愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

弘法大師空海の生涯 ー1200年前の空海と四国ー⑧

2023年12月25日 | 信仰・宗教
弘法大師空海の生涯 ー1200年前の空海と四国ー⑧

八 空海入定
 さあ、最後になりますが、空海が亡くなるのが承和二(八三五)年です。七七四年に生まれた空海が六二歳、八三五年三月二一日に亡くなります。三月二一日に亡くなったということは『続日本後紀』という、先ほどからも言っている朝廷の歴史書の中にきちっと出てきます。金剛峯寺といいますか、高野山で亡くなったと記されている。高野山で亡くなって、京都にその情報が伝わるまでに数日かかったとあります。四日かかっているのです。そして天皇とか上皇の弔辞が述べられる、書かれることになりますけども、その弔辞が『続日本後紀』の中に詳しく記されていて、空海がどういう人物だったのか、その事績が紹介されています。

史料9『続日本後紀』巻四 承和二(八三五)年三月庚午条
法師者讃岐国多度郡人、俗姓佐伯直、年十五就舅従五位下阿刀宿祢大足、読習文書、十八遊学槐市、時有一沙門、呈示虚空蔵聞持法、其経説、若人依法、読此真言一百万遍、乃得一切教法文義諳記、於是信大聖之誠言、望飛焔於鑽燧、攀躋阿波国大瀧之嶽、勤念土左国室戸之崎、幽谷応聲、明星来影、自此恵解日新、下筆成文、世伝、三教論、是信宿間所撰也、在於書法、最得其妙、與張芝斎名、見称草聖、年卅一得度、延暦廿三年入唐留学、遇青龍寺恵果和尚、禀学真言、其宗旨義味莫不該通、遂懐法宝、帰来本朝、啓秘密之門、弘大日之化、天長元年任少僧都、七年轉大僧都、自有終焉之志、隠居紀伊国金剛峯寺。

 このような僧伝といいますか、人物伝が朝廷の正式な歴史書の中に記されるということはなかなかありません。記載されているということは、それだけ空海が八三五年までの間に朝廷に対してかなり貢献をしていたり、影響を与えたりしていたということとなります。空海は八三五年三月二一日、その約一週間前の一五日に、自分は三月二一日寅の刻(午前四時頃)に入定することを弟子たちに告げています。空海には主に一〇人の弟子がいて、よく「十大弟子」と称されます。実恵、真済、真雅などがいますけれど、その半分は讃岐国出身です。空海が亡くなった場所は高野山です。高野山で十大弟子に、このまま永遠の禅定に入ると。入定してそのまま岩窟(今の奥の院)に輿で運ばれるというシーンが絵巻物にも描かれています(写真8)。今でも三月二一日というとやはり弘法大師の命日、お遍路さん関連でも盛大な儀礼日ですし、ちょうどこの頃にお遍路さんの数も増えてきます。
 実は、空海には遺言書と言われるものがあります。『御遺告(ごゆいごう)』です。この『御遺告』に何が書いてあるかというと、真言宗の教団運営や遺訓の他に、自分が亡くなった後どこに行くか、きちっと書かれています。ただ『御遺告』自体は最近の研究では空海本人が記したものではなく、八三五年に空海が亡くなった後、約一〇〇年後に成立したものではないかと言われています。空海の遺言を聞いた弟子たちが遺言を約一〇〇年後(西暦九〇〇年代前半)にまとめたものが『御遺告』ということです。内容は二五箇条にわたっています。その第十七条に「吾れ閉眼の後」閉眼というのは眼を閉じると、要するに、眼を閉じって亡くなったら「必ず方に兜卒他天に往生して」兜卒天とは弥勒菩薩の浄土です。そこで弥勒慈尊(弥勒菩薩)の御前に侍すべしと。弥勒菩薩っていうのはまだ「菩薩」なのです。つまり修行の身です。その修行を成就させるという五六億七〇〇〇万年後にこの世に下生して人々を救うとあります。五六億七〇〇〇万年は長いですよね。それまでの間はどうするのか。これについても書かれています。「弥勒慈尊の御前に侍すべし」とあり「五六億余の後には必ず慈尊」弥勒とともに「御共に下生し」この世におりてきて、そして「吾が先跡を問ふべし」とある。「また且つは未だ下らずの間は」つまりまだ下生しない間(弥勒慈尊の兜卒天にいるとき)は、「微雲管」つまり雲の小さいすき間からこの世を見て「信否を察すべし」というのです。要するに人々がきちっと信仰しているか、していないかを見ると書いているのです。「是の時に、勤あらば祐を得ん」とあり、信心があれば助けますよと。しかし「不信の者は不幸ならん」と書いてある。そして最後に「努力努力後に疎かにすることなかれ」と書かれています。空海は没後、弥勒菩薩の浄土で雲の合間から我々の行動をずっと見ているというのが、この九〇〇年代前半に書かれた空海の「他界観」です。空海が今どこにいるのかという議論では様々な説があります。高野山奥の院で毎朝、今でも生身供といいますか、生きているとされて御飯を供えられていますが、高野山奥の院で永遠の禅定に入って生きているとも言われる。また弘法大師空海は四国霊場をお遍路さんとともに歩いているという様にもよく言われます。
 今、私は「弘法大師空海」と言いましたが、実は空海は亡くなった後に文徳天皇から「大僧正」の僧階をもらっています。空海の弟子の真済が僧正に就任する際の史料が『日本文徳天皇実録』に載っています。僧階といいますか僧侶にもいろんな位階があります。①律師、②僧都、その上に③僧正があるのですが、僧都にも「大僧都」と「少僧都」があります。空海は僧都の中の「大僧都」の時に亡くなりました。一番上の「僧正」になっていなかったのです。その「僧正」に就任しないまま亡くなっています。その約二〇年後、弟子真済が僧正への就任の機会が訪れた時、真済は文徳天皇に対して、我が師空海は「僧正」に就いていないから自分はそれを辞退しますと告げたのです。すると文徳天皇はその事に感動して、ならば真済は僧正に就きなさい。そして空海に「大僧正」を賜りますという事になったのです。これも六国史である『日本文徳天皇実録』天安元(八五七)年十月丙戌条に記されています。
 そして、我々がよく呼んでいる「弘法大師」という名前ですが、「大師」という号は基本的に天皇から賜るものです。空海が天皇から賜ったのは延喜二一(九二一)年のことです。その時の真言宗の実力者であった観賢が尽力します。彼も讃岐国出身ですが、観賢が当時の醍醐天皇に上申、申請をして、そして醍醐天皇から「弘法大師」の名前を賜ることになったのです。つまり九二一年よりも前には「弘法大師」という呼び方は存在しません。空海の没年が八三五年ですから、没後八六年目に大師号を賜ったのです。つまり幼年期は真魚、青年期から没するまでは空海、そして後に大僧正空海、そして九二一年から弘法大師と呼ばれるようになるわけです。なお、大師号は空海が「弘法大師」を賜る前、既に貞観八(八六六)年には最澄が伝教大師、円仁が慈覚大師の号をもらっています。二人とも天台宗の人物です。真言宗で空海が弘法大師の号をもらった数年後に、天台宗側としては、真言宗が大師号を賜ったのならこちらも大師号をもらうべき人物がいると主張します。延長五(九二七)年、空海が大師号を賜った六年後に、天台宗の円珍が智証大師の号を賜ります。この円珍も讃岐国出身で空海の親戚筋にあたり、天台宗の基礎を築いた人物です。このように、大師号獲得合戦のような状況が八〇〇年代後半から九〇〇年代前半に天台宗と真言宗の間で繰り広げられたのです。
 さて、延喜二一(九二一)年に真言宗として初めて大師号を賜りましたが、その際に醍醐天皇から衣装ももらっています。それを観賢が高野山奥の院に持参して、空海が禅定している岩窟を開けて見ると、空海の姿は髪がぼさぼさ、服はぼろぼろの状態で禅定しているのを見たと絵巻にも描かれています(写真9)。そして空海に対して天皇から下賜された衣を着せて、剃髪したのです。それからまた空海は奥の院で永遠の禅定に入って、今現在でも修行をしている、生きているという話が広く伝わっていくという形になっていきます。
 本日の講演では、弘法大師空海の生涯と言いながら、実際に真言密教の世界でどれだけ活躍して、神泉苑でどういう雨乞いをしたのかというような具体的な話は全くできませんでした。しかし出身地の四国と絡めて話はできたかと思いますが、「四国遍路」とかさらには「仏教」とか、それだけで空海の事績は語れない側面があることをご理解いただけたかと思います。要するに「遍路」から見た空海だけではなくて、平安時代、一二〇〇年前の空海の生きざまというものを、一つ一つ歴史資料を実証的に検証しながら見ていく必要がある。今の「真言密教」とか「遍路文化」というフィルターを通さないで平安時代の基礎史料をもとに空海を見つめるというのは重要な視点であり、基本的姿勢です。本年は一二〇〇年という記念の年でもありますので、まだ半年ありますが、本、雑誌とかテレビでも空海が取り上げられることが多いかと思います。そういった様々な機会に皆さんも空海の人物像について多角的に考えていただければと思います。
 ちょうど一二時になりました。約束の時間が来ましたのでこれで終わりたいと思います。ご清聴ありがとうございました。

