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日本の奇祭43「岸和田だんじり祭」

2015年03月16日 | 日本の奇祭

一年を通して日本全国の各市町村で何らかのお祭りが必ずあります。

故郷を思うとき、まず思い出されるのが祭りではないでしょうか?

 

ただ世の中には、地元の人には普通で真剣なんだけれど、

外部の人から見ると摩訶不思議な世界に見えてしまう祭りがあります。

これを世の人は「奇祭」と呼びます。

 

奇祭とは、独特の習俗を持った、風変わりな祭りのことと解説されています。

 

これを、人によっては「とんまつり(トンマな祭)」

「トンデモ祭」とも呼んでいるようで、

奇祭に関する関連書物も数多く出版されています。

よく取り上げられるのは、視覚的にインパクトがある祭り

(性器をかたどった神輿を担ぐ祭りなど)がよく話題になりますが、

ほかにも火を使った祭りや裸祭り、地元の人でさえ起源を知らない祭りや、

開催日が不明な祭りなど、謎に包まれた祭りはたくさんあるようです。

 

これから数回に渡って奇祭を特集していきます。

その多彩さに驚くとともに、祭りは日本人の心と言われるゆえんが、

祭りの中に詰まっていることが理解できるでしょう。

 

特に言う必要はないと思いますが、

以下にふざけて見えようと馬鹿にしているように見えようと、

れっきとした郷土芸能であり、

日本の無形民俗文化財だということは間違いありません。

 

今回は、大阪府の岸和田だんじり祭です。

 

岸和田だんじり祭(大阪府岸和田市・岸和田駅浜側一帯)

 

岸和田だんじり祭は、毎年9月の敬老の日の直前の土・日曜日に

大阪府岸和田市北西部の岸和田城下およびその周辺で行われる祭りです。

岸和田祭とも呼ばれます。

 

今から約260年前の1745年に、町方の茶屋新右衛門が大阪の祭を見聞し、

牛頭天王社の夏祭に献灯提灯を掲げたいと

藩主に願い出て許可されたのが始まりとされています。

また、1703年、当時の岸和田藩主であった岡部長泰が

伏見稲荷大社を岸和田城三の丸に勧請し、

五穀豊穣を祈願して行った稲荷祭を始まりとする説もあります。

 

 

速度に乗っただんじりを方向転換させる「やりまわし」が醍醐味で、

曳行コースの曲がり角は大勢の観客で溢れます。

また、だんじりに施された非常に精密な彫刻も見どころで、

休憩時などの停止中に申し出れば見物を許可してくれることもあります。

 

もとは関西の一地方の祭でしたが、

昭和の終わり頃から多くのメディアで紹介されるようになり、

一気に全国区の祭となりました。

近年、だんじりを所有する町会が更に増加しており、規模が拡大しつつあります。

同日開催の春木だんじり祭と合わせて南北3.5㎞、

東西1㎞の範囲で交通規制が敷かれます。

これは南海本線春木駅ー蛸地蔵駅間の4駅全てが含まれる国内最大級の規模です。

2009年度の観客数は2日間で56万人でした。

 

 

曳行されるだんじりは総欅造りで前方に100mほどの2本の綱をつけ、

500人程度で地元の町を疾走します。

囃子を奏でる大小の和太鼓と鉦が備えられ、そこに篠笛が加わります。

欅には女神が宿るなどといわれ、女性がだんじりに乗ることはできませんが、

女児はその限りではありません。

成人女性も曳き手として参加することは可能ですが、18歳程度で止めて、

後は男性をサポートする立場にまわる者が圧倒的に多いようです。

 

近世の岸和田城かにおいて城門を潜る必要性から

独自の進化を遂げていった岸和田型のだんじりを「下だんじり」、

以前の形態を残した各種だんじりを「上だんじり」と呼び分けることもあります。

下だんじりは優美なシルエットと精緻な彫刻で人気を博し、

岸和田市内や泉州地域以外にも広まりを見せています。

岸和田市、和泉市、忠岡町、貝塚市、熊取町、泉佐野市、

田尻町で曳行されるだんじりは全て下だんじりとなっています。

 

