■国産ジェット海外初受注、三菱が100機
(読売新聞 - 10月02日 14:34)
http://www.yomiuri.co.jp/atmoney/mnews/20091002-OYT8T00726.htm
先日の話だが、これは久々のいいニュースだった。
三菱航空機が作っている国産ジェット機の受注が米の航空会社から百件近く来たという。
戦後、「翼をもがれた日本」が翼を取り戻す大きな契機としたいが、この国産ジェットのエンジンはアメリカ製で純粋な国産機と云えないのが残念なところだ。
なぜ戦後六十年以上経っても日本が自前の飛行機を作れないのか、この理由は少しばかり歴史を遡る。
日本人が初めて飛行機を飛ばしたのはライト兄弟が飛んだわずか七年後の明治四十三年(1910年)。
徳川家の血を引く陸軍の徳川好敏大尉が代々木錬兵場(現・代々木公園)でおこなった飛行実験がそれだ。
その四年後の第一次世界大戦では青島のドイツ軍要塞を日本軍の航空機が攻撃し、翌月にはドイツ軍機と空中戦もやった。
その十年後には民間航空が東京-大阪間に定期便を飛ばし、昭和六年(1931年)には日本初のスチュワーデス(いま客室乗務員という)が誕生している。
スチュワーデスは前年にボーイング航空が初めて採用していたが、「旅客の健康維持」を名目として看護婦を乗せており、普通の女性のスチュワーデスを乗せた例では日本が世界で初となる。
昭和十二年(1937年)には朝日新聞の社機だった「神風」が東京-ロンドン間を飛び世界記録を樹立し、さらにその二年後には96式陸攻機を改修した「ニッポン号」が世界一周を果たした。
これらの機は製造も設計も日本人の手で行われた純国産製で、日本人が世界記録を達成する程の高性能な飛行機を造ったことに世界は驚愕した。
というのも、それまで飛行機は「白人の力と叡智の象徴」といわれており、有色人種である日本人には「優秀な飛行機を作ることも、それを巧みに操縦することも出来ない」(米国の軍事評論家、フレッシャー・プラット)と広く信じられていたからだ。
1937年4月9日付けの『ディリー・ヘラルド』は、
「生理学的に日本人は優れたパイロットにはなり得ないと信じられて来た。ある高度に達すると方向感覚を失い、眩暈を覚える。これは何世紀にも及ぶ米食と魚嗜好による適応異常なのだ・・・」と記述した後で、そのような迷信が打破された、と結んでいる。
また、神風号について英航空誌『フライト』は
「日本で設計した飛行機を日本人が操縦し、亜欧二大陸にまたがる長遠な飛行を敢行し大成功をもたらすとは誰が想像したであろうか・・・」
「神風号は飯沼1人によって操縦され副操縦士はいなかった。また単発機であるから1基の発動機が故障すれば万事休すであった、しかるにこの発動機は94時間好調を続けた。この一事を以ってしても、設計者・製作者の技術はもちろん、全航程の間取り扱いに当たった塚越機関士の非凡な技倆は賞賛さるべきである・・・」
「三菱製単葉機および中島製発動機は外国の特許によるものでは無く、日本独自の設計による・・・」
と驚いている。
ニッポン号についてもある米国人識者は
「この優秀な飛行機を日本人が独力でビス(螺子)1本から創ったとは信じ難いが、事実ならば恐るべき民族だ」
と述べている。
ところが、太平洋戦争がはじまった昭和十六年の段階でもマッカーサーは人種偏見が抜けなかったらしく、真珠湾当日、日本軍機からフィリピンへの渡洋攻撃を受けた際、台湾から飛んでくるような燃費のいい飛行機を日本人が持って<いるはずはないと「日本機は空母から発進した」といい、周辺海域で空母を探し、操縦はドイツ人が行ったものだと信じて疑わなかった。
イギリスの最新最良戦艦プリンス・オブ・ウェールズとレパレスが日本軍機によって沈められたときもチャーチルはにわかに信じようとしなかったし、戦後も「戦争の全期間を通じて、私はそれ以上の衝撃を受けたことがなかった」と回顧している。
