フィクションのチカラ(中央大学教授・宇佐美毅のブログ)
テレビドラマ・映画・演劇など、フィクション世界への感想や、その他日々考えたことなどを掲載しています。
 



 昔若いときにこんな本を読んでいた……というのは一種の黒歴史という面があります。私の場合、高校生のときに加藤諦三や森村桂を読んでいたことをこのブログで暴露し、自ら恥ずかしい告白をしました。

 → 断捨離で表に出た黒歴史 (2023年5月28日)
 → 黒歴史はまだあった~森村桂の文庫本 (2023年9月3日)

 今日はその後日談のようなことを書きたいと思います。9月のブログにも書いたように、私が愛読していた1970年代の森村桂は、かなりの人気作家でした。小説家というよりは自分の体験を題材にしたエッセイストの面が強く、その書いた文章は森村桂という人そのもののイメージを形成していました。そのイメージとは、「型破りな行動力のあるお嬢さん、でも結婚に夢を持って憧れて、その結果自分の書いた本の読者と運命的な出会いをして、幸せな結婚をした女性」というものだったと思います。
 しかし、その後森村桂は、そのたくさんの著書のモデルとなった配偶者とは離婚し、別の男性と再婚し、軽井沢でケーキ店を開業し、やがて亡くなった……という経過をたどります。私の森村桂愛読は、私自身の高校生時代の2年間ほどで終わりましたので、実は元の「運命的な出会いをして、幸せな結婚をした女性」というイメージのまま、私の中ではあまりイメージの更新がされていなかったのです。
 ところが、近頃になって少し森村桂のことを調べてみたところ、彼女が再婚したのが1979年のようなので、私がもう少しだけ森村桂愛読を続けていたら、私の中での森村桂のイメージは大きく変わっていたかもしれません。そうしなかったのは、そして、同じイメージを持ち続けてきたことは、私にとっては幸せなことだった気もします。ただ、今年になって少しだけ森村桂のことを調べ、再婚後の森村桂の本『それでも朝はくる』や再婚相手三宅一郎の著書『桂よ、その愛と死』を読んでみて、私が高校生のときに持っていた森村桂のイメージが大きく変わりました。どう変わったのかを簡単に書き尽くすことはできませんが、森村桂の育った家庭、最初の結婚の背後にあった苦しみ、その後の作家としての葛藤、などが強く伝わってきました。
 『それでも朝はくる』や『桂よ、その愛と死』を読まない方がよかった、という気持ちも強く湧いてきました。『それでも朝はくる』では、森村桂の最初の結婚相手がかなり悪辣な人物として描き直されています。私の高校生のときに持った、森村桂の幸せな結婚生活のイメージが根底から崩されてしまいました。また、『桂よ、その愛と死』では、森村桂の再婚相手の立場から、森村桂自身やその母親、最初の結婚相手のいわば暗い側面が重点的に描かれています。
 おそらく、森村桂とその最初の結婚相手のどちらからその関係を見るかで、見方はまったく変わってくるのでしょう。また、森村桂の再婚相手の書いていることをそのまま全部信用していいのだろうか、という疑問も残りました。ただ、どの文章もみな一人の人間の「ある側面」でしかなかったので、それらを複数折り重ねていくことでしか、森村桂という人に近づいていくことはできないのだろうと思います。いずれにしても、私が高校生のときにもっていた森村桂という人のイメージは、50年近い年月を経て大きく変わることになりました。
 森村桂の死は2004年のことでした。「関係者によると自殺と見られる」という報道がありました。今さらですが、高校生の頃に愛読した作家の冥福を祈りたいと思います。

※このブログはできるだけ週1回(なるべく日曜)の更新を心がけています。





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 井上隆史さんが昨年出版した『三島由紀夫 豊饒なる仮面』(新典社、2100円)の書評を書きました。書いたのは、『三島由紀夫研究⑨』(鼎書房)にです。
 私は三島由紀夫研究者ではありませんが、日本文学研究者として、当然三島という作家に対する関心は強く持っています。また、この本のような「三島由紀夫評伝」という仕事に対しては特に強く関心があります。というのも、三島という作家は、多くの作家の中でも特にその「実人生」と「作品世界」との関連に大きな課題があり、それだけに、作品を単独に論じるのではなく、「実人生」と「作品世界」の関係を論じることに大きな魅力を感じるのです。
 ただし、その仕事は大きな魅力であるのと同時に、大きな危険をはらむ仕事であることもよくわかっているつもりです。三島という作家は、「実人生」と「作品世界」の関係が他の作家以上に深いからこそ、それをどのように論じるかは慎重を要する問題ですし、うっかりすれば安易な作家還元主義におちいってしまうことも予想されます。
 そういった大きな「魅力」と「危険」をはらんだ「三島由紀夫評伝」という仕事に、井上さんがどのように取り組んだのか。それは私の書評、または井上さんの本を直接読んでほしいのですが、少しだけ書くとすれば、本のタイトルにもなっている「豊饒なる仮面」というのが重要なキーワードになっています。
 井上さんは、三島由紀夫という作家、そして人物の多面性をいったん「仮面」としてとらえ、しかしその「仮面」がそれぞれ、いかに三島という人間のアイデンティティと密接に関係しているかを論じるという方法を採っています。すなわち、「仮面」という武器を持つことが自分を隠すことと表すことの二重性を持ち、その二重性こそが三島のアイデンティティにつながるという考え方です。
 こうした興味深い考察とともに、三島の伝記的な事実に関する新しい発見・指摘もあり、三島研究にとって重要な本であることは間違いありません。
               


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 今年もあとわずかとなりました。何か忘れていることはないかと思ったときに、今年後半になっていただいた多くの本のことを書いていないことに気づきました。それぞれ個別に御礼は申し上げたのですが、このブログには紹介していなかったので、それらをまとめて紹介させていただこうと思います。ほんの簡単な紹介にとどまることを御容赦ください。
               
千田洋幸『テクストと教育 「読むこと」の変革のために』 (渓水社、2,940円)