おわり

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弘法大師空海の生涯 ー1200年前の空海と四国ー⑦

2023年12月24日 | 信仰・宗教
弘法大師空海の生涯 ー1200年前の空海と四国ー⑦

七 多方面で活躍した空海
 あと、大体二〇分ほどになりましたのでまとめに入っていきたいと思います。空海は宗教者ですが、多方面で才能を発揮しています。例えば香川県の満濃池がありますが、満濃池は弘仁九(八一八)年に決壊してしまいます。そして朝廷から修池使として路浜継という人物が復旧の担当となった。しかし修池ができない。そこで、讃岐国や朝廷は困ってどうしたかというと、空海を「修池別当」つまりその池を修す役職に就かせて、そして満濃池に派遣したのです。そうすると、それまでは修築工事にあたる人員がなかなか集まらなかったところ、それを解決させた。この点は『日本紀略』の記述が興味深いので紹介しておきます。『日本紀略』は六国史、先ほどもからよく出ている『続日本紀』とか『日本後紀』等をダイジェスト版でまとめた史料で、記述内容は史実に忠実で史料的価値が高いのです。そのうち、ちょうど空海の活躍した平安時代初期の『日本後紀』は散逸部分が多くて全容がよくわからない。弘仁年間の一部の記録が幸い『日本紀略』に載っていまして、満濃池について書かれています。そこには、空海は「百姓に」(ヒャクショウじゃなくてヒャクセイ、一般の人々)に「父母のごとく恋慕される」とあります。父母のように恋い慕われていると朝廷の編纂史書のダイジェスト版に書かれているのです。そしてその後三ヶ月を経て、満濃池が完成をしたとあります。空海はよく土木技術に長けていたとか、鉱物資源の知識が豊富だったと言われます。それに関する史料も、土木関係でいえばこの満濃池とか益田池などが出てきますが、この満濃池修築にあたって池に関する技術指導を行ったというよりは、修築の際の人員、労働力を集めることができたことが史料からわかります。これは地元讃岐国出身でもあり、空海の人徳に依るところが大きかったのでしょう。これが宗教者としてだけではない側面の空海の業績のうちの一つであります。
 もう一つは、教育者としての側面です。空海は天長五(八二八)年に綜芸種智院を開設します。日本で初めての私立学校です。現在も種智院大学が京都市伏見区にありますが、種智院大学も母体は「学校法人綜芸種智院」といいます。今でも名前として残っているのです。「種智」というのは仏智、仏の教え、悟り、知恵という意味ですけども、その前に「綜芸」糸偏に宗と書いて、宗教の宗ですね、そして学芸、芸術の芸です。これは何を意味するかというと、綜合芸術、綜合学術といった意味です。綜芸種智院を創立する際の序文といいますか、趣意書が『性霊集』巻第十に載っています。それを見ると、空海は綜芸種智院で僧侶を育て、真言密教を教えようとしていたわけではありません。何を教えるかというと「三教を教えろ」と書いています。三教とは儒教であり、道教であり、仏教です。だから、単に真言宗の僧侶という側面だけではなくて、その時代、平安時代初期における総合的な知識、学問を貧しい子ども達でも学ぶことができる。このように『性霊集』の「綜芸種智院式」という趣意書を空海が書いているのです。そして空海は、自分が唐に渡ったとき、唐の都長安にはいろんな私塾があった。日本では国の役人になるためには大学や国学があるけれども、長安にはそれ以外にも坊(都が碁盤の目のようになっていて、そのマスにあたる区画)ごとに学校があって、それに驚いたとも書いています。ところが平安京はというと大学一つしかないではないかと。大学が一つあるだけで私塾がないので、綜芸種智院をつくろう。そして、仏教だけではなくて儒教、道教も含めた、この「綜芸」を貧しい子ども達でも勉強ができるようにと建てたと『性霊集』にある。これが綜芸種智院なのです。ところが、綜芸種智院は長く続きませんでした。綜芸種智院は空海が亡くなった後に、丹波国の人に売り払われて、お金に換えられて、それが真言宗の教団経営に充てられてしまいました。そのかわり、その綜芸種智院に関する趣旨、主義、思いというものは現在の学校法人綜芸種智院、種智院大学にまで受け継がれています。この綜芸種智院についての『性霊集』の文章は、現代の教育にも通じる様々な言葉が登場しますので、漢文、古文に興味のある方にはおすすめします。
 もう一つ、文学評論家としての側面です。空海は漢詩文で『文鏡秘府論』を著しています。この『文鏡秘府論』の何が凄いのかといいますと、もう時間がないので簡略に説明しますが、空海が漢詩を作るときに、このようにすれば漢詩は上手に作れますよということを書いています。要するに漢詩の制作手引書、入門書です。そして唐の時代、隋の時代、六朝の時代などの様々な漢詩の文例を挙げています。中国の古い時代からの漢詩についていろいろ類例を紹介しながら、例えば陥りやすい「病」を二八種類も挙げたりしています。例えば一行目の一文字目の音がカンで始まるとしたら、二行目でもカンと読める漢字を頭に持ってくると、カンカンになって抑揚が無くなるので、それは一つの病であると書いてあります。具体名もあって「平病」つまり音韻の平らな病ですよと指摘する。そんなことが書かれています。音韻、音律を重視した内容ですが、実はこの『文鏡秘府論』の中に現地中国では既に散逸していて、確認できない文章が含まれています。要するに、空海が日本に持って帰った漢詩文集をもとに、空海が『文鏡秘府論』を書き残してくれた。しかし、当地中国で現代では既に失われてしまっている詩があるのです。このように漢字文化圏、漢詩をつくる文学、文化を有する東アジア全体で、空海は宗教者としてだけではなくて、文学者、文学評論家として広く評価されるべきではないかと思っています。
 もう一つ、空海といえば「三筆」と言われます。嵯峨天皇と空海と橘逸勢ですね。橘逸勢も空海と一緒に遣唐使に随行して、一緒に帰国しました。橘逸勢については、少し余談になりますが、空海が残している文章(『性霊集』所収)の中に橘逸勢の悩みが書かれています。橘逸勢は中国語(漢音)が堪能ではありませんでした。当時、桓武天皇が即位したあと、ちょうど空海が大学に入る頃ですが、漢音奨励が始まります。それまでは日本の仏教は呉音中心でした。呉音というのは例えば、死者供養とか言いますよね。供養、供物をキョウヨウ、キョウブツとは言わずクヨウ、クモツですよね。あと、精霊をセイレイではなくショウリョウと読みます。精霊棚はショウリョウダナです。仏教に関する用語の読み方が、普通に小学校、中学校で学ぶ音訓では読めないものがありますが、それはもともと中国南部から朝鮮半島を経由して日本に仏教が伝来した飛鳥時代から奈良時代初期の発音の名残なのです。ところが、その発音を学んで中国北部に位置する唐の長安に行くと、中国南部の呉音では都の発音が理解できなかったのです。それではいけないということで桓武天皇が、延暦年間に僧侶や学者になるにも官僚になるにも漢音を学ぶことを必須とするのです。その第一世代が空海の年代です。ところが、橘逸勢は名門橘氏の出身です。空海はかなり勉強して大学へ入りますが橘逸勢は天平期の左大臣橘諸兄のひ孫、奈良麻呂の孫です。逸勢は名門氏族で充分勉強しなくても遣唐使に随行することができたのでしょう。しかし遣唐使で渡ったら、今度、長安で漢音がわからない。学問ができないということで、それで何をしたかというと琴と書を学んだと『性霊集』に書かれています。琴と書を学んでばかりで中国での正式な学問が修められないので早く帰りたいとも書かれています。そして空海と一緒に帰国することになるのです。そのときに逸勢は漢音ができなかったから書を学んで、その後に「三筆」の一人になってしまうのです。人生はどう転ぶかわかりません。ちなみに『夜鶴庭訓抄』という平安時代の史料があって、そこに「能書の人々」つまり書道の上手な人達が二四名列挙されています。最初に挙げられているのは弘法大師、嵯峨天皇なのですが、最後に特に三人を「三聖」と呼ぶと書いています。それが「弘法、天神、道風」と出てきます。「三筆」「三蹟」ではなく「三聖」です。「弘法」は弘法大師空海のこと、「天神」は菅原道真ですね、「道風」は小野道風。今の時代で言われる「三筆」「三蹟」と異なっています。実は「三筆」「三蹟」という括りになったのは、実は江戸時代なのです。一六〇〇年代後半の貝原益軒『和漢名数』が史料上の初見とされています。
 もう一つ、「弘法にも筆の誤り」という言葉があります。弘法大師空海も筆を誤る、猿も木から落ちるというように使いますけれど、『今昔物語集』という平安時代末期成立の仏教説話集を読むと、空海が平安京の南面諸門の額を書くことになります。

史料8『今昔物語集』「弘法大師渡宋伝真言教帰来語第九」
皇城ノ南面ノ諸門ノ額ヲ可書シト。然レバ、外門額ヲ書畢ヌ。亦、応天門ノ額打付テ後、是ヲ見ルニ、初ノ字ノ点既ニ落失タリ。驚テ、筆ヲ抛テ点ヲ付ツ。諸ノ人、是ヲ見テ手ヲ押テ是ヲ感ズ。

 応天門という大きな門がありますが、その額を書き終えて門に掲げた後、それを見ると、初めの字の点が「既に落ち失せたり」と書かれています。要するに、応天門の「応」の字の最初の点が無かったのです。ただし、点が無かったのは、空海が間違ったのが原因という様に書かれてはいません。「既に落ち失せたり」です。何故か無かった、落ちて失せていたというのです。そして、それを見て空海は驚いて、門の額めがけて筆を投げて、見事に点を打ちました。多くの人がこれを見て「手を押してこれを感ず」とあります。手を押すっていうのは拍手するということです。現代では「弘法にも筆の誤り」といいますが、誤っていたと書かれていない。誤ったのが主の話ではなくて、何故か額を掲げたときに点が無くて、筆を投げて点を付けたという奇跡が主の話だったのです。「弘法にも筆の誤り」とは一体いつ誰が言い始めたのか私も調べたことはないのですが、平安時代にはちょっと違ったニュアンスの話だったということです。

⑧につづく



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内子・民俗と詩のワークショップ

2023年12月23日 | 民俗その他
参加者みんなで詩人になった。

今日は内子町教委主催の「ふるさと学のススメ」。昨年度からの続き。

今回は、地元の「民俗」(昔からの暮らしや伝統行事)を題材に詩を作るワークショップ。

自分の経験や、他所出身の方には内子に来て驚いたり感じたりしたことなどを言葉で表現し、各自発表してもらいました。

いかに地域の文化を他者に伝えるのか、後世につなぐのか。そのアウトプット、表現手段として、詩を作り、後に残したり活用したりできるように、模造紙に綴っていく。

元々は「民俗を学ぶ」講座という趣旨ですが、結局、参加者が経験してきたことこそ、大切な民俗の情報だったりするわけで、それを引き出す、カタチにする、というのが今回の私の役割。

個々人の記憶を地域共有の記憶へ。

それぞれの思いの詰まった作品が仕上がって、ちょっと感激。

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弘法大師空海の生涯 ー1200年前の空海と四国ー⑥

2023年12月23日 | 信仰・宗教
弘法大師空海の生涯 ー1200年前の空海と四国ー⑥

六 空海と四国、そして伊予
 その空海が二四歳、延暦十六(七九七)年に『三教指帰』を著します。『三教指帰』の中に空海は自分がどこにいるのか明確に書いています。「仮名乞児」として登場しますが、そのモデルは空海です。仏教を支持する人として出てきます。

