夢発電所

21世紀の新型燃料では、夢や想像力、開発・企画力、抱腹絶倒力、人間関係力などは新たなエネルギー資源として無尽蔵です。

旅行けば その2「鶴岡八幡宮」

2010-04-19 12:12:06 | つれづれなるままに
13日(火)品川バスターミナルに6時30分に着いた我々の出で立ちは、背中にリュックとキャスター付きの手引きバッグ?である。品川駅からとりあえず横浜駅を目指して東海道線に乗り換える。品川と横浜がこんなに近いのかと思うほどの時間である。空腹を感じて駅構内の早朝開店の喫茶店で、サンドイッチとコーヒーを腹に満たした。それにしても夜行バスというものの過酷さは、到着後の足関節末端部に現れる。靴下から下が膨張するのである。乗車券の安さと引き換えに、中途半端なリクライニングシートでは体中が悲鳴を上げているのがわかる。9時間もの狭い座席での拘束は、拷問台に縛り付けられた囚人の様だった。

 鎌倉駅のロッカーに重たい荷物を預けて、とりあえず鎌倉を目指した。朝8時ともなると通勤の人々がホーム内にあふれ出している。そのような車内で、我々夫婦のリュック姿はなんとも迷惑な姿に映ったのではないかと今更ながら汗が流れる想いである。私はいつも足早でせっかちな歩き方をするので、カミサンはこうした都会は歩きなれないため景色を見るどころか私の姿を見失わないようにするので精一杯のようだった。
 幸運なことに鎌倉駅に着くと、お日様も差して上天気である。駅からぶらぶらと鶴岡八幡宮を目指して歩いた。早朝のためにまだ商店街のシャッターも、閉まっているところが多かった。
 中学校の修学旅行で一度来たきりで、それ以来だから40数年ぶりの訪問かもしれない。10分ほど歩くといよいよ正面に鶴岡八幡宮の威容が見えてくる。
 二の鳥居を抜け、正面入り口には池をまたぐように、太鼓橋がかかっている。寒さが続いているせいか、桜はまだ健在で、今を盛りと咲き出したのは八重桜だ。そしてこの鶴岡八幡宮を自由に闊歩している小動物が、尻尾の長いやや大柄の台湾リスだったのは意外だった。
 しばらく歩くと舞殿の美しい建物が現れた。頼朝の求めに応じて静御前が舞ったというが、史実はこの建物ではなかったらしい。
 その静御前が義経を思って詠んだ歌がこれ
「吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき」「しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな」

 その下拝殿を過ぎるといよいよ、大銀杏のある61段の石段である。しかし左側の大銀杏の木は、今年3月の強風で倒れ、根株のみがその年輪を天にさらしていた。
 石段を登ると本宮で、日本の神社で始めて賽銭箱をつけたといわれる賽銭箱にお賽銭を投げ入れ拝殿をすませた。
 
 
 

旅行けば・・・初日は鎌倉~横浜

2010-04-19 07:26:06 | つれづれなるままに
 12日(月)の夜行バスで家内と二人の、初めての四国への旅が始まりました。当初は飛行機でまっすぐ四国の予定が、横浜にいる家内の叔父が病床にあるのが気がかりでお見舞いを兼ねて寄ることにしました。朝6時30分には品川に到着。そのまま鎌倉へ出かけ、鶴岡八幡宮や近代美術館などを見て、懐かしい江ノ島電鉄にも乗りました。お天気も良く汗ばむくらいでした。
 展示作品の中に郷土の作家村上善男さんの「赤倉山」があり、少し心が動きました。生きているうちにお目にかかれた光栄を忘れません。

 東北の地に根をはり、東北の風土と一貫して向き合い続けた美術家村上善男(むらかみ・よしお)(1933 - 2006) 。
1950年代後半から活動を開始し、1960年代には注射針を画面に無数貼り付けた作品、さらには計測器具、新聞、各種統計図等にあらわれる数字を構成した作品で高い評価を得た村上は、1970年代に入って気象図や貨車をモチーフにした作品へと展開し、1982年以降は弘前市を拠点に活動を続け、古文書を裏返して貼り込んだ上から、あたかも釘を打つように白い点を描き、点と点とを結ぶ「釘打図」を数多く手がけていきました。時代を追うごとにその画業は大きく展開しましたが、緻密な計算による画面構成と抑制の効いた色彩を持つ理知的な作風が、村上芸術の一貫した特徴。