 島崎藤村研究から出発して研究範囲を広げていった千田さんですが、この本は千田さんの国語教育関係の論文を集めています。この本のおかげで千田さんの論文を体系的に読めるようになり、私と同じように歓迎している人も多いでしょう。所収論文は、現在までの国語教育の偽善性や欺瞞性を考察する論文が多く、共感するところが多くありました。私自身、子どもの頃に教師から不可解な「読み」を押しつけられて、今でも思い出すような不愉快な経験をしたことがあります。その意味で、現在までの国語教育への批判には共感するところが多くありました。
 その一方で、批判の先に必要なはずの方向性をもっと示してほしいという感想も持ちました。現在の文学教育の偽善性・欺瞞性を暴いて、言語能力の向上だけを考えろというのであれば、どうやって言語能力の向上をさせるのかという千田さんの提案も聞きたいところです。私は千田さんに共感しつつも、さまざまな権力や欲望がまとわりついているからこそ文学を教室で扱いたい、と考えているので、文学を排除した後の国語教育のありかたについて、千田さんの考えを教えてほしいと
感じました。

石原千秋『読者はどこにいるのか 書物の中の私たち』 (河出書房新社、 1,260円)

 石原さんは近年も続けて本を出版していますが、今回の本は石原さんの研究姿勢のエッセンスを集めた本だと思いました。「ケータイ小説論」も「Jポップ論」も石原さんの研究姿勢が見事に応用されていますが、今回の本はそうした石原さんの姿勢の根底にあるテクストと読者の関係を凝縮して論じています。その意味では、何に関心を持っている学生・院生であっても、「この本は読んでおきなさい」と勧められる本でした。
 また、私も柄谷行人『近代文学の終り』には違和感を感じるところがあったので、この本の中で石原さんが「内面の共同体」という概念を使って柄谷への異論を提出し、問題提起をおこなっているところが、特に興味深く感じられました。
 中央大学での私の授業で、この本を使ってみようかと思っています。

石原千秋『名作の書き出し 漱石から春樹まで』 (光文社新書、 861円)
石原千秋『あの作家の隠れた名作』 (PHP新書、 735円)
 それぞれ本のタイトルからわかるように、前者は名作の書き出しから作品を論じた本、後者はあまり有名とは言えない作品を読み直した本です。石原さんは、日本文学研究者としては特に新書本の著書が多い研究者ですが、新書が多いということは、一般読者向けに文章が書けるということ。言い換えれば、研究者という狭い世界でしか通用しない文章を書くのではなく、その他の人たちにもわかる文章が書けるということです。私も日本文学研究者ながら、「どうしてこんなわかりにくい文章で論文を書くんだ!」と怒りたくなるような論文を読まされることが多々あります。そういう人たちは石原さんの本を読んで少し勉強すると良いでしょう。

紅野謙介『検閲と文学 1920年代の攻防』 (河出書房新社、1,260円)
 私は本をいただくと、失礼ながら全体をざっと斜め読みします。しかし、紅野さんの今回の本を斜め読みしようとして、その密度の濃さに驚かされ、とても斜め読みできるような本ではないことに気づきました。綿密な資料調査の迫力と同時に、検閲が転移するといった、私には思ってもいなかった発想が提示されていることにおおいに刺激を受けました。以前、朝日新聞でも特集があったように、検閲が過去のもののように思ってしまいがちな現代においてこそ、検閲の意味を問い直さなければならず、この御本がそのための貴重な役割に担うに違いないと感じました。

竹内栄美子『戦後日本、中野重治という良心』 (平凡社新書、882円)
 この本の「序」には、次のように書かれています。
「戦後日本を見直すさいに中野重治の著作によるのは、中野がそれぞれの時期に取り組んだ問題を追うことで、戦後の流れや相が見えてくると考えるからである。この作家は、文学という藝術にしたがって、戦後史のそれぞれの局面をどのように描き、批評したのか。文学表現による歴史批判・社会批判をいま取り上げるのは、残念なことに、現在、そのような作家や文学者がほとんどいなくなり、文学は、さきの戦争の語り方と同様、大きく変質してきたという私自身の思いに従っている。」
 この文章に、本の意図が明確に示されています。近年、学術出版が不況な中で新書本ブームが続いていますが、品のないタイトルや記述で読者を引きつけようとしているものが少なくありません。その中で、実に志の高い新書本と言えるでしょう。

細江光『作品より長い作品論 名作鑑賞の試み』 (和泉書院、15,750円)
 タイトルの通り、また価格の通り、猛烈に分厚い本です。まず「はじめに」「おわりに」と『地獄変』論を読んでみたところ、厚さだけでなく、中身もそれに相当するくらい濃い本でした。『地獄変』は私も従来の研究に違和感を持っていましたが、今まで考えをまとめられてませんでした。細江さんの論を読んで、そのように考えれば多くの点で合点がゆくという思いがしました。
 細江さんは「おわりに」で記号論の流行や作者の意図の軽視を批判しており、私も記号論的研究をしているわけではないのですが、細江さんほど丹念に作品を読んでいるのを見ると、かえってテクスト論者のような読み方と共通点を持ってくるようにも思いました。そう言われるのは細江さんの本意ではないでしょうけど、記号論的か作家論的かということよりも、作品を丹念に読んでいけば、読み方は同じ方向を示すように感じたところがありました。

山下真史『中島敦とその時代』 (双文社、 3,360円)
 私の同僚でもある山下真史さんの長年の中島敦研究の成果をまとめた本です。山下さんの研究は、一言でいって「奇をてらわない」ということでしょう。あるいは「奇をてらうことがいっさいない」と強調してもいいように思います。私が研究者を目指してからの30年くらい、文学研究の方法に関してはさまざまな議論がなされてきましたが、山下さんの研究に接すると、そうしたさまざまな議論がいっときの流行にすぎないのではなかったかという気がしてきます。
 また、前から感じていたことですが、山下さんも私も大学院生時代に教えを受けた故・三好行雄さんの学風を一番受け継いでいるのが、山下さんなのではないかと思っていました。作品を緻密に論理的に読み進め、そこから作家論へ進み、さらには大きな文学史を構想するという三好さんの研究者としての姿勢を一番体言しているのは、教え子の中で山下さんだということを、この本を読んであらためて思いました。
 

藤井淑禎『高度成長期に愛された本たち』
(岩波書店、2,415円)
 タイトルの通り、『点と線』『砂の器』、『愛と死を見つめて』、『野菊の墓』、『徳川家康』『宮本武蔵』といったベストセラー作品が取りあげられ、論じられています。この本の「まえがき」のところで指摘されていることですが、「あの時代の文学状況はこうだった」ということが安易に言われることをあります。しかし、何を持って「あの時代の文学状況はこうだった」などということが言えるのか。この本はそのことを追究していて、さまざまな資料やデータを駆使して、その時代の文学状況を再現する方法を提示してみせてくれています。
 私は先日松本清張記念館で研究発表をしたので、特に清張作品を論じているところは興味深く、通常は「社会派ミステリー」といった括りでまとめられてしまう清張作品を、日本文学全体の中で「構造的小説対私小説」という対比として考えているところが興味深いところでした。