史料6『三教指帰』「仮名乞児論」
頃日の間、刹那、幻の如くに南閻浮提の陽谷、輪王所化の下、玉藻帰る所の島、櫲樟日を隠す浦に住し(中略)忽ちに三八の春秋を経たり

 仮名乞児は「頃日の間(ちかごろ)刹那(しばらく)幻の如くに、南閻浮提の陽谷(日本のことです)輪王所化の下(要するに天皇が治めるところ)玉藻帰る所の島(玉藻公園が高松市にありますが、要するに玉藻帰る所というのは讃岐国の枕詞です。自分は讃岐国で)櫲樟(くすのき)日を隠す浦に住し」とあります。善通寺に行かれたことがある方も多いと思いますが、善通寺には大きなクスノキがありますよね。まさに太陽の光を隠すぐらい大きなクスノキのある所に住み、そして「忽ちに三八の春秋を経たり」とあります。三八というのは先ほど五八が出てきましたが、四〇歳のことでした。三八は二四歳です。つまり、空海が『三教指帰』を書いたのが二四歳の時だったと証明できる史料がこれなのです。
 そして『三教指帰』は空海の出家宣言の書ともいわれます。先ほども言ったように、「三教」は三つの教えであり儒教、道教、仏教です。儒教、道教、仏教でどれが一番優れているかということを書き著したものがこの『三教指帰』なのですが、その序文に、空海は、自分が仏道修行に入ろうと思うとあります。ところが、序文にもこう書いています。「一多の親識」要するに、多くの親戚や知人たちが儒教で守るべき道をもって自分を束縛すると書いています。「五常の索」とありますが、五常は五つの常識です。五つの常識が儒教にはあって、それをなぜ守らないのかと周囲が空海を責めて自分を束縛するという。それを断ることは忠孝に背くことだとも言われてしまう。忠孝というのは忠義の忠、孝行の孝ですね。要するに国に対する忠義、家族・親に対する孝行に背くものだと、家族とか知人から言われるわけです。官僚エリートコースで朝廷の役人になろうかという、一般的に見れば順調な人生のコースを進んでいるところを、それを辞して、仏道修行に入ろうとしている。それに対して周囲は「何をしているんだ。こんなにすばらしいエリートコースを歩んでいるのに、この儒教の守るべき道を捨ててどうするんだ」と。そこで空海はこう書いています。儒教だけではなく「物の情一つならず」と。要するに儒教だけではなくて、仏教でも道教でもそれぞれ孔子、老子、そして釈迦がありがたい説、正説をとなえている。その三つの正説のうちの一つでも守っていれば、それは忠孝に背くことにはならないのではないかと。そして、空海やはり怒りと言いますか、感情を爆発させます。序文の最後に「唯憤懣の逸気を写せり」と書いてあるのです。要するに、自分はなぜ出家宣言の書を著すかというと、周りが反対をするけれども、自分の気持ちは抑えられない。儒教だけではこの世の中を治められない、そして救えない。これからは仏道修行も必要であるということで「逸気」、「憤懣」の心をもって書き上げた。それが『三教指帰』なのです。
 よく、空海(弘法大師)に関するエピソードは、スーパーマンといいますか、全知全能といいますか、余り感情を表に出すとうことは無いですよね。ところが若き空海、二四歳の書を見ると「憤懣の逸気を写せり」とある。これを見た親は多分泣いたと思いますね。両親だけではなく、平城京で勉学を教えてくれたおじの阿刀大足は多分ショックだったでしょう。このように「若き空海の悩み」のような書なのです。『三教指帰』は文庫本でも出ています。あまり長い文章ではありません。『性霊集』に比べると読みやすいと思います。一度ぜひ読んでみてください。
 もう一つ、空海と伊予国についてちょっと紹介をしておきたいと思います。二四歳の時に書いた『三教指帰』の中に四国で修行をしていた場所が出てきます。一つは「土佐室戸」(現在の高知県室戸市)、もう一つは「阿国大瀧嶽」です。今の徳島県阿南市に比定されています。あと二ヶ所出てきます。「金巌に登り雪に遇って坎壈たり」とか、「石峯に跨って、粮を絶って」食料を絶って「■(外字車へんに感)軻たり」とあり、修行で苦労したと書かれています。この「金巌」、「石峯」は『三教指帰』には稿本といいますか、下書きになるような『聾瞽指帰』という空海の自筆の書が高野山に残っています。下書きといってもほぼ同じ文章なのですが、そこに字注といいますか、読み方を脇に書いてあるのです。そこに書かれているのは、「石峯」は「伊志都知能太気(イシツチノタケ)」と書いてあります。つまり石鎚山です。もう一つ、「金巌」は「加禰能太気(カネノタケ)」と書かれています。これは江戸時代からよく言われているのが八幡浜市と大洲市のちょうど境目にある金山出石寺。現在、別格霊場になっています。それ以外に奈良県の金峯山とか大峰山であるとかいろんな説があります。ただし一九六五年に刊行されている岩波古典文学大系本の『三教指帰』には、カネノタケの字注で、「加禰能太気は大和金峯山か伊予の出石寺か」とあります。それに加えて「後者と思われる」と書いてあります。この注釈は渡辺照宏氏、宮坂宥勝氏という真言宗をはじめ仏教学、仏教史を代表する学者が書いた文章です。つまり一九六五年段階では「金巌」は伊予国金山出石寺説が強かったのですが、最近の刊行物を見ると金山出石寺説が出てこなくなりました。大和金峯山とか大峰山が出てくるようになってきています。これは一九七〇年代以降の高野山大学の先生方が書いているものがそうなっていて、一九八〇年代以降、それが引用されていくことで金山出石寺説が見えなくなってきたのです。
 ところが、江戸時代に『三教指帰簡注』など空海著『三教指帰』の解釈書、注釈書が出版されているのですが、これらの中に「石峯」、「金巌」は出てきて解釈されています。『三教指帰』の原文では「或いは金巌に登り」と、「石峯に跨り」と、金山出石寺には登るのですが、石鎚には跨るのです。山に跨ることができるのかという様に愛媛県外の方は思われるかもしれませんが、確かに石鎚山の頂上付近に行くと、跨ごうと思えば跨ぐことができそうな程、険しいですよね。だからその表現からすると、確かに「石峯」は石鎚山であろうと思います。注釈書の『三教指帰刪補鈔』には「石槌嶽は伊予国に在り、金巌も伊予国にあり」と書かれています。江戸時代の『三教指帰』の注釈書、要するに真言宗の僧侶の中で使われた本の中にはそう書かれている。もう一つ『三教指帰簡註』という『三教指帰』注釈書のベストセラーで一七一三年に刊行された史料の中にも「金巌、石槌嶽は並に在り」と書いてあって、どこにあるかというと「予州に在り」と記されている(写真6)。「金巌」は伊予国にあると江戸時代には一般的に解釈されていたわけです。
 なお、『三教指帰』の中身は一種の漢詩文なのです。四六駢儷体という四文字と六文字が並列する駢儷体です。駢儷というのは馬が二頭並んで走るという意味なのですが、要するに二つのものを並べて小気味よく文章を書いていくというのが四六駢儷体です。『三教指帰』はそれで書かれています。要するに「石峯」と「金巌」が二つ出てきますけれども、これらは二つで一セットとして出てくるのです。先ほども言った室戸と大瀧嶽もセットで出てきます。「石峯」、「金巌」については四国の石鎚山と奈良の大峰山という離れた所をセットで持ってくるよりは、空海としても『三教指帰』を著した際には、地理的にも近い所をセットで書いて、読む時の小気味よさを表現しようとしていたと解釈するのが妥当だと思います。つまり「石峯」は石鎚山であり、「金巌」は四国にある金山出石寺(出石山)ということです。最近ではあまり主張されなくなった説ですが、それは単に四国の研究者がここ三~四〇年間、主張してこなかったことも一つの原因であり、金山出石寺説が何らかの史料的根拠があって否定されたわけではないのです。空海は石鎚で修行し、そして大洲、八幡浜で修行したということになりますと、当然ここ四国中央市も通っているはずです。また、石鎚というのも現在の石鎚山の象徴である弥山、天狗岳だけではなくて、中世以前には瓶ヶ森や新居浜市の笹ヶ峰付近までの石鎚山系全体を石鎚山というように括っていた形跡があります。空海は東予地方の石鎚山系全体を修行の地としていたことは間違いないのです。それが二四歳までの空海の修行地ということです。
 もう一つ、伊予国の関係で言いますと、空海と交流のあった人物を紹介しておきます。現在の松山市出身の光定という天台宗の僧侶です。生まれが宝亀一〇(七七九)年。空海が宝亀五(七七四)年生まれですので、空海より五歳年下です。そして大同三(八〇八)年、空海がちょうど中国(唐)から帰国した直後、比叡山に上って空海のライバルである最澄の弟子となりました。弟子は弟子でも一番弟子だったのです。光定の出身地は伊予国風早郡です。松山市北部から旧北条市のあたりなのですが、そこから比叡山に入り最澄に学ぶ。そして最澄とともに高雄山寺に赴き、空海から密教を教えてもらうことになります。最澄は空海と同時に遣唐使に随行して唐に渡りますが、最澄が先に日本に帰ります。空海は恵果から真言密教の後継者として指名され、日本に伝える事になります。最澄は密教に触れながらも充分に体得しないまま帰国しています。最澄は空海が帰国すると弟子達とともに高雄山寺にて空海から密教を学び、灌頂を受けるのです。光定もそのときの弟子の一人です。そして灌頂を受けると最澄は比叡山に戻ったのですが、最澄の命令で光定はそのまま高雄山寺に留まって空海と一時期一緒に過ごし、交流を持ったのです。このような人物が愛媛、伊予国出身でいたのです。
 仏教史において、光定がどのような点で貢献したとていうと比叡山での大乗戒壇の設立が挙げられます。これは最澄にとって最大の願いであったことです。戒壇というのは受戒する場所、要するに正式な僧侶になる道場のことです。奈良時代から平安時代初期までは奈良の東大寺と下野国(栃木県)の薬師寺、そして九州筑紫の観世音寺の三ヶ所しかなかったのです。要するに、中央で正式に僧侶になって僧位、僧階を得て行くには奈良で修行しなければいけなかったのです。そこで光定は奈良の僧侶や朝廷の多くの官僚とも交渉を重ねて、比叡山に戒壇院を設けることに貢献しました。これには伝統的な奈良仏教の長年の抵抗もありましたが、新仏教の比叡山においてようやく実現できたものです。戒壇設立はちょうど最澄が亡くなった数日後に実現することになります。このように、天台宗の基礎を確立した人物が実は伊予国にいたのです。その光定の伝記に『延暦寺故内供奉和上行状』があります。

史料7『延暦寺故内供奉和上行状』
  和上法名光定。俗姓贄氏。予州風早県人也。其祖先武内宿祢祖先葛木襲津彦之後焉。母風早氏。

 和上というのは光定のことです。法名は光定であると。俗性は贄氏。贄氏といえば、贄首石前という人物が天平八(七三六)年の『正倉院文書』に中で旧北条市付近の少領として出てきますので、その一族だと思われます。この『延暦寺故内供奉和上行状』という光定の一代記だけではなく、光定が著した『伝述一心戒文』という史料もあります。ここには最澄の事績や天台宗の成立過程など平安時代初期の仏教史の基礎史料でもあります。光定は実際に延暦寺でいろんな修行を重ねますが、天台宗といえば中国に天台山があります。真言密教はよく真言八祖というように恵果から正式に空海に伝わることで、正統な後継者としてはインドから中国、中国から日本に伝わってきたのですが、天台宗の場合、中国に天台山がありますので、天台宗の教義に関して疑問があれば、天台山に質問をして回答を得ています。『唐決』という史料にその問答が記されており、最澄だけではなく光定も問答をして天台山の宗頴から回答を得ています。このように天台宗の初期、教義を決める上でも活躍をしているのです。先に挙げた『伝述一心戒文』も初期天台宗の歴史をひもとく非常に貴重な史料で、この史料がもし無かったら初期天台宗の状況は充分にわからなかった程です。
 そして現在でも光定は比叡山に祀られています。比叡山の根本中堂がありますが、その奥に浄土院という最澄が祀られている廟があります。そこから少し山へ入ったところに「別当大師廟」として祀られています。光定は「別当大師」とも称されています。最澄の浄土院の裏手になります。そして、その光定を中興の祖といいますか、光定が再興したと伝えられる寺院が愛媛県松山市の北部山間地に多くあります。例えば松山市東大栗の医座寺であるとか、松山市菅沢の佛性寺も天台宗で光定ゆかりの寺院です。つまり道後から五明を通って堀江や北条へ通じる山間地に光定の関係する寺院があるのです(写真7)。この佛生寺には本堂の横に大師堂があります。四国で大師堂というと弘法大師(空海)を祀っているのが一般的ですよね。ところがここの堂は、きちっと扁額で「大師堂」と書かれてあるのですが、祀ってあるのは光定つまり「別当大師」と最澄つまり「伝教大師」なのです。その二人を祀る大師堂なのです。弘法大師は祀られていません。空海は真言宗の開祖であり密教を国内に広めた人物ですが、その時代にその真言宗のライバルである天台宗、それに関してもいろんな歴史があって、そこに光定という伊予国(愛媛県)出身者がいる。ところが、この光定は愛媛県民の間ではほとんど知られていません。出身地の松山市の方でもほとんど知らないと思います。私が担当した今回の愛媛県歴史文化博物館「弘法大師空海展」にて、空海と同時代の人物として光定を大きく取り上げたつもりだったのですが、光定に関する市民への周知、啓蒙は充分達成できなかった。これは担当者としての大きな反省点です。光定については、空海、最澄と絡めながらもっと顕彰しなければいけないと思っているところです。

⑦につづく

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弘法大師空海の生涯 ー1200年前の空海と四国ー⑤

2023年12月22日 | 信仰・宗教
弘法大師空海の生涯 ー1200年前の空海と四国ー⑤

五 若き空海が生きた時代
 少し話題を変えます。空海の生涯、特に幼少期についてちょっと考えてみたいと思います。空海が生まれたのは、先ほども言ったように七七四年です。そして空海が十一歳の時、延暦三(七八四)年に桓武天皇が都を平城京から長岡京に遷都します。いわゆる首都移転です。ところが、七八四年に平城京から長岡京への遷都を決めて工事が始まったけれども、なかなかうまくいかないということで、その十年後、延暦一三(七九四)年、空海二一歳のときに、長岡京から平安京へまた遷都します。首都移転ですから大変な事業です。都を造るというのはどれだけの作業になるか。当時の人たちの様子がわかる史料を紹介します。延暦一〇(七九一)年ですから、ちょうど空海が十八歳の時です。ちょうど大学に入った頃です。平城京にて大学で学び始めた頃に六国史の一つ『続日本紀』にこう書かれています。「越前や丹波や但馬や云々、阿波や伊予などの国に命じて平城宮、奈良の宮の諸門」いろんな門があります。それらの門を長岡宮に移させると。つまり伊予国、阿波国の人たちに命じて移させるのです。当時の首都移転、遷都というのは、現代のように例えば工事を発注して、そこで工事に携わった人たちに賃金、給料が支払われるという形ではないのです。労役とか造作と言いますけれども、当時の税というのは租庸調があって、庸がいわば労役という一種の税でした。そのうちのその遷都にかかわることも朝廷が阿波国や伊予国に命じて、そして門を奈良から京都の長岡京まで運ばせるのです。そういうことが行われていたのを間近で見ながら、大学でちょうど勉強をし始めていたのが空海なのです。だから、空海が二四歳までの約六年間、仏道修行に目覚めていくプロセスの中で、一つ経験としては、自分がちょうど大学で勉強して官僚エリートコースを歩んで朝廷の役人を目指している横で、自らの出身地である四国の人間が、苦役しながら門を解体して、そして給料をもらうわけでもないという状況であった。奈良時代は労役に関して往路は交通費が出ていましたが、復路(帰り)は交通費出ないのです。そのため野垂れ死んだりする人もいたという時代です。その状況を空海は見ていたということで、空海の幼少・青年期というのはいわば「労役の時代」であったといえるのです。
 もう一つは、空海の幼少期は東北地方の蝦夷との戦争の時代でした。いわゆる三八年戦争という言い方があります。これは宝亀五(七七四)年に始まって、それから弘仁年間まで三八年間、いわゆる坂上田村麻呂とか、あと蝦夷方の阿弖流為(アテルイ)などの人物の名前出てきますが、ちょうどその時代です。この宝亀五年というのは七七四年、空海が生まれた年です。つまり、空海が生まれて三八歳になるまでは、東北地方の蝦夷と朝廷側が戦争をしていた時代になるわけです。例えばこの史料。延暦七(七八八)年、空海が十五歳の頃のものです。

