っています。お笑い番組なども手がけていた君塚らしいともいえる、笑いの要素はどちらの作品にも多くありますが、『世界で一番パパが好き』がメインに描いているのは「親子愛」「家族愛」でした。13年離れて暮らしていた親子(父と娘)が、その関係を取り戻していく、あるいは関係を新たに築いていく過程が見事に描かれています。『踊る大捜査線』が大ヒットしたことはよく理解できますが、私にはこの『世界で一番パパが好き』の方が、内容的によく出来ているように感じられました。

 ところで配役について。娘役を演じた広末涼子は、このところ私生活の問題で世間を賑わせています。私は、そういうプライベートな話には興味がないので(いやホントです)、ここでは語りませんが、広末の役者としての才能は疑う余地がありません。その広末の才能が発揮されたかなり早い成功作がこの『世界で一番パパが好き』だと考えています。
 一方の明石家さんまも多芸の人ですが、プロの役者ではありませんから、どんな役でもこなせる人だとは思えません。はまる役とはまらない役の差が大きいというのが私の評価です。最大のヒット作『男女7人夏物語』『男女7人秋物語』はよかったとしても、キムタクとわたりあい、深津絵里と兄妹役を演じる『空から降る一億の星』の明石家さんまは、残念ながら適役だったとは思えませんでした。むしろ、おしゃべりで調子がよい弁護士、口うるさいが情に厚い父親、そういう役を演じているこの『世界で一番パパが好き』の明石家さんまの方が、彼らしさをより発揮している作品だと感じます。
 よい作品は、そうした配役の妙、適役かどうかを含めて決まっていく、ということをあらためて感じる作品でした。

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 私はテレビドラマ研究を重視していますが、もともとは小説の研究者で、その後は映画・演劇や漫画を含めたフィクション研究者であると、自分で意識しています。ということで、このブログにはテレビドラマのことを書くことが多いのですが、今日は映画『湯道』のことを書きます。快作でした。
 『湯道』の設定はこうです。東京でかつて活躍していた建築家・三浦史朗(生田斗真)は、会社から独立後に仕事にいきづまり、地方で銭湯を経営している実家を売却することを考える。しかし、銭湯の主人になっている弟・三浦悟朗(濱田岳)や銭湯で働く秋山いづみ(橋本環奈)と一緒に銭湯で働き、銭湯に集う人びとと接するうちに、その銭湯がなくてはならないものだと思うようになる…という話。そこに、茶道や華道のように「湯道」という「湯の道」を継承する人びと(角野卓造・窪田正孝ら)や、「源泉掛け流し主義」を標榜する温泉評論家(吉田鋼太郎)らがからんでいきます。
 地方の廃業寸前の銭湯が舞台ですから、目をみはるような映像も、豪華な衣装も、派手なアクションもありません。いってみれば地味な映画です。しかし、小山薫童の脚本ですから、実に巧みにストーリーが練り上げられています。各所に伏線がはりめぐらされていて、それが次第に融合していく面白さが満ちています。巧みすぎて作り手の作為が小憎らしい、あるいは小賢しい気もしないではありませんが、やはり熟達の技に練り上げられた脚本は見事という他ありません。
 しかし、見事に練り上げられた作品の描いているものが、あまりにも近代的・合理的なものでは味わいがありません。むしろ「廃業寸前の銭湯」という設定だからこそ、そこにいとおしさがこみあげてくるのだと思います。
 先に書いたように、目をみはるような映像も、豪華な衣装も、派手なアクションもない地味な映画ともいえますが、気持ちよく味わえる、一流のエンタテインメント作品と感じました。

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 今さらですが、昨年(2022年7~9月)に放送されたテレビドラマ『初恋の悪魔』について書きます。
 『初恋の悪魔』は、数々の有名テレビドラマや映画を担当した坂元裕二の脚本作品です。坂元は、最近では映画『怪物』でカンヌ国際映画祭の脚本賞も受賞しています。ただし、『初恋の悪魔』の評判は必ずしも良くありませんでした。視聴率的にも、回によっては3%台にまで落ち込むことがありました。視聴率が作品の評価そのものではないことは、これまでにも度々指摘してきましたが、それにしても、3%台というのは残念なものがあります。
 そういう私にしても、この作品の放送時にはついていけませんでした。「ついていけない」とは、初回を見て興味が持てず、その後を見るのはしばらく断念していたという意味です。私はテレビドラマ研究者ですので、1回も放送を見ないということはほとんどありません。どの作品も最初の1回は見るということです。しかし、いかに仕事しながらの「ながら見」とはいえ、私も暇を持て余しているわけではありませんから、2回目以降も見続けられるとは限りません。それでしばらく断念してしまう作品もあります。失礼ながら、この『初恋の悪魔』がそうでした。
 しかし、後日になって録画を見続けてみたところ、さすが坂元裕二の作品だということがわかりました。ネタバレしないように気をつけて書きますが、初回だけ見ると、それほど面白くない1回完結型の謎解きドラマに見えてしまいました。よく見ればそうではない部分もあるのですが、私はそこはあまり気をつけて見ていませんでした。仕事しながら見ているから気づいていなかったのは確かですが、多くのテレビドラマ視聴者はそこまで真剣にテレビドラマを観察しているわけではありません。私が気づかないドラマの深さを理解する視聴者は、残念ながらそれほど多くはないでしょう。
 『初恋の悪魔』は、見続けていくと、単なる1回完結謎解きドラマではなく、中心となる人物たちの過去が深く関わり合っていることが明らかになっていきます。その点ではミステリー作品ともいえますが、一方でコメディーでもあり、さらにはかなり切ないラブストーリーにもなっています。初回では不思議に思った『初恋の悪魔』というタイトルも、次第にその意味がわかってきます。こうした多面的で興味深い世界を見せてくれるなら、もっと早く見ておけばよかったとも思いました。と同時に、初回からもう少し密度濃く全体像を描いてくれれば、もっと継続して見る人も増え、視聴率的にもここまで下がらなかったのではないかと残念に思いました。
 放送から1年近く経ってからの感想になりますが、毎週1回放送という形態を考えると、テレビドラマにとっての初回放送の意味の大きさをあらためて考えさせられました。

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