フィクションのチカラ(中央大学教授・宇佐美毅のブログ)
テレビドラマ・映画・演劇など、フィクション世界への感想や、その他日々考えたことなどを掲載しています。
 



 タイトル通り「いまさら」ですが、放送が終了した『真夏のシンデレラ』について書きます。私は放送終了してからまとめ見することも多いので、この作品は最近になって見ました。フジテレビ「月9」史上最低視聴率を記録したとか、SNS上のツッコミがあふれてしまったとか、いろいろよくない方の評判の多い作品でした。しかしながら、そんなにわるくないじゃないか、というのが率直な感想です。
 いささか「上から目線」的な言い方ですみませんが、そんなにわるくないのにちょっとしたことで印象や評価を大きく下げてしまっている、という感想を持ちました。展開の不自然さや作中人物の傲慢な物言いに批判が集まっていたようですが、たとえば韓国ドラマの人気作品を見てみれば、展開の不自然さや作中人物の傲慢な物言いはいくらでもあります。前者は、交通事故とか記憶喪失とか出生の秘密とか、です。後者は、富豪の庶民と対比の場面で、傲慢オトコや高ビー女は韓国ドラマにいくらでも出てきます。
 ではなぜ『真夏のシンデレラ』は批判されるのか。それは嘘をつく場所が違うのではないでしょうか。韓国ドラマの展開は不自然ですが、誰でもわかるように盛大に堂々と不自然さを押し通します。そうでない場所では驚くほどリアルに作中人物を描きます。韓国ドラマだけではありません。たとえば、『仁』を例にとるなら、「現在の医師が江戸時代にタイムスリップする」は大嘘ですが、タイムスリップした先の出来事はきわめてリアルに描かれます。
 『真夏のシンデレラ』の湘南女性が花火で驚いて海に落ちておぼれて、助けられたライフセーバーに一目惚れされる…。う~ん、どうせ不自然なら、もっと大胆でびっくりするような嘘をついてほしいです。どうしてそのライフセーバー(しかも医師)は、海に落ちた女性(バツイチのシングルマザー)に惚れちゃったんでしょうか。恋愛ドラマなんですから、人が人を好きになることを納得させるように描いてほしいです。そのためになら、盛大な嘘をついてもかまいません。ただ、そこを省かれて、ただ単に「好きになりました」では納得がいきません。そこをすっとばされてしまっては、いろいろ文句も言いたくなりますし、湘南地域の人たちがそんなに東京と文化格差があるのか?といった疑問にも一言いいたくなってきます。
 繰り返しますが、『真夏のシンデレラ』は、最終回までそこそこ面白く見られました。しかし、惜しいんですよね。細部は丁寧に描き、目立つところで大胆な嘘がある方がいいと私は思います。もっと上手に嘘をついてほしい、上手な嘘で視聴者を物語世界に引きこんでほしい、いまさらですが、そんな思いを持ちました。

※このブログはできるだけ週1回(なるべく日曜)の更新を心がけています。




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 毎週日曜日の更新をしているこのブログですが、3連休だったせいか、昨日の更新をうっかりしていました。

 さて、9月中旬というのに最高気温30度以上の日が続きます。夕暮れ時間が早くなってきましたし、少しずつ真夏が終わっていくような気もしますが、残暑は続いています。
 そんな時期にふるさと納税の返礼品として、シャインマスカットとナガノパープルが(それぞれ別の自治体から)届きました。私は特に高級フルーツを食べたいという欲求はなく、自分で青果店で買い物する際に、季節の安価な果物を買うのが通常です。とはいえ、せっかく返礼品が届きましたし、秋の始まりを感じさせてもくれるので、少しはいただきました。もちろんどちらも美味しいですが、私は味の濃いナガノパープルの方がより好みです。
 そういえば、栽培の技術が発達して、今はその種類の果物を食べられる期間が長くなりました。子どもの頃は、その季節の果物しかありませんでしたし、なんといっても夏のスイカが強く印象に残っています。今ほど食べられる果物の種類が多くなかった昔にあって、夏のスイカは特別なものでした。スイカ割りなんていうイベントも、夏の海の定番でした。
 書いているうちに思い出しましたが、夏にはマクワウリという果物もありました。メロンなんていう高級品はまず食べられなかったので、夏はスイカでなければ瓜を食べました。私の父のルーツは福井県なので、小学生のときに夏じゅう福井県で過ごしたことがあります。九頭竜川沿いの親戚の家でした。そのときに親戚のお兄さんたちと、泳いだり、筏を作ったり、釣りをしたりして、毎日遊びました(遊んでもらいました)。そして、畑の瓜をそのまま外で割って食べたりしたことを、このブログを書きながら思い出しました。
 季節と果物ということで書き始めたら、子どもの頃のことを思い出しました。シャインマスカットもナガノパープルも美味しいですが、子どもの頃に食べていたスイカやマクワウリをもう一度食べてみたいという気持ちになりました。