史料5『続日本紀』延暦七(七八八)年三月辛亥条
下勅、調発東海、東山、坂東諸国歩騎五万二千八百余人、限来年三月、会於陸奥国多賀城。

 十五歳というとちょうど空海が奈良の都に上っておじの阿刀大足から学問を学び始めた頃です。そのときに何が起こっていたかというと、これも六国史『続日本紀』の記載ですが、東海道や東山道(今の岐阜、長野など)、坂東の諸国に対して、五万二八〇余人を来年三月までに陸奥国多賀城(現在の宮城県多賀城市)まで送りなさいとあります。東日本といいますか要するに東海道、東山道、そして坂東諸国。その出征兵士の人数が一回で五万二〇〇〇人なのです。三八年戦争と言われますけども、延べ人数でいうと大体推計で二〇万人から二五万人が東北地方に派兵、派遣されたと言われます。この五万二〇〇〇人出征の記事の後に、坂東諸国から願い状が出ています。兵士を出し過ぎて国が疲弊して困るので、何とかしてほしいと朝廷に申し入れた記事が『続日本紀』に出てきます。これは坂東だけではなくて日本全国的な問題だったのです。当時の日本全国といいますか、日本列島の人口が約三〇〇万人と言われます。三〇〇万人のうち二五万人が派兵されたということです。全人口の約一〇分の一にあたります。そういった時代を空海は幼少期から過ごしていたわけですね。
 もう一つは、東北地方のいわゆる俘囚(捕虜)の問題があります。東北地方の捕虜が朝廷によって西日本各地に移されるのですが、その移配先として四国は多くの史料に出てきます。例えばこれは空海誕生以前の七二五年の記事ですが『続日本紀』神亀二年閏正月己丑条に、俘囚、要するに東北地方で捕虜になった人物一四四人を伊予国、五七八人を筑紫に配すとあります。空海の時代の史料でいいますと『日本後紀』延暦一八(七九九)年十二月乙酉条に、東北地方の陸奥国が言うには、俘囚、要するに捕虜の吉弥侯部(キミコベ)黒田と妻の田刈女などが「野心いまだ改まらず」とある。要するに朝廷に対しての反逆心、大和に服従する心がまだ改まらなくて「賊地」、東北地方を往還している、行き来しているとあります。これも大和側、朝廷側の論理ですね。そこで彼の身を禁じる、要するに禁錮、捕まえて、土佐国(高知県)に配したとあります。こういう記事がよく出てきます。伊予国にもちょうど吉弥侯部氏が移配されたようで、ちょうど『日本後紀』弘仁四(八一三)年二月甲辰条の中に吉弥侯部氏に姓を与えるという記述が出ていますので、この伊予国にも陸奥国から移配されていたのは確実です。讃岐国にも蝦夷は移配されています。要するに、空海の幼少期、青年期といいますと蝦夷との戦争は、兵士が大量に派兵されるだけではなくて、捕虜として捕まえられた人物が四国にも移配されている。当然、讃岐国にもそういうことがあった。つまり若き空海の時代は「戦争の時代」でもあったのです。
 さて、空海が生まれたのはいつかということで、先ほどから言っている七七四年ですけども、空海の誕生日はいつなのかというと六月十五日とされています。六月十五日の根拠は平安時代の史料には出てこないのですが、鎌倉時代、弘安元(一二七八)年成立の『真俗雑記問答鈔』の中に「弘法大師誕生日事、問何、答或伝云、六月十五日云々」と出てきます。それ以前には史料としては確認できません。鎌倉時代中期以降に定着したのが六月十五日の誕生日です。では、空海が生まれたとされる七七四年六月十五日頃はどんな様子だったのか。『続日本紀』宝亀五(七七四)年六月乙酉条を見ると、何と七七四年六月十八日、空海誕生の三日後の記事ですが、「伊予国飢賑之」とあります。伊予国が飢饉で困っていて、伊予国に対して賑給(シンキュウ、救援物資、食料を送ること)しています。要するに飢饉で困っていたということが国の歴史書に記載されている。本当に困らないと国史には出てきません。これは、伊予国だけではなくて記事を見ると志摩国(三重県)、飛騨国(岐阜県)も飢饉で、賑給されている。その直後の記事を見ると、土佐国でも同じような状況になっています。まだ讃岐では満濃池が修築されていない頃なので、恐らく讃岐国も飢饉で大変な状況だったと思います。要するに空海が誕生した、真魚が生まれたその瞬間というのは「飢饉の時代」であったということです。
 以上のように、空海の幼少期、青年期は、人々は苦しんでいた時代であった。要するに、①造作、労役の時代、②戦争の時代、そして③飢饉の時代で、それにプラスして地震が頻発していた時期でもありました。『類聚国史』という、先ほど言った朝廷が編纂した歴史書(六国史)をもとに、分野ごとにまとめた史料ですが、そこに古代に発生した地震の一覧表が列挙されています。延暦一三(七九四)年頃、空海二一歳の頃に地震が頻発しています。史料自体、朝廷が編さんしたものなので、畿内中心、西日本中心の地震記録と言えますが、地震が頻発をしていた時期が空海二一歳の時です。ちょうど空海が大学をドロップアウトして四国で修行したり仏道修行に励んだりしていた頃になりますが、要するに労役、戦争、飢饉、そして地震という、その四つの時代背景があった。それが若き日の空海の時代というわけなのです。空海が修行しながら衆生済度を願うきっかけとなる時代背景が顕著であったということです。

⑥につづく


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人口減少社会と文化遺産シンポ

2023年12月21日 | 日々雑記

内子町でのシンポジウム「文化遺産の現在と未来ー人口減少社会と生きるー」無事おわりました。雪の予報で交通が乱れるかと心配していましたが、積雪も大したことはなく、内子町に移動できました。

今回のシンポ概要は以下の通りでした。

文化遺産とは、地域またはコミュニティの歴史・伝統・文化を集約した象徴的な存在であり、そこに属する人々にとって何ものにも代え難い誇りです。同時に、情報を共有すれば他地域の人々をも感動させる価値を持っています。しかし、その将来は必ずしも明るいとは言えません。本シンポジウムでは、人口減少によって危機に瀕する文化遺産の現状や課題を議論するとともに、予測不能な現代社会にこそ必要な「文化とともに歩む未来」について考えます。

主催は、愛媛大学社会共創学部、社会連携推進機構地域共創研究センター、気軽にコミュニティカレッジin内子懇話会、内子町教育委員会。

趣旨説明 井口 梓(愛媛大学社会共創学部副学部長・社会連携推進機構地域共創研究センター副センター長)
研究発表
渡邉敬逸(愛媛大学社会共創学部・社会連携推進機構地域協働センター南予)「人口減少との関係から考える文化財管理のゆくえ:愛媛県を事例として」
大本敬久(愛媛県歴史文化博物館)「VUCA時代の無形文化遺産―文化が新たな地域に果たす役割―」
村上恭通(愛媛大学先端研究・学術推進機構アジア古代産業考古学研究センターセンター長)「文化遺産と人口減少社会の将来-なぜ今、議論するのか-」
総合討論・質疑応答 コーディネーター:井口 梓 

貴重な機会を与えていただきました愛媛大学、内子町教委、そして内子懇話会のみなさま、ありがとうございました。



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弘法大師空海の生涯 ー1200年前の空海と四国ー④

2023年12月21日 | 信仰・宗教
弘法大師空海の生涯 ー1200年前の空海と四国ー④

四 四国霊場「開創一二〇〇年」という伝承
 ちょっと話が変わりまして、今年は四国霊場開創一二〇〇年とされる年です。四国霊場開創一二〇〇年というのは数え方が実は難しくて、弘法大師空海が弘仁六(八一五)年、四二歳のときに四国霊場を開創したと言われることから一二〇〇年なのです。今年は二〇一四年ですよね。正確に言うと四国霊場開創一二〇〇年「目」になるわけです。そして来年二〇一五年は一二〇〇「周年」になります。「何周年」と「何年目」というのは混乱しやすいですね。昔の数え方ではたいてい今回の四国霊場一二〇〇年のような数え方をすることが多いようです。平安時代初期、弘仁六(八一五)年、四二歳のときに四国霊場を開創したという言い伝えは四国各地の札所に残っていますが、本当にその年、四二歳だったのか。ここで空海の誕生年について、もう一度確認をしてみたいと思います。
 実は、空海といいますか、まだ名前は空海ではない、真魚ですね。空海と名乗るのは遣唐使に随行して唐に渡る直前になりますが、空海が生まれたのは七七三年だったという説が実はあるのです。一年違うじゃないかと。先ほど紹介した誕生年は七七四年なのですが、一般的にはやはり七七四年説が採用されています。ところが、古代には朝廷が編さんした正式な歴史書が六つあります。『日本書紀』、『続日本紀』とか、その後に『日本後紀』、『続日本後紀』が続くのですがこれらは六国史と称されます。これら朝廷が認めた正式な歴史を綴った史料の中に、空海が亡くなったときの記事が出ています。『続日本後紀』承和二(八三五)年のことです。

史料2『続日本後紀』巻四 承和二(八三五)年三月丙寅条
大僧都伝灯大法師位空海終于紀伊国禅居

史料3『続日本後紀』巻四 承和二(八三五)年三月庚午条
勅遣内舍人一人、弔法師喪并施喪料、後太上天皇有弔書曰、真言洪匠密教宗師、邦家憑其護持、動植荷其摂念、豈圖□□(外字)未逼、無常処侵、仁舟廃棹、弱喪失帰、嗟呼哀哉。禅関僻在、凶聞晩伝、不能使者奔赴相助茶毘、言之為恨、悵悼曷已、思忖旧窟、悲凉可料、今者遥寄単書弔之、著録弟子、入室桑門、悽愴奈何、兼以達旨(中略)化去之時年六十三。(中略部分は史料9に記載)

ここに大僧都空海が紀伊国の金剛峯寺において亡くなると。そして「化去」要するに亡くなるという意味ですが「年六十三」と書いてある。いわば朝廷の正式な歴史書『続日本後紀』承和二(八三五)年三月二五日条に六三歳で亡くなりましたよと書いているのです。これを逆算すると誕生年は七七三年になります。一般的な説の七七四年説と一年ずれてしまいます。ところが、空海が実際に書いた文章、先ほども紹介した『性霊集』巻第三に「中寿感興詩」がある。中寿というのは四〇歳のことです。そのときに空海が漢詩を書いていろんな人に渡しています。その漢詩を渡されたうちの一人が最澄です。最澄は、この中寿感興詩、つまり空海が中寿四〇歳になったときに詠んだ歌を受け取りましたが、それがいつだったのかきちっと書かれています。この詩には「不惑は促す、ああ、余、五八の歳」とあります。五八の歳っていうのは、五と八を掛け算してください。五×八で四十です。類例として平安時代初期の史料には例えば三八も出てきます。空海が『三教指帰』でも使っています。二四歳の事を三八と書きますし、五八は四十ですね。ああ、自分は四〇歳になってしまったということを書いて、そして最澄にも宛てたり、弟子の泰範にも宛てたりしているのです。この「五八詩」を最澄は弘仁四(八一三)年に受け取ったと『久隔帖』に記しています。だから空海は八一三年には四〇歳であったことは間違いないのです。そしてこの事から誕生年も七七三年ではなくて七七四年であったと言えるのです。そして西暦八一五年、今から一二〇〇年前には空海が四二歳であったということもわかります。つまり「八一五年の四二歳のときに四国霊場を開創しました」という伝承のうち、八一五年に空海が四二歳であったということは歴史学上実証、証明することができるのです。
 では、その弘仁六(八一五)年に空海はどんなことをしていたのでしょうか。先ほども紹介した朝廷の編さんした歴史書、当時は『日本後紀』の時代になりますが、『日本後紀』の中には空海の記述は出てきません。まだ若いですし、『日本後紀』のように、その国の「国史」であり、編さんされる内容、歴史は基本的には国家的事業が記録されるのです。国の事件もしくは朝廷の行事、役人の叙位、昇任などが記録される。まだ四〇歳頃と若く、十分な国家的実績を残していない空海がその頃に何をしていたかまでは書かれていないのです。残念ながら『日本後紀』の中には空海に関する記述は全く出てきません。そのかわり、空海自身が書いた文章を綴った『性霊集』であるとか『高野雑筆集』を見ると、この八一五年に何をしていたというのが少しだけですがわかる。日付までわかる史料もあるのです。
 まず弘仁六年一月一〇日に小野岑守が陸奥国守として赴任する。つまり東北地方の役人として遠くに赴任するので、その餞別の歌(漢詩)を与えています。その漢詩が『性霊集』に収められています。注目すべきは四月上旬に弟子を東国、東日本に派遣して、経典などを流布しようとしていたことです。これも『性霊集』に見えます。何度も繰り返しますが、空海が書いた文章を弟子の真済がまとめたものなのですが、『性霊集』巻第九に収められています。