高性能な飛行機を巧みに操る日本人に衝撃を受けたのは白人だけではなく同じ有色人種の間でも同じだった。
白人の植民地にされていた東南アジア各国は「白人の叡智の象徴」である飛行機を操る日本人と逃げ惑う白人を見て、独立の気運を高めた。
そして、終戦。
日本軍の緒戦の活躍がよほど衝撃と恐怖を与えたのだろう。
連合軍の日本占領政策の主眼は平たくいえば日本を二度と白人国家に楯突く事がないように徹底的に弱体化させることだった。
なかでも、白人国家に恐怖を与えた日本の航空産業は目の敵にされた。
マッカーサーは日本弱体化計画の一環として、覚書覚書301号を発令して、模型も含め日本の航空産業・研究の一切を禁止した。
ルーズベルトの「(日独伊には)いかなる航空工業、航空事業も将来にわたって許されない。これら三国がゼンマイ仕掛けの玩具より大きい飛行機を飛ばすことも欲しない」という遺言を受け継いだ格好だ。
覚書では第一項で「昭和二十年十二月三十一日をもって民間航空に関する政府機構を廃止する」とあり、以下「いかなる航空企業、団体、及び乗員養成、航空機製造、設計、整備に関る法人も同期日までに解散すること」と続く。
これにより、零戦を開発した三菱重工や「隼」の中島飛行機(註)など航空機工廠はすべて潰され、飛行場に残っていた国産飛行機も破壊された。
以後、いわゆる「翼をもがれた七年間」がはじまる。
科学技術の中でも最も高度な研究と知識の蓄積が必要とされる航空分野において、このブランクはあまりにも大きいものであり、ある専門家は「航空禁止の七年間によって、実質五十年は遅れてしまった」と指摘する。
占領期間が終り、再び飛行機を飛ばせるようになった日本だったが民間航空の国際機関への登録記号は戦前の「J」の一文字ではなく二文字の「JA」になった。
一文字記号は「飛行機を開発し、飛ばした」国の特権とされ、戦前では欧米航空先進国の他は日本にのみ認められたもので二文字なら航空二等国扱いになる。
これは、運輸省の役人が民間航空を復活させる際、「ウチは二文字で結構です」といらぬ卑下をしたためだといわれている。(航空関係者)
ただ、実際にその後の日本航空史を見てもそれに見合った歩みをしている。
一応、国産旅客機の「YS-11」を造ったことになっているが、エンジンはロールスロイス製でプロペラはダウティーロートルという具合で主要部品はすべて外国製でまかなわれている。
そして、今回の国産ジェットもやはりエンジンが外国製。
今年で戦後六十四年、戦前のように純国産製を造るにはあと何年かかるのだろうか。
*******
註:中島飛行機は零戦のエンジンも作っていた。
(読売新聞 - 10月02日 14:34)
http://www.yomiuri.co.jp/atmoney/mnews/20091002-OYT8T00726.htm
先日の話だが、これは久々のいいニュースだった。
三菱航空機が作っている国産ジェット機の受注が米の航空会社から百件近く来たという。
戦後、「翼をもがれた日本」が翼を取り戻す大きな契機としたいが、この国産ジェットのエンジンはアメリカ製で純粋な国産機と云えないのが残念なところだ。
なぜ戦後六十年以上経っても日本が自前の飛行機を作れないのか、この理由は少しばかり歴史を遡る。
日本人が初めて飛行機を飛ばしたのはライト兄弟が飛んだわずか七年後の明治四十三年(1910年)。
徳川家の血を引く陸軍の徳川好敏大尉が代々木錬兵場(現・代々木公園)でおこなった飛行実験がそれだ。
その四年後の第一次世界大戦では青島のドイツ軍要塞を日本軍の航空機が攻撃し、翌月にはドイツ軍機と空中戦もやった。
その十年後には民間航空が東京-大阪間に定期便を飛ばし、昭和六年(1931年)には日本初のスチュワーデス(いま客室乗務員という)が誕生している。