疋田雅昭/日高佳紀『スポーツする文学 1920-30年代の文化詩学』 (青弓社、2,940円)
 共同執筆者の1人である西川貴子さんから本をいただいたので、まずは西川さんの「「わたし」と「わたしたち」の狭間─「走ることを語ること」の意味」を読みました。
 私はスポーツをするのも見るのも好きで、実は中学高校時代に(長距離ではありませんが)陸上部でした。そのせいか、西川さんが論じている陸上競技(特に長距離)の、スポーツでありながらスポーツでない特殊性がよくわかる気がしました。どこか「道」「修業」といった文脈で語られることが、特にマラソンにはつきまとっていて、それが政治性と結びつくことの必然性と危険性を、西川さんの論文から勉強させていただいたと思います。

中村昇『ウィトゲンシュタイン ネクタイをしない哲学者』 (白水社、 3,045円)
 私の専門外の哲学書ですが、中央大学の同僚(そして研究室が隣)の哲学者・中村昇さんからいただきました。これまでにも、わかりやすい日本語で書かれた哲学書はあるのでしょうけど、ただわかりやすいだけでなく、面白く書かれた本と言えます。
 中村さんによると、ウィトゲンシュタインという哲学者のドイツ語はたいへんわかりやすく、ネクタイをしたウィトゲンシュタインなんて想像できないと、彼の学生(だったマルコム)が言っているそうで、彼の文章もいつも普段着なのだとのことです。
この本も、ウィトゲンシュタインに習って、いわば「カジュアルの極北」を目指した本と言えるでしょう。その文体はカジュアルというだけでなく、かけ合い漫才のようでかなり笑えます。たとえば、次のような感じです。
 「
ざっくばらんに、楽屋(たいした楽屋じゃないけれど)も見せながら、書いていきたい。」「高校のころ(今日は、よく高校のころを思いだすなぁ)」「哲学に興味のない人にこの手の文章を読ませるのは、犯罪のようなものですね。でも私は、そんなデリダが大好きなんですよぉ。(なんじゃ、そりゃ?)」
 哲学を面白く読みたい人にお薦めです。

 この他にも多くの研究論文や本をいただきました。紹介しきれない点はお許しください。
                
 ちなみに、今年のブログの更新は今日で終了です。読んでくださった皆様、ありがとうございました。来年の皆様の御多幸をお祈り申し上げます。
               



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 早稲田大学大学院(教育学研究科)の金井景子ゼミで、私と千田洋幸さんの編著『村上春樹と一九八〇年代』を取り上げていただきました。そして、私もその会に参加してきました。
           
 早稲田には学会などで何度も行っていますが、授業やその延長としての研究会に出席するというのは初めてです。考えてみると、早稲田に限らず、他大学の授業に参加する機会というのはあまりないもので、何か特別の目的がないとそういうことにはなりません。1995年に「ヨーロッパの日本研究視察」をテーマに在外研究期間をもらったので、その時はヨーロッパのいくつかの大学の授業を見学しましたが、そういうことでもない限り、他大学の授業に出席することはありません。
 今回は、金井景子さんの大学院のゼミで『村上春樹と一九八〇年代』を取り上げて、その合評会のような形をとるため、その本の編者として金井ゼミに呼んでいただきました。博士課程(大学院後期課程)修士課程(大学院前期課程)の両方に、村上春樹研究をしている院生さんがいるということで、この本を取り上げることにしていただいたようです。
 金井さんのゼミで、参加される教員も金井さんだけと以前は聞いていたのですが、近現代文学を専門とする他のスタッフ、千葉俊二さん・石原千秋さん・和田敦彦さんも参加してくださることになり、また、『村上春樹と一九八〇年代』執筆者の藤崎央嗣さん・矢野利裕さん・田村謙典さんも参加して、思っていたよりも大きな合評会になりました。
 院生さんたちからは本の内容に関する質問をいろいろいただき、私や他の執筆者が回答する形を最初はとりました。最初の発表者となった院生さんお二人は、御自身が村上春樹研究をしていることもあってよく本のことも勉強してくれていました。お二人とも、村上春樹の個々の作品の読解というよりも、村上春樹という作家の軌跡を長いスパンで追究しようとしているようなので、そういった観点から『村上春樹と一九八〇年代』を読んでくれていると感じましたし、何か今後の研究に役立つことを見つけていただければ幸いです。
             
 早稲田の教員の方たちからも御意見や御質問をいただきました。石原さんや和田さんからは厳しいコメントもいただきましたが、私としては、こうして取り上げて批評していただいたことに感謝したいと思っています。
 ちなみに、「研究者というものは」と一般化できるかどうかはわかりませんが、「けなされる」ことよりも「無視される」ことの方がつらいと感じる人種のように思われます。実際に、『村上春樹と一九八〇年代』を出版した後に、「私の論文がこの本の研究史に取り上げられていないのはどうしてでしょうか?(当然取り上げられるべきだと思いますが?)」という問い合わせが何件かありました。私が書いた論文と同じテーマで論文を後から書いていながら、私の論文にまったく触れていないという論文を見ると、私も気分が悪いことは確かです。
 一方で、今回のように院生ゼミの日に合わせて他の教員まで出席してくださって、本への厳しい指摘をしていただけるのは本当に有り難いことだという気がしました。『村上春樹と一九九〇年代』が出せるかどうかはわかりませんが、私を含めた執筆者の今後に活かしていきたいと思っています。
             


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 このところ、多くの方から著書を送っていただいたのですが、いろいろと忙しくて、個々の本のことをブログに載せることができませんでした。まとめてで申し訳ないのですが、簡単に紹介させていただこうと思います。


原仁司氏の著書
『中心の探求 言語をめぐる〈愛〉と〈罪〉』 (学芸書林、2,800円+税)

 ル・クレジオから柳美里、太宰治、さらには絵画や映像まで論じられた評論集で、著者・原仁司氏の関心領域の幅広さに感嘆します。これまでにも何本か原氏の論文は読ませてもらっていますが、いずれも狭い日本文学の枠に閉じられておらず、また、御自身の主張が鮮明に打ち出されていることが強く印象に残っています。私はどちらかというと、客観性を重視しすぎて自分の独自色が出にくい方なので、原氏のような独自の主張を明確に出していくお仕事に魅力を感じます。


風丸良彦氏の著書
『村上春樹〈訳〉短編再読』 (みすず書房、2600円+税)