史料4『性霊集』巻第九「諸の有縁の衆を勧めて秘密蔵の法を写し奉る応き文」
貧道帰朝して多年を歴と雖も、時機、未だ感ぜず。広く流布すること能はず。(中略)今、機縁の衆の為に、読講、宣揚して仏恩を報じ奉らんと欲す。是を以て弟子の僧康守、安行等を差はして彼の方に発赴せしむ。
 弘仁六年四月二日 沙門空海疏す

「諸の有縁の衆」要するに、いろいろと関係のある人々に「秘密蔵の法」要するに真言密教ですね。それを勧めて、「写し奉るべき文」要するに、いろんな人に密教に関する経典等を写したり教えたりしましょうということが『性霊集』の中に書かれています。それが八一五年なのです。そこに具体的に何と書いてあるかというと、「貧道帰朝して」貧道というのは貧しい道を歩んでいる自分ということで、へりくだって言っている、要するに空海自身のことです。自分は中国(唐)に渡って帰ってきて「多年を歴と雖も」多くの年月を経たけれども、「時機、未だ感ぜず」そして「広く流布することを能わず」とあります。密教をまだ広めることができていないということです。そして「今、機縁の衆」つまり関係のある多くの人々のために真言密教に関するものを読んだり講釈したり、あと宣揚したり「仏恩を報じ奉らんと欲す」と書いてある。要するに、ちょうど四国霊場開創とされる一二〇〇年前というのは、空海が真言密教を流布することを一種宣言した年でもあるのです。そして「是を以て弟子の僧康守、安行等を差はして彼の方に発赴せしむ」とある。この「彼の方」というのはまず常陸国(茨城県)、下野国(栃木県)です。あと甲斐国(山梨県)も。これが『高野雑筆集』からわかります。要するに東国、今の関東地方あたりに派遣しているのと、もう一つ、徳一(とくいつ)という奈良時代から活躍していた法相宗のベテラン僧侶にも手紙を出しています。その徳一は会津(福島県)で活躍した人です。会津磐梯山の近くに慧日寺という大きな寺院跡が発掘されていますが、そこを拠点として活躍した人物です。このような東日本の僧徳一ともやりとりをしています。要するに、真言密教がまだ広まっていない東日本に対して流布、布教を意図、活動していたということです。もしその頃そのころ西日本や空海の生まれ故郷であるこの四国にいまだ密教が流布していない段階であるなら、このように東国、東日本に対して宣揚、流布しようとするかというと、恐らくしないであろうと思います。ある程度全国に流布する最後の段階で東日本が出てくると考えるのが妥当だと思います。恐らく八一五年の段階では空海は真言密教を四国にも流布をしていたであろうと私は推測しています。もしくはそれまでに流布していなかったら、この八一五年に流布する活動を起こしていた可能性が高いといえるのではないでしょうか。ちなみに一二〇〇年前に空海が四国霊場の八十八ヶ所を定めたと記している史料ですが、平安時代に記録された史料では実は確認できません。江戸時代の史料には様々出てきます。明治、大正、昭和、特に明治十六年以降になると頻繁に出てくるようになります。その明治十六年に何があったのか。いわゆる四国霊場の案内記や由来書にそれが記されるようになって、伝承が一般化していく時期になります。明治時代初期の廃仏毀釈による各札所の荒廃が一段落、もしくは再興に向けた動きが出てきた頃で、明治の新時代の四国遍路の出発点となるべき時期でして、案内記や縁起が多く出されます。明治十六年には中務亀吉(中務茂兵衛)が『四国霊場略縁起道中記大成』を著していますが、そこに四二歳に八十八ヶ所を定めたことが書かれています。しかし平安時代にはその直接根拠となる史料はありません。八一五年に空海が八十八ヶ所を定めたとことの史料的根拠を示さなければいけないと言われたら、恐らくこの先ほど見た『性霊集』の真言密教の宣揚流布の記述が一つ鍵、間接的根拠になるかと思います。
 もう一つは「厄年」の問題があります。空海が八一五年、四二歳の厄年の際に厄払いのために八十八ヶ所を開いたと書かれている文章もあるのですが、実は四二歳の厄年の習俗、慣習は時代的には新しいものなのです。江戸時代以降に定着したものです。一般的には、男性二五歳、四二歳とか、女性十九歳、三三歳と言われます。男四二歳、女三三歳が大厄とされますが、古代、中世、要するに江戸時代よりも古い時代、五〇〇年以上前や、空海の時代つまり平安時代の「厄年」は、よく史料を確認すると現代とは異なっています。例えば平安時代、九七〇年成立の『口遊』には十三歳、二五歳、三七歳、三九歳、六一歳と書かれています。また『拾芥抄』という鎌倉時代の有職故実書には十三、二五、三七、六一、八五とあります。要するに十三歳とか二五歳とか三七歳が出てくるのですね。これはいわゆる干支、十二支、子丑寅から亥までの十二が一巡した区切りといいますか、要するに12×X+1というのが古代、中世における厄年なのです。空海の時代には四二歳の厄年というのは出てきません。四二歳が定着するのは江戸時代です。ところが、江戸時代の学者である伊勢貞丈が書いた『安斎随筆』という史料があります。天明四(一七八四)年の成立です。これを見ると、厄年は十九歳、二五歳、三三歳、四二歳が挙げられている。現在と同じような厄年、厄払いが史料上で確認できます。そして三三歳は「三三と重なるゆえ散々」と、散々な年なので厄年とされる。四二歳は、四二と続くゆえ、「死にと取りなして忌むなり」とあります。ところが伊勢貞丈はこの『安斎随筆』の中で何と書いているかというと、厄年を皆さん信じなさいと書いているわけではありません。一七八四年段階で学者が記すには、厄年は「らちもなきことなり」とあります。信じるに足りないことだと書いているのです。要するに厄年が定着していくのは江戸時代の中期から後期。徳川将軍家でも、実際に厄年のときに厄払いで寺院に参詣することが始まるのが一七〇〇年代の半ば、今から二五〇年ぐらい前です。ちょうど十一代将軍の徳川家斉が二五歳や四二歳の厄年の厄除けのために関東の川崎大師平間寺に参詣するようになります。それに影響されて厄年の者の社寺参詣といいますか、四二の厄年、三三の厄年の時に厄を落とそうということで社寺参詣が庶民の間にも広まっていきました。つまり、空海が四二歳の厄年の時に厄払いのために四国霊場を開創したというのは、「厄年習俗」自体の歴史からすると、恐らく後の時代に成立した。もっと言えば江戸時代後期以降に成立する言い伝え、伝承なのではないかと思われます。
 さて、何度も言いますが今年は四国霊場開創一二〇〇年とされていますが、ちょうど五〇年前の昭和三九(一九六四)年に例えば第一番札所霊山寺の本堂が改築されていますが、様々な札所で石造物の年紀を見ますと、昭和三九年のものが多いのです。つまり開創一一五〇年祭を行っていたのです。そしてさらにその五〇年前が、大正三年、西暦でいうとちょうど一〇〇年前ですから一九一四年になりますが、その時に既に四国霊場開創一一〇〇年の記念として、納経帳に各札所で「開創一千百年」の記念印が押印されています。このことは大正三年の納経帳を愛媛県歴史文化博物館で所蔵していまして、そこに押されているのが確認できます(写真5)。また、一一〇〇年記念として石造物といいますか道標を建立したり、お遍路さんが遍路道を回りやすいようにガイドブックを出版しようとしたりしています。そのガイドブックで得た利益で道標を建立しよう、そしてこれは四国霊場開創一一〇〇年目の事業であるという様に三好廣太著『四国遍路同行二人』(大正2年発行)という案内記に書かれています。要するに、近年になって開創記念事業が唐突に行われはじめたわけではなくて、五〇年前も行われていますし、一〇〇年前の大正三年にも開創事業は行われていたのです。問題は今から二〇〇年前の開創一〇〇〇年です。西暦でいうと一八一四年、和暦でいうと文化十一年になります。文化十一年の段階で、四国霊場が開創されて一〇〇〇年になったので記念事業をやっているとか、その記念誌が出されたとか、その記念で何らか版本とか絵図とかが刷られている事例が、現在のところ確認されていないのです。もし皆さん、興味のある方で、文化十一年もしくはその数年前の四国遍路関係史料を見て、四国霊場開創一〇〇〇年を記念する一文がどこか確認されたとしたら、大きな発見になると思います。これはまだ見つかっていないのです。しかし、見つかる可能性は充分にあると思います。この点は四国遍路研究の課題の一つといえます。
 なお、多くの札所では弘仁六(八一五)年に開創された、創建されたという言い伝えや記録は寺ごとにはあります。ところが八十八カ所を一括で厄除けのために空海が開きましたという記述がないということです。江戸時代末期には、例えば八十八番札所の大窪寺さんの史料に八一五年に空海が開創したと書かれている史料がありまして、愛媛大学の胡光先生によって確認されています。寺院ごとでは八一五年開創の記録はいろいろ出てきますが、厄年、厄除けと関連づけて四国霊場をまとめて開創したという史料は明治時代以降ではないのかと推察しています。
 もう一つ、来年二〇一五年は八一六年の高野山開創から一二〇〇年目にあたります。弘仁六(八一五)年の翌年の弘仁七(八一六)年に空海は高野山を開創します。これは『性霊集』に詳細に記されていて歴史的事実として確実です。来年は高野山一二〇〇年、今年は四国一二〇〇年というように一二〇〇年が続きます。そのあとの一二〇〇年となると、二〇二二年に東寺給預、二〇三四年に御遠忌(空海入定から一二〇〇年)がやってきます。

