夢発電所

21世紀の新型燃料では、夢や想像力、開発・企画力、抱腹絶倒力、人間関係力などは新たなエネルギー資源として無尽蔵です。

娘達の帰宅

2010-04-04 07:18:08 | つれづれなるままに
 昨日土曜日に、わが娘たちがケアホーム生活二日で帰宅した。土日は帰宅することになっているのである。
 娘たちには日々欠かせない楽しみがある。それは音楽であり、長女には絵本であり、次女には入浴である。生活する場所というものが二つあると、その二つの空間に二つそろえておかなければならないものが生じる。ケアホームにはピアノ、ギター、絵本、そして入浴用のリフトである。昨日は自宅からケアホームにとりあえず持参したために、自宅になくなったキーボードなどの買い物に出かけた。
 長女はケアホームで夜昼の逆転現象が起き始めているらしく、あうんへPM5時に迎えにいくとすでに毛布にくるまって熟睡している。昨夜はPM8時に入浴後AM2時まで眠って、その後排泄をしてずっと明け方まで起き続けたらしい。昨夜の夜勤者は新任の看護経験者と主任者であったが、結局新任者は気になって朝までうつらうつらしていた様子である。
 親ですら娘達の30数年間連れ添って暮らしながら、未だに日々の娘達の暮らしに立ち往生することがあるのだ。ケアホームでの一日や二日の暮らしで、スタッフが娘達の夜のケアが十分できるなどと思ってはいない。
 娘達の個別の特徴を理解し、その違いを十分区別した支援の積み重ねの誤差の少なさが、娘達の快適な暮らしにつながっていくのだろうと思う。
 昨夜長女はPM9時30分に就寝し、結局また午前2時に目覚めた。ベッドから布団になった娘は、私の布団を引いて眠れないよーと訴えていた。家内と苦笑しながら、彼女のお気に入りの絵本ディックブルーナーの「きいろいことり」を読んで聞かせた。大喜びの娘は、読んでいる間だけは静かに、身体をゆすって聴いていた。家内が一緒に布団に入って、足をあっためながらまた眠りに落ちて行った。
 そういうケアがないケアホームでの空間では、長女はベッドから届く左手の障子戸を開けて、隣宅の窓の明りを見て楽しんでいるのだという。長女は幼いころから暗闇で見える明りを楽しむ習癖があった。
 娘達と暮らす日々は時間にはゆとりがなくなっても、一人の人間が生きていくための役割が家族のこころの空白を満たしていることに改めて気づかされる。それを難儀といっていたのかもしれないが、実はそれがあることこそが幸せの時間でもあったのである。消えてしまって初めて気づくことが、まさにここにもあったと確認する日々である。