 小説家としてだけでなく、翻訳家としても知られている村上春樹が翻訳したアメリカ文学作品を論じた本です。興味深いのは「序」で、個々の作家作品を論じた研究は多くありますが、実はこうした「文学とは何か」「文学研究とは何か」といった内容を学部学生にわかりやすく講義するような研究書・論文にはなかなか出会えません。学部1、2年次に読ませるような文章としても適切な内容になっています。


柴田勝二氏の著書
『中上健次と村上春樹〈脱六〇年代的世界のゆくえ〉』 (東京外国語大学出版会、2500円+税)

 中上健次と村上春樹は、対照的な作家と受けとめられることが多かったように思いますが、「六〇年代」をモチーフとして「ポストモダンの時代を描く作家同士」という共通項で論じられると指摘されています。私も中上と村上を対照的に捉えていた人間の一人なので、そのような論旨を読んでみると、「そう言えば」と思い当たることがいくつもあります。
 また、東京外国語大学の出版会創立第1冊めの本とのこと、それにふさわしい立派な本だと思いました。


飯田祐子氏・島村輝氏・高橋修氏・中山昭彦氏の編著
『少女少年のポリティクス』 (青弓社、3000円+税)

 文学作品やメディアに描かれた「少女少年」像を考察した論文集で、「少年少女」ではなく、「少女少年」としているところに意味があります。多くの論考が並んでいますが、一例をあげると、中山昭彦さんの論文「断種と玉体――国民優生法と齟齬の〈帝国〉」。たいへんなボリュームのある、国民優生法をめぐる論考で、私などが漠然と持っていた優生保護法のイメージと大きく異なり、さまざまな齟齬をかかえこんだことがわかりました。そのような齟齬が靖国問題へもつながるという指摘も興味深いものでした。



竹村民郎氏・鈴木貞美氏の編著
『関西モダニズム再考』 (思文閣出版、8500円+税)

価格からもわかるかなり厚い本です。その中で、増田周子さんの論考に興味を持ちました。増田さんの論文「大阪におけるカフェ文化と文藝運動」では東京と大阪のカフェ文化の比較がなされており、大阪のそれの密度の濃さや積極的な雑誌刊行のことが指摘されていました。こうした観点から文芸運動を見てみたことがなかったので、勉強になりました。


『多喜二の視点から見た〈身体〉〈地域〉〈教育〉 オックスフォード小林多喜二記念シンポジウム』 (小樽商科大学出版会/紀伊国屋書店、2,000円+税)

 本のサブタイトルにもあるように、英国オックスフォード大学でおこなわれた小林多喜二をめぐるシンポジウムの記録本で、全体のコーディネート責任者はプロレタリア文学研究者の島村輝さんでした。その中の山崎眞紀子さんの報告記録「拷問における身体の収奪」は、小林多喜二『一九二八・三・一五』と村上春樹『貧乏な叔母さんの話』を関連させて論じたものです。私は、多喜二と村上春樹のつながりは考えたこともなかったのですが、身体の問題から「自分の体は自分のものである」ことを奪うシステムの考察、興味深く読みました。


張季琳氏の著書
『台湾における下村湖人 文教官僚から作家へ』 (
東方書店、3500円+税)

 台湾滞在中の下村湖人を考察した研究書です。これまで十分に示されてこなかった台湾側資料を駆使していて、しかも、日本政府系の台湾新聞『台湾日日新報』、台湾人側の新聞『台湾民報』、さらには当事者の自伝などを活用しており、資料的にきわめて価値が高い研究書です。こういうテーマは、日本側と台湾側の立場によって大きな違いが生じるものですが、詳しい資料に基づいた研究で、どちらの立場にも偏らない客観的な考察を貫いた、立派な研究書でした。


斉藤孝氏の著書
『社会科学情報のオントロジー』 (中央大学出版部、4700円+税)

 情報科学的な頭を持っていない私には、とても完全に理解できるわけではないのですが、斉藤氏がここ数年一貫して言語情報のあり方の解明という大きな課題に取り組んできたことはわかるつもりです。たとえば、この本の最初の方を読んでみただけでも、「○○は○○を教える」といった日常当然のように発している一文でも、その言語情報としてのあり方を解明しようとしたらそれがいかに難しいことなのか、思い知らされます。そして、「クラスと関係性」という概念がそれを解く手がかりなるということを勉強させてもらいました。ここで問われている問題はけっして一つの学問分野にとどまることではなく、情報学・社会科学・哲学などにも通じるきわめて大きな問題だということを感じました。



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 今年2月に桐光学園で特別授業をしたことをこのブログ( 「桐光学園で特別授業をしました」 )にも書きました。その時の内容が今度本になりました。→ 「大学授業がやって来た!知の冒険」
          
 前にも書きましたが、近年こうした特別授業をする学校が多くなっています。これは高校に限らず、中学でも高校でも大学でも、それぞれ上の年齢の学校の教員や学生を呼んで話をしてもらったり、あるいは社会人に来てもらって話をしてもらったりすることが増えています。この背景には、「キャリア教育」という考え方があり、以前のように「進路・就職」という学校の出口に関する指導というよりも、生涯にわたっても人生設計をするという考えに基づいています。
 そういう学校は多いものの、今回の桐光学園のような豪華な講師陣を揃えているところは少ないし、まして本にして出版するという学校はあまりありません。こうした講義とその書籍化を通じて、高校生や大学生以外の皆さんが、大学での学問内容に関心を深めてもらえたら、私たちも講義した甲斐があるというものです。
          



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 愛知淑徳大学准教授の永井聖剛さんから、『自然主義のレトリック』(双文社、4600円)という本をいただきました。
 永井さんのゼミ紹介はこちらです。→「永井聖剛ゼミ
          