⑤につづく


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弘法大師空海の生涯 ー1200年前の空海と四国ー③

2023年12月20日 | 信仰・宗教
弘法大師空海の生涯 ー1200年前の空海と四国ー③

三 幼少期、青年期の空海
 さて、空海がいつ生まれたかということに触れたいと思います。よく教科書に紹介されるのは「空海は平安時代初期に活躍をした僧侶で、同時代に最澄がいます」というような説明ですが、空海が生まれたのは平安時代ではありません。奈良時代後期です。誕生したのは七七四(宝亀五)年です。奈良時代後期七七四年というと、ちょうど天平期の東大寺の大仏建立とか各国に国分寺、国分尼寺が建立されたのが西暦七四〇年代ごろになりますが、それよりも後。聖武天皇の後に女帝の孝謙(称徳)天皇が即位しますけれども、孝謙(称徳)天皇のときに僧侶の道鏡が権力を持ちます。その道鏡がちょうど排除、排斥され、称徳天皇から代わって、それまで天武系だった天皇が天智系に代わる。その天智系の血脈である光仁天皇が即位しますが、その頃に空海は生まれています。要するに天平期がちょうど終わって、さあ奈良時代後期の新しい時期に入って、長岡京遷都、平安京遷都へ向けて時代が動き始める少し前。それが空海誕生の七七四年です。
そして空海の幼名は真魚(まお)です。真実の「真」に「魚」と書きます。今でしたら、幼い時「まおちゃん」と呼ばれていたでしょう。今年の冬季ソチオリンピックでフィギュアスケートの浅田真央さんが活躍しましたが、同時に本年は四国霊場開創一二〇〇年の記念の年ですから、記念に、もしくは縁起がいいということで、どなたか赤ちゃんが誕生した際の命名で、この「真」に「魚」の「まおちゃん」の名付けをしないかなと思うのですが、インターネットで検索してみましたが誰も出てきませんね。
 さて、この写真は七七四年に空海が生まれた場面です(写真2)。これは和紙人形で、実はここ地元川之江の手漉き和紙も使って作られています。和紙芸術家の内海清美(うちうみきよはる)先生の作品で、空海(真魚)がちょうど生まれたシーンです。父田公(タギミ)と母阿刀氏(アトシ)ですね。この時代は奈良時代後期です。その空海は十五歳になって平城京に行きます。この時もまだ奈良時代です。平城京で何をしたかというと、仏教を学びに行ったわけではないのです。奈良時代の真魚は、要するに学問に勤しむ。母方の阿刀氏は阿刀大足(アトノオオタリ)という人物を輩出しています。阿刀大足は空海のおじに当たるのですが、そのおじは桓武天皇の息子の伊予親王の侍講(家庭教師)をしていたのです。その阿刀大足から学問を学ぶのが、ちょうど奈良、平城京に出ていった真魚十五歳の時なのです。このように、最初から仏道修行のために中央に行くというよりは、学問を修める。いろんな学問がありますが、儒教、仏教、そして道教がありますけれども、その中でも特に儒教が中心です。当時は儒教を学ぶことで官僚、エリートコースの道を進むことができる。朝廷で役職に就こうとするならば仏教ではなくて、学ばなければいけない、身に着けなければいけないのは儒教だったのです。つまり儒教のさまざまな書籍を学んでいくのが、十代後半、特に十五歳から十八歳の空海になるわけです。空海は十八歳のときに大学に入ります。大学に入るといいますと、愛媛大学とか香川大学など現在の大学とは意味合いが違っていまして、どちらかというと朝廷の役人を輩出するための官僚養成機関なのです。そこに十八歳で空海は入学することができました(写真3)。普通ですと貴族の子息とかが入ります。空海は佐伯氏出身です。現在でいえば香川県善通寺市の生まれですから、善通寺あたりの佐伯氏は、いわゆる郡司クラス、今でいえば市長とか県議会議員クラスになるかと思います。その出身です。空海は大学に入りましたが、当時、大学ともう一つ国学という役人養成機関がありました。郡司クラスの子息だと国学に入ることが多いのですが、空海は母方の阿刀氏、つまり桓武天皇の息子の伊予親王の侍講(家庭教師)もしていた名門の学問氏族に関わっているということで大学に入っていく。ところが、空海は十八歳で大学に入ってあと、このままでいいのだろうかとどんどん悩んでいって、結局、大学をドロップアウトして山林修行に入っていくことになります。この青年期に仏道修行に目覚めていくのです。
 そして、四国などでも修行をして、高知県室戸に御厨人窟(ミクロド)がありますが、そこで輝く金星が口の中に入ってくるという奇瑞(珍しい現象)を感得して、修行のステージを上げるという形になります。これも平安京遷都前の若い時期です。延暦十六(七九七)年、空海は『三教指帰』を著します。『三教指帰』というのは「三つの教え」と書きますが、つまり儒教、道教、仏教の三つの教えのうち、どれが一番優れているのか。そして仏教が優れていることを結論として書いた史料です。空海が二四歳の時です。二四歳までは空海が何をしていたのかその事蹟はわかります。十五歳で奈良・平城京に行き、十八歳で大学に入り、それからドロップアウトして仏道修行、山林修行に入り、二四歳で『三教指帰』を著すというように、何をやっていたかおぼろげながら事蹟はわかるのですが、その後、二四歳から三一歳までの約七年間はどのような行動をしていたのか、史料には全く現れません。恐らく全国もしくは四国、西日本各地を修行していたであろうと思われますが、突如、三一歳のときに史料上に現れます。それが遣唐使に随行して唐に渡るときです。延暦二三(八〇四)年のことです。もう既に桓武天皇が即位し、平安京に遷都された時代になりましたが、八〇四年に空海が遣唐使に随行して、中国(唐)に渡って、長安(今の西安市)に行きます。その遣唐使船は全四隻で編成されていましたが、四隻のうち二隻は座礁、難船して結局中国には渡れませんでした。あとの二隻のうち第一艘目に遣唐大使藤原葛野麻呂と空海が乗っていたのです。もう一方の船には誰が乗っていたかと、天台宗の開祖である最澄が乗っていたのですね。だから、四分の二(五〇パーセント)の確立で中国に渡ることができたのが空海であり最澄なのです。これがもし逆で、空海と最澄の乗っていた船が難破して、ほかの二隻が中国に着いたとしたら、日本の宗教史は大きく変わっていたかもしれません。本当に偶然なのです。
 そして、八〇四年に中国(唐)に渡って、長安で活動します。唐長安に青龍寺(「セイリュウジ」とも「ショウリュウジ」とも言います)にて、真言宗の正統な後継者であった恵果和尚に出会い、空海の師匠にあたる人物となります。延暦二五(八〇五)年のことです(写真4)。このときに空海と恵果和尚が対面をして、そして恵果から真言密教を学んで、日本に持ち帰ってきます。そして日本に真言密教を広めていく。高野山を開創したり、京都の東寺を給賜されたり、そして嵯峨天皇、淳和天皇と関わりが深く、宮中にも真言密教を広めていったのが空海だったわけです。

④につづく

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弘法大師空海の生涯 ー1200年前の空海と四国ー②

2023年12月19日 | 信仰・宗教
弘法大師空海の生涯 ー1200年前の空海と四国ー②

二 柑橘を称賛する空海
 まずこの写真は西予市宇和町にある愛媛県歴史文化博物館で先日六月八日まで開催していました特別展「弘法大師空海展」にて展示していた作品です(写真1)。非常に大きい寸法でして、縦四メートル幅六メートルの作品です。地元の愛媛県立三島高校書道部の皆さんに五月三日に書道パフォーマンスで書いていただいたものです。ここに表現されているのは、実際に空海が平安時代に書いた言葉なのです。それを三島高校書道部の皆さんに作品にしていただきました。

史料1 柑子を獻ずる表(『性霊集』巻第四)
沙門空海言さく 乙訓寺に数株の柑橘の樹有り 
例に依りて交へ摘うて取り来る
数を問へば千に足れり 色を看れば金の如し 
金は不変の物なり 千は是れ一聖の期なり
 詩七言
桃李珍なりと雖も 寒に耐へず
豈柑橘の霜に遇つて 美なるには如かむや
星の如く 玉の如し 黄金の質なり
香味は簠簋に実つるに 堪へたるべし
千年一聖の会を 表すべし
攀ぢ摘むで持て 我が天子に献ず

 何が書かれているかというと、実は愛媛県のシンボルであるみかん(柑橘)を称賛している漢詩なのです。『性霊集』という空海が書いた文章を弟子の真済がまとめた史料があるのですが、そこに載せられているものです。ここに「黄金の質」とか、「桃李珍なりと雖も寒に耐へず」云々と書かれていますが、要するに桃やスモモは珍しいけれども、寒さに耐えることはできない。ところが「豈柑橘の霜に遇って」つまり、柑橘類は寒さの中で霜にあうけれども「美なるには如かんや」。つまり美しいことに及ぶものはなく、寒さの中でも美しく育つ。そして、それは「星の如く玉の如し」とあります。しかも「黄金の質なり」とも書かれています。また「香味」要するに匂いや味は「簠簋」(入れ物)に満ちる。入れた物の中に充満するくらい素晴らしいとあります。「千年一聖の会を表すべし」これは要するに千年が一つの区切りであるほど永遠であるということです。つまり、みかん(柑橘)自体が、星のごとく玉のごとく、黄金であり千年でありと賛美しているのです。それを「攀じ摘むで」柑橘の実を摘んで我が「天子」(嵯峨天皇)に献じますよ、という言葉を三島高校の皆さんに書いていただきました。
空海の生誕地は讃岐(香川県)ですが、このようにみかん(柑橘)を絶賛している。それを地元の方、愛媛の方には広く理解してもらいたいと思いまして紹介しました。実は、この「柑子を献ずる表」は『性霊集』に所収されていますが、これには、前文があります。「沙門空海言さく」とありますが、「沙門」つまり空海自分が言うには、乙訓寺(今の京都府長岡京市にある寺院)の柑橘なのです。だから、愛媛の柑橘を献上したわけではありません。長岡京市にある乙訓寺に数種の柑橘の木があって、それを摘んで、そしてその「数を問へば千に足れり」と、「色を看れば金の如し、金は不変の物なり」と。「千は是れ一聖の期なり」永遠であるという絶賛です。これは実際に空海が言ったと「伝えられる」という類の「伝説」「伝承」レベルの言葉ではなくて、実際に空海が嵯峨天皇に柑橘を献上するときに添えた文章でして、『性霊集』に記された歴史的事実なのです。本物の「空海の言葉」といえるでしょう。それを最初に紹介させていただきました。

③につづく



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弘法大師空海の生涯ー1200年前の空海と四国ー①

2023年12月18日 | 信仰・宗教
※本稿は『宇摩史談』103号(宇摩史談会、2015年2月)に掲載した原稿(2014年6/29(日)の宇摩史談会記念講演会「弘法大師空海の生涯~1200年前の空海と四国~」(会場 ホテルグランフォーレ)での講演録)である。今年2023年が弘法大師空海生誕1250年の記念の年ということもあり、弘法大師の伝説ではなく、人間空海の生涯を紹介しておきたい。ちょうど12月17日には徳島市立徳島城博物館で本稿の内容をもとに講演を行った。受講したかったが、遠方であったり、都合がつかず参加できなかったとの連絡を複数、いただいているので、参考までに本日から8回に分けて、掲載しておきたい。

弘法大師空海の生涯ー1200年前の空海と四国ー①

一 はじめに
○司会  
 講師の先生の御紹介を会長より行っていただきます。
○会長
 定刻の一〇時三〇分がまいりました。ただいまより、大本敬久先生をお迎えして御講演をお願いしたいと存じます。それでは、大本先生の御紹介を申し上げたいと存じます。まず、講師の先生は大本敬久先生でございます。西予市宇和町に所在する愛媛県歴史文化博物館の専門学芸員でございます。役職等につきましては、文化庁文化財調査員、西予市文化財審議会委員、日本民俗学会評議員、四国民俗学会理事等の要職を歴任されておられます。演題は御承知のように「弘法大師空海の生涯」、副題といたしまして「一二〇〇年前の空海と四国」、とりわけ身近なお話もございます。本日は、先生の特に御配慮によりまして、スクリーンに大きく映しましてわかりやすく御講演をいただくということになっております。所要時間は一時間三〇分でございます。どうぞ皆様、おしまいまで御清聴くださいますようお願い申し上げます。それでは、大本先生、どうぞよろしくお願いいたします。(拍手)
○大本  
 只今御紹介に預かりました、愛媛県歴史文化博物館学芸員の大本敬久と申します。よろしくお願いいたします。今ちょうど一〇時三二分です。約九〇分、一二時までおつき合いいただければと思います。タイトルは「弘法大師空海の生涯」です。一二〇〇年前の弘法大師空海の生涯とその時代背景を今から大体九〇分、お話させていただきます。
 四国中央市といいますと、四国霊場六十五番札所の三角寺さんが有名ですし、あと、別格二十番霊場では四国の全二十霊場のうち、十二番、十三番、十四番の三ヶ所が四国中央市内にあります。誓いの松で有名な延命寺さん、三角寺さんの奥の院の仙龍寺さん、あと、椿堂(常福寺さん)です。このように、四国中央市は他の自治体、市町村と比べても、弘法大師空海に関する伝説、伝承、歴史に関してかなり色濃い地域だというふうに言えるかと思います。お隣の新居浜市になりますと、霊場はありません。十二番の延命寺さんの前の別格霊場十一番となりますと生木地蔵で西条市丹原町になります。四国中央市の弘法大師信仰については霊場だけではなく村松大師とか、あと旧土居町の三度栗、つまり一年間に三度なる栗の伝説がありまして、弘法大師に関する伝承は実に数多い地域です。
 さて本日の内容は、一二〇〇年前の空海がどのような生涯を送ったかという話になります。要するに、弘法大師伝説が各地にどのように広まったか、そして現在どのようになっているのかというテーマを追求、整理する前に、実際に「人間空海」が平安時代初期にどのような生涯を送り、その時代背景がどうだったのかっていうことを紹介したいと思います。本日来場された参加者は、一五〇人以上と予想以上に人数が多いですね。レジュメが全く足りていないとうかがいました。今、レジュメを持たれてない方もおられると思いますので、一応スクリーンさえ見ればわかるように話をしたいと思います。何とか九〇分お付き合いいただければと思います。

