今日もわが家の畑のジャガイモの葉っぱは旺盛だ。収穫までは、あと1ヶ月ほどだと思うが、それが楽しみで仕方ない。先日、タマネギは収穫を完了。数日、日に当てて、昨日から日陰に干している。
ジャガイモのことを考えていたこともあり、書棚の牧野富太郎『植物一日一題』(ちくま学芸文庫)を手にする。そこに「馬鈴薯とジャガイモ」というエッセイがある。これが結構、強烈な文体で、中身も衝撃的。
牧野博士曰く、「ジャガイモに馬鈴薯の文字を用うるのは大変な間違いで、ジャガイモは断じて馬鈴薯そのものではないことは最も明白かつ確乎たる事実である。こんな間違った名を日常平気で使っているのはおろかな話で、これこそ日本文化の恥辱でなくてなんであろう。」
つまり、馬鈴薯とは中国の福建省の一地方の一植物の名であり、元来、ジャガタライモ(ジャカルタのイモ)と呼ばれ、アンデス原産、そして欧州を経て、東洋にもたらされたジャガイモは、決して「馬鈴薯」とは違うと、牧野博士は主張する。
牧野博士・・・そこまで言わなくても・・・と、正直思ってしまうが、この『植物一日一題』は、ジャガイモのみならず、紫陽花とアジサイ、藤とフジなど、日本の植物で用いられている呼び名が漢字で表記した場合の「誤り」を次々に指摘している。読んでいて、痛快でもあり、常識を喝破しているこの文体に少し面食らってしまう。そこが牧野富太郎の文章の魅力だ。
江戸時代の本草学は、中国から輸入された学問であり、ある種、日本の植物すべては中国にもあるものというように考えられた時期があったため、牧野博士は、それを克服し、わざわざ漢字で表記せず、一切カナで書けばよいと主張する。「自分の国で立派な名がありながら他人の国の字でそれを呼ぶとはまことに見下げた見識」だという。
その通りでございます・・・と、植物学の基礎を築いた牧野博士に頭をひれ伏しながら、もう一人、同時代に民俗学を築いた柳田國男を思い浮かべた。この二人、少し似ているかもしれない。
そしてもう一人、本居宣長。『うひ山ぶみ』などで「からごころ」・「やまとごころ」を主張した本居も想起せずにはいられない。(牧野富太郎も柳田國男も、本居の影響を強く受けていたことは間違いない。)
それでも、もう、この時代、ジャガイモは「馬鈴薯」でもいいんじゃないの?と、まだ思ってしまう。(こんなことでは、夢に牧野博士が出てきて、本当に喝破されるかもしれん・・・。)
ジャガイモのことを考えていたこともあり、書棚の牧野富太郎『植物一日一題』(ちくま学芸文庫)を手にする。そこに「馬鈴薯とジャガイモ」というエッセイがある。これが結構、強烈な文体で、中身も衝撃的。
牧野博士曰く、「ジャガイモに馬鈴薯の文字を用うるのは大変な間違いで、ジャガイモは断じて馬鈴薯そのものではないことは最も明白かつ確乎たる事実である。こんな間違った名を日常平気で使っているのはおろかな話で、これこそ日本文化の恥辱でなくてなんであろう。」
つまり、馬鈴薯とは中国の福建省の一地方の一植物の名であり、元来、ジャガタライモ(ジャカルタのイモ)と呼ばれ、アンデス原産、そして欧州を経て、東洋にもたらされたジャガイモは、決して「馬鈴薯」とは違うと、牧野博士は主張する。
牧野博士・・・そこまで言わなくても・・・と、正直思ってしまうが、この『植物一日一題』は、ジャガイモのみならず、紫陽花とアジサイ、藤とフジなど、日本の植物で用いられている呼び名が漢字で表記した場合の「誤り」を次々に指摘している。読んでいて、痛快でもあり、常識を喝破しているこの文体に少し面食らってしまう。そこが牧野富太郎の文章の魅力だ。
江戸時代の本草学は、中国から輸入された学問であり、ある種、日本の植物すべては中国にもあるものというように考えられた時期があったため、牧野博士は、それを克服し、わざわざ漢字で表記せず、一切カナで書けばよいと主張する。「自分の国で立派な名がありながら他人の国の字でそれを呼ぶとはまことに見下げた見識」だという。
その通りでございます・・・と、植物学の基礎を築いた牧野博士に頭をひれ伏しながら、もう一人、同時代に民俗学を築いた柳田國男を思い浮かべた。この二人、少し似ているかもしれない。
そしてもう一人、本居宣長。『うひ山ぶみ』などで「からごころ」・「やまとごころ」を主張した本居も想起せずにはいられない。(牧野富太郎も柳田國男も、本居の影響を強く受けていたことは間違いない。)
それでも、もう、この時代、ジャガイモは「馬鈴薯」でもいいんじゃないの?と、まだ思ってしまう。(こんなことでは、夢に牧野博士が出てきて、本当に喝破されるかもしれん・・・。)