 日本文学の中で自然主義、あるいは田山花袋という作家の存在には大きな意味がありますが、その研究は必ずしも盛況とは言えません。
 たとえば、島崎藤村、田山花袋、あるいは岩野泡鳴、徳田秋声といった作家の小説を読んでいる人が現在どれくらいいるか。私は大学の教員を18年していますが、卒業論文でこれらの作家を取り上げる学生はほとんどいませんでした。
 ただ、学生に人気がなくても学問的には興味を持たれるということはあります。しかし、学会レベルの話として見ても、自然主義や田山花袋の研究が盛んとはとても言えないように思います。
 そんな中で、永井さんが実に立派な本を出されたと感嘆しました。300頁以上の大部な本で、とても短時間で全体を精読することはできませんが、駆け足で拝読しただけでも単に大部なだけでなく、これまでの自然主義観、あるいは花袋観というものを問い直そうとしている意図がよくわかります。
 この本に貫かれているのは、これまでの自然主義観や花袋観がいかに単純化され、それに固定化されてきたかという問題意識です。たとえば、自然主義の文体は「無技巧」といって、技巧を排除したものだというの一般的な認識があります。また、田山花袋は「平面描写」という手法を用いて、外から超然と世界を眺める主体を前提とした表現を用いたとも考えられている面があります。
 そう言われてみると、私も大学の教員として自然主義や花袋を授業で扱うことがありますが、確かにきわめて単純化して扱っている面がないとは言えません。そうしないと、この対象を学生に講義したり説明したりするのはなかなかたいへんなのです。
 永井さんのこの本は、そのような固定観念を問い直した上で、
田山花袋という小説家の生成過程を追究し、その小説文体がどのようにして形成されていったのかを考察しています。
 このような立派な本が、これまでの自然主義観や田山花袋観を見直すことにつながり、再検討・再評価のきっかけになることを願っています。
          




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 早稲田大学教授の石原千秋さんから『謎解き村上春樹』(光文社新書、882円)という本をいただきました。
 まずは「あとがき」のこと。石原さんが勤務先大学の会議で、「文学で人が呼べる時代は終わった」と同僚から言われたことを書いています。そして石原さんが「文学で人を呼べる」かどうかを検証するため、村上春樹を論じて一般教育科目の講義を担当したということです。
 ここで言われている「文学で人が呼べる時代は終わった」という言葉は、形を変えていろいろな場面で出てきている気がします。ですから、他人事ではありません。だからこそ、石原さんの講義がが毎年500人ほどの学生を集めて、大盛況だったことにある種の爽快感を覚え、石原さんに喝采をしたい気持ちです。
          
 しかし、その一方で、「文学で人を呼べるか」という問いかけは自分に返ってきます。つまり、石原さんだから人を集められ、「石原で人が呼べた」のではないか、「文学で人が呼べた」のではないのではないか、自分なら文学で人を呼べるか、といった問いが浮かんできます。また、他の専門を学んでいる大学生が卒業単位という枠の中で「文学」の授業を選択する(つまり何を取っても卒業単位になるなら取る)としても、「文学」を学びに授業料を払う学生がどれだけ集まるか、という意味で「文学で人が呼べる」かと考えると、またすいぶん厳しくなってくるような気がします。そういう意味で、石原さんが「文学で人が呼べるか」という困難な問いかけに応えようと試みたことに心から敬意を表したいと思いました。
 ところで、このところの私の授業などでも、「村上春樹は重要な作家だ。しかし、〈謎解き〉本が続けざまに出ているが、もう〈謎解き〉はたくさんだ。もうそろそろ村上春樹を研究論文の対象として扱う時期が来ている。」といった内容のことを喋っていました。もちろん、ここでは「謎解き本」と「研究論文」を対比的に言っているわけですから、それではなぜ「謎解き本」は研究論文ではないのか、という説明が必要でしょう。村上春樹の小説は謎解き本を誘発する性格をもともと持っているので、ある意味何とでも言える。それを好きなように書いて謎を解いたように自負している本はもううんざりだ、というのが私の気持ちでした。
 石原さんはそれを十分に承知の上で、前書きにもあるように、「謎解き」が「研究」になるにはどうするかを試みたのが本書だと感じました。実際に石原さんの読みの鋭さは本書の随所にあらわれていて、村上春樹作品は全部読んでいるはずなのに、石原さんの読み方を追いかけながら、自分が作品から読み落としているところや、重視しなかったところが背景から前景に浮かび上がってくるのを感じました。
          
 ただ、その一方で、石原さんが前書きで言っている「読者にこの読み方しかないという「錯覚」を起きこさせるくらいでなければ、「謎解き」が十分に成功したとは言えない」という感覚を持てるかどうかは、読者によってかなり分かれるように思いました。私は、石原さんの読みの鋭さに感嘆する一方で、たとえば『羊をめぐる冒険』を読んだときに感じたこの作品の荒唐無稽さや、『ノルウェイの森』の緑が持っている重要性などが、石原さんの読み方では逆に抜け落ちるような気もしました。
 でもそれは無い物ねだりなのかもしれません。「謎解き」でないならどうするか、というのは自分の問題になるので、これは自分の研究で答えを出すより仕方がないように感じました。
 それから、この本は講義の記録(録音テープを原稿化したもの)に石原さんが手を入れる形でまとめられたそうです。講義録そのままよりもまとまりがよく、論文の形で書くよりも親しみやすいので、新書の性格にはおそらくちょうどよかったのではないでしょうか。文章の中で少し脱線気味に他の作品や思想のことなどが出てくるのは、おそらく講義の時に話した流れが残っているのかと思いました。ですから、これはこれで石原さんの講義を体験するような感覚も持てて楽しく拝読しました。
 私もこれから村上春樹論を書くつもりがあるので、石原さんのこの本を十分に参考にさせていただきたいと思っています。
          



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 台湾の絵本作家・幾米(ジミー)が書いた『地下鉄』(小学館、1365円)という絵本があります。その絵をブログに載せると著作権違反になるので残念ながらやめておきますが、とてもかわいらしい絵がつづられた絵本です(表紙を見たい方はこちら→小学館)。
 特にストーリーがあるわけではなく、目の見えない少女が雨の日に地下鉄に乗っていくというだけの絵本です。しかし、100ページ以上(見開き50枚以上)の絵でつながれたこの絵本は、目の見えない少女の心の中のイメージが美しく描かれており、台湾で高い評価を受けたこともうなずけます。
          
 ところで、なぜこの絵本に注目したかというと、このストーリーのない絵本に触発されて、そこから映画とドラマが作られているからです。
 映画の方は、香港で制作された『Sound of Colors 地下鉄の恋』 (トニー・レオン、ミリアム・ヨン主演)です。この作品で主旋律となるのは、目の見えないしっかり者の女性とダメ男の恋愛。いんちきな結婚相談所を1人でしているダメ男ホウを、トニー・レオンが演じています。ホウがある日突然失明してしまい、それからミリアム・ヨン演じる目の見えないチョンの手助けで、不自由ながら日常生活をしていけるようになります。そして、ホウを支えてくれるチョンを次第に恋するようになるのですが、クリスマスイブの晩に再びホウの目が見えるようになり、その時……、というのが映画の主なストーリーとなります。
 主旋律といったのは、そこに、台湾の男性と上海の女性の話がからみ、さらにそれらの縁の背後に3人の天使が媒介をしているという作りになっているからです。ストーリーのない原作とはまったく別の作品とも言えますが、絵本の世界に触発されたというか、インスピレーションを与えられた作品とも言えるでしょう。
 ちなみに、私は結末のホウのせりふがけっこう好きでした。〈ネタバレ〉になるので、結末を知りたくない人はここから読まないでほしいのですが、ホウは結末近くである言葉を口にします。それを私なりに読み解くと、この2人の恋愛が天使によって受動的に与えられたものではなく(はじめは与えられたのだとしても)、最後は自分たち自身の意志でこの恋を成就するんだという強い意志がそこに表現されているように思いました。
 そんな意味も含めて、特によく出来た映画とは言えないものの、たいへん後味のいい映画になっていると思いました。ただ、原作の絵本とはまったく別の作品と割り切って見た方がいいかもしれません。
          