②につづく


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松山市北条市民会館

2023年12月16日 | 日々雑記



愛媛県高校総合文化祭の郷土芸能部門。先月19日、暴風警報で延期になって本日開催。北条市民会館の大ホール。郷土芸能の披露にはちょうど良いサイズ感。和太鼓や虎舞の迫力満点でした。



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新刊 曽我正堂『ふる郷もの語』

2023年12月15日 | 地域史

文生書院から、愛媛県南予地方の歴史、民俗に関する著作が刊行されました。『ふる郷もの語』(ふるさとものがたり)。ジャーナリストでもあり、伊予史談会設立当時の活動を下支えした鴫山(旧双岩村。双岩はいま八幡浜市。鴫山は西予市に位置しています)出身の曽我正堂さん。幕末から昭和初期の南予の生活世相が事細かに描写され、私自身も八幡浜市出身で祖父が双岩村の出でもあるので、非常に親近感のある内容です。南予をはじめ、全国の多くの歴史、民俗学関係者には四国山間部の生活を知る、学ぶ好著となっています。孫の曽我健さんの編集。詳しくはこの文生書院のホームページをご覧ください。


『ふる郷もの語』(ふるさとものがたり) ◆弊社新刊◆

『ふる郷もの語』(ふるさとものがたり) ◆弊社新刊◆

ある地元新聞記者が記録した、四国山間部集落における幕末から昭和戦前の生活世相 いでわたしの故郷(ふるさと)、わたしがまだ紅顔の一少年であった時代の故郷人や、故郷人...

 



以下、文生書院のホームページより転載します。

本書の内容
曽我正堂が昭和11(1936)年から昭和16年まで『愛媛日曜新聞』に連載した随筆。長年の新聞記者生活で培った取材力、観察力、明晰な視点、平易な文体で、彼のうまれ故郷である愛媛県の小さな山村、双岩村鴫山(ふたいわむら しぎやま)(現、西予市三瓶町)の歴史、習俗、風俗、祭祀、農業、食物、経済、そこに生きた名もなき人々の生活を記した。著者が取材した父太郎市の江戸末期の追想も収録され、幕末から明治、大正、昭和戦前にいたるまでの四国山間部集落における生活世相が記録されている。

著者、曽我正堂について
正堂は愛媛県の小さな山村、双岩村鴫山(現、西予市三瓶町)で明治12年、代々つづく自営農民の家に生まれた。
明治34年、私立東京専門学校高等予科に入学、翌年卒業。次いで早稲田大学(東京専門学校の改名)英文科に入学、明治38年7月15日、卒業した。
卒業後、東京帝国大学内に設けられていた三上参次が主宰する史料編纂室の臨時雇いに採用された。ついで三井の編纂室に転職。しかし激務のため体をこわし、明治44年退職し、家族とともに鴫山に帰山、療養に専念した。
一年ほど療養し、伊予日日新聞社に主筆として招かれ松山に出た。その後、『大阪毎日』の通信員を兼ねるようになったが、昭和2年に『伊予日日新聞』は廃刊となり、昭和9年には大阪毎日新聞社を退職。
その後、国の統制のさまたげにあいながらも方々の新聞に随筆を連載しつづけるが、戦争が激しくなり、松山に空襲がせまったため昭和20年3月、鴫山に帰郷する。農業をして暮らすが、病を得て、昭和34年12月28日死去。享年81。(曽我健「解説」を要約)」

以上、ホームページより転載







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高校生との課題解決プロジェクト~愛媛県宇和島市吉田町の地震・津波防災~資料編

2023年12月11日 | 日々雑記
先日に投稿した愛媛県宇和島市吉田町の高校での課題解決プロジェクト。地域に残る過去の地震・津波被害の記録、古文書を基にした防災学習や防災ソングの制作について、その事前学習で使用した資料をここに掲載しておきたい。

1、宇和島市吉田町の地震・津波記録「永代控」とは何か
江戸時代に立間尻浦は、伊予吉田藩の村浦の一つで、吉田藩の陣屋や陣屋町を取り囲む位置にあります。現在の宇和島市吉田町立間尻であり、吉田湾の最深部の湾岸に位置し、江戸時代には北は立間村、西は鶴間浦に接していました。その立間尻浦の庄屋を勤めていたのが赤松家で、現在の国道五六号に隣接し、現在も庄屋時代の建造物や古文書が保存・保管されています。赤松家に保管されている古文書の中に「永代控」があります。これは江戸時代の庄屋が村浦の業務全般を日記形式で綴ったもので、「永代」とあることから、村浦の出来事や庄屋として行った業務内容を後世に伝えるために、「控」として赤松家に現在にいたるまで代々保存、継承されてきたものです。この「永代控」に、一八五四(嘉永七/安政元)年に発生した安政南海地震による吉田・立間尻での被災の状況が記されており、過去の南海地震の被害を知る上で貴重な史料として知られています。一九七七年には、東京大学地震研究所が編纂した『新収日本地震史料』に翻刻文が掲載され、地震研究者の中でも広く知られることになりました。二〇一二(平成二四)年にはこの記録をもとに愛媛県が赤松家を訪れ、現地調査、文献調査を実施しています。この「永代控」には、赤松家の長屋門の鴨居まで津波が来たという記述があり、津波高が一.八mに達すると推定されています。これは宇和海沿岸部での津波高を知る上で、数少ない文献記録であり、愛媛県内外の地震研究者がこの記述をもとに報告書や論文等を執筆しています。ただし、この「永代控」に記述されている地震・津波の被害内容は、長屋門の鴨居までの津波高だけではなく、地震発生直後からの地震の揺れによる被害、津波の襲来の状況、余震の発生回数、住民の避難行動などが時系列で記されており、地震・津波被害、そして地盤沈降による長期にわたる高潮被害に関する豊富な情報が含まれていますが、その全容を周知するような成果はこれまで刊行されていませんでした。そこで、今回は、この「永代控」の安政南海地震に関する全文の翻刻文と意訳文を紹介します。これにより宇和海沿岸部での地震・津波被害を時系列で把握することができ、今後の南海トラフ巨大地震への防災、減災対策につながる一助になれば幸いです。

2、「永代控」からわかる被害概要
〇吉田でも過去に大きな地震が発生し、家屋の倒壊被害が出た。
〇大地震のあとに、長期間にわたる余震が続いた。
〇本震よりも二日後の余震の方が揺れは強かった。
〇吉田も過去に津波が襲来し、何度も引き波、押し波を繰り返した。
〇津波は、まず引き波から始まり、最大の海面上昇は数時間後であった。
〇地震により地盤が沈降し、海岸部では海水流入の長期被害を受けた。

3、「永代控」の内容(意訳と筆者による解釈)
一八五四年一一月五日(新暦では一二月下旬の冬の寒い時期である)一五時頃に、大きな地震があって家や土塀が多く損傷した。推定震度は『地震総覧』によると震度五~六。本史料の内容から大本推定では震度五強~震度六弱であった。

海は次第に「あびき」(「網を引く」の意味から津波が襲来する前に起こる引き波)が強くなり、陸につないでいた船などは(繋留の綱)が切れて、つなぐことができずに、網船などが沖へ流出した。波が覆いかぶさるような津波が襲来するのではなく、まずは海面が引き波になって、船が流出したのである。

女性、子ども、老人はみんな、海岸から離れて山際にある大信寺(海抜一七m)や一乗寺(海抜一五m)などに避難した。いずれも比較的小高い場所にある寺院であり、JRよりも山側に位置している。

すると、次第に海面が上昇してきて、浜が一面、「大大汐」(津波による海面上昇)となって、夜二〇時頃に、立間尻浦庄屋の赤松家の長屋門の鴨居(障子・襖の上、約一.八mの高さ)まで「高汐」となり、海面が上昇した。地震直後ではなく、発生から四~五時間後に津波高が最も上昇したことになる。

避難していなかった赤松家の源四郎と使用人の二人と、蔵の番をしていた一人も、それまでは、門で控えて居たが、とどまっているのが難しくなった。地震発生から数時間は、海岸近くに残っていた人がいたのである。

赤松家の周囲が一面の海となって、表通りは一.二~一. 五m(四、五尺)の高さまで海水が上昇してきた。これは元町・魚棚三丁目付近の津波高を示している。
避難していなかった三人は、裏門から脱出して綱を使って溝を渡って、いったん大信寺まで避難して、お粥などを仕度した。夜間の海面上昇であり、暗い中での避難であり、溝を渡る危険行為で何とか逃れた。

□様(不明・藩の役人か)が様子を見に来たところ、海水が少し引いてきた。しかし、またまた海面が上昇(「高汐」)してきて、それまでのように三度、四度も海面が上昇した。そしてそれまでよりは少し海水が引いてきた。何度も津波の押し波、引き波が繰り返されていた。海水が引いてきたので安心したところ、また上昇するという状況であった。

しばらくして、引き波(「あびき」)は激しくなって、小さな舟などがつなぎとめることが難しくて、そのまま流されていった。そうすると、一艘が大工浜小屋の下の網にかかっていた。また一艘は地震翌日に南君や奥南のあたりまで尋ねていったが、すべて見つからず、三日が過ぎて、源泥(「深泥」の読み誤りか)大宮元の下へ流れていた。源泥(深泥)の御番人より知らせてもらい、引き取りに行かせた。数度の海面上昇、下降を経たあとの強い引き波があって船などの流出被害が見られたのである。
地震発生当日一一月五日の夜も、余震は一六、七回も発生した。避難している者の中には、生き延びたいと神仏に祈るばかりで、自分は祈ることもままならず、ただ津波(「津なみ」)が寄せて来ることを恐れて、所々、山々へ登り火を焚いた。しかし、相次ぐ余震で大地が鳴動して助けを呼んだりすることが難しい状況だった。なお、本史料では「あびき」(引き波)・「高汐」(海面上昇)・「津なみ」(波が寄せてくること)の語が区分されて使われている。小高い場所に避難して、山々に、火を焚いた。避難している印としたのだろう。

大信寺、一乗寺、海蔵寺(海抜九m)へ避難した人数は、約三〇〇~四〇〇人ずつ居て、小高いところの田畑などに、一四〇~一五〇の小屋を建てて、しのいでいた。合計で三〇〇~四〇〇人か、それとも「ツゝ」なので、合計一〇〇〇人程度が避難していたと推定できる。すぐには帰宅できず、避難場所に小屋がけして、過ごしていたことがわかる。

地震発生の翌日一一月六日は、一四、五回の余震があったが、大きな揺れではなかった。天気もよく、おいおい地震も収まるものだと思っていた。本震の翌日は、大きな余震もなく、比較的落ち着いていたのである。

地震発生の翌々日一一月七日になって、避難者の中には自宅に戻る者もいたが、昼の一二時前に、また大きな地震が発生した。本震の五日の揺れよりも激しく、庄屋の御成門の塀や、長屋の西の石垣が揺れで倒壊した。門も潰れてしまった。網屋一軒、蒸釜屋一軒、割木小屋なども倒壊してしまった。新田前浜なども被害が大きかった。方角がわからなくなるほど混乱し、みな、避難小屋へ立ち戻ることになった。最大の余震が、本震から二日経って発生していることになる。これは誘発地震であり豊予海峡を震源とする地震だった。推定震度は『地震総覧』では震度五~六。本史料から大本推定で震度六弱である。避難者も、自宅に戻ろうとしたが、この余震により再び、避難小屋に戻ることになった。

地震発生の一一月五日から一五日まで、自分の家においおい戻ったものの、余震は昼も夜も七、八度ずつは発生した。地震発生から約一〇日間は、余震活動が激しかったのである。

