愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

弘法大師空海の生涯 ー1200年前の空海と四国ー④

2023年12月21日 | 信仰・宗教
弘法大師空海の生涯 ー1200年前の空海と四国ー④

四 四国霊場「開創一二〇〇年」という伝承
 ちょっと話が変わりまして、今年は四国霊場開創一二〇〇年とされる年です。四国霊場開創一二〇〇年というのは数え方が実は難しくて、弘法大師空海が弘仁六(八一五)年、四二歳のときに四国霊場を開創したと言われることから一二〇〇年なのです。今年は二〇一四年ですよね。正確に言うと四国霊場開創一二〇〇年「目」になるわけです。そして来年二〇一五年は一二〇〇「周年」になります。「何周年」と「何年目」というのは混乱しやすいですね。昔の数え方ではたいてい今回の四国霊場一二〇〇年のような数え方をすることが多いようです。平安時代初期、弘仁六(八一五)年、四二歳のときに四国霊場を開創したという言い伝えは四国各地の札所に残っていますが、本当にその年、四二歳だったのか。ここで空海の誕生年について、もう一度確認をしてみたいと思います。
 実は、空海といいますか、まだ名前は空海ではない、真魚ですね。空海と名乗るのは遣唐使に随行して唐に渡る直前になりますが、空海が生まれたのは七七三年だったという説が実はあるのです。一年違うじゃないかと。先ほど紹介した誕生年は七七四年なのですが、一般的にはやはり七七四年説が採用されています。ところが、古代には朝廷が編さんした正式な歴史書が六つあります。『日本書紀』、『続日本紀』とか、その後に『日本後紀』、『続日本後紀』が続くのですがこれらは六国史と称されます。これら朝廷が認めた正式な歴史を綴った史料の中に、空海が亡くなったときの記事が出ています。『続日本後紀』承和二(八三五)年のことです。

史料2『続日本後紀』巻四 承和二(八三五)年三月丙寅条
大僧都伝灯大法師位空海終于紀伊国禅居

史料3『続日本後紀』巻四 承和二(八三五)年三月庚午条
勅遣内舍人一人、弔法師喪并施喪料、後太上天皇有弔書曰、真言洪匠密教宗師、邦家憑其護持、動植荷其摂念、豈圖□□(外字)未逼、無常処侵、仁舟廃棹、弱喪失帰、嗟呼哀哉。禅関僻在、凶聞晩伝、不能使者奔赴相助茶毘、言之為恨、悵悼曷已、思忖旧窟、悲凉可料、今者遥寄単書弔之、著録弟子、入室桑門、悽愴奈何、兼以達旨(中略)化去之時年六十三。(中略部分は史料9に記載)