 一方、台湾ではこの絵本のテレビドラマ化もおこなわれました。それが、
『地下鉄の恋』 (ウォレス・フォ、ルビー・リン主演)です。こちらはBS日テレで放送されていて、つい最近最終回を迎えました。
 テレビドラマで全21回の放送ですから、原作はもちろん、映画と比べても大幅にストーリーがふくらまされています。
 目の見えない女性ジンジンは、ラジオ局でDJをしています。ジンジンはある日地下鉄の中でひったくりに遭い、それをユンシャンという男性に取り返してもらいます。そして、それがきっかけになって、ジンジンとユンシャンは恋に落ちるのですが、実はこの2人が出会うのはこれが初めてではなく、2人には大きな因縁があったのでした……。
 ここからはネタバレになるので書きませんが、全21回にわたるドラマですから、この2人をめぐって、さまざまなエピソードが積み重ねられています。「ハンディキャップを持つ女性との恋愛」というストーリーは、古くから何度も何度も繰り返されてきた、いわば使い古されて飽きのきた設定なのですが、それでもなおこのテレビドラマを21回も見てしまったのは、ジンジンとユンシャンという2人の恋愛だけでなく、その他の人物たちまで詳しくかつ魅力的に描かれているからだと思います。
 たとえば、ユンシャンと父親との関係。病気になったユンシャンのためにこの父親が献身的に尽くし、ドラマ的にもけっこう泣かせてくれます。父と息子の葛藤というのもまた古来からよくあるテーマですが、父親の無限の優しさが息子のかたくなな心を溶かしていく過程にはじーんとくるものがありました。
 また、ジンジンの姉のミンミンにはヤンという部下がいるのですが、ヤンはミンミンに片思いしています。この2人の恋愛模様もなかなか面白くて、高ビーなキャラとも言えるミンミンと、そのミンミンのてきぱきした仕事ぶりを含めて人間として尊敬しつつ恋愛対象になっていくヤンの心の変化が興味深く描かれます。そして、そういった魅力的な脇役を配することで、ドラマは21回飽きさせないように作られていると思いました。
 (ジンジンは目が見えないやさしい女性)
 (ユンシャンはジンジンと運命の再会で恋に落ちる)
 (ミンミンは仕事はできるがちょっと恐い女性……)
 (ヤンはそんなミンミンが大好き~)

 先にも書いたように、原作の絵本とはまったく別物ですが、それだけ多くの作品にインスピレーションを与えたこの『地下鉄』という絵本の持っている「フィクションのチカラ」に敬意を表したいと感じました。

 



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 明治大学教授の宮越勉さんから『志賀直哉 暗夜行路の交響世界』(翰林書房、6700円)という本をいただきました。一言で言えば「『暗夜行路』に関する総合的な研究書」です。
          
 この本を「総合的」な研究書というのは、『暗夜行路』という一作品に対して、実にさまざまな角度から考察しているということです。この本の第Ⅰ部は志賀の短編作品を扱っていますが、それぞれの章が、何らかの意味で長編『暗夜行路』に結びつく意図で考察がなされています。また、『暗夜行路』を直接論じる第Ⅱ部でも、第1章では主人公の時任謙作が祖父の呪縛からどのように解放されるかを論じ、第2章では『暗夜行路』の「序詞」がその後の作品世界といかに連関しているかを論じています。さらに第3章では、『暗夜行路』前篇第一と作者志賀直哉の日記の比較から『暗夜行路』の「アレンヂ」のあり方を論じ、第4章では『暗夜行路』に挿入されるさまざまなエピソードのうちの悪女たち(栄花と蝮のお政のエピソード)がいかに作品に幅と深みを与えているかを論じています。
 という具合に、全400頁にもわたる大著のすべてが、大作『暗夜行路』をさまざまな角度から論じることになっているのです。
          
 このことは、
『暗夜行路』を論じる方法に関しても「総合的」だということを意味します。
 作品内をていねいに読み込む章もあれば、作者の日記を重視して作者の実人生と考えあわせる章もあります。また、作品を完成形として考察する部分もあれば、作品が出来上がる草稿の過程を重視して論じる部分もあり、そのような分析の方法という意味でも、この本は『暗夜行路』に関する「総合的」な研究書と言えると思います。
 長編とは言え、『暗夜行路』一作だけでこれだけの考察を積み重ねた著者の研鑽の過程に、心から敬意を表したいと思います。



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 城西国際大学教授の北田幸恵さんから、『書く女たち 江戸から明治のメディア・文学・ジェンダーを読む』(学芸書林、3000円)という本をいただきました。
          