地震発生から一八日後の一一月二三日は、大雨、大雷で天気が悪く、大風もたびたび起こった。

地震発生から一ヶ月半経った一二月二〇日までは余震の無い日は一日もなかった。

吉田では、町方(今の本町、裡町、魚棚町)では死者が六名出て、家屋の倒壊は八〇軒にのぼった。村方(立間尻村)では、茅葺の建物が九軒、土家(瓦葺)三軒、郡屋九軒の計二一軒が倒壊した。石垣は五〇〇軒もの家で崩れた。現在の吉田中心部では、少なくとも一〇〇軒以上が倒壊したことになる。

翌年二月二〇日大雨、大雷。二月二八日には中規模の余震(震度四程度か)があった。この頃も余震は日々続いていた。地震発生から四ヶ月経った三月に入ると余震は少なくなり、一日一日と穏やかになっていった。激しい余震が一〇日程度続き、余震自体は数ヶ月にわたって続いていたことがわかる。

どの土地も地盤が沈降してしまった(「ゆり下げ」)。海水面の潮位が高くなると、海岸部の土地はみな浸水してしまった。地震発生の翌年一八五五年中は、高潮被害が発生して、住民はみな困惑した。そして、海岸部の石垣を三尺(約一m)かさ上げして、ようやく高潮被害を防ぐことができた。安政南海地震により、地盤沈降が発生し、長期にわたる高潮被害が出ている。石垣を三尺かさ上げしたことから、沈降量は五〇~七〇cm程度であったと推定できる。地震直後に沈降したのであれば、庄屋長屋門の鴨居まで津波が来たというのは、一.八mではなく、地盤沈降の〇.五~〇.七mを引いて、一.一~一.三m程度の津波だった可能性もあり、またこれは浸水高ではなく遡上高とすれば、表通りの浸水高一.二~一.五m(地盤沈降〇.五~〇.七mとすれば実際は〇.五~一mの津波)が吉田での津波浸水高とするのが適当であろう。つまり南海トラフ地震による津波では、約一mの津波高でもこのような状況になる可能性があるということである。

4、翻刻文
「永代控」(立間尻浦庄屋赤松家文書)
嘉永七寅十一月
一寅十一月五日夕七ツ半時頃ゟ大地震ニ而家土之塀多分損シ追々あびきつよく相成中々地方ニ津なぎ悉く船なとハ押切つなぎ留かたく網船なとハ沖へ流出シ壱不綱大碇ニ而ことことくつなぎニ而水ふせき候処女子供老人は皆々大信寺一乗寺なとへのかれ行取ものも取あへすのかれ行残処追々汐差上り浜一円ハ大大汐と相成夜五ツ時頃庄屋所門長屋鴨居まて高汐と相成候ニ付源四郎下人両人外ニ蔵番壱人も夫迄は門へ控居候処中々難留り候ニ付一円之海と相成候ニ付表通リハ四五尺も上り候ニ付裏門ゟのかれ出候処綱切ニ而水溝渡り一旦大信寺迄立のき粥なと仕度いたし又々□様見合ニ参候処少シ汐引取様ニ有之然ル処又々高汐ニ相成前之通三四度も上り候へ共以前よりハ少々水ひき相成候其内あびきハはげまし而小舟なとハつなぎかたく候而其儘流し次第ニいたし置候処壱艘大工浜小屋之下へ網にかゝり居候壱艘ハ翌日同浦南君奥南辺迄尋候処都而見不申両三日も過候処源泥大宮元之下へ流居候由源泥御番人ゟ為知もらひ候ニ付取ニ遣候其夜も地震ハ拾六七度もゆり候而中々延命なと祈候斗ニ而余事ハ思もよらす只津なみ寄来事を恐れ所々山々へ登り火をたき鳴動する事難呼立候大信寺一乗寺海蔵寺へのかれ居候人数も三四百程ツゝ居候其余小高き処を辺々田畑なとへ小屋かけ百四五十いたし而志のき居候翌六日少々昼夜十四五度ゆり天気能相成候ニ付追々直候事と存追々七日ニ相成候而我家へ帰候者も有之処同七日昼九ツ時前又大ゆりニ而五日のゆりよりはけしく庄屋所御成門塀長屋西之小平石垣ゆりくずし門もつへ込候網屋壱軒蒸釜屋壱軒割木小屋なとも崩し候由新田前浜なとも多分痛ニ而中々方角難立一統小屋へ立戻候処十一月五日ゟ同十五日迄夫ゟ追々自分之家へ相帰候左候共ゆり候事は昼夜ニ七八度ツゝは矢張より申し同廿三日大雨大雷之条有之天気難定大風なとハ度々有之同十二月廿日より無之日は一日もなく町方死人六人崩家八拾軒村方屑宅九軒土家三軒郡屋九軒石垣五百軒二月廿日大雨大雷二月廿八日中ゆり少々有之事は日々有之三月ニ至候而追々ゆり遠く相成一日替二日替ニ而末ニ至候而穏ニ相成候何土地もゆり下け有之汐高く浜辺之土地ハ皆々汐下ニ相成卯年中は高汐ニ而一統当惑いたし浜辺石垣三尺築上漸汐防き候
※この翻刻文は、東京大学地震研究所編『新収日本地震史料』第五巻別巻五ノ二より転載したものである。

5、教訓
 〇大きな地震が来たら、急いで小高い場所に逃げる。
 〇津波は、押し波が最初に来るとは限らない。
 〇津波は、第一波が一番大きいとは限らない。
 〇寒い暗闇の中で避難しないといけない。最大の津波が来たときは夜二〇時。一二月下旬の寒い暗闇の中だった。
 〇本震よりも余震の方が大きいこともある。
 〇余震は、数週間内は頻繁で強く、数ヶ月継続する。
 〇地盤沈降により海岸部は津波が相対的に高くなり、長期の高潮被害が出る。

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日本の切手と葉書

2023年12月10日 | 日々雑記

テーマ展「日本の切手と葉書」

 当館がこれまでに収集してきた切手や葉書の中から、1840年にイギリスで発行された世界初の切手である「ペニー・ブラック」と「ペンス・ブルー」、明治4(1871)年に発行された日本初の切手である「竜文切手」や翌年に発行された「竜銭切手」のほか、お正月にあわせて昭和10(1935)年に発行された日本初の年賀切手「富士」(渡辺崋山)や昭和24(1949)年に発行された日本初のお年玉付き年賀葉書など、多種多様な切手と葉書の世界を紹介します。

展示概要

会場
愛媛県歴史文化博物館 企画展示室
会期
2023年12月9日()~2024年1月28日(

詳しくは
テーマ展「日本の切手と葉書」| 展示案内 | 愛媛県歴史文化博物館

テーマ展「日本の切手と葉書」| 展示案内 | 愛媛県歴史文化博物館

愛媛県歴史文化博物館

 

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高校生との課題解決プロジェクト~愛媛県宇和島市吉田町の地震・津波防災~

2023年12月10日 | 災害の歴史・伝承
今後三〇年以内に七〇~八〇%程度の確率で発生が想定されている南海トラフ巨大地震により、揺れによる建物の倒壊や津波による浸水によって甚大な被害が想定されている愛媛県南予地方の宇和海沿岸部。そこに位置する愛媛県宇和島市吉田町北小路の愛媛県立吉田高等学校(津波の浸水想定高は六.〇m)では二〇二三年度に愛媛県の防災教育実践モデル事業や地域の課題解決プロジェクトの一環で、過去の災害を学んで防災に活かす学習を全校で取り組んできた。吉田高校からの依頼で筆者も防災学習の講師として加わり、災害史学習や防災ソングの作成に協力をしてきたところである。

初回は、七月六日に「過去の災害に学ぶ―吉田付近の地震・津波史―」の演題で普通科一、二年生を対象に座学の講演を実施し、一七〇七年に発生した宝永地震、一八五四年発生の安政南海地震と一九四六年に発生した昭和南海地震での吉田における避難や被害状況を解説した。この講演の中で吉田藩立間尻浦庄屋赤松家文書の「永代控」を取り上げ、安政南海地震時の吉田の住民の避難行動を取り上げたところ、古典の授業の中で、この「永代控」を生徒が読んで現代語訳をしようという取り組みにも繋がった。本稿は、この初回の講演、古典学習の参考となる基礎データとして作成した資料であり、高校の授業だけではなく広く周知するため、投稿したものである。
なお、二回目は八月二一日に生徒有志、教員とともに防災町歩きを実施し、「永代控」の記述を基に、安政南海地震時の住民避難の経路を実際に歩いてみた。その様子を愛媛新聞が取材して八月二四日付で以下のように記事掲載されたので紹介しておく。

「古文書の震災記録、巡って避難路確認 宇和島・吉田高生が防災学習 宇和島市吉田地域に伝わる古文書に記された南海トラフ地震の被害状況を基に、吉田高校(同市吉田町北小路)の生徒約一五人が地域を歩く防災学習が二一日、あった。生徒は身近な場所を襲った揺れや津波を教わりながら、高台避難の経路を確認した。県の防災教育実践モデル事業などの一環で、県歴史文化博物館専門学芸員の大本敬久さんが講師を務めた。古文書は、同市吉田町立間尻の江戸期の庄屋赤松家が保管する「永代控」。吉田藩へ村の出来事を報告するために作られ、一八五四年の安政南海地震の状況を記録している。永代控によると、地震発生後には引き波で船が沖で流出し、午後八時ごろに庄屋に一.八メートルほどの津波が来た。余震が続く中、住民は高台の寺などに避難し、帰宅できずしばらく小屋で生活していた。生徒は海沿いの住吉神社を出発し、赤松家では実際の永代控を目にした。記録に沿って当時の住民が避難した三カ所の寺を巡り、海抜一七メートルの大信寺では避難に備えた防災倉庫を確認した。大本さんは、津波は何度も押し寄せ、最大の海面上昇は数時間後だったと説明。吉田地域は津波が川を遡上してくる可能性が高いとして、できるだけ川沿いではない避難路を選ぶことが大切とアドバイスした。(後略)」

そして、この生徒有志と教員による防災町歩きの経験を活かして、一一月一六日に実施された遠足では、テーマを「過去の津波の経験」とし、八月の町歩き箇所に加え、安政南海地震時に吉田藩主が避難した立間地区の医王寺や、将来の南海トラフ地震で集落の中央部にまで津波浸水が想定されている喜佐方地区の高台にある八幡神社を訪問場所に加えて、遠足が実施された。

また、「永代控」の記述を基に、生徒が主体となって宇和島市吉田町の防災ソングを作る取り組みも同時並行で行われ、一一月二四日に地元の吉田愛児園で披露され、講師、助言役として筆者も参加した。作詞は一、二年生、振り付けは三年生が行い、作曲は音楽教員が主導して防災ソングは完成した。こちらも愛媛新聞が取材し一一月二九日に以下のような記事として掲載された。

「宇和島の吉田高生が防災SONG制作 園児に振り付け指導、津波避難の大切さ伝える 宇和島市吉田町北小路の吉田高校の生徒が、約一七〇年前に吉田地域で起きた大地震を記録した古文書を基に、津波避難の大切さを伝えるオリジナル曲「吉田防災SONG」を制作した。生徒は二四日、吉田愛児園(同市吉田町西小路)を訪れ、園児に歌詞や振り付けとともに命を守る行動を教えた。古文書は同市吉田町立間尻の庄屋赤松家に残る「永代控」。一八五四年の安政南海地震で地域に津波が押し寄せ、住民が避難した様子を記録している。生徒は古文書の口語訳やフィールドワークを通して当時の住民の行動を学び、作詞などに役立てた。歌詞には住民が山に逃げたことや、諦めずに努力し復興を遂げたことなどを盛り込み「登れ逃げよ吉田っ子 命をつなげ吉田っ子」と呼びかけている。振り付けは頭上での指さしや腕を振る動作で、走って高台避難する行動を表現した。同園で同校の二年生約二〇人は、園児と2人一組になり「波が来るから逃げるんよ」などと歌詞の意味や動きを教え、繰り返し踊って練習した。(後略)」

以上のように、残された過去の災害史料を高校生の防災学習に活かし、その成果が地元の園児にも伝わる防災ソングを創作し、地域の防災力を高める一助となった取り組みであり、今後の地域の歴史文化研究成果の発信、展開のモデルケースともいえる。別投稿で、吉田高校での防災学習で使用した資料も掲載しておきたい。


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