ここに大僧都空海が紀伊国の金剛峯寺において亡くなると。そして「化去」要するに亡くなるという意味ですが「年六十三」と書いてある。いわば朝廷の正式な歴史書『続日本後紀』承和二(八三五)年三月二五日条に六三歳で亡くなりましたよと書いているのです。これを逆算すると誕生年は七七三年になります。一般的な説の七七四年説と一年ずれてしまいます。ところが、空海が実際に書いた文章、先ほども紹介した『性霊集』巻第三に「中寿感興詩」がある。中寿というのは四〇歳のことです。そのときに空海が漢詩を書いていろんな人に渡しています。その漢詩を渡されたうちの一人が最澄です。最澄は、この中寿感興詩、つまり空海が中寿四〇歳になったときに詠んだ歌を受け取りましたが、それがいつだったのかきちっと書かれています。この詩には「不惑は促す、ああ、余、五八の歳」とあります。五八の歳っていうのは、五と八を掛け算してください。五×八で四十です。類例として平安時代初期の史料には例えば三八も出てきます。空海が『三教指帰』でも使っています。二四歳の事を三八と書きますし、五八は四十ですね。ああ、自分は四〇歳になってしまったということを書いて、そして最澄にも宛てたり、弟子の泰範にも宛てたりしているのです。この「五八詩」を最澄は弘仁四(八一三)年に受け取ったと『久隔帖』に記しています。だから空海は八一三年には四〇歳であったことは間違いないのです。そしてこの事から誕生年も七七三年ではなくて七七四年であったと言えるのです。そして西暦八一五年、今から一二〇〇年前には空海が四二歳であったということもわかります。つまり「八一五年の四二歳のときに四国霊場を開創しました」という伝承のうち、八一五年に空海が四二歳であったということは歴史学上実証、証明することができるのです。
 では、その弘仁六(八一五)年に空海はどんなことをしていたのでしょうか。先ほども紹介した朝廷の編さんした歴史書、当時は『日本後紀』の時代になりますが、『日本後紀』の中には空海の記述は出てきません。まだ若いですし、『日本後紀』のように、その国の「国史」であり、編さんされる内容、歴史は基本的には国家的事業が記録されるのです。国の事件もしくは朝廷の行事、役人の叙位、昇任などが記録される。まだ四〇歳頃と若く、十分な国家的実績を残していない空海がその頃に何をしていたかまでは書かれていないのです。残念ながら『日本後紀』の中には空海に関する記述は全く出てきません。そのかわり、空海自身が書いた文章を綴った『性霊集』であるとか『高野雑筆集』を見ると、この八一五年に何をしていたというのが少しだけですがわかる。日付までわかる史料もあるのです。
 まず弘仁六年一月一〇日に小野岑守が陸奥国守として赴任する。つまり東北地方の役人として遠くに赴任するので、その餞別の歌(漢詩)を与えています。その漢詩が『性霊集』に収められています。注目すべきは四月上旬に弟子を東国、東日本に派遣して、経典などを流布しようとしていたことです。これも『性霊集』に見えます。何度も繰り返しますが、空海が書いた文章を弟子の真済がまとめたものなのですが、『性霊集』巻第九に収められています。

史料4『性霊集』巻第九「諸の有縁の衆を勧めて秘密蔵の法を写し奉る応き文」
貧道帰朝して多年を歴と雖も、時機、未だ感ぜず。広く流布すること能はず。(中略)今、機縁の衆の為に、読講、宣揚して仏恩を報じ奉らんと欲す。是を以て弟子の僧康守、安行等を差はして彼の方に発赴せしむ。
 弘仁六年四月二日 沙門空海疏す