 北田さんのお書きになっている論文は、これまでにも何本か読んでいますが、1冊の本になったところを拝見して、とても立派なお仕事をされているとあらためて敬服いたしました。
 本の構成を簡単に紹介すると、Ⅰ章が中島湘煙、Ⅱ章が清水紫琴、Ⅲ章が樋口一葉を論じる章になっており、さらにⅣ章で少女性と表現、Ⅴ章で日記と女性表現を論じるという構成になっています。それぞれの章で既発表の論文に書き下ろしを組み合わせており、北田さんの問題意識が明確に出された章立てになっていると感じました。
 けっして派手さや華麗さはないものの、きわめて丁寧かつ具体的に論じられた論文が並んでおり、どの章の論文からも教えられることが多くありました。その中でも私は、日記と女性表現の問題を論じた第Ⅴ章に強く関心をひかれました。
 この本は、題名に「書く女たち」とあるように、フェミニズム・ジェンダー批評を前面に押し出した研究書です。ただ、そのようなフェミニズム・ジェンダー批評に基づいた研究書としてすぐれているだけではなく、そこを手がかりにしてさまざまな「二分法的思考」や「権力関係」を問い直した研究としてすぐれている、そのように私は感じました。
 たとえば、先にあげた第Ⅴ章。ここでは、江戸時代から明治にかけての女性が書いたいくつかの日記、具体的には、井上通女『東海紀行』『江戸日記』『婦家日記』、荒木田麗女『初午の日記』『後午の日記』、白拍子武女『庚子道の記』、川合小梅『小梅日記』、中島湘煙『獄ノ奇談』、樋口一葉日記などが検討されています。そして、そこから浮かび上がってくるものは、単に「男性」対「女性」という問題だけではありません。「近代」と「前近代」、「公」と「私」、「フィクション」と「ノンフィクション」、「日常」と「非日常」、「仕事」と「家庭(家政)」、「学問」と「遊芸」、「富む者」と「貧しい者」、といったさまざまな二項対立、そして権力関係が、女性たちの日記の考察から出発して、おおいに読者が考えさせられることになります。
 思えば、すぐれた研究というものは具体的な現象にかかわる考察から出発して、大きな問題へと発展させ、読む者にそれを考えさせるきっかけとなるものでしょう。その意味で、この本はきわめて具体的な「女性表現」というものを通して、それにかかわるあらゆる対立関係、権力関係に問題を広げていけることを指し示した、すぐれた研究の具体的実践ということができるでしょう。
 私の専門分野と近いこともあり、おおいに勉強させられた一冊でした。
      
    



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 中央大学文学部の同僚である中村昇さん(哲学専攻)が『ホワイトヘッドの哲学』(講談社選書メチエ、1500円)という本をお出しになりました。
          
 ホワイトヘッドとは、20世紀前半に主に活動した哲学者。しかし、49歳までケンブリッジ大学の数学教授だったのに、その後ロンドン大学に移ってから科学哲学の著作を重ね、さらにハーバード大学に移ってから形而上学の著作を次々に出したという異色の哲学者です。
 などと書きましたが、私は哲学には詳しくありませんし、以前に中村さんがホワイトヘッドの研究をしているというお話を御本人から直接聞いて、ホワイトヘッドという哲学者を初めて知ったのでした。
 中村さんによれば、ホワイトヘッドの哲学は、この宇宙のすべてを解明しつくそうとうする壮大な哲学であるとのこと。哲学史の流れは存在論から人間の認識への移行し、20世紀においては言語論へと展開してきたのに対して、ホワイトヘッドはその哲学の潮流に反して、存在論・形而上学にまっこうから取り組んだ人なのでした。中村さんはそんなホワイトヘッドが今世紀の最大の課題になると考え、以前から「21世紀はホワイトヘッドの世紀になる」と予言し、もしそうならないなら自分で「ホワイトヘッドの世紀にする」意気込みで、手始めにこの書籍を出版されたとのことです。
          
 少しだけ本の中身を紹介すると、ホワイトヘッドはわれわれの世界のすべてを考察の対象としていたようです。この世界のすべてのものはつねに流動し、動いていないものは何ひとつなく、生物も無生物もつねに変化していく。そのような宇宙の実相をとらえるために、ホワイトヘッドは、「活動的存在(actual entity)」という概念を手がかりに説き明かそうとしていました。しかし、それとても、最初から確定した概念ではなく、はじめは「出来事」(event)、次に「抱握」(prehension)、さらには「活動的生起」(actual occasion)、そしてようやく「活動的存在」という概念へとたどりついたのでした。
 この世界を満たすすべての存在が静止した「もの」ではなく、「唯一無二」で「生き生きとしたただひとつの経験」としての「こと」であり、そのあり方こそが「活動的存在」であると考え、この概念を手がかりにホワイトヘッドはこの世界の解明へと向かったということなのです。
 ここからは私の感想ですが、文学研究を専門とする私の場合、現代思想を勉強するといってもロラン・バルト、ミッシェル・フーコー、ジャック・デリダといったあたりがせいぜいでしょうか。私なりの乱暴な言い方をすれば、こうした現代思想は西洋哲学の伝統からははずれ、この世界全体を説明すること・解明することという哲学を指向するよりも、むしろそのような指向性を見直し、時代の「エピステーメー」や確立されたかに見えるものの「ディコンストラクション」へと向かったというふうに理解しています。
 その点から言えば、ホワイトヘッドはまったく異なります。ホワイトヘッドは記号論理学・相対性理論・量子力学といった最新式の武器を身につけた上で、私たちの生きる世界や宇宙そのものの解明に向かったのだと言ってよいようです。まさに中村さんが「21世紀はホワイトヘッドの世紀になる」と予言したのも、そのようなホワイトヘッド哲学の壮大さに理由があるのではないでしょうか。
 というわけで、私も中村さんに感化されたのか、よくわからないながらもすっかりホワイトヘッドに関心を持つ門外漢の一人となってしまいました。ただし、ホワイトヘッドは難解だと中村さんの御本にも何度も出てくるので、自分で読むのはちょっと遠慮して、中村さんの次の著書に期待したいと思います。だって、この本の「あとがき」には、21世紀がホワイトヘッドの世紀になる「気配がなかったら、何冊でもホワイトヘッドについて書くつもりだ。容赦はしない。」をありますので。
 中村さんのホワイトヘッド研究が進展し、21世紀が本当にホワイトヘッドの世紀になることを心から願っています。
          



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 立教大学教授・藤井淑禎さんから『清張 闘う作家 「文学」を超えて』(ミネルヴァ書房、3000円)という本をいただきました。藤井さんはこれまでにも、『不如帰の時代』『小説の考古学へ』などの本をお出しになっている他、松本清張に関しても既に『清張ミステリーと昭和三十年代』という本を書かれており、それに続いて2冊目の松本清張研究書ということになります。
          