※このブログはできるだけ週1回(なるべく日曜)の更新を心がけています。が、今回はうっかりして月曜の更新になりました。




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 先日までおこなわれていたバスケットボールW杯で、日本がパリ・オリンピック出場権を獲得しました。試合を重ねるにつれて、日本中が大きな盛り上がりを見せていました。そして今度はラグビーW杯が始まり、今日は日本が初戦でチリに快勝しました。スポーツをするのも見るのも好きな私としては、大きなイベントがあり、そして日本チームが活躍するのは嬉しいことです。
 私の場合、自分でしたいスポーツと見たいスポーツはかなり異なっています。バレーボールとバスケットボールについては、どちらも自分でそこそこしてきた経験があります。どちらも学校の部活ではなく、大人になってから地域のクラブチームなどで基本から教わりました。一方で、サッカーやラグビーはほとんど経験がなく、サッカーは学校の体育の時間にしたことがある程度です。しかし、自分の経験とは異なり、見るスポーツとしてはサッカーやラグビーを好んでいます。特にラグビーは、見るスポーツとしては最高だと思っています。実際にスタジアムで観戦したことも何度かあり、中でも大きな観戦試合は、次の2試合です。1985年1月15日に新日鉄釜石が日本選手権7連覇した試合を、旧国立競技場で見ていました。近年では、2019年9月20日におこなわれたラグビーW杯「日本対ロシア」戦を、東京スタジアム(調布)で見ていました。
 さて、今日はラグビーW杯の日本初戦で、日本はチリに42対12で快勝しました。しかし、この試合は4年前に私が現地観戦したロシア戦と、よく似ていました。初戦の緊張感からかたさが目立っていたこと、自分たちのミスから相手チームに先制されたこと、次第に持ち直して結果としては快勝したことなど、試合の立ち上がりからその後の展開まで実によく似ています。4年前はそこから快進撃のきっかけをつかみ、日本チームとして初のベスト8トーナメントに進出しました。だからといって今回も、と楽観できるほど世界の強豪チームは甘くありませんが、今後の日本チームの活躍を期待したいと思っています。
 スポーツ観戦は一種の「夢の世界」の出来事だと私は思っています。日本チームが敗退すると、あるいは大会が終わると、「夢から覚めた」ような気持ちになります。あるいは「もう少し夢を見させてほしかった」という気持ちになります。さて、今回のラグビーW杯ではそのような気持ちになれるでしょうか。ほんの束の間であっても、すばらしい夢を見させてくれることを願っています。

※このブログはできるだけ週1回(なるべく日曜)の更新を心がけています。







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 このところ断捨離をしていることは、このブログに何度も書きました。「まだ断捨離やっているのか」「まだ終わっていないのか」と思われるかもしれませんが、「あきらめのわるい男」の私としては、1年くらい時間をかけて、かたづけをしていく覚悟でいます。

 さて、断捨離で昔読んでいた加藤諦三の本が出てきた話を以前に書きましたが(⇒「断捨離で表に出た黒歴史」)、まだまだ出てきました。しかも冊数がすごい。高校時代に読んでいた森村桂の文庫本がこんなに出てきました。しかも、森村桂の本だけは他の本と区別して、特別にてんとう虫イラストのカバーをかけていたのでした。高校生の私、可愛すぎだろ!

 今は文学研究者となった私ですが、本のほとんどない家庭に育ち、子どもの頃はシャーロック・ホームズくらいしか読んだことのない子どもでした。その私が高校生(仙台第一高校生)の頃に学校の近くにあった県立図書館(宮城県立図書館。当時は榴ヶ岡駅近接の榴ヶ岡公園内にありましたが、今は移転しています。)でたまたま読んだ森村桂に「ドはまり」してしまい、発売されている文庫本を全部買って読むほどになりました。
 当時(私が高校生だった1970年代半ば)、森村桂は人気作家でした。「自分の作品コーナーがあるのは川端康成氏と森村桂さんぐらいであるそうだ」と書かれた解説文もありました。とはいうものの、森村桂といえば、若い女性の夢みたいな憧れと体験談を描いた『天国に一番近い島』か、結婚をめぐるエッセイ本というイメージの作家でした。男子高校生が「森村桂を愛読しています」なんて堂々と言えるような作家ではありませんでした。ドストエフスキーとは言わないまでも、せめて庄司薫くらいなら名前を挙げてもよかったかもしれませんが、森村桂好きとは当時でも言いにくいところがありました。
 ある日、部活(当時私は陸上部でした。優勝はできませんでしたが、県大会で上位入賞できるくらいの選手でした。)の後に部室でうっかり森村桂の文庫本を他の部員に見られてしまったところ、一人の先輩から「うわ、いやだ、うさみ~。森村桂なんて読んでるんだ?恥ずかしい~。読み終わったら貸して!」と言われたことがありました。

 当時としてもそんなにかっこいい好みではありませんでしたが、今思い出すとなおさら恥ずかしいです。ただ、今少しだけ読み直してみると、加藤諦三よりはいいかな、と思いました。エッセイ本としては、なかなか楽しく読ませるように出来ています。言い訳するつもりはありませんが、高校生の私がはまったのも、そんなに悪い趣味でもなかったような気がしました。
 ただし、今読み直すと時代の変化は強く感じます。こちらの方は研究者としての着眼にもなってしまいますが、当時「元気でけなげな女性」「可愛い奥さん」というイメージで書かれていた(語られていた)女性像が、今読み直すとかなり古い時代の女性として見えてきます。古い男女観に忍従している女性とでも言いましょうか。もちろん、それを喜んで読んでいた私も、そういう旧来の男女観を受け入れていた人間だったということになります。
 そんなこんなの思いもありますが、この森村桂本の束は捨てる気にはなれませんでした。加藤諦三の方は写真を撮って処分しましたが、森村桂の方はもう少しとっておこうと思います。そんなことだから断捨離が進まないのですが、それでも、余裕ができたらまた森村桂の文庫本を読み直してみようか、そんな気になりました。

※このブログはできるだけ週1回(なるべく日曜)の更新を心がけています。




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