「諸の有縁の衆」要するに、いろいろと関係のある人々に「秘密蔵の法」要するに真言密教ですね。それを勧めて、「写し奉るべき文」要するに、いろんな人に密教に関する経典等を写したり教えたりしましょうということが『性霊集』の中に書かれています。それが八一五年なのです。そこに具体的に何と書いてあるかというと、「貧道帰朝して」貧道というのは貧しい道を歩んでいる自分ということで、へりくだって言っている、要するに空海自身のことです。自分は中国(唐)に渡って帰ってきて「多年を歴と雖も」多くの年月を経たけれども、「時機、未だ感ぜず」そして「広く流布することを能わず」とあります。密教をまだ広めることができていないということです。そして「今、機縁の衆」つまり関係のある多くの人々のために真言密教に関するものを読んだり講釈したり、あと宣揚したり「仏恩を報じ奉らんと欲す」と書いてある。要するに、ちょうど四国霊場開創とされる一二〇〇年前というのは、空海が真言密教を流布することを一種宣言した年でもあるのです。そして「是を以て弟子の僧康守、安行等を差はして彼の方に発赴せしむ」とある。この「彼の方」というのはまず常陸国(茨城県)、下野国(栃木県)です。あと甲斐国(山梨県)も。これが『高野雑筆集』からわかります。要するに東国、今の関東地方あたりに派遣しているのと、もう一つ、徳一(とくいつ)という奈良時代から活躍していた法相宗のベテラン僧侶にも手紙を出しています。その徳一は会津(福島県)で活躍した人です。会津磐梯山の近くに慧日寺という大きな寺院跡が発掘されていますが、そこを拠点として活躍した人物です。このような東日本の僧徳一ともやりとりをしています。要するに、真言密教がまだ広まっていない東日本に対して流布、布教を意図、活動していたということです。もしその頃そのころ西日本や空海の生まれ故郷であるこの四国にいまだ密教が流布していない段階であるなら、このように東国、東日本に対して宣揚、流布しようとするかというと、恐らくしないであろうと思います。ある程度全国に流布する最後の段階で東日本が出てくると考えるのが妥当だと思います。恐らく八一五年の段階では空海は真言密教を四国にも流布をしていたであろうと私は推測しています。もしくはそれまでに流布していなかったら、この八一五年に流布する活動を起こしていた可能性が高いといえるのではないでしょうか。ちなみに一二〇〇年前に空海が四国霊場の八十八ヶ所を定めたと記している史料ですが、平安時代に記録された史料では実は確認できません。江戸時代の史料には様々出てきます。明治、大正、昭和、特に明治十六年以降になると頻繁に出てくるようになります。その明治十六年に何があったのか。いわゆる四国霊場の案内記や由来書にそれが記されるようになって、伝承が一般化していく時期になります。明治時代初期の廃仏毀釈による各札所の荒廃が一段落、もしくは再興に向けた動きが出てきた頃で、明治の新時代の四国遍路の出発点となるべき時期でして、案内記や縁起が多く出されます。明治十六年には中務亀吉(中務茂兵衛)が『四国霊場略縁起道中記大成』を著していますが、そこに四二歳に八十八ヶ所を定めたことが書かれています。しかし平安時代にはその直接根拠となる史料はありません。八一五年に空海が八十八ヶ所を定めたとことの史料的根拠を示さなければいけないと言われたら、恐らくこの先ほど見た『性霊集』の真言密教の宣揚流布の記述が一つ鍵、間接的根拠になるかと思います。
 もう一つは「厄年」の問題があります。空海が八一五年、四二歳の厄年の際に厄払いのために八十八ヶ所を開いたと書かれている文章もあるのですが、実は四二歳の厄年の習俗、慣習は時代的には新しいものなのです。江戸時代以降に定着したものです。一般的には、男性二五歳、四二歳とか、女性十九歳、三三歳と言われます。男四二歳、女三三歳が大厄とされますが、古代、中世、要するに江戸時代よりも古い時代、五〇〇年以上前や、空海の時代つまり平安時代の「厄年」は、よく史料を確認すると現代とは異なっています。例えば平安時代、九七〇年成立の『口遊』には十三歳、二五歳、三七歳、三九歳、六一歳と書かれています。また『拾芥抄』という鎌倉時代の有職故実書には十三、二五、三七、六一、八五とあります。要するに十三歳とか二五歳とか三七歳が出てくるのですね。これはいわゆる干支、十二支、子丑寅から亥までの十二が一巡した区切りといいますか、要するに12×X+1というのが古代、中世における厄年なのです。空海の時代には四二歳の厄年というのは出てきません。四二歳が定着するのは江戸時代です。ところが、江戸時代の学者である伊勢貞丈が書いた『安斎随筆』という史料があります。