夢発電所

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亡父のこと

2010-08-24 06:35:09 | つれづれなるままに
 父が召されてから、18年が経とうとしている。忘れもしない、9月25日が命日となった。この日は兄の長男の誕生日であり、愛する妻の名前の語呂合わせ「クニコ」の日でもあった。
その前日に糖尿病性の眼底出血があり治療を受けていた父は、自宅から車で青森市の病院へ出かけ、帰路橋の欄干に車で衝突して胸を強打した。即死だった。
 当時私の職場は特別養護老人ホームで、ソーシャルワーカーをしていた。午後の会議中に新潟の母から電話が入って、父の事故死を聞いた。
 その前の夜にふと虫の知らせというのだろうか、実家に電話して父と話をしたいと思った。眼底出血の話は聞いていたので、車の運転を止めるように言いたかったのだ。しかし、父は既に寝ているということで母にその旨伝達を依頼した。その翌日の事故なのだ。
 結局あの電話の後、私は新潟へ戻るための様々なありったけの知恵を絞って、最も効果的に新潟へ着く方法を考えた。それは車であった。家内はこんなときは、車はやめた方がいいと譲らず、結局次の手段は電車か飛行機での帰郷であった。電車はいくら速くても翌日の午後に尽くし、飛行機は羽田経由なので結局一番早いのはいったん大阪まで行き、大阪から新潟を目指すのが最も自分の気持ちを落ち着けさせる方法であった。今でもあの時の大阪の夜景の美しさが、まぶたの裏に張り付いて忘れることはないだろう。それほどに大阪城のライトアップや夜景パノラマは美しかった。私は新潟へ着くまでの間、父親の思い出をつないで行く作業を行っていた。
 父は享年68歳であるから、あと十年すれば私は父の年齢に追い着くことになる。
 私は長い間、自分の父親を憎悪の対象にして来た。父親の愛すべきエリアと、憎しむべきエリアを比較すると7割が憎悪エリアである。それは幼いころからの、スパルタ教育が私の中では一つのトラウマの記憶として記憶の世界を埋め尽くしていたからである。オセロの白黒のコマを白が父の愛すべき点とすれば、黒が憎悪である。真ん中が白く埋められたかと思うと、たちまち盤のコーナーを押さえられている私は、あっという間に盤面が黒く変わってしまうような日々を送っていた気がする。
 いつからか自分は父の前では寡黙で、日々憎悪菌を養殖していたような気がする。
 大学に入って卒業するという時に、初めて父が卒業式に出るといって上京してきた。浅草を案内し、アルバイトで貯めたわずかばかりの金で父親に夕食を接待し、ズボンのベルトを贈った。ささやかな私の気遣いに、それまでに感じたこともない父の嬉しそうな表情を見た。
 
 今自分が父親の年齢に近づいて、改めて思うことがいくつかある。それは父親の人間性である。「死んだ男の残したものは」という反戦歌があるが、私の父親が残したもの、それがいくつかある。まずは時代に似つかわしくなくなった田舎の家である。二度にわたる近年の地震で、瓦屋根の二階家が大きく捻じ曲がったのかもしれない。かつては人々が年に何度も集った豪勢だった実家は、もはや集まる人の影もなくなった。1階には座敷が2つに個室が3室。それに30畳はある居間と、台所・浴室・トイレ・廊下。二階には個室が3室(総て8畳にロビー風の書庫。居間は老母と兄の二人住まいなので、ほとんどが機能していない。時として帰郷すると、その衰退振りが眼に見えるようになってきた。高齢化は兄にも及び、これから先朽ち果てていく家と付き合う兄の気持ちはいかばかりのものだろうと思う。

 もう一つは父親の地域貢献活動である。亡くなる前の数年間父の活動は、宗教的には檀家総代としてのお寺様の屋根の普請を完了し、それまで井戸水や川の水などを使っていた地域に上水道を敷設するようにという区長としての活動があった。結果市長を通じて議会を通って、ようやく水飢饉から脱した地域があるのである。高齢化が進むエリアでは、まさに父がこの活動をしていなければ、不便な日常が未だに続いていたのではないだろうか。
 最後にもう一つ、父は長男として酒井家の重鎮として、親族を取りまとめるべく力を発揮して来た。悪く言えばいついかなるときも、口うるさく聞こえたことが多かった。相手がどのようにその言葉を受け取るのかなどおかまいなく、自分が正しいという論法は時としてひんしゅくを買って来たに違いない。しかし今父が鬼籍に入り、親族を見渡すと親族間のパイプは寸断され、今や盆正月すら、相互の訪問が消えかかっている状態でもある。
 先日亡父と絶縁状態にあった弟がなくなり、兄が弔問しているが、既にいとこ同士の年代が跡継ぎである。兄には父のような忌憚のない意見を、いついかなるときにも提示する采配はふれないと思う。
 父はうるさい人ではあったが、そのうるささがあったからこそ親族が繋がりを保てていたとも云えるのではないかと近年思うようになった。本当に心配しているからこその辛口だった、とも云えるのかもしれない。

 父親に感謝しなければならないのは、今ある私が健康体であり、誰にも負けない気配りができるのも、口うるさい父親の訓導を鉄拳も交えて、長い間躾けられてきたからだと思う。成績優秀だった兄にも、決してこのことだけは負けている気がしない。
 私が今日あるのはそういう意味でも、父親がいつも傍にいてくれるからかもしれない。
 一番忌み嫌った父に私は似てきたのかもしれないとふと思っている。