 この本に一貫しているのは、松本清張という作家再評価の指向であり、同時に清張を大衆文学・ミステリー作家という区分で純文学から排除しようとする姿勢に対する見直しです。それは、純文学と大衆文学という区分そのものを考え直そうとする試みと言ってもよいでしょう。この本の副題になっている「文学を超えて」には、そのような意味が込められているようです。
 たとえば、冒頭第Ⅰ部の二つの論文では特にその方向付けが論じられており、清張の文学が日本文学の系譜の中で考察されています。特に2本目の論文「本流としての清張文学」で、夏目漱石から松本清張への系譜が論じられているところに、私は興味をひかれました。
 漱石から清張という系譜というのはやや意外にも思えますが、藤井さんによれば、作中の視点をめぐる技法の問題として小説をとらえたときに、漱石の小説技法が菊池寛や芥川龍之介へのつながり、そしてその2人の影響を受けたのが清張であると論じられています。近代の日本文学の最大の作家とされる漱石と清張を結びつけるこのような考察からも、清張を再評価し、純文学と大衆文学の垣根を超えようとする藤井さんの姿勢がよく伺われるように思います。
 さらにこの本には清張の諸作品が具体的に論じられていくのですが、中でも私が感心を持ったのは、清張作品の中でもあまり有名でない『氷雨』を論じた第7章でした。
 『氷雨』は、客の少ない料亭「ささ雪」のベテラン女中・加代の視点で描かれた作品です。加代と客の川崎をめぐる話なのですが、川崎が加代に言い寄っていたものの、若い女中の初枝にも関心をひかれ始めているらしいと加代が疑うことになり、結局加代は川崎と関係を持つことになります。
 藤井さんはこの作品を論じるのに、加代の視点から描いた小説技法を重視し、彼女の視点に限定されていることから作品にミステリーの要素が生まれていること、謎が解き明かされるという読者の期待に肩すかしをくわせるような展開をとっていくこと、そして、この作品の背景にの売春防止法施行(昭和33年)前後の社会状況がありそれが作品に影響を与えていること、などを重ね合わせるように論じていきます。「視点」「技法」「ミステリー」「時代背景」といった、藤井さんの清張を論じる方法がすべてここに集約されており、清張の魅力を十二分に引き出す論文になっています。
 松本清張研究にに関心を持つ方にとってだけでなく、純文学・大衆文学といった区分のありかたを考える上での重要な問題提起の本になっていると感じました。
          



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 私と同じ中央大学文学部にお勤めの松尾正人さんが『幕末維新の個性8 木戸孝允』(吉川弘文館、2600円)という本を出版されました。
 木戸孝允は、もちろん幕末期に活躍した尊王攘夷派の長州藩士・桂小五郎です。幕末維新期に重要な役割を果たした人物でありながら、特に明治期になってからの木戸の果たした役割やその意味については必ずしも十分な研究がなされておらず、その面を重視してまとめられたのが、今回の松尾さんの本だと思います。
          
 私は明治期の文学の研究をしていますが、歴史に関しては専門家ではないので素人的な見方をしているところがあります。そういう目で見ていると、木戸(桂)というのはどうしても幕末維新の「わき役」という面があるような気がします。たとえば幕末維新期のドラマで考えると、主役になりやすいのは坂本龍馬・勝海舟・西郷隆盛・新撰組。あと大河ドラマで取り上げられた徳川慶喜くらいでしょうか。「明治ものはドラマで受けない」というのがテレビ界の常識のようです。そう言えば、大河ドラマ『徳川慶喜』で桂を演じたのは黒田アーサー、同じく大河ドラマ『新撰組』では石黒賢で、いずれもわき役の印象が残っています。
 ドラマというのはわかりやすい構図の描ける人がどうしても前面に出てくることになります。しかし、実際には明治政府ができてから木戸が果たした役割というのは、多くの人に知られていないだけで実はたいへんに大きいものがありました。その点を重視し、明治期の木戸の役割を十二分に追究されているのがこの本だと思います。
 なお、木戸の生涯の中では、西欧回覧使節団への参加と文明開化への姿勢に私は興味をひかれました。岩倉使節団とも呼ばれているこの視察団は、政府の要人を含めた人々が約2年間も欧米を回覧するという異例の使節団でした。この使節団に木戸が参加していたことくらいは知っていたのですが、木戸が西欧でその思想や文化にどのように接したのか。また、それによって木戸がどのようなことを考えたのか。それらが、木戸の日記などを通じてていねいに考察されています。そのことをこの本で勉強させられましたし、西欧の進んだ思想・文化に接した日本人が、あまりの日本との差に驚かされ、かえって急進的な西欧化に警戒感を持つところなど、後の森鴎外や夏目漱石に通じるところがあって、日本文学専攻の私には興味深いものがありました。
 松尾先生の真面目で誠実なお人柄は同僚としてよく存じ上げているつもりですが、そのお人柄通りの丁寧な記述で木戸の思想や果たした仕事が考察されています。また、シリーズ本の1冊ということもあって、多くの写真や資料が配されていて、当時の雰囲気がよく感じられるようにも構成されていました。歴史に少しでも関心のある方ならどなたにもお勧めできる本になっていると感じました。
          



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 早稲田大学教授の石原千秋さんから『百年前の私たち 雑書から見る男と女』(講談社現代新書、740円)という本をいただきました。
 この本は、簡単に言えば、明治・大正期の雑書からその時代のありかたを覗いて見た本と言えるでしょう。夏目漱石研究者である石原さんが、明治・大正期の雑書を必要があって二千冊ほど集め、そこからその時代の「常識」、つまり一般的な感性や感覚を考察してみたのがこの本ということになるのだと思います。
 そこで興味深いことは、現代において「常識」のように思っていることが、明治・大正期の感性や感覚を検討してみることによって、必ずしも「常識」とばかり信用しているわけにはいかないことがわかってくるという点です。
          
 ひとつ例をあげてみましょう。
 この本の第十章では「堕落女学生」という視点が設けられています。そこで、1980年代の「オールナイトフジ」や「夕やけニャンニャン」に代表されるような「女子大生ブーム」「女子高生ブーム」が取りあげられています。私たちは、このような「おバカっぽい」女学生ブームを、女性の進学率が飛躍的に伸びた現代の「時代的な産物」だと信じて疑いません。しかし、石原さんによれば、百年前にすでに同じような現象が起こっていたことが明らかにされています。
 そこでは、田山花袋『蒲団』を代表にあげ、他にも夏目漱石『それから』やそれ以前の小杉天外『魔風恋風』小栗風葉『青春』などが取りあげられています。ただし、それだけならこの本でなくても論じられることでしょう。この本の特徴は、『蒲団』のような有名な文学作品だけでそれを論じるのではなく、その時代に書かれた、『実地精査女子遊学便覧』(1906)『女学生訓』(1903)『女学生の栞』(
1903)『理想の女学生』(1903)『女学生の道楽』(1908)『女学校の裏面』(1913)といったさまざまな本の記述を引用しながら、それを論じているところです。まさに石原蔵書総動員による、圧巻の時代考証と言えるでしょう。
 引用が多いので、明治・大正期に詳しくない読者の皆さんには、新書のわりにとっつきにくいかもしれませんが、その引用こそがこの本の楽しさですので、ぜひその点を味わっていただきたいと思いました。
           



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