スチュワーデスは前年にボーイング航空が初めて採用していたが、「旅客の健康維持」を名目として看護婦を乗せており、普通の女性のスチュワーデスを乗せた例では日本が世界で初となる。
昭和十二年(1937年)には朝日新聞の社機だった「神風」が東京-ロンドン間を飛び世界記録を樹立し、さらにその二年後には96式陸攻機を改修した「ニッポン号」が世界一周を果たした。
これらの機は製造も設計も日本人の手で行われた純国産製で、日本人が世界記録を達成する程の高性能な飛行機を造ったことに世界は驚愕した。
というのも、それまで飛行機は「白人の力と叡智の象徴」といわれており、有色人種である日本人には「優秀な飛行機を作ることも、それを巧みに操縦することも出来ない」(米国の軍事評論家、フレッシャー・プラット)と広く信じられていたからだ。
1937年4月9日付けの『ディリー・ヘラルド』は、
「生理学的に日本人は優れたパイロットにはなり得ないと信じられて来た。ある高度に達すると方向感覚を失い、眩暈を覚える。これは何世紀にも及ぶ米食と魚嗜好による適応異常なのだ・・・」と記述した後で、そのような迷信が打破された、と結んでいる。
また、神風号について英航空誌『フライト』は
「日本で設計した飛行機を日本人が操縦し、亜欧二大陸にまたがる長遠な飛行を敢行し大成功をもたらすとは誰が想像したであろうか・・・」
「神風号は飯沼1人によって操縦され副操縦士はいなかった。また単発機であるから1基の発動機が故障すれば万事休すであった、しかるにこの発動機は94時間好調を続けた。この一事を以ってしても、設計者・製作者の技術はもちろん、全航程の間取り扱いに当たった塚越機関士の非凡な技倆は賞賛さるべきである・・・」
「三菱製単葉機および中島製発動機は外国の特許によるものでは無く、日本独自の設計による・・・」
と驚いている。
ニッポン号についてもある米国人識者は
「この優秀な飛行機を日本人が独力でビス(螺子)1本から創ったとは信じ難いが、事実ならば恐るべき民族だ」
と述べている。
ところが、太平洋戦争がはじまった昭和十六年の段階でもマッカーサーは人種偏見が抜けなかったらしく、真珠湾当日、日本軍機からフィリピンへの渡洋攻撃を受けた際、台湾から飛んでくるような燃費のいい飛行機を日本人が持って<いるはずはないと「日本機は空母から発進した」といい、周辺海域で空母を探し、操縦はドイツ人が行ったものだと信じて疑わなかった。
イギリスの最新最良戦艦プリンス・オブ・ウェールズとレパレスが日本軍機によって沈められたときもチャーチルはにわかに信じようとしなかったし、戦後も「戦争の全期間を通じて、私はそれ以上の衝撃を受けたことがなかった」と回顧している。
高性能な飛行機を巧みに操る日本人に衝撃を受けたのは白人だけではなく同じ有色人種の間でも同じだった。
白人の植民地にされていた東南アジア各国は「白人の叡智の象徴」である飛行機を操る日本人と逃げ惑う白人を見て、独立の気運を高めた。
そして、終戦。
日本軍の緒戦の活躍がよほど衝撃と恐怖を与えたのだろう。
連合軍の日本占領政策の主眼は平たくいえば日本を二度と白人国家に楯突く事がないように徹底的に弱体化させることだった。
なかでも、白人国家に恐怖を与えた日本の航空産業は目の敵にされた。
マッカーサーは日本弱体化計画の一環として、覚書覚書301号を発令して、模型も含め日本の航空産業・研究の一切を禁止した。
ルーズベルトの「(日独伊には)いかなる航空工業、航空事業も将来にわたって許されない。これら三国がゼンマイ仕掛けの玩具より大きい飛行機を飛ばすことも欲しない」という遺言を受け継いだ格好だ。
覚書では第一項で「昭和二十年十二月三十一日をもって民間航空に関する政府機構を廃止する」とあり、以下「いかなる航空企業、団体、及び乗員養成、航空機製造、設計、整備に関る法人も同期日までに解散すること」と続く。
