愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

歴史資料から見た松山市周辺の地震・津波被害⑤

2023年11月10日 | 日々雑記
4 江戸時代最大の地震―宝永地震―
南海トラフを震源としてM8.6の規模という、江戸時代では最大級の地震である宝永地震が宝永4(1707)年10月4日に発生している。津波は伊豆半島から九州東部にいたる太平洋沿岸に襲来し、瀬戸内海沿岸でも田畑の塩害や浸水被害が出た。津波は紀伊水道を抜けて大阪湾にも入り、淀川の二つの川口、木津川口、安治川口から大坂市中を縦横に走る堀川に侵入し、港に停泊していた船が津波に乗って川や水路を遡上しながら橋を破壊した。大坂市中での津波高は道頓堀川左岸・幸町(現浪速区)で津波高(浸水標高)3.6mとされ広範囲が浸水した。被害が大きかったこともあり全体像が把握困難で犠牲者の数値は史料によって異なるが「大阪諸国大地震大津浪並出火」には水亡人7000余人、洪水にて10000人が犠牲となったと記されている。
この地震・津波では大坂以外で被害の大きかったのは四国・土佐藩であった。『谷陵記』によると藩内の流失家屋は1170軒、全壊家屋4863軒、死者1844名となっている。地震に伴う地殻変動も広範囲で生じ、室戸岬に近い津呂(現室戸市)では2m以上隆起し、現在の高知市内では20平方キロの範囲が最大2m沈降した。過去の南海トラフを震源とする地震では同様の隆起、沈降現象が確認されており、この隆起で港は使用困難となったり、沈降により海水流入したりしており、これらは今の高知県域の地域的特徴といえるだろう。伊予国(愛媛県)でも、宇和海に面する宇和島藩では3m以上の津波により藩主達も高台に避難して野宿し、7273石の田が汐入となり、死者12名、流失333軒、全壊167軒の被害が出ている。また伊予吉田藩でも12名が犠牲となっている。
なお、この宝永地震の49日後には富士山が噴火(宝永富士山噴火)し、高さ10キロ以上の噴煙が繰り返し立ち上り、耕地、林野の埋没、家屋の倒壊、交通路の遮断等の被害が出て、火口から100キロ東方の江戸でも降灰が確認されている。
宝永地震での松山市内の被害記録としては「元禄・宝永・正徳・享保年代堀江村記録」(門屋家文書)がある。「十月四日未刻ゟ大地震ゆり出し同申刻迄大地震」とあり、10月4日の未刻(午後2時頃)から申刻(午後4時頃)まで大きな揺れがあったことがわかる。「大地震」が約2時間続いたというのは本震の前後に大きな余震もしくは誘発地震が集中していたことを物語る。そして発生当初は、1日に8、9回の余震が続き、人々は屋外の仮小屋で過ごし、発生4日目から11日目まで日に3、4回の余震が続き、その後は翌年正月(本震から約2ヶ月後)まで、2、3日に1度は余震があったと書かれており、本震発生から数ヶ月間は頻繁に余震を感じていたことになる。これは伝聞情報ではなく、当時の堀江村(現松山市)で感じた揺れを庄屋が記録しており、当然、伊予国(愛媛県)全体でも同様の状況であったと推察できる。
また、堀江村周辺をはじめ松山地方の被害状況についても書かれている。まず安城寺村では瓦葺の長屋が倒壊したものの、それ以外は大きな被害はなかったとあり、堀江周辺では建物の倒壊は少なかった。しかし、10月4日の本震によって、「道後之湯之泉留リ申候」とあるように道後温泉の湧出が止まったと記され、松山藩主は地震からの復旧を祈願して、藩領内の七つの寺社、つまり道後八幡宮(伊佐爾波神社)、石手寺、薬師寺、味酒明神(阿沼美神社)、祝谷天神(松山神社)、太山寺、大三嶋明神(大山祇神社)にて祈祷を行わせている。
ここで、道後温泉の被害についても触れておきたい。宝永4年10月4日に発生した宝永地震による被害については、『垂憲録拾遺』には「十月四日八ツ時ヨリ同六日迄関西大地震、勢州、紀州、土州別テ高汐上ル、道後温泉没、依之於湯神社御祈祷アリ、翌年四月朔日ヨリ湯出ル」とあり、『諸事頭書之控』に「一、道後湯之儀、去亥十月四日大地震以後湯出不申候処、漸閏正月中旬ゟ少宛泉、最早只今前躰之通リ湯出申由、道後入湯之儀、来ル四月朔日ゟ御赦免被成候間、此旨町中江相触申様ニ御町奉行所ゟ被仰下、三月廿三日拾壱与へ相触ル」とあり道後温泉では地震直後に湯が不出となったが、翌年の正月中旬から湯の湧出が少し出始め、3月にはほぼ回復し、4月1日から入湯が出来るようになった。また同様の史料として『松山叢談』に「十月四日未上剋大地震、道後温泉不出、於道後湯神社御祈祷被仰付御自身様にも神代より出る湯、此方代に至り不出は不徳故の事なりと御勤心厚く御祈念被遊、尤御断食にて有しと云、然るに其中日比より湯少々づゝ泉み出候旨注進あり、夫より一寸二寸と出で元の如く出しとなり」とあり、急に湧出が回復したのではなく、数ヶ月後から少しずつ回復しはじめ、半年後の4月1日に入湯できるようになった経過がわかる。現在、道後温泉では毎年3月に湯祈祷が実施されているが、これは宝永地震での温泉不出という危機を経験して始められた行事であり、過去の災害の記憶を伝える儀礼として重要な文化遺産といえる。

最新の画像もっと見る