天明四(一七八四)年の成立です。これを見ると、厄年は十九歳、二五歳、三三歳、四二歳が挙げられている。現在と同じような厄年、厄払いが史料上で確認できます。そして三三歳は「三三と重なるゆえ散々」と、散々な年なので厄年とされる。四二歳は、四二と続くゆえ、「死にと取りなして忌むなり」とあります。ところが伊勢貞丈はこの『安斎随筆』の中で何と書いているかというと、厄年を皆さん信じなさいと書いているわけではありません。一七八四年段階で学者が記すには、厄年は「らちもなきことなり」とあります。信じるに足りないことだと書いているのです。要するに厄年が定着していくのは江戸時代の中期から後期。徳川将軍家でも、実際に厄年のときに厄払いで寺院に参詣することが始まるのが一七〇〇年代の半ば、今から二五〇年ぐらい前です。ちょうど十一代将軍の徳川家斉が二五歳や四二歳の厄年の厄除けのために関東の川崎大師平間寺に参詣するようになります。それに影響されて厄年の者の社寺参詣といいますか、四二の厄年、三三の厄年の時に厄を落とそうということで社寺参詣が庶民の間にも広まっていきました。つまり、空海が四二歳の厄年の時に厄払いのために四国霊場を開創したというのは、「厄年習俗」自体の歴史からすると、恐らく後の時代に成立した。もっと言えば江戸時代後期以降に成立する言い伝え、伝承なのではないかと思われます。
 さて、何度も言いますが今年は四国霊場開創一二〇〇年とされていますが、ちょうど五〇年前の昭和三九(一九六四)年に例えば第一番札所霊山寺の本堂が改築されていますが、様々な札所で石造物の年紀を見ますと、昭和三九年のものが多いのです。つまり開創一一五〇年祭を行っていたのです。そしてさらにその五〇年前が、大正三年、西暦でいうとちょうど一〇〇年前ですから一九一四年になりますが、その時に既に四国霊場開創一一〇〇年の記念として、納経帳に各札所で「開創一千百年」の記念印が押印されています。このことは大正三年の納経帳を愛媛県歴史文化博物館で所蔵していまして、そこに押されているのが確認できます(写真5)。また、一一〇〇年記念として石造物といいますか道標を建立したり、お遍路さんが遍路道を回りやすいようにガイドブックを出版しようとしたりしています。そのガイドブックで得た利益で道標を建立しよう、そしてこれは四国霊場開創一一〇〇年目の事業であるという様に三好廣太著『四国遍路同行二人』(大正2年発行)という案内記に書かれています。要するに、近年になって開創記念事業が唐突に行われはじめたわけではなくて、五〇年前も行われていますし、一〇〇年前の大正三年にも開創事業は行われていたのです。問題は今から二〇〇年前の開創一〇〇〇年です。西暦でいうと一八一四年、和暦でいうと文化十一年になります。文化十一年の段階で、四国霊場が開創されて一〇〇〇年になったので記念事業をやっているとか、その記念誌が出されたとか、その記念で何らか版本とか絵図とかが刷られている事例が、現在のところ確認されていないのです。もし皆さん、興味のある方で、文化十一年もしくはその数年前の四国遍路関係史料を見て、四国霊場開創一〇〇〇年を記念する一文がどこか確認されたとしたら、大きな発見になると思います。これはまだ見つかっていないのです。しかし、見つかる可能性は充分にあると思います。この点は四国遍路研究の課題の一つといえます。
 なお、多くの札所では弘仁六(八一五)年に開創された、創建されたという言い伝えや記録は寺ごとにはあります。ところが八十八カ所を一括で厄除けのために空海が開きましたという記述がないということです。江戸時代末期には、例えば八十八番札所の大窪寺さんの史料に八一五年に空海が開創したと書かれている史料がありまして、愛媛大学の胡光先生によって確認されています。寺院ごとでは八一五年開創の記録はいろいろ出てきますが、厄年、厄除けと関連づけて四国霊場をまとめて開創したという史料は明治時代以降ではないのかと推察しています。
 もう一つ、来年二〇一五年は八一六年の高野山開創から一二〇〇年目にあたります。弘仁六(八一五)年の翌年の弘仁七(八一六)年に空海は高野山を開創します。これは『性霊集』に詳細に記されていて歴史的事実として確実です。来年は高野山一二〇〇年、今年は四国一二〇〇年というように一二〇〇年が続きます。そのあとの一二〇〇年となると、二〇二二年に東寺給預、二〇三四年に御遠忌(空海入定から一二〇〇年)がやってきます。

⑤につづく

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