これにより、零戦を開発した三菱重工や「隼」の中島飛行機(註)など航空機工廠はすべて潰され、飛行場に残っていた国産飛行機も破壊された。
以後、いわゆる「翼をもがれた七年間」がはじまる。
科学技術の中でも最も高度な研究と知識の蓄積が必要とされる航空分野において、このブランクはあまりにも大きいものであり、ある専門家は「航空禁止の七年間によって、実質五十年は遅れてしまった」と指摘する。
占領期間が終り、再び飛行機を飛ばせるようになった日本だったが民間航空の国際機関への登録記号は戦前の「J」の一文字ではなく二文字の「JA」になった。
一文字記号は「飛行機を開発し、飛ばした」国の特権とされ、戦前では欧米航空先進国の他は日本にのみ認められたもので二文字なら航空二等国扱いになる。
これは、運輸省の役人が民間航空を復活させる際、「ウチは二文字で結構です」といらぬ卑下をしたためだといわれている。(航空関係者)
ただ、実際にその後の日本航空史を見てもそれに見合った歩みをしている。
一応、国産旅客機の「YS-11」を造ったことになっているが、エンジンはロールスロイス製でプロペラはダウティーロートルという具合で主要部品はすべて外国製でまかなわれている。
そして、今回の国産ジェットもやはりエンジンが外国製。
今年で戦後六十四年、戦前のように純国産製を造るにはあと何年かかるのだろうか。
*******
註:中島飛行機は零戦のエンジンも作っていた。
そうなんですか!
ちっとも存じませんでした。
そちらの方も是非頑張って欲しいものですね。
本田宗一郎さんのお話も大変興味深く読ませていただきました。
本田さんの精神をもってすれば、自動車同様に日本産の航空機が世界を席捲することも不可能ではないですべ
ほんたうに興味深い経歴の持ち主ですね。
零戦について、「ゼロ戦を開発した中島飛行機」といふ表現は仰るやうに誤りです。
零戦の主任設計士は三菱の堀越二郎で副主格が東條英機の次男である東條輝雄や曽根嘉年でした。
中島飛行機もはじめ設計・制作をやらうとしていたやうが、軍の要求が厳しすぎ途中でさじを投げたさうですね。
ただ、飛行機の心臓ともいえるエンジンは中島の「榮」を転用したもので、その後も中島が作っていました。
いづれにせよ、中島は零戦の開発はやってゐませんから「隼を開発し、零戦のエンジンを作っていた中島飛行機」とでもした方が正確ですね。
いつも、御指摘ありがたうございます。
早速、訂正させていただきます。
エンジン他すべてホンダ製(国産)で四輪車と同様、先ず市場の大きい米国で販売し、世界に拡販の体制を取っています。
本田宗一郎氏は浜松に生まれました。
浜松には大正14年より陸軍飛行第七連隊があり、鶴田浩二もここから特攻のため知覧へ飛び立って行ったと言われています。
宗一郎氏が学んだ浜松高等工業(現静岡大学工学部)にも航空学科・燃料学科がありましたが戦後GHQにより閉鎖されました。
宗一郎氏は航空機・空への夢を若いころより抱いていたようでホンダの二輪車のエンブレムは当初よりウイングマークです。
宗一郎氏は通産省にホンダは四輪車は生産してはいけないと指令されました。
しかし、ホンダは二輪車で養った究極の効率のエンジン技術を四輪車に応用し省エネ・対環境技術で世界をリードして来ました。
航空機に於いても宗一郎氏のDNAを生かし将来中型機・大型機へと展開し、究極の純国産航空機を開発生産して欲しいものです。
清水家は田安家、一橋家とともに伯爵に敍されてゐたのですが、經濟破綻のため、爵位を返上してゐます。しかし徳川好敏大尉の偉業により、あらためて男爵に敍されるといふ、きはめて興味ぶかひ經歴の家ですね。
ところで零戰の開發は三菱重工業だったと思ひますが。中島飛行機もライセンス生産はしてゐましたが。