下だんじりの特徴である豪快な「やりまわし」は、

引き綱の付け根を持つ綱元がラインと速度を決め、

屋根上の大工方が指示を出し、台木後方に差し込まれた後梃子を当て、

様々な曲率に合わせた微調整をし、

だんじりの平側に乗車するタカリまたはセミと呼ばれる役が、

外側は降車し内側は増員するなどして遠心力に対応し、

ブレーキ担当者が必要に応じてブレーキを踏みます。

 

 

前梃子の担当は左右に1人ずつで、

互いの呼吸を合わせることが重陽であるため、

親友同士で務めるケースが多いみたいです。

また、細心の注意を払う危険な役割であるため、

禁酒しているものも多いといいます。

後梃子の担当は20~30人で、

後梃子から枝状に伸びた緞子や梃子尻を持っています。

大工方は主屋根に1人、後屋根に3人ほどが乗り、

前方の進路を監視して団扇を使って後梃子に指示を出します。

狭い路地では小刻みに指示を出す必要があります。

 

藩政期の町・村・字といった伝統的な地域紐帯に基づく

「町会」と呼ばれる組織がだんじりを所有し、曳行を行っています。

いわば祭礼の基礎となる単位で、

このレベルは行政や観光協会などの介入はほとんどありません。

単に町と呼ばれることも多いようです。

 

町会の中では、年齢に応じて「世話人」「若頭」「組」

「青年団」などの祭礼団体が組織されています。

その中から「曳行責任者」を選出し、

町会長は全体の責任者たる「総括責任者」になります。

「曳行責任者」は現場の最高責任者として「総括責任者」とともに、

2日間のだんじり曳行の重責を担います。

不幸にして事故が起きたり死傷者が出たりした際、

刑事責任を問われるのはこの「総括責任者」と「曳行責任者」です。

行政の長である市長が責任を問われることはありません。

 

 ・世話人:祭りの運営を行う。

 ・若頭 :おおむね壮年層で構成され、祭りを取り仕切る。

      だんじりの様々な管理を担い、

      安全曳行のため足回りを中心に細心の注意を払う。

      前梃子も若頭が担当する。

 ・組  :青年団を卒業した27、8歳以降の者で構成され、後梃子を担当する。

      拾五人組、参拾人組など町によって名称が異なる。

 ・大工方:だんじりの最上部で団扇を持ち舞を舞うほか、

      進路の発見・調整を行う。

      上記「組」の一員である場合がほとんどである。

 ・青年団:16~27、8歳の若者で構成される。

      綱を曳く「綱先」「綱中」「綱元」と、だんじりに乗って太鼓や鉦、

      笛を鳴らす「鳴物」に大別できる。

      綱を持つのを卒業すると「追い役」となり、

      曳き手を統率したり前方の安全確認などを行う。

      青年団長も「追い役」のひとりである。

 ・少年団・子供会:15歳くらいまでの少年少女で構成される。

      青年団のさらに前方の安全な場所でだんじりを曳く。

 ・婦人会:各種サポートを行ったりするが、直接曳行にはかかわらない。

 

上記の町会が数ヶ町まとまって祭礼が行われるため、

祭礼地区内を統括的に運営する必要があります。

その代表的なものが「年番」と呼ばれる運営組織で、

その年番制度は200年以上続いています。

その名の通り年番制で、

その年の当番になった町会が様々な問題に対応し取り決めを行います。

 

昭和中期頃には、自動車の増加による交通規制の問題や、

観客数の増加による安全面の問題などが深刻化するようになりました。

以降、年番の強化拡大を図るとともに、

より安全で円滑な運営を目指して様々な組織が結成され、

「祭礼町会連合会」「曳行責任者協議会」「若頭責任者協議会」

「若頭連絡協議会」「後梃子協議会」「千亀利連合青年団」

といった組織ができました。

これらの自主的な運営組織のほかに、

観客の誘導や犯罪の取り締まりに関しては警察の協力があり、

観光案内などを行うボランティアも見られます。

 

かつては年に3回祭礼が行われていましたが、

最も盛大な秋の祭礼に一本化されていきました。

明治に入り新暦が導入され、宵宮が9月14日、本祭が15日となりました。

1966年になって9月15日が敬老の日となりましたが、

2003年のハッピーマンデー制度導入で再び平日となりました。

祭りの観客動員数が減少してしまうこと、

社会人や大学生、高校生などの曳き手が不足して曳行に支障が出ることを踏まえ、

2006年から敬老の日の直前の土・日曜日に日程が変更されました。

 

2009年は宮入りを行う本宮が彼岸の入りと重なり、

一時は日程の変更も取りざたされました。

これは「仏教的行事である彼岸にだんじりは相応しくない」という

意見が出たためですが、最終的に予定通り開催されました。

 

「岸和田地車祭禮年番」が祭の運営にあたりますが、

さらに「中欧地区」「浜地区」「天神地区」の3つの地区からなるため、

地区ごとにその年の当番となる町を選出し、

当番町3町が中心となって全体の運営を行います。

この年番制度も約200年の歴史があり、

現在も毎年9月1日に岸和田市港緑町の浪切ホールにおいて

「三郷の寄合い」を行い、その席で祭の重要事項を決定します。

なお、本来の「三郷」は、城下建設後の岸和田における町方(岸和田町)、

浜方(岸和田浜町)、村方(岸和田村)の3つの地区を指す呼称で、

イカの通りに分かれています。

 

 ・町方:岸和田城下。紀州街道が通っている。

     後の城下拡張による沼村領新屋敷(松波町)を除き

     「五町」とも称される。

     北町、堺町、本町、南町、(魚屋町)

 ・浜方:城下建設により分断された岸和田村の浜側。「浜七町」とも称される。

     中町は海に面さないが、かつて浜方の庄屋が居を構えていた。

     大北町、中北町、大手町、紙屋町、中之濱町、中町、大工町

 ・村方:岸和田村。もと村方の氏神社を城内で祀るようになったため、

     宮入りは村方から。ただし南上町は新規参入のためくじ引き。

     宮本町、上町、五軒屋町、南上町、(野田町)、(岸城町)

上記の他は、沼村、野村、藤井村、別所村、春木村の一部といった

岸和田近郊の村および城下の並松町となり、現在は天神地区と称しています。

 

1日目(宵宮)の早朝5時半~6時頃、

各町のだんじりが大阪臨海線岸和田港交差点

(通称「カンカン場」、岸和田カンカンベイサイドモール前)を目指して

一斉に出発する「曳き出し」で幕を開けます。

午後1時からは岸和田駅前にてパレードが行われます。

2日目(本宮)の午前9時過ぎから岸城神社・岸和田天満宮・弥栄神社で

「宮入り」が行われます。

なかでも、かつて「城入り」と呼ばれた岸城神社の宮入りでは、

コナカラ坂を一気に駆け上がっての豪快な「やりまわし」が行われ、

祭のハイライトのひとつとなっています。

 

 

両日とも午後7時から10時頃までの間は「灯入れ曳行」が行われます。

約200個の赤い駒提灯に照らされただんじりが

老若男女問わず楽しめるよう歩行曳行され、

昼間の「動」に対し、雅やかな「静」を演出しています。

 

比較的道幅が狭い紀州街道には、

年番本部前の交差点(通称「小門」「貝源」)、

堺口門跡・内町門跡の枡形(通称「S字」)といった

「やりまわし」の見せ場があります。

 

 

曳き出しの1周目、パレード、夜間の灯入れ曳行では

全町岸和田駅前に上がりますが、

基本的には紀州街道と大阪臨海線の間を周回します。

この基本となる周回コース内は、

宵宮のパレード後と本宮の午後においては

事実上立ち入りが不可能になるほどの観客数に達します。

そのため紀州街道から浜手への移動が菊右衛門橋ー欄干橋間において規制され、

岸和田駅からの移動では大幅な迂回が求められます。

だんじりはカンカン場の渋滞を避けて南北に分散することが多くなってくるので、

紀州街道の南下や浜地区の周回を見るなら蛸地蔵駅、

大阪臨海線の北上を見るなら和泉大宮駅からの移動が早いようです。

主婦は直接に祭礼にはかかわりませんが、

特に本家の場合などは親戚・縁者が大勢押し寄せるため、

男性以上に忙しくなる場合があります。

料理に関しては、ワタリガニやシャコを大量に湯がいたり、

近年では関東煮を大量に作ったりするそうです。

 

【交通アクセス】

電車:南海本線「岸和田」駅より徒歩すぐ。

 

いかがでしたか。

祭りには底知れない魅力と気分を高揚させる何かがあります。

長年にわたって受け継がれてきた祭りには、

理屈では割り切れない人々の思いが詰まっているように思います。

たかが祭り、されど祭りといったところでしょうか?



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