 もう一つの作品は佐藤哲美(新潟県)の作家の「みぞれ」などが展示されていました。

 新潟県の信濃川と阿賀野川の下流域に地平線まで続く広い平野があります。やがて白一色に覆われる大地、初冬の蒲原平野。ここを舞台に描かれた風景画、佐藤哲三・作『みぞれ』。
 その作品は、東京駅の駅舎にあるステーション・ギャラリーで行われた展覧会に出品されました。個人の展覧会の多くは、画家の人生を辿るように作品が並びます。少年期、青年期、そして晩年。今回紹介する『みぞれ』は、展覧会の最後の壁に収められていました。

1953年に描かれたこの作品は、キャンバス一面に灰褐色の世界が広がっています。
厚く垂れ込める雲、ぬかるむ土の感触、冷たいものが降っているかのような重い大気。
空と大地とが渾然一体となり、その狭間の並木道を人間の一群が急ぐように歩いています。雲を切って輝く朱色をしたバーミリオンの夕日が消える前に、温もりのある家に帰るために。
 佐藤哲三はデビュー当時、天才少年と騒がれた画家でした。しかし、やがて画壇に背を向け、生涯を新潟の農村で生きたため、いつしか人々の記憶から消えていきました。44年の短い生涯を駆け抜けた彼の絵は、今も見る者を捉えて離しません。粘りつくような絵の具のうねりの中に、彼は何を託したのでしょうか。
 蒲原平野にある静かな城下町、新発田市は、佐藤哲三が幼少期を過ごし、画家になるため切磋琢磨した町です。4歳の時に脊椎カリエスに罹った哲三は、東京美術学校に入学した兄の影響を受けて油絵を始め、小学校を出ると画家を志します。
 13歳の時に初めて描いた油絵は、妹の肖像画です。
哲三は20歳で亡くなった画家の関根正二に憧れ、彼のバーミリオンに魅せられていました。佐藤哲三は、その温かなオレンジ色を生涯追い求めていくことになるのです。

 17歳の時、東京の展覧会に出品します。自信作7点を送りましたが、結果は全作品落選。
哲三は上京し、審査員の一人である梅原龍三郎にその理由を聞いてみます。梅原は佐藤哲三の才能を愛し、惜しみ続けた人物でした。梅原は哲三に、写実の腕を磨くようにと諭します。
 梅原の推薦文にはこう記されています。
「もし今、大いに興味ある青年画家はあるかと問われたら、私は言下に『いる。しかし、ただ一人』と答えることができる」
認められたという喜びは自信へと変わり、哲三は次々と作品を発表してゆきます。20歳の時に描いた『赤帽平山氏』は、哲三の出世作です。

 独特のフォルムと鮮烈な色使い、スーチンの影響を我がものにして挑んだ肖像画。佐藤哲三は画壇の寵児として一躍踊り出るのです。ところが、昭和14年に結婚した哲三は、新発田市の郊外にある鍛冶村で妻の実家の自転車店を経営しながら絵の制作に没頭し、小さな農村で生きていく決意をします。彼は東京へ誘われても、この土地を出ようとはしませんでした。そして作風がガラリと変わります。
 厳しい土地で生きる女の強さと美しさ、逞しさ、優しさを描いた『農婦』は、彼の代表作の一つ。
 哲三は表現主義的な画風を捨て、目の前の現実を深い共感とともに写実しようと試みました。やがて遠い北国の画家は、忘れられてしまいます。
 戦時中の物も金もない時代、佐藤哲三は農家の子供たちを集めて絵画を教えていました。そうすることで大地に根を生やし、土地の人々に馴染もうとしたのです。

戦中から戦後にかけて農民の暮らしの中に分け入り、時には熱弁をふるって社会運動に力を注いでいきます。やがて哲三が油絵を描くことはほとんどなくなりました。唯一、描いていたのは野菜のスケッチ。それは、蒲原平野が育む命の力でした。
ようやく筆を取ったのは戦後のことです。

長いブランクを経て見つけたモチーフ、それが蒲原平野の風景でした。佐藤哲三の晩年の傑作『みぞれ』は、蒲原平野の心象風景だと言われています。哲三がその風景に込めたものとは。
 昭和25年、佐藤哲三は40歳の時に病魔に襲われます。腎臓結核という厄介な病気でした。哲三は長い空白の時を経て目覚めました。描くことと、生きること、そして絵こそがすべてを語りうるということに。哲三は70号のキャンバスに向かい、夕暮れのみぞれが降るその世界の感情の一切を